セドリック・ディゴリーの表情は穏やかだった。
今や彼は〝セドリック・ディゴリー〟を完全に取り戻していた。
全身が自信と矜持に満ち、本来彼が有していたであろう活力が迸っている。
僕がハリー・ポッターを見た時に時折感じる、しかしそれとはまた別個の眩しさ。セドリック・ディゴリーはグリフィンドールでは無かったというのに、恐らく組分け帽子から半ば拒絶されたに等しかっただろうに、彼から僕はその資質を感じていた。
「残った三人の創設者がスリザリンを潰さないのも当然だ。ハッフルパフには、レイブンクローには、そしてグリフィンドールには君のような人間が産まれる筈もないからだ。ただサラザール・スリザリンだけが、君のような人間を受け容れられる。他の創始者達も、君の存在がスリザリンに受け容れられる事を歓迎出来る」
「……サラザール・スリザリンが僕を受け容れるなどという戯言は、貴方がハッフルパフであるから聞き流しましょう。しかし、他の三人がそれを是としたとする理由が僕には解らない」
「簡単な理屈だよ。スリザリンが去った事が大きな痛手だと誰よりも感じ、誰よりもスリザリン寮の維持に尽力したのは、他ならぬ彼等だっただろうから」
「…………故にスリザリンは存続していると?」
「ああ。サラザール・スリザリンが去った時点で潰れるべき敗者の寮を維持出来た人間が居たとすれば、それはたった三人しか存在しないと思わないかい?」
……確かに論理的な解答ではある。
仮にホグワーツが二分される程の大規模な対立が生じ、一人の創始者の追放を行ったのならば、同じ事を二度と繰り返さないように蛇寮を潰せという声は当時少なからず存在しただろう。その圧力に抵抗出来たとすれば、それはやはりゴドリック・グリフィンドール、ロウェナ・レイブンクロー、ヘルガ・ハッフルパフ以外にありえない。
仮に当時スリザリンにマーリンが在籍していようとも、
「多分、純血主義は創設者四人の一つの論点に過ぎなかったんだろう」
彼が口にする推測は、しかし強い自信と確信に満ちている。
「勿論最大の論点ではあったんだろうが、全てでは無かった。三対一ではなく、一対一が四つだった。だからこそ、スリザリン寮を潰す事なんて出来なかった。そうしてしまえば、次は他の寮の番となり、最後にはホグワーツ自体が無くなってしまう」
「……一度粛清を始めてしまえば、最後まで完遂せねばならない。確かに歴史の教訓は、それを示していますが」
疑心暗鬼に陥った集団同士は、敵対派閥を根絶するまで止まれない。自分が止まったとしても、相手が予防的措置としてこちらを滅ぼそうとし続けるのが眼に見えているからである。
それがホグワーツでも起こり掛け、しかしスリザリンの追放後に歯止めが掛けられた。
「けれどもそれを証明する記録は有りませんよ」
「否定する理由も無いだろう? サラザール・スリザリンが半端な魔法使いを──半純血を嫌っていたのか不明であるのと同様にね」
先に僕が用いた論理を都合良く引用しながら彼は笑う。
「実際、理屈は通っていると思うんだよ。確かにグリフィンドールとスリザリンの対立が目立つけど、ハッフルパフとレイブンクローに対立が全く存在せず、ずっと仲が良かったと歴史が語っている訳では無い。組分け帽子自身もそれを示唆しているように僕は思える」
僕はその手の歌詞をこの四年間で聞いた事が無い為に何とも言えないが、セドリック・ディゴリーには思い当たる部分が有るようであった。
「そもそも、サラザール・スリザリンの〝純血主義〟って、今の典型的なグリフィンドール生が思う程に過激な物なのかな? だって、彼が去ってからすぐの時代に、君達の寮にはマーリンが現れているだろう?」
「────」
時にスリザリンは、自慢の為に彼の存在を引き合いに出す事がある。
けれども、僕としては余り容易く持ち出して欲しくない人間でもあった。それ故に、セドリック・ディゴリーが意図的に持ち出してきたのが見え見えだった。
「中世で最も偉大な魔法使いマーリン。彼の偉業は色々あるけれども、その一つがマーリン騎士団の創設だ。そしてかの騎士団の目的を、君は当然知っている筈だろう?」
「……それは伝聞経由の伝説に過ぎませんよ」
「けれども、それ以外に伝わっていない。違うかい?」
見透かしたような彼の顔を前に、僕は頷かなかった。
けれども彼は僕が知っているという事で十分だと判断したのだろうし、僕がマーリンを〝スリザリン的〟と捉えているかなどという、無駄としか思えない問いも紡ごうとしなかった。ただ、彼は騎士団創設の理由を自ら解答した。
「マーリン騎士団はマグルの保護を目的としていた。現在にはそう伝わっている」
「…………」
純血主義が蔓延る寮で最も有名な大魔法使いは、しかし今のスリザリンの主流派の思想とは全く相容れない活動を行っていた。真実は最早解らずとも、またホグワーツに掲げられた彼の肖像画は多くを語らずとも、そういう伝説が消えずに根強く残っている。
第一次魔法戦争でアルバス・ダンブルドアが反体制組織を騎士団としたのも、気取った格式溢れる名称を欲した訳では決してない。間違いなくかの高名な騎士団に肖って創設されたからこそ、そのような名前と組織体制となっていた。
当然ながら、殆どのスリザリンはその伝説を歴史的事実として認めていない。
しかし、このハッフルパフはそれが事実だと主張する。決してスリザリンを侮辱する意図などなく、あくまで彼が〝スリザリン的〟だったが故にそうなのだと。
「考えてみてくれ。サラザール・スリザリンが去った時の論点は、
「……確かにホグワーツに〝マグル生まれ〟を入学させる傍ら、〝マグル〟を排除し迫害し虐殺する魔法使いが居たとして、その行動は何ら矛盾を生じるもので有りませんが」
三人の創設者達がそうしたとまでは言わない。
ただ、ホグワーツ創設期は、魔法使いに対する凄惨な迫害の時代だった。身内や自身の子供を殺された魔法使いが〝マグル〟に対する報復を唱え、実際に行動していた場合は珍しくなかっただろうと考える方が自然だった。
それは解り切った話であるが、と溜息を吐く。
「しかし、それが何だというんです?」
「解らないかな? そんな時代において、魔法使いがマグルの保護を唱えたらどうなる?」
「────」
白眼視され、疎まれる。魔法使いの共同体から排斥させる。
セドリック・ディゴリーは、そのような事を言いたい訳ではないだろう。
この話はマーリンの、彼の騎士団の目的の延長線上にある。
つまり。
「……あの異人種同士の殺戮の時代に、〝マグル〟相手に魔法を使う事は規制すべきと唱えた話が本当であるならば、それはもう途方もない
その理念は、余りに時代を先取りし過ぎている。
それが実現するのは彼の時代より何百年も後。魔法評議会、魔法省、そして国際魔法使い連盟によって造り上げられた様々な盟約と法規制によって漸く形になるのだから。
「要は、マグル保護の理念を指導出来るのはスリザリンしか居ないと思わないかい?」
「…………」
「グリフィンドールは悪いマグルと戦って、魔法族の子供や女性を護る事を好むだろう。レイブンクローは己の興味優先で、社会を変える事に左程関心を抱こうとしない筈だ。そしてハッフルパフは、自分の寮の事だから言うが、先頭に立ってどうこうするタイプじゃない」
……当然、各寮の所属者が自寮の徳目以外の行動を出来ない理屈はない。
しかしながら、各寮の徳目に照らし、
そしてセドリック・ディゴリーが示唆する通り、サラザール・スリザリンの主張は、マグル生まれ達──非魔法族の親を持ちながら魔法力を持つ人間──をホグワーツから排斥する事である。彼のマグル──そもそも魔法力自体を持たない人間──に対する立場、例えばマグルを絶滅させるべきであると主張していたかは現状不明確である。
また、僕が既にセドリック・ディゴリーに告げたように、純血主義の根幹である血を尊ぶ事と〝マグル〟保護はやはり必ず矛盾するものではない。屋敷しもべ妖精の庇護者はヘルガ・ハッフルパフだけではなく、歴史的にスリザリンもまたそうだった。
「──僕はね、ハッフルパフが最も優れている寮だと思っていた」
セドリック・ディゴリーはしみじみと本音を吐露する。
ホグワーツに所属した者が殆ど例外なく抱いてしまう悪癖を、けれども何処か清々しさを籠めて。彼の言葉には自尊や独善は一切含まれておらず、そして敢えて過去形を用いた表現は、彼が今どう思っているかをありありと示す物でもあった。
「ハッフルパフこそが一番だと僕が考えていた理由。それは他の寮以上に色々な人間が集まって来て、しかも共存している事だった」
「…………」
「僕はアナグマが好きではなかったと言っただろ?」
「……ええ、まあ」
セドリック・ディゴリーの問いに渋々頷く。
「僕がその考えを漏らした事は無かったけど、同じような意見を持った新入生が居た。そしてそれに対する先輩の発言が印象的だった。果たして何と言ったと思う?」
「……僕の知った事じゃありませんが」
「まあそう言わないでくれよ。ハッフルパフの根幹に関わる話なんだからさ」
今にも腹を抱えて笑い出しそうなセドリック・ディゴリーは、関係無い昔話をするなという僕の冷たい視線を無視して続けた。
「先輩はこう言った。『寮の象徴としてのアナグマは好きだし、寮旗のデザインも気に入ってる。けど家に戻って彼等の姿を見かければ、チョロチョロするネズミと同様に片っ端からぶち殺したくなる時もある』とね」
一瞬虚を突かれ、けれども直ぐに納得がいった。
「……そう言えば、どんなに美化しようと彼等は害獣でしたね」
身近であるという事は、人間と生息圏が近しく数も多いという事。
そして彼等はそこが畑だろうと構わず穴を掘る上、作物を食い荒す雑食性で、更には牛を殺す病気の保菌者と来ている。農家や畜産業者が敵意を向けない筈もなく、そのような家に生まれた子供は、当然親の現実主義なアナグマ観を受け継いでいる筈だった。
「……ただまあ、その発言を受けたハッフルパフの反応は容易に出来る気がしますが」
「想像の通りだよ。その発言にショックを受け、酷く反発した人間は少なくなかった。あんなに可愛い生き物を殺すとか信じられないってね」
「ですが、そのように反発した人間は、ロンドンのような都市部出身の人間が大半だったのでは? 嗚呼、アナグマを全く問題としない貴方がた魔法使いも一応反発しますか」
「その通りだ。仮にハッフルパフ生で無くとも、ホグワーツの寮の象徴を進んで気軽に虐殺する気になれないし、そもそも僕等にとっては庭小人とかの方が余程厄介だしね」
彼は軽く肩を竦めてみせる。
「ただ、先輩に同意する人間も居たし、その両者が共存してこそのハッフルパフだった。ショックを受けた人間も、その子の家に行って被害の実情を見た上で、彼等が何百ガリオンもの損害を出していると言われれば考え方も多少変わる。対して農家や酪農家の子だって、自分の寮が尊ぶアナグマは、出来る事なら殺したくないと思うのが人情だろう?」
そんな家庭の出身のハッフルパフ生がまず覚えるのはアナグマ除けの魔法だというジョークも有る位だと、セドリック・ディゴリーは朗らかに笑みを浮かべた。
「要するに、僕達は違う人間を許容する。というより、僕達はハッフルパフとしてそれを否定し得ないんだ。何故なら他ならぬハッフルパフの創設者がそれを求めたんだから」
一応重視する徳目は有っても、ヘルガ・ハッフルパフ、魔法使いである限り差別せずに教えるという立場を取った。
そのような彼女の寛容さは今まで広く伝えられているし、そして誇張でも何でもないのだろう。ホグワーツの組分けに際して四寮の何れにも割り振られる事なく、入学自体を拒否されたという事例は──その人間が魔法力を持たなかった唯一を除いて──存在していない。
「だからこそ僕達の寮は一番数が多いし、様々な境遇の人間が集まって来ている。純血も半純血もマグル生まれも。金持ちも貧者も。田舎生まれも都会育ちも例外なく」
「……そして貴方のような変わり者でさえも、ですか」
「そうだね。グリフィンドールよりも騎士らしく、レイブンクローよりも賢く、スリザリンよりも野心溢れる者であろうとする僕を、ハッフルパフは受け容れてくれた」
自嘲めいた口振りなのは、彼がその原点を忘れていたからか。
「この逸話を通して僕が何を説きたいか君には解るだろうが、敢えて質問しようか。君達は自分の寮らしくない生徒を許容するかい?」
その問いに、答える必要は無いだろう。
「純血主義に染まらないスリザリン生。仲間の為に戦えない臆病なグリフィンドール生。知識ではなく空想の中に生きるレイブンクロー生。どの寮にもはみ出し者は居る筈だ。けれども君達は彼等を仲間として受け容れないし、逆に率先して排除する」
「……ハッフルパフには誠実さや寛容さの欠片もない生徒は居ると?」
「残念ながらと言うのが正しいか解らないが、確かに居るよ。僕も含めてね」
ここまで来て、彼は自寮の神聖視をしなかった。
「けど、僕達は少なくとも排除は拒否するし、それで良いんだろう。アナグマを絶滅させたいと思っていた人間すら受け容れるんだ、その程度は問題無いとは思わないかい?」
確かに伝え聞くヘルガ・ハッフルパフ像からすれば、そのような意見をぶつけられた所で──その行為自体を是としないだろうが──怒りはしないように思えた。
「先輩の言葉を聞いて、或いはその対立する者達の議論を耳にして、僕はアナグマが少し好きになった。当然ながら、自分の寮自体も。確かにアナグマは特別でなく恰好良くもないかもしれない。けれども僕達の寮は色んな人間と触れ、認め合って、大切な事を知れる」
「……まあ御指摘通り、スリザリンではそれを期待出来ませんが」
スリザリンにおいては、純血の意見こそが絶対。
純血──特に聖二十八族の意見や主張を覆す事が出来るのは、同じ聖二十八族だけ。それ以外に発言権は基本的に皆無。先輩後輩、首席や監督生の序列に殆ど意味は無く、身近な所で言えば、ドラコ・マルフォイは一年時からスリザリンの王で在り続けた。
そして他の寮も左程変わるまい。
レイブンクローでは成績や知識の優劣、グリフィンドールでは人気や仲間からの支持。入学時に寮の色に溶け込めなかった者は主流と成り得ず、七年を通して軽んじられたままの扱いを受けかねない。同学年で言えば、ネビル・ロングボトムが最も解りやすい例だろうし、一年時のハーマイオニー・グレンジャーとてその一例に違いない。
だが、恐らく彼等ハッフルパフは違うのだろう。
良くも悪くも寮の色の主張が強くはなく、だからこそ〝ハッフルパフらしくない〟とか〝組分けを間違えられた〟として排除されづらい。他の寮で生じる苛めの為の
「……それで。多様性の有る素晴らしい寮の自慢を聞かされて、僕はどんな顔をしろと?」
「侮蔑してくれれば良いさ」
にこやかな顔で、似つかわしくない言葉を彼は言った。
「仲間の為に働くのが凄いと勘違いしているグリフィンドールも、テストの成績が良ければ賢いと勘違いしているレイブンクローも、血が純粋である事が偉いと勘違いしているスリザリンも不要だ。僕は心の何処かで、そう考えていたんだから」
……その言葉は、僕ですら一度も考えた事が無い程に過激な内容だった。
そんな感情が視線にも出たのか、彼は楽しげに白い歯を見せながら笑った。
「流石に口にした事は無いよ。僕は他の寮にも友人が居るからね。けど、ホグワーツにどれだけ〝その寮らしい〟人物が居るんだい? 皆無とは言わない。でも、虐めを無視するグリフィンドールも、試験程度ですら僕に勝てないレイブンクローも、他人に対する優しさを見せないハッフルパフも大勢居る」
彼は敢えてスリザリンに言及しなかった。
それは彼にスリザリンの友人が居ないという訳ではなく、僕がスリザリンの悪い部分を熟知していると察しているが故だった。
「──でもまあ、それは僕の自惚れで、傲慢に他ならなかった」
自嘲の笑みと共に、セドリック・ディゴリーは己の誤りを認める。
「君のような人間は、ハッフルパフには居ない。それはハッフルパフである僕が断言するよ。そして、それこそ四寮制が千年以上存在する意味だ。ヘルガ・ハッフルパフが、ゴドリック・グリフィンドールが、ロウェナ・レイブンクローが僕達に遺した意思なんだ」
……バーテミウス・クラウチ氏も似たような事を言っていた。
スリザリンが存続しているのは、創設者達の祈りによる物なのだと。
「逆も言えるんじゃないか? ダンブルドアでなくハリーが秘密の部屋を見付けた事からして、
「……記録に無いからと言って、一度も開かれていない事の保証にはなりませんよ」
「しかし、開いた事を公にしない理由もないだろう? 秘密裏にマグル生まれを一人一人殺す必要なんて無い。怖がらせさえすれば勝手に出て行ってくれるんだからさ」
「…………」
ホグワーツは幾度か大改修を行っているが、あの入口が女子トイレになったのは、記録から判断する限り十八世紀頃。その際に、サラザール・スリザリンの子孫の誰かが秘密の部屋の痕跡を見付ける事は決して不可能では無かっただろう。
であれば、秘密の部屋の存在を知った彼等は何故、スリザリンの継承者──伝説に従えばホグワーツからマグル生まれを一掃する者として行動しなかったのだろうのか。
……嗚呼、一つの仮定を立てさえすれば、その疑問に説明が付かない訳では無いのだ。
サラザール・スリザリンが秘密の部屋を残した事自体は神話では無く、しかし、秘密の部屋とその怪物が
勿論、それを示す証拠は無い。
傍証ですらも存在せず、妄想の域を決して出ない。
マグル生まれの入学を拒否した
「マグルの親戚や先祖を一切持たない家系が君達にとって〝純血〟である一方、僕達にとって祖父母が全て魔法使いならもう〝純血〟だ。その事が示すように、環境や立場が変われば考え方も、言葉が持つ意味も変わる。違いが存在するのが人間であり、それを学べる場所がホグワーツなんだ。つまり
「……それが正しいとしましょう。そうであれば貴方は何が言いたいのです?」
「何、ハッフルパフの理想は解らなくとも、その一部の理念は伝わっている。だから僕もハッフルパフらしく在ろうと改めて思う。ホグワーツに忠誠を誓い、違う人間に寛容で、断絶を防ごうとする事に勤勉で、どんなに不可能に見えても苦労を恐れない人間に」
セドリック・ディゴリーは愉快そうに言った。
……何故だろう。
彼は何ら可笑しな事を言っている訳でも、恐ろしい内容を告げている訳でもない。
だが、それを聞いてしまってはならないという強い予感だけがしていて、背筋に恐怖すら走り、だがそれが何を根拠としているか解らなかったが故に、彼の言葉を止められなかった。
「──なあ、一つ賭けをしないか」
賭け。勝負。
それらは互いの合意が無ければ成立しない。
僕は馬鹿正直に受ける性格をしていないというのに、そんな事などセドリック・ディゴリーは初めから了解しているだろうに、傲慢にも、自惚れと共に僕へと持ち掛けてしまう。
……嗚呼、最悪なのは。
内容を聞かされる前から僕は乗らざるを得ないという感覚がしていたのだ。
何故なら、相手は〝セドリック・ディゴリー〟である。
第一の課題前は隙が存在していた。彼自身が告白したように、ハリー・ポッターに対する割り切れぬ隔意と憤激こそが彼の仮面に罅を入れていた。想定した理想形が完璧であれば完璧である程に穿ちやすく握り潰しやすい心は存在しないのであって、けれども今、完璧を殴り捨てた彼は、以前よりも仮面の強度と完成度を高めている。
ハッフルパフの模範生。
忠実で、誠実で、公平な眼を有し、忍耐と寛容の心に溢れた存在。
そう在れかしと造り上げられた存在に、不実で、不親切で、偏見に溢れていて、頑迷で偏狭なスリザリン生が敵う道理が一体何処に存在するだろうか。
「君との賭けの商品について語るには、まずグレンジャー。君と親しい彼女について語らなければならないだろう」
案の定、セドリック・ディゴリーは僕の急所を突いて来た。
驚きを感じない事が驚きだった。適確に僕を傷付けようとすれば、彼女を話題に上らせない事は有り得ず、彼ならばそれが出来ない筈もないという納得が有った。
「……その口振りでは、まるで彼女自身を賭けに使おうとしている悪人のように思える。もっとも、貴方は意図してそんな表現を使ったのでしょうが」
セドリック・ディゴリーは整った顔立ちの上に微笑を乗せて肯定する。
「しかし何故、ハーマイオニー・グレンジャーがそこで出て来るんです? いえ、貴方は僕が彼女と親しいのだと言った。何故そんな事を平気で言ってのけられるのですか?」
その事を外部に漏らした事は、一度として無い。
僕は当然であるし、ハーマイオニーもまたそうだろう。ハリー・ポッターとて口外すべき事でないというのは理解している。そしてまた、今年は確かに彼女と居る所を注目されはしたが、それはこの男と屋敷しもべ妖精に関して口論した場面であり、外部から見て仲が良いとは到底判断出来る物では無かった筈だった。
「一応言っておくが、今更誤魔化しても無駄だよ。僕はグレンジャー本人と話してきた。この会話の為の報奨の先払いの為にね。ただ、僕が気を回したのは今の所無意味だった気がしないが。彼女にとって僕が云々という話では既に無かったようだから」
「……報奨の話は今は置いておきましょう。貴方は未だに僕の疑問、何故彼女を話題に出したのか──僕達の関係を知っていた理由について答えていませんが」
そう問えば、彼は困った奴を見るような視線を僕に向ける。
「君は非常に良く頭が回るんだろうが、それでも自分の事については無頓着な所が有るよね。グリフィンドールとスリザリンが一度ならば兎も角、何度も図書館で同席していれば目立つよ。そして、その片割れが君であるのならば猶更だ」
「……片割れがハーマイオニー・グレンジャーだから、ではないのですか?」
「まさか」
僕の言葉をセドリック・ディゴリーは一笑に付した。
愚昧さへの嘲笑まではないが、腑抜けた解答への揶揄は混じっていた。
「あれがスリザリンの要注意人物だとわざわざ後輩に教える事は有っても、彼女が君達の学年での最優秀生だと教える人間は居ないさ。マグル生まれとて魔法界に居ればマルフォイの名前は直ぐに覚えるが、流石にレッドフィールドは無名だからね」
「……他のスリザリンと違い、僕は苛めに勤しんでいるつもりは有りませんが」
「だからこそ、八つ当たりで外見上大人しそうな君に眼を付けたら困るだろう? 君は何をするか解らない所が有る。君が一年の時からそうだったし、バジリスクの時の噂もそれが理由だったし、そして実際、今年もそれを証明してみせた」
……そこまで前から不気味に思われる筋合いは無いと思うのだが。
「もっとも、僕が君達の関係を見抜いた訳ではないけどね」
セドリック・ディゴリーは僅かに眼を逸らし、微妙に悔しがるような響きで言う。
「僕は君達が図書館で一緒に居る所を一、二度は見た事が有る。けれどもそれは単に君が、グリフィンドールとスリザリンの対立を含めて外部に対して無関心なだけだと思っていた。けど、こういう話題は女の子達の方が圧倒的に敏感だという事なんだろう」
「……その口振りでは、僕達の交流を複数の人間が知っているように聞こえますけど」
「そう言っているよ」
「…………僕の耳には入ってきていませんが。スリザリン生の耳に入れば当然ながら、僕に誰かが何も言って来ないという事は有り得ないでしょうし」
穢れた血との交流は、純血主義を奉ずる寮にとって忌むべき物である。
だからこそスリザリンが知れば、すぐさま嫌味か警告が当然飛んでくるのは目に見えている。それが無かったからこそ、僕は外部に露見していないと思っていた。
ただディゴリーの言葉によれば、それは間違いであるらしい。
「ホグワーツ生にも口外して良い内容かどうかを判断する頭は有るし、スリザリンの枠組みが全てですらない。スリザリン生自身にとってもね。君達は並外れて賢いせいか、他を過小評価する傾向が有る。大概は事実なんだろうが、何時もそうだとは限らない」
……この男に伝えている時点で判断する頭を持っていないだろう。
そう反論しそうになって、すんでの所で止める。僕が知られて嫌な人物である事に違いはないが、しかしこの様子では、セドリック・ディゴリーもまた口外しなかったのだろう。彼への侮辱の復讐としては的確な攻撃と成り得ただろうに、それを選択しなかった。その意味では、彼に伝えた女生徒の眼は確かだったのかもしれなかった。
「……御言葉ですが、貴方の事だけで仲違いした訳では有りませんよ」
「そうらしいね。実際に聞いたよ」
嫌なくらい爽やかに、彼は僕の言葉を肯定した。
「そして僕は君の考えがある程度は理解出来る。ただその事は今はどうでも良い話だ。現状だけ見れば、君は今年の初めからグレンジャーに接触していないし、遠ざけ続けている。君にとってその必要が無くならない限り、君は彼女に近付こうとしない筈だ」
「……それが何か?」
「その君の崇高な計画が終わった後、君は彼女と元通りの関係に戻せるのかい?」
「────」
僕の沈黙を前に、ディゴリーはにんまりと笑った。
これもまた、答える必要のない事実だ。自分とて薄々は勘付いていたのだ。
「多分、出来ないだろうね」
嗚呼、そうかもしれない。
いや、かもしれないではない。間違いなく無理だろうと、自分でも感じている。
選択として大きく間違った気はしないし、後悔も無い。
けれども、僕はやはり彼女から距離を置き過ぎた。
ハリー・ポッターやロナルド・ウィーズリーのような親友であるならば、空いた時間は直ぐに無かった事に出来るのだろうが、恐らく僕にはそう出来ない。曲がりなりにも友人と呼べるであろう存在はホグワーツ入学時以来ハーマイオニー・グレンジャー唯一人で、しかもその友人としての交流は、いわば惰性のような物に過ぎなかった。どう仲直りすれば良いかも想像が付かない。
そもそも、ここで関係を断ち切ったとしても、彼女にとって損失は何ら存在しない。
入学前の彼女は魔法界の事を聞き出す情報源として僕に価値を見出していたが、今となっては最早価値は無い。彼女が僕に時間を費やす意義は見いだせない。
そしてグリフィンドールとスリザリンの関係を思えば、彼女は僕に近付くべきではない。
ハーマイオニー・グレンジャーがハリー・ポッターとの友好関係を断ち切るべきだという次くらいには、彼女はスティーブン・レッドフィールドとの友好関係を解消すべきである。ビクトール・クラムに告げた通り、僕は自ら率先してその為に動くのが〝論理的〟である。
「僕と違って君はそんなに器用なタイプじゃない。そして僕の見た所──特に今年の無神経さを見れば──君は物事を拗らせる天才だと言える。仮に今から君が謝りに頭を下げに行っても、君は彼女の心情を理解出来ず、それどころか逆撫でしてしまうに違いない」
「……貴方の言葉全体を否定はしませんが、無神経さ?」
「その表現に引っ掛りを覚える事が出来るならば辛うじて落第は免れるのかな。だけど、やっぱり女の子達からは扱き下ろされそうな気もするね」
「意味有り気な物言いは止めませんか」
「君の得意技では無いのか? そして他人に強制する物じゃないね」
反論の気力も湧かなかった。
そんな僕が余程愉快で堪らないのか、顔の輝きを隠す事なく彼は続ける。
「だからこそ、賭けの話だよ」
ハーマイオニー・グレンジャー。
彼女と賭けを一体どう繋げようというのか。
「僕が何処に住んでいるか君は知っているだろう?」
「……確かハッフルパフが散々撒いていたビラによれば、オッタリー・セント・キャッチポールでしたか」
「そうだ。あの辺りは魔法使いが旧くから住んでいる場所でね。具体例を挙げれば、ラブグッド家やウィーズリー家が近くに住んでいる」
「……ラブグッド?」
紡がれた意外な家名に思わず反応した僕に、彼は眉を跳ねさせた。
「君と話していると意外な発見が結構あるよね。彼女を知っているのかい?」
「……偶々一度だけ話した事が有るだけです。知人というには程遠い」
二年時のホグワーツ特急での邂逅以来、彼女が接触してくる事は無かった。
自寮で浮いている彼女も、流石に僕へと話し掛けて来る事は無い。ホグワーツに入学してから僕の悪評は当然知ったのだろうし、更に余計に排除されかねない行動を取らない程度には、彼女は
「随分興味深い事を聞いたし、それは逆に都合が良い気がしていたよ。君も知ってるだろうが、何しろ彼女は、僕達にとって足りないレイブンクローだからね」
「…………」
「ホームパーティーを開くんだ。近所の魔法使いの家族を招くのは自然だし、そして彼等が友人を連れて来る事も問題は無い。その結果として、たまたまグリフィンドールとスリザリンが同席する羽目になったとしても、やむを得ない事じゃないか?」
セドリック・ディゴリーは一貫して笑みを隠そうとしない。
主導権は完全に握られており、僕がそれを奪い返す気の利いた言葉は浮かばなかった。ハーマイオニー・グレンジャーとの仲直りの機会を持ち出された時点で、セドリック・ディゴリーはパーティーのホストとして当然のように客同士の仲を取り持つだろうとして察してしまった時点で、僕は既に敗北を喫していた。
「……僕がそれを受け容れる理由は無い」
「だからこそ、賭けなんだ」
僕の完全な負け惜しみの言葉にも、セドリック・ディゴリーは手を緩めない。
「僕が三校試合に優勝したら、夏休暇中、君は〝渋々〟僕のパーティーに招かれる。それが僕が提示する賭けだ。それとも、君は賭けに負けると思っているのかい? 君が僕の優勝が揺らがないと見てくれるならば、僕も悪い気はしないけど?」
「……貴方はスリザリン的ではないと言いましたが、一部撤回しましょう。貴方は現時点でもスリザリンを上回る狡猾さを十分御持ちのようだ」
「そりゃあ、僕は元々負けず嫌いだからね。負けたくなければ狡猾にもなる」
僕が彼の賭けに乗る事は絶対に無い。しかし既に僕は敗北していた。
僕の弱みを正確に把握した上で僕に価値ある報酬を提示した時点で、完全無欠なまでに彼の勝利だった。
「……何故、貴方がこんな馬鹿げた賭けをわざわざ僕達に対して提示しようとするのです? 貴方が大層骨を折って僕達の仲を取り持った所で、左程利益が有るようには思えない」
「理解しているだろうに聞くのは、性格が悪いと思わないかい?」
そんな質問を返す方が、性格が悪いだろう。
「利益は有るさ。君に恩を売れる。君が一年の時、組分け帽子がスリザリンについて何と歌ったかを思い出さない訳ではないけれど、僕は君との関係をそんな綺麗な物に出来る気はしないからね。結局、僕のは打算で、けれど君にとってもその方が気は楽だろう?」
「────」
そう笑うディゴリーの笑みは、何時も通りに完璧で。
しかし、そこには仮面めいた嘘臭さというのは欠片すらなく。
「それに、確かに僕の本性は余り穴熊らしくは無いが、君の話を聞く限り、それでもそれらしく振舞う事くらいは出来そうだ。寮の垣根を超えた交流の機会を作るというのは、如何にも〝ハッフルパフ〟で、〝セドリック・ディゴリー〟らしい。今まで中途半端だった分、これから僕はそれを追い求めるべきだとは思わないか?」
「…………」
「都合の良い事に、僕には後一年間ホグワーツでの生活が残ってる。今更N.E.W.T.に苦労するような学生生活を送ってきたつもりは無い。だから残りの期間をホグワーツへの恩返しとして使うのは、僕はそう悪くはない気がしている」
天を仰ぐ。何時の間にか、空は一片の曇りすらない蒼一色に染まっている。
ホグワーツ入学以来、気に食わない事は幾らでも有った。その大部分はあの老人が造り出してきたのだが、それらを考えても、今この瞬間程に腹立たしいと思った事は無かった。
ヘルガ・ハッフルパフが掲げた理想。僕はそれに辿り着いた気がした。
「──貴方の寮のゴーストは
突然の問いの意図を、セドリック・ディゴリーは理解出来なかったのだろう。
一瞬呆気に取られたように口を小さく開き、僅かに〝セドリック・ディゴリー〟が崩れ、けれども彼は何とか頷きつつ答えた。
「その通りだけど、それがどうかしたかい?」
「……いえ、単なる確認ですよ」
けれども、重要な確認だった。
加えて僕の記憶が正しければ、彼の生きた時代はヘルガ・ハッフルパフの時代からそう離れていなかった。もしかすれば彼女の直接の教え子だったかもしれず、そんな彼が托鉢修道士──つまり、基本クリスマスすら祝わない魔法使いとしては珍しく、宗教と信仰に傾倒した。
その意義はかつて僕が考えていたよりも重いのであって、畢竟、かの魔法使いは、ヘルガ・ハッフルパフが掲げた理想の答えを宗教の中に見出し、故に奇蹟とは相容れぬ魔法の杖を持ちながらも尚、一人の信徒として生きる事を選択したのではないだろうか。
「でも、可笑しいよね」
開心術士でもなく、僕の思考を推測出来もしないディゴリーは気楽に笑う。
「彼自身も使うジョークだけど、彼は修道士なのに太ってるんだからさ。余りマグルの教えは解らない僕ですら本当に良いのかと思うよ。それもあってか結局最後には処刑されちゃって、枢機卿になれなかった事を今でも恨んでいるみたいだし」
「……清貧と貧乏は同義ではないですし、魔法使いらしくも感じますよ。理念と教義に敬意を抱いても、その容れ物に対して頭を垂れる事は出来ないという事でしょう」
「ふーん。そう言う物かい? まあ、気に入らない相手に従えないのは解るけど」
「であるからこそ、魔法族は組織や集団を形成するには向いていないのでしょうね。このホグワーツを始めとする魔法魔術学校の存在が一つの奇蹟と言われる所以でも有りますが」
ただ彼等四人にとっては奇蹟では無く、至極当然の帰結で有ったのかもしれない。
確かに魔法使いにとって集住は必須でも必要でも無かった。だが彼等が共に抱いた一つの夢の実現の為には、四人である事が──ただ一人でない事が必要だった。
結局それはサラザール・スリザリンの離脱によって挫折を味わう事になったが、それでも親が子に夢を託すように、今は不可能でも遥か未来に自分達の理想を実現してくれる人間が現れるように、残った三人はホグワーツという箱庭を遺そうとしたのかもしれない。
実際、ホグワーツを去ったサラザール・スリザリンですらも、スリザリンの生徒を引き抜いて
そしてだからこそ思う。
「──ヘルガ・ハッフルパフは、つくづく強欲でしたね」
一体何処が温和で穏当な寮なのだと。
かの創始者程に果敢で、賢明で、野心に満ちた人間はそう居ないだろう。
「……何故、そう考えるんだい?」
「自分の思想や理念を後世に正しく残す手段として、一つは当然、資質がある人間を集める方法が有ります。これは閉鎖的な徒弟制度の下で一般的に想定される形でしょうし、特にスリザリンが露骨ではありますが、ホグワーツの寮は原則その指針の下に動いている」
だが、と皮肉を噛み締めながら僕は続ける。
「これと真逆とまでは言いませんが、もう一つ、これとは融和しにくい手段が存在している。そしてヘルガ・ハッフルパフは、その指針を創設時より明確にしている」
そして、レイブンクローよりも賢明なセドリック・ディゴリーであれば、その程度のヒントでも自寮の中から答えを見出す事は容易かった。
「……資質とは関係無しに大勢を集める、か」
「ええ。教師の数を筆頭とする設備的な問題さえ解決すれば、それが最も効果的な手段です」
「それは確かに、くくく。強欲と言われても仕方ないかな」
当初は資質を持っていないように見えても後に華開くという例が有り得るし、逆もまた然り。魔法使いの大成に際して単純な確率論を適用する訳には行かないにしろ、数が居た方がそれだけ望む人物が生まれる可能性が高くなるのは間違いない。
勿論他の創始者達も、自身が直接教えられる範囲の少数のみしか受け容れないと考えていた訳ではないだろう。自身の教え子が多いに越した事は無く、けれどもそれは当該生徒が自寮の資質を強く有する限りという留保付きであって、他が要らないならば全部寄越せというヘルガ・ハッフルパフ程に剛毅ではなかった。
「成程、君の言葉を聞いて少し楽になったよ」
セドリック・ディゴリーの笑みは、良い意味で力が抜けていた。
「僕はハッフルパフらしくなかったから、誰よりもそう在らねばと思っていた。けど、最初から数打てば当たる枠だったのなら、僕がハッフルパフらしくないのも当然だった」
そこには諦念もまた含まれており、しかし僕の意見は多少違った。
「……いいえ。
「────え?」
僕は未だにセドリック・ディゴリーに好意的になれない。
故に余り受け容れたくない結論では有り、けれども理屈としては通っており、理解と共感が出来る結論であるのも確かだった。
恐らくヘルガ・ハッフルパフは、自身の後継として明確に自身以上を求めたのだ。
最も尊きを、最も賢きを、最も強きを自負していた他の三創始者達と違い、彼女は自身が決して理想の存在足り得ないと誰よりも自覚していた。だからこそ、彼女は自分を超える存在が生まれ出ずる事を後世に期待し、ホグワーツという学び舎に祈りを託した。節操無く採った大勢の生徒により研磨されて出づる、奇蹟の宝玉を求めた。
しかし一方で、同時に彼女は誤解される事を恐れたのだろう。だから意図してアナグマを、神聖視され過ぎない、世に有り触れた生物を寮の象徴として据えた。
普通の人間は強くはない。創始者や教授達がどんな気高き理想を掲げ、生徒に求めたとしても、そこに辿り着ける人間は一握りである。
だが、理想に成れないからと言って理想を追い求める事自体が無意味ではない。ヘルガ・ハッフルパフは誰もが奇跡を起こすような非現実を求めず、屋敷しもべ妖精への対応に象徴されるように、寧ろ奇蹟のない地道な救いこそを重要視していた。彼女は己の無力を自覚し、受け容れ、しかし尚世に蔓延る苦難に抵抗を止めないとする者こそが、圧倒的大多数を占める凡人の道標に成り得るのだと確信していたのだろう。
そんな人間が創設した寮だからこそ、テセウス・スキャマンダーのような存在を生み、今またセドリック・ディゴリーはハッフルパフに所属せざるを得なかった。
貴族のスリザリン、賢人のレイブンクロー、騎士のグリフィンドール。
そしてハッフルパフが理想としたのは恐らく──。
「……嗚呼、本当に強欲だ」
ヘルガ・ハッフルパフは偉大な魔女だった。
恐らくグリフィンドールが勇気を認めざるを得ない程に、レイブンクローが賢明を認めざるを得ない程に、スリザリンが野心を認めざるを得ない程に。
「──三年時のクィディッチの試合」
何か質問したそうな顔をしていたセドリック・ディゴリーは、今度の問いにはたじろいだ。
「あの時ハリー・ポッターは吸魂鬼の影響で箒から落ちましたが、実際問題、貴方は気付いていたのですか? それとも気付いていなかったのですか?」
「き、気付いていなかったよ。信じて貰えるかは解らないけど」
「……まあ。現実はそんな所でしょうね」
罰の悪そうに答えた彼の前で、精神的な疲れを隠さず大きく溜息を吐いた。
どんな悪人だろうと常に悪意の下で行動している訳ではない。
それと同じように、セドリック・ディゴリーが常に打算や損得勘定をもって行動していた訳ではなく、かつてのクィディッチの場合もまたそうだったのだろう。
そもそも発端からして馬鹿げた思考では有る。
二百キロを超えうる高速の世界において、
僕が正気であったのならば、余りに穿ち過ぎだと直ぐに却下していた筈である。
つまるところ。
現実という物は、僕が思っている程に悪意に満ちた物でもないのだろう。
僕は納得し、だがセドリック・ディゴリーは何故だか早口で言葉を紡ぎ出した。
「い、いや本当だ。やり直しを主張したのも咄嗟の物だ。〝セドリック・ディゴリー〟ならそうしなければならないという反射的な行動で……いや、審判のフーチに抗議した時には直ぐにやり直しにならない可能性が高いと判断したけれど──」
「別に貴方の言葉が信頼出来ないとは言っていませんよ」
「いいや、その言い方はどうしたって信じていないだろう」
「……何故そうなるんですか。第一、僕が否定した所で何の意味が──」
結局、セドリック・ディゴリーは僕が信じた事を中々信じようとしなかった。
僕が嘘を言っている訳では無いと理解した後も、何故か彼は即座に立ち去ろうとしなかったし、それどころか矢継ぎ早に話題を繰り出して、何処か僕を引き留めるようですら有った。
そして、会話の内容自体も概ねどうでも良い──少なくとも僕が彼の為に時間を費やす意義を見出せない類ばかりだった。第三の課題について触れるならばまだ興味を持てたのだが、大半は取り立てて取り上げるもない、彼と、ハッフルパフと、そして彼が愛してやまないらしいホグワーツの未来についての話であった。
僕としては、そんな
セドリック・ディゴリーを黙って引き下がらせたいのであれば、僕はただ一言、本来為すべき事を為せと告げるだけで良かった。
それはハリー・ポッターに第二の課題の真実と謝意を伝える事であり、彼の本質を巡って喧嘩したらしい父親と仲直りをする事である。
〝セドリック・ディゴリー〟であれば、彼らしさを喪ったそれらをまず優先して解決しなければならない。彼が解決に取り掛かった所で現状では上手く解決出来るかどうかもまた未知数のままなのだから、僕のテスト前の復習の妨害に勤しんでいる場合ではない筈であった。
だが、昼食時間が終わるまでその言葉が出なかったのは、それまで僕達を遠巻きに監視していた人間達が呆気に取られる程にセドリック・ディゴリーは酷く愉快げで、楽しさを隠し立てもせず、真っ当な性格の人間ならば見惚れる程の、晴れやかで完璧な笑みを浮かべていたからかもしれない。
要は、僕は真面目に付き合うのも馬鹿馬鹿しいと脱力させられていた。
セドリック・ディゴリーの話に僕が耳を傾け続けた事に、それ以外の理由は無い筈だ。
……嗚呼。
本当に世の中というのは儘ならないけれど。
しかしまあ、最もハッフルパフらしくないように見えた生徒こそが、逆に最もヘルガ・ハッフルパフの理想に近しくなれるかもしれないように。
世の中というのは、そんな儘ならぬ形こそが、普通であるべきなのかもしれない。
────セドリック・ディゴリーは死んだ。