もうこの件について書かないといいましたが、詳細をご存じない方の「もやもや」を解くために、私のライフワークと関わるところでもあるゆえ、最後に記すことにします。
現地では人吉が「かくれキリシタン」の町であり、相良清兵衛はキリシタンであったと信じている人々がいます。史料による証拠は「一切」存在しません。少し変わったマークのある石造物の存在がその根拠となっています。その説を提唱し、著作もある郷土史家がいます。「宮原銀山は銀山ではなかった」説を『日本歴史』にコラム掲載したのと同じ方です。このコラムは一見説得的な内容ですが、重大な史料の読み誤りがあります(と著名な中世史研究者が指摘しております)。その方の著書によると、郷土史研究会の会員の多くは、今回の呼びかけ人はじめ、自説を支持してくれている、とあります。これが今回の混乱の最大の原因です。
最初の朝日新聞やABEMAニュースの報道に使われたように(私自身は、一切取材を受けておりませんが)、当初「コンベルソのイエズス会士」がキーワードにされていました。日本で活動していたイエズス会士の中に「コンベルソ」と名指しされる人がいたのは確かです。その研究を日本でやっているのは私だけです。ただし、海外のイエズス会宣教史研究では、ほぼ常識となっています。ルイス・デ・アルメイダは最も有名な例でしょう。しかしながら、アルメイダでさえ、自分自身の無意識の「異端性」の揚げ足を取られないように、細心の注意を払っていたことは、日々彼の書簡を読んでいる私は理解しております。もし彼の特異な点を一つ挙げるとしたら、最初から相手の信仰を否定しない、まずは相手の懐に入り込み、そこから入り込む余地のあるところを狙っていく、という改宗者の家系に生まれ、イエズス会内部での差別にも苦しんだであろう人が編み出した布教方法など、そういった部分にあると思います。とはいえ、「ユダヤ的なもの」を日本人に教えた可能性はゼロだと思います。それについては、会場でも話しました。「コンベルソ」「イエズス会士」というキーワードは、地元の一部の方の「かくれキリシタンに関連するものであってほしい」という願いと「形状がユダヤ教の沐浴槽に酷似する」という2つの事項を、極めて都合よく繋いでくれるものだったのだと思います。
この説が都合よく繋がるためには、相良清兵衛とその一族が当事者となった「御下の乱」などに関連する資料は、極力隠される必要がありました。よって今回の登壇者には事前にこれらの情報は提供されませんでした。そして、相良清兵衛の屋敷内にあった易堂と持仏堂(話題の水槽の上部構造)についての詳しい外部・内部の様式的記述、そこに設置されていた信仰具等の詳細が記された史料もまた見せられないようにしていたことは、極めて重大で意図的な情報操作であったと思います。幸いなことに私は、ある方からの事前の情報提供で、清兵衛の持仏堂と易堂に関する具体的な記述があることを知り、それを読んでから直前に大きく発表内容を変更いたしました。設備の整った職場にいるおかげで、必要な追加情報もすぐに入手することができました。登壇された他の先生はシンポジウム後に「こういうのがあるなら、ちゃんと事前に教えてもらわないと!」とかなりご立腹でした。
つまり私たちは、もともと存在した「かくれキリシタン」説から都合よく「ユダヤ」へ繋げるという、偽史形成を目的にして集められたメンバーであったのです。結局のところ、主催者の目論見成就は、すんでのところで回避されたため、登壇者は誰も決定的なことを言わずに終わりました。
下記の市議会資料は本件の奇妙奇天烈な背景を理解するのに、非常に有益な情報を提供しており、また開示されているものですので、ここに挙げておきます。230頁周辺。
幸い、行政には有能なスタッフがいるので、地元の歴史愛好家のシニアの方々には、歴史研究を自己権力の闘争道具とすることは厳しく自戒いただき、彼らが今後自分の本来の力を発揮できるように、温かく見守っていただきたいです。美しい人吉の里を世界の人にも知ってもらうために、若い人に未来を繋いでいただきたいのです。私からの切なるお願いです。