「──もう良いのでは無いかね、クラウチ」
「…………!」
制止の声が、重苦しい空気を切り裂く。
それを聞いて漸く、僕はここに居たのが二人で無い事を思い出した。
アラスター・ムーディ教授は既に一度、途中でバーテミウス・クラウチ氏の独演会に介入していた。にも拘わらず、僕は今この時まで彼の存在を失念してしまっていた。
それは、老紳士の後半部の話に僕がのめり込み過ぎていたからか──それとも、自身の存在を誇示する事を忘却し、単なる傍聴人へと堕してしまう程に、教授もまた聞き入っていたからか。
ただ、ここに至って、彼はその立場を維持する事を辞めるようだった。
「聖二十八族としての御高説は結構。儂にすら興味深い部分は有った。だが、魔法戦争の事については、お前が決して訳知り顔で語るべきでは無いと、そう儂は強く考えるが?」
最初の憤怒の振る舞いは何処へやら。
そう語るアラスター・ムーディ教授の表情は平静で、その声は柔らかな物だった。
……そして、それ故、異様に危うかった。
これと同種の物に、僕は幾度か触れた事が有る。我らが寮監スネイプ教授から、そして当然ながらアルバス・ダンブルドアから、これらと似たような物──限界を振り切れた激情が齎す凪を感じた事が有る。
一応、それが齎し得る末路、人の本性が露わにされた瞬間を、僕は未だに見ずに済んでいる。けれども、そうなった際には只では済まないというのは、本能で理解している。
しかし、バーテミウス・クラウチ氏の方の反応もまた静かな物だった。
彼は、何ら気圧されたような素振りでは無かった。それどころか、教授の方を、一切無視し切っていた。芒洋とした素振りすら見せて、中空を見詰めていた。
「そうだな。魔法戦争の事は私が敢えて語る必要も有るまい。それを語るに相応しい者は他に居るだろう」
暫し静止した後、ポツリと老紳士は零した。
そうして漸く、今まで視界にも入れなかった教授の方を見やった。
「アラスター、お前が来なければもっと早く話は済んだのだが。けれども、逆にこれで良かったのかも知れん。吐き出すべき事は吐き出した。その機会が、望外の時間が得られた。故にここで満足すべきなのだろう。後は、私が選択出来るものでは無い」
老紳士の言葉は明確に裏の意味を含ませていて、けれども教授は何ら応えようとはしなかった。澄み切った静謐のままに、伝説の闇祓いは黙殺する事を選択した。
そして、それが変わる事が無いのを理解したのだろう。
何故か口元を軽く歪めた老紳士は、改めて僕へと向き直った。
「──レッドフィールド君。知っての通り、私は今、非常に多忙な身だ」
魔法省国際魔法協力部であり三大魔法学校対抗試合の運営を司る者は、至極当たり前の事を口にして、けれども言葉を続けた。
「しかし、君との此度の会話は、こうして語る時間を与えられた事は、非常に価値が有る物で有ったと考えている。故に、君と再会出来る日が訪れる事を私は心の底から期待しているし、そしてその時は、私は真に〝純血〟として、君に対応する事を約束しよう」
それは事実上の招待の言葉。
「……ええと、この場合は謹んで御受けすると答えれば良いんですかね?」
孤立したスリザリンである僕にパーティーは無縁だった。
だからこそ、何と答えれば良いのか解らず、それを見たバーテミウス・クラウチ氏は、今度は明確に笑みの形へと変えた。
「君は異端であるが、そう言う所はやはり半端であるな。礼儀を知らぬ者は、我々の世界から当然に軽んじられる。此度は君達の世界で有るから見逃したが、次はそうはでない事を期待している」
叱責にも叱咤にも取れる言葉をもって踵を返した後、
「──最後に一つ、助言をしよう」
しかし彼は即座に立ち去り切る事はしなかった。
「……え?」
バーテミウス・クラウチ氏は振り返らなかった。
こちらに背を向けたまま、表情を見せないままに、彼は淡々と続ける。
「服従の呪文。それが何故、魔法省を最も手古摺らせたか。変身術には自分の姿を変える物も存在し、また魔法薬には他人に成り変わる物も有るにも拘わらず、かの呪文だけが何故禁じられた扱いをしているか、真に理解しているかね?」
「…………」
視界の端の、アラスター・ムーディ教授は動かなかった。
一切の動きが無く、けれども完全に心を隠し切っているのがありありと感じ取れた。気を尖らせ、言葉の一言一句を吟味していた。
……そして、それ以上に僕の方が、気が気で無かった。
如何に元闇祓いとは言え、〝マッドアイ〟の前で不用意に口にするには余りに危険過ぎる話題で有る。
けれども、老紳士は気にしなかった。無視したままに、言葉を続けた。
「それはだ。服従の呪文の自由度が単純に高いからだ。特に極まった術者の下では、一度杖を振れば長時間影響を行使し続ける事が可能で有り、尚且つ逐一命令する必要も無いからだ。命令を下しさえすれば、被支配者は自分なりに命令を解釈し、動いてみせるからだ」
そして何故だろうか。
この状況以上に、その説明の内容自体にこそ、異様な重圧を感じてしまうのは。
「ある場所に存在する物を取って来い。ある物品を特定の相手に渡せ。特定の行動を取る者を見かけたら密告しろ。そして当然の事ながら、何事も無かったかのように学生生活を送り、或いは自身に与えられた職務を遂行しろ。そのような命令が、服従の呪文では許される」
「────」
「解るかね? 仮に知っていたとしても、再度胸に刻むべきだ。これこそが服従の呪文が禁呪となった理由であり、我々魔法省が更に禁呪をもって対抗した理由なのだから」
……言いたい事は解る。そして、暗示している理由も。
ただ、決定的に解らない事が一つ。
「……それで、貴方は何故今更そんな事を言い出すのです?」
「何、君は目立つ割には余りにも不用心過ぎるからだ。これがかつての魔法戦争中であれば、私が君を害するような悪い人間だったのなれば、君は既に死んでいる」
「……危険は低めだと踏んで行動はしていましたよ」
今回は三校試合、国際関係と不可分の問題なのだ。
校内でホグワーツ生が一人でも死ぬか失踪すれば、如何に大会と関係無い所で有ってもボーバトンやダームストラングは自分達の生徒を護る為に全員を引き上げさせる事だろう。
炎のゴブレットの拘束力はハリー・ポッターの離脱を許さない程度には非常に強力なようだが、形振り構わなければどうにでも解決出来る。三校試合を中止する必要すら無く、寧ろ完遂させてやれば彼等が離脱する事に支障はないだろう。
だから、僕如きに〝犯人〟が手を出す
「そうか。それが正しいかは、私は敢えて語らんよ」
その裏に皮肉を隠しもしないのは、彼の種族としての習性だろう。
「しかし、気をつけたまえ。君は異端のスリザリンであるという以上に、他人の真意を図る為の詮索と挑発を迷わず、己が敵対者を作る事を厭わな過ぎる。そのような在り方で居て尚長生きした者を、私は今まで
「…………」
「此度においても、寧ろ此度においてこそ胸に留めておくべきだ。我々の敵は常に解りやすい所に居た。そして、小賢し過ぎる者というのは何時だって邪魔だった。闇の陣営にとっても、光の陣営にとってさえも」
それは尊い助言で教訓なのであろうが、気質としてどうにも受け入れがたい事は有る物だ。
そして、それはそもそも僕にとって覚悟の上である。
「……最後に御聞きしますが。貴方はそもそも何故、僕に気付いたのです? 貴方は杖や魔道具を使う素振りを見せなかったし、魔法の気配も纏っては居なかった。気付く機会は無かったように思いますが」
「その答えは単純だ。単に私は最初から周りに注意を払っていたに過ぎない。そして往々にして、単純な論理を前提とする方が、賢い者を騙すには酷く効果的なのだ」
そんな忠告を残し、老紳士は再度歩みを進め始めた。
僕も、教授の事を振り返らないままに、真っ直ぐと伸びた背中は遠く消えていった。
バーテミウス・クラウチ氏は去った。
僕とアラスター・ムーディ教授だけが当然に残った。
そして教授は、何かを深く考え込んでいるようだった。教授の杖は未だに老紳士が去った方向へと向けられたままだったが、その杖先はきちんと定まっては居らず、微かな風にさえ揺らされ、動いている。
何時の間にか、日が暮れようとしている事に僕は気付いた。
しかし、驚いたのは時間の経過自体では無かった。
今日まさに第一の課題が行われた筈だったというのに、四者四様の見事な課題の達成を見せてくれたというのに、それらの印象は殆ど拭い去られていた事こそが、僕に驚きを齎した根源だった。
あの光景が遠い過去だと思える程に、ただ、貴族中の貴族が残した彼の歴史こそが、その血と家系が刻んできた重みこそが、僕の中に強く残っていた。
特に、アルバス・ダンブルドア。
以前、教授はあの老人を変えようとしない者と揶揄した。
しかし、一方で老紳士は革命戦士と批判した。
全く正反対の観方で、その何れが正しいかは一概に言える物では無く、究極的にはその二つの観方は両立し得る物なのかも知れない。
けれども、今この場でそれらを整理するのが到底不可能なのは明白であり、
「教授」
「……何だ」
「バーテミウス・クラウチ氏が、服従の呪文に掛かっている事は有り得ますか?」
ここに都合の良く専門家が居る以上、これだけは第一に聞いておかねばならなかった。
ただ実際、非常に危険な問いで有った。
最初に老紳士へと見せた憤怒の情。或いは、最後に見せた凪の感情。その何れにしても尋常の物では無く、教授にとってバーテミウス・クラウチという存在自体が地雷なのは明白であり、不用意に踏み込めばその破壊力が僕へと向けられる事は容易に想像出来た。
けれども、問いに対する教授の反応は、少なくとも表面上は穏やかだった。教授は低い唸り声を上げて直ぐに答えなかったが、しかしそれは迷いを示す物でも有る。
元闇祓いとして沈黙を保つべきか、教授として説明を選択するべきか。
「……ふむ。悪くない。嗚呼、寧ろ筋が良い発想だ」
そして、その切り出し方は、話す方向に天秤が傾いた事を示すものだった。
「怪しい行動を取った者が居れば、まず服従の呪文を疑え。それは闇祓い──先の戦争を忘れておらぬ者に限るが──らしい思考では有る」
教授は、感情を押し殺した声で静かに言う。
「だが、儂の個人的な判断としては、その可能性は非常に低いと考えざるを得んな」
それは僕の結論と違った。
僕は決め切れなかったが、教授は否定する方向の判断を下した。
「クク、その反応では随分と意外に思っているようだな? まさか、儂が私情でもってクラウチをしょっ引くべきだと主張すると考えていたか?」
「……そうは言いませんが」
そこまで過激な事は、流石の僕も考えてはいない。
「ただ、貴方の最初の反応は、彼を闇の魔法使い同然に扱っているように聞こえましたし、普通で無いという表現に加え、バーテミウス・クラウチ氏の最後の助言を加味すれば、その可能性も有るように思えましたので」
「儂にそのつもりは一切無かったし、お前には無様な姿を見せたと思っている。失望するのもお前の勝手だ。だが、儂が平静で居るには、あの男と儂の間には因縁が有り過ぎるのだ」
その単眼に再度の殺意を一瞬だけ滲ませて、しかし教授は一度眼を閉じた。
そして開いた後には、鋭利な叡智の輝きだけが残っていた。
「儂の本心から言えば、あれが不審な動きをしたとして問答無用でダンブルドア、或いは闇祓いの下へ引っ張って行きたい所だ。しかし、儂は既に現役を退いており、しかも儂の頭脳は残念ながら、クラウチが服従の呪文に掛かっているという事は考えにくいと答えざるを得ん」
論理とは別に感情的には不愉快らしく、彼は食い縛った歯を剥き出しにしていた。
「その理由についても儂は説明出来る。特にお前には論理で説明する方が良いようだからな。……さて、お前の言う通り、仮にクラウチが服従の呪文に掛かっていたとしよう。しかし、それを前提とするならば、理屈に合わぬ事が有る」
先の展開も含めて考えながら紡いでいる内容らしく、教授の話しぶりは多少ゆっくりした物だったが、しかしその言葉の軸はしっかりとしていた。
「
さて、これを聞いて儂の授業を受けたお前はどう思うと続け、
「もっとも、クラウチの忠告を聞いた今では簡単過ぎたか?」
付け加えられた言葉の裏には多少面白がる響きが有った。
勿論、回答は確かに簡単であり、誘導が露骨過ぎで、悩む必要など無かった。
「貴方が授業で服従の呪文を僕達に使った時、貴方は当然ながら傍に居ましたね。しかし、今回バーテミウス・クラウチ氏の場合はどうなのか。要はそう言う事でしょう」
「正解だ」
満足気に、教授は頷く。そして今度紡ぐ言葉は流暢だった。
「服従の呪文の恐ろしい点は、あの男が示唆したように、相手を管理し続けるのに常に杖を向けている必要は無いという点であるし、逐一命ずる必要が無いという点でも有る」
服従の呪文は、非魔法族のマリオネットのように、一々後に居る必要は無いのだ。
そうでなければ、バーテミウス・クラウチ氏が摘示した行為を対象者に取らせる事は決して不可能である。逆にそれが出来たからこそ、服従の呪文は禁呪に至った。
「しかし、何もかもが出来る訳では無い。マグル生まれは特に、そして時には純血の魔法使いですら、魔法が何でも出来る手段のように考えている。しかし、出来ない事、出来そうにない事というのは当然存在する。服従の呪文ですら例外では無い。対象者の技量によって破り得るという以前に、可能不可能の枠組みが厳然として存在するのだ」
……服従の呪文が為し得る限界というのを、僕は当然知らない。
一人の術者が何人もの相手に対して同時に掛ける事が出来るのか。服従の呪文の効力は、一度で何時間、或いは何日まで続くのか。本人が受け入れがたい事、即ち自殺などの行為に対しても服従させる事が出来るのか。
数十キロ先、数百キロ先の相手にも影響力を行使し続ける事が出来るのか。
その何れにも今の僕は回答出来ず、しかしそれらの問い全てが無制限という訳では無いだろう。それが可能ならば、魔法界は既に闇の帝王一人の手で陥落している筈だった。
「けれども、一つの例として距離の制限が有ると仮定しても、解決方法は幾らでも有る筈です。例えば、やはり貴方が暗に示したように、校内に潜む誰かが彼に服従の呪文を掛け続ける事によって克服する事は可能でしょう?」
「そうだな。ただ、あの男は魔法省の人間だ。そして、儂の知るクラウチは、病気程度で欠勤する位ならば死を選ぶ程の仕事人間だ。言いたい事が解るか?」
彼は幽鬼のような有様で有りながら、それでも今日此処に居た。
魔法省の高官として、三大魔法学校対抗試合における審査員としての自身の仕事を果たしていた。そして、それを誰も止めるような様子は無かった。彼が体調不良を押し通して尚、他の人間は、バーテミウス・クラウチ氏がホグワーツに居る事を否定しなかった。
「……彼は恐らく、魔法省に一日も欠かさず出勤し続けている。そして、校内に潜んでいる人間が居るとして、その者がホグワーツ内の行動に関して彼を制御する事が出来ても、魔法省で勤務する彼の行動まで制御する事が出来る訳では無い」
「その通りだ」
教授は、我が意を得たりというように大きく頷いた。
「勿論の事、魔法省内に別の協力者が居れば解決する理屈で有る。更に言えばクラウチが出勤する前に、毎日服従の呪文を掛けられている可能性も想定しうる。しかし、前者は兎も角、後者の方は、今の時代で儂以外が容易く口にしない程度には、荒唐無稽な理屈では有るな」
今聞いた僕の印象でも、前者は有り得るだろう。
死喰い人の残党──但し、偽証してアズカバンを逃れた連中が大半だから、彼等が闇の帝王と繋がっている事は考え辛いが──は、魔法省内に依然として存在する。彼等が動いているのであれば、バーテミウス・クラウチ氏の〝操縦〟に協力している事は想定しうる。
しかし、確かに後者は荒唐無稽と言う位には、突拍子が無い理屈では有る。要塞じみた〝純血〟の家の護りを誰にも知られないまま易々と突破し、しかも高度な技量と多大な魔法力を持つ大人の魔法使いを、まるで玩具のように扱っている闇の魔法使いが、在野に存在しているという事なのだから。
「更に言えば、ホグワーツはスコットランドで魔法省はロンドンだ。そしてクラウチは恐らく姿現しで移動している。まさか奴が箒で飛ぶ訳には行くまい? さて、その距離の断絶を経ても、服従の呪文の効力は維持し得るのか? どうだ、優等生? この程度なら教科書に載っていても可笑しくないが?」
ニヤニヤとした教授の問いに、僕は黙る事しか出来ない。
どんなにざっくり計算しても両距離の間には直線距離で五百キロ超。ホグワーツの位置次第では七、八百キロの空間の差が横たわっている。それだけの障壁を隔てても、服従の呪文は効果を弱める事無く、正常に機能し続けるのだろうか。
その解決法も、服従の呪文を掛け直す為の中継地を作る──つまり、姿現しをする際には必ず術者の下に姿現しをするよう事前に命令する──事で解決しうるが、正直言って途中で呪文が解ける危険度を考えれば余り美しくないし、それを考えてしまっている時点で、服従の呪文には相応に厳格な制限が存在する事を僕が前提としてしまっているのは明らかだった。
「疑うのは結構。儂の信条からすれば、それを推奨するもので有る。しかし、有り得ない事は存在するのだ。儂も何も考え無しに、何時も何時でも誕生日プレゼントを爆破する訳では無い。儂には儂なりの疑う理屈が有り、その可能性を十分肯定し得たから爆破したのだ」
教授なりの冗談を口にし、けれども浮かんでいた笑みは直ぐに消えた。
代わりに現れて来たのは、真剣な表情。
蒼の魔法の眼は目まぐるしく周囲に向けられ、しかし残った単眼は真っ直ぐ僕を見据えて、アラスター・ムーディ教授は僕の想定して居なかった言葉を続けた。
「先程儂は、可能性が低いと言った。術者の場所や距離に対して疑問を呈した。けれども、常識的な思考からは全く考えられない程に強力な服従の呪文を扱える闇の魔法使いを、儂は一人だけ知っている」
「────え?」
「闇の帝王」
端的に紡がれた解答に混じるのは、明確な畏怖と恐怖。
「光の当たらぬ領域において、あの男の前に不可能はまず無い。アルバス・ダンブルドアですら出来ないかもしれぬ事を、あやつはやる事が出来る」
僕が知らない血と死の時代を、この元闇祓いは知っている。
「先の魔法戦争時代。不可解と不可能が跋扈し、人は不安と動揺、疑心暗鬼に囚われた。お前には前も言った筈だが、グリンデルバルドと異なり闇の帝王の名が呼ばれぬのは、単にこの国が戦争に巻き込まれたか否かの差異では無い。あれは間違いなく、闇の領域というのを大きく広げた。その絶対的な〝偉大〟さにこそ、儂等は恐怖を覚えて已まないのだから」
果たして何と言って良いのか、僕には解らなかった。
普通は出来ない完全犯罪。しかし、闇の帝王ならば可能だと伝説の闇祓いは言う。
であれば、今回の事件には闇の帝王が当然関わっている──そう結論付けるべきだと答えるべきなのだろうか。
……いや、最初に立てた前提を忘れてはならない。
その思考と共に教授を見返せば、彼は傷を大きく歪ませながら笑った。
「ククク。嗚呼、その通り。これはクラウチが服従の呪文に掛かっているという前提での思考実験だ。もっとも、確認してみるに越した事は無いがな。仮にあれがポッターの名前を入れたとすれば、これ程話が早く済むという事も無い」
「……確認するのは良いとして、一体どうやって確認するんです? 服従の呪文は先の戦争で魔法省を大いに手古摺らせた呪文の筈ですが」
「何、闇祓いには闇祓いなりの確認方法が有る。過去に服従の呪文に掛けられていたかが問題の裁判と異なり、現在服従の呪文に掛かっているかという場合はもっと単純なのだ」
「……その口ぶりからすれば、その手段について余り聞かない方が良いようですね」
「儂も一応教授のつもりだ。生徒に教えるべき事と、そうでない事の区別は付く」
彼が〝マッドアイ〟と呼ばれるからには、相応の理由が有る。
それを万人に思い起こさせるような事件の予感を、その気配は漂わせていた。
そして、それを纏ったまま、彼は徐に僕へと声を掛ける。
「──なあ、レッドフィールド」
「……何でしょう」
「此度の行動はお前の不審に過ぎる。偶然だろうが意図的だろうが、客観的に見てお前の行動は怪しいの一言だ。バーティ・クラウチと接触した事は勿論、それと会話した事もだ。儂が現役で有ったならば、やはり魔法省へ問答無用で連れ帰っている」
「…………」
それはまあ、そうだろう。
「けれども、儂は何も聞かん。クラウチと何を話したのかも、何を考えたのかも。まあ、儂が聞いた部分から多少の想像を巡らせる事は可能であるし、故に大きな問題を生じさせる物でも無いと考えてはおる。何かを企んだ上で整合性の有る話をするのは困難だ。特に、あのような話に暗号や隠語を混ぜるのは不可能と言って良い」
「……そう言ってしまって良いんですか。しかも本人の前で」
「断言はせん。しかし、思い出せ、レッドフィールド。魔法使いに〝説得〟は不要なのだ。そしてかつての戦争時、〝説得〟が通用しない者は直ぐに姿を消した物だ。我々にとって真に警戒すべきで有ったのは、姿の見えない他人では無く、姿が見える隣人だった」
隣人は裏切り得るが、そもそも居ない人間は裏切らない。
離れているが故に安心だという理屈が、魔法界においては成立し得る。
「油断大敵。儂は一切信用せん。何もかも。親友で有ろうと、かつての戦友で有ろうと、闇祓いとして教えた者で有ったとしても。今教えている者であったとしても例外は無い」
だからこそ、と教授は続ける。
「儂がお前を疑うように、お前もまた儂を疑え」
「────」
余りに正気で無い言葉。常軌を逸した理屈。
それをアラスター・〝マッドアイ〟・ムーディ教授は平然と口にする。
「
「……しかし、貴方が貴方自身を疑うのには限界がある、というより不可能だ。そしてだからこそ、貴方は僕に貴方を疑えと?」
「そうだ」
「正直言って、それは……無茶苦茶だ」
「おうとも。だからこそ、儂はマッドアイと呼ばれておるのよ」
己が狂っている事を彼は否定しない。
自認しながらも、更なる狂気に堕ちるのに惑う事はしない。
「嗚呼、それとだ。今回の件はダンブルドアに当然報告しておく。一生徒がバーティ・クラウチと接触したという件は、儂の胸の中のみに収めておくには流石に事が大き過ぎる。これでも儂は、この三校試合の警備役も兼ねて教授を引き受けたのだからな」
「……ええ、それは至極真っ当な話です。別に異存は有りませんよ」
僕の回答に軽く頷き、教授は顎をしゃくる。寮に戻れと言う事だろう。
僕を立ち去らせる理由について、想像出来ない訳では無い。魔法の気配が事後的に辿れるのかは僕の知識の及ぶ所では無いが、バーテミウス・クラウチ氏の行動──教授にとっては明らかに不審な行動──について、何か手掛かりを得る手段がないとも限らない。
そして、彼の仕事に、生徒が関わる余地は無い。僕は速やかに立ち去るべきだった。
しかし二、三歩足を進めた後で、ふと思いついた質問を徐に宙へと投げ掛ける。
「そう言えば、貴方が僕に個人的に教えている事を、あの老人は知っているのですか?」
「いや。ダンブルドアは知らん」
即座の返答に、僕は思わず振り向いた。
夕影の中に、蒼白く輝く単眼と狂貌の笑みが浮かんでいる。
「別に驚くには当たらんだろう。儂が何を教えるかは儂が決めるし、誰を教えるかも儂が決める。ダンブルドアはあれで口五月蠅い男だ。自分は口を割らん癖に、他人には口を割らせたがる。意趣返しをするには丁度良いだろう?」
「…………」
「けれども、ここに至っては耳に入れねばならんようだ。何、儂はお前を面白い生徒だと考えていたが、儂の予想以上で有ったようだからな。クラウチの興味を惹いた点も、お前が今アルバス・ダンブルドアを何と呼んだかも。儂の前で無ければいずれも大いに問題だ」
……油断大敵。
「敢えて今度は口にしよう。寮に戻れ。そして、ここに至って要らぬ好奇心を発揮して寄り道をする程、お前は愚かしい奴では有るまい?」
「……ええ。そうさせて貰いますよ」
最後に痛烈な教訓を再確認させてくれた教授に一礼して、僕は彼の下を去った。
そして真実かどうかは解らないし、単純に被害妄想に過ぎないのかもしれない。だが、その蒼の瞳はずっと僕の背を追っているのではないか。そう思えてならなかった。
この数週間後、僕は『日刊予言者新聞』の記事を通して、十一月末以降、バーテミウス・クラウチ氏が公の場所に姿を見せていないという
・服従の呪文の自由度
本作中でも述べたが、出来る事が非常に広い。
ケイティ・ベルにネックレスを渡した点は兎も角、ダンブルドア(とハリー)の外出をマダム・ロスメルタが密告した点、傀儡の魔法大臣パイアス・シックネスがパーシーらと決闘した点、クラウチ・シニアが普通に魔法省勤務していたらしい点(ゴブレットによる代表選出、第一の課題の審査に出席)あたりは、一般に想像するような有線リモコン操作からは掛け離れている。
またクラウチ・シニアに服従の呪文を掛けたのは、ジュニアの自白からは明確にヴォルデモート(移動困難な身体)であるが、服従の指揮系統の移譲が出来るのか、はたまた呪文の掛け直しを一々していたのかは作中からは不明である。
加えて、複数人に掛ける事が可能、かつ杖を向け続ける事は不要であるらしい。
七巻のグリンゴッツ侵入時においては、ハリーは小鬼のボグロットと死喰い人のトラバースの両者を同時に管理下(同時操作出来るかは不明瞭)に置いている。
これらに敢えて付け加えるならば、ヴォルデモート死亡後には、「国中で」服従の呪文に掛かっていた人間が我に返っている描写が有るが、これは単純に、帝王死亡を機に配下が一挙に裏切った事を示す表現だと解するのが妥当かもしれない。