宮原誠一の神社見聞牒(137)
令和2年(2020年)03月17日
No.137「五郎」は神の御子の隠し当て字であった ①
人名に「五郎」という名をよく見かけます。
世間一般では、五男坊の意味にとられます。
実は、この「五郎」の名は別の意味が隠されているのです。
「五郎」は「御子 みこ」という意味で、御子の隠し当て字なのです。
五郎(ごろう) → 御郎 → 御子(みこ) (単純な流れで見た場合)
五郎(いつお) → 伊都男(いつお) → 稜威男(いつお) 神聖な男
1.矢五郎について
私が育った実家は福岡県田主丸町柳瀬(たぬしまるまち やなせ)と申します。
古代、柳瀬の村は「柴刈」郷にあり、「和名抄」の竹野郡の第一名に記載され、竹野郡柴刈郷の中心が筑後川のほとりの微高地にある柳瀬です。また、旧竹野郡の中心地でもありました。
この村の東から北方向へ古川が流れています。古代の筑後川の名残です。「古川 ふるかわ」と呼んでいます。別名「矢の川」です。
その川の深い瀬にあるのが「柳瀬」ですが、その瀬の一帯を「矢川瀬」と言いました。「やごせ」と訓(よ)みます。
「柳瀬」の「柳」は普通、常用漢字を使用しますが、公式には「栁」を使用します。
戸籍簿の名前は「栁瀬」が使用されています。
村名も公式には「栁瀬」を使用します。
川を「こう(江)」と呼ぶ地方があります。特に熊本県球磨地方に多いです。
地名・姓名に「川原」がありますが、一般に「かわはら」と呼ばれているようです。
別の呼び方として「こうら」とも呼びます。意味は高良大社の「高良 こうら」と同じになります。高良神社、玉垂神社が鎮座する地名、字名は「川原」であることがあります。この場合「こうら」と詠みます。非常に高貴な地名となります。
「矢の川」は「神の川」の意味で、「や」はヘブライ語で「神」となります。
それで、「栁瀬」は「矢の川の瀬」であり、略して「矢の瀬」となります。「栁」の字を当てて「栁瀬 やなせ」としました。柳川、弥永(やなが)も同じ意味になります。
先頭に「や」が付く名前は「神の」と捉えると、意味がよく分かるようになります。
八人の乙女を「八乙女 やおとめ」と呼びますが、神の乙女で天女です。
八重事代主神(やえことしろぬし)⇒事代主
矢川枝姫命(やがわえひめ)
八雷神(やくさのいかつち)
八坂刀売神(やさかとめ)⇒奈留多姫 トメ(姥)は再婚後の用語
八十禍津日神(やそまがつひ)⇒禍津日神、櫛稲田姫
八咫烏(やたがらす)⇒豊玉彦
八束水臣津野命(やつかみずおみつぬ)⇒大国主
倭大国魂神(やまとおおくにたま)⇒大幡主を表向きとし、実際は神武天皇以下・・・
山幸彦(やまさちひこ)⇒猿田彦
八意思兼神(やごころおもいかね)⇒思兼神、豊玉彦
八上姫(やがみひめ)⇒市杵島姫
八女津姫(やめつひめ)⇒水沼姫(みぬまひめ)
それで、「矢五郎」は「神の御子」という意味になります。
2.福岡県田主丸町柳瀬の玉垂神社
その田主丸町柳瀬に玉垂神社が鎮座です。その末社に矢五郎がありました。矢五郎は猿田彦を祀ります。
筑後地方では、「矢五郎」は猿田彦、「荒五郎」は筑後川の水神・豊玉彦となります。
柳瀬の古川に3本の橋が架っています。南に「矢川瀬橋」、東に県道の「柳瀬橋」、北に「猿尾橋」があります。矢川瀬橋は通称、宮本橋と呼んでおります。一般的に言えば、川の名からとって「古川橋」といった方が受け入れやすいでしょう。柳瀬村は行政上の名で、村内を宮本と呼んでいました。宮本は柳瀬神社時代の主祭神(正八幡大幡主)奉斎家である柳瀬家の住んで居られる地域を指します。
柳瀬神社時代の主祭神は柳瀬大菩薩と申され、「八幡神 やはたのかみ」であり、「はちまんのかみ」ではありません。この神社に因んで、この地域一帯の地籍は大字八幡(やはた・八幡村)とされました。明治になり、明治6年(1873年)の社格設定時に、本来の奉斎神社である玉垂宮に改宮することに決定。郷社から村社に格下げを願い出、遷宮を計画。遷宮計画中の明治7年(1874年)8月の暴風大雨洪水の水害で流出倒壊しました。同12年再築、明治31年神殿を石祠に改建す、とあり、現在の地に玉垂神社が鎮座されたのは明治31年(1898年)の春でした。八幡神社は境内社として参道に小さな社で鎮座されています。
矢川瀬橋と猿尾橋は珍しい名前です。先に申しましたように矢川瀬橋は「やごせ橋」と読みます。猿尾橋は「さるお橋」と読みます。矢川瀬橋のある所は、かつて、微高地の瀬であるように、崖に近く、水面から5mほどの高さでした。今は河川改修が行われ、その姿をみることが出来ません。猿尾橋の「尾」は尻尾という意味でなく、「後」という意味です。この猿尾橋南西に遷宮前の社殿社地がありました。
※大幡主系が使用される「尾」は、岬、峰の鼻といった地形状の突起を指すこと
が多いようです。
その柳瀬村内に鎮座の神社が現在の「玉垂神社」です。主祭神は神功皇后ですが、公式の神社表記では「武内宿禰」と記されています。脇神に春日大神・住吉大神となっていますが、実際は、神功皇后の妹とされる宝満大神(鴨玉依姫)、川上大神(豊姫 ゆたひめ)の女神が祀られています。
鎌倉時代からおおよそ四百余年、竹野郡惣廟として、江戸時代に続いて明治になるまで竹野郡惣廟柳瀬神社として六百五十余年続いています。
社紋は玉垂命(開化天皇)の神紋・五七桐紋、神功皇后の神紋・五三桐紋が打たれています。
拝殿の正面の四枚の引き戸には金箔の五三桐紋が打たれています。
その柳瀬の玉垂神社の末社に、坂本大明神・十王・今宮・若宮・矢五郎がありました。
坂本大明神は坂本命、十王は龍王の豊玉彦、今宮は素戔鳴尊、若宮は仁徳天皇、矢五郎は猿田彦を祀ります。
鎌倉時代の初め、八幡神入替えの際、末社は廃神したとあり、御神像は拝殿天井裏に密かに安置されました。
柳瀬橋から矢川瀬橋を望む
玉垂神社 福岡県久留米市田主丸町八幡(柳瀬)394
大幡主(国常立神)の紋章は亀甲、五三桐、竹、笹、五弁唐花、桔梗、篭目紋(六芒星)等ですが、五弁唐花紋・桔梗紋・亀甲紋は五芒星・六芒星の隠し紋となります。
柳瀬家は正八幡大幡主を奉斎されます。
長い間、柳瀬家の家紋が桔梗紋であることが理解できませんでしたが、正八幡大幡主奉斎・桔梗紋・五芒星・六芒星のつながりを理解できました。
永松家の紋(亀甲紋) 柳瀬家の紋(桔梗紋)
玉垂神社境内社の八幡社(祭神・正八幡大幡主)
「五」「五芒星・六芒星」については、ブログ「常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった」68 龍族 大国主命とアーユルヴェーダ(生命科学) 改訂20190804 2019-07-29 に興味ある解析がなされています。
https://ameblo.jp/kappa1959/entry-12498890129.html
六芒星(ろくぼうせい)
六角星、六線星、星型六角形ともいわれます。
ユダヤ教が、この図形を神聖なものとしている事実はありません。
イスラエルの国旗には、ダビデの星と呼ばれる青色の六芒星が描かれています。
日本では、籠目紋という紋章があり、竹籠の編み目を図案化したもので、伊勢神宮周辺にある石灯籠に籠目紋が刻まれているのを見かけます。
神聖ローマ帝国の三十年戦争末期の1648年、ハプスブルク朝のフェルディナント3世が、民兵軍の武勲を賞して各部隊の旗印に下賜したことに起因するとも。
(Wikipedia参考)
しかし、フリーメイソンとも関係があるとされ、これらの力が、今の世界に与える影響は大きいようです。