はじめまして、辻内たけはると申します。
私は、一市民であり、父親であり、ビジネスマンである一般的な42歳です。東京の出身ですが、妻はウチナーンチュ、豊見城に生まれ育った「トミグスクンチュ」で、わたしは正真正銘の「ウチナームークー」です。4歳の息子もこの地で産まれ、子育てしながら仕事をし、豊見城はわたしの第2の故郷(ふるさと)になりました。それでも、内地出身のものが、突然、豊見城市の市長選挙に出馬を表明したということで、不思議に思われたという地元の方々も多くいらっしゃるかもしれません。この場を借りて、自己紹介を兼ねて、出馬に至った経緯を伝えさせていただきたいと思います。
私は、1980年に東京の東村山市で生まれ育ちました。私の実家は、裕福な家庭ではありませんが、両親がコツコツ働いてくれたおかげで、奨学金を借りながら大学へ通い、卒業後東京で就職、社会人生活をスタートさせました。その後、今から14年前の2008年に沖縄に移り住み、不動産会社や税理士事務所などで働き、2016年に個人事業主として独立、2018年に経営コンサルティング会社を立ち上げました。
豊見城で仕事や生活をしながら地域団体の活動にも参加し、とみぐすく祭りやハーリー大会、県外と市内の子どもたちの交流イベント、チャリティー活動などに携わってきました。先輩、後輩思いの地元の方々が本当に温かく受け入れてくださり、皆さんとのご縁は、本土から移り住んできた私にとって、何ものにも変えがたい財産となりました。地元の方々と過ごした時間を通して、大好きな豊見城に深く根をおろし、もっと地域に貢献できるようになりたい!そう真剣に考えるようになりました。
仕事の面では、様々な職種、業種の企業経営、個人経営の実情に触れる中で、沖縄経済の歴史的、構造的な問題が、県民の暮らしに大きな影響を及ぼしていることについて理解を深めてまいりました。わたしの第2の「地元」になった豊見城市の現状を考えながら、地域の人々の暮らしをよりよくできる「政策」がもっとあるのではないかと、「政治の場」を強く意識し始めたのは3年ほど前のことです。それ以来、豊見城市の市政運営に注目し、国内外を歩く中で、自分なりの勉強と経験を重ねてまいりました。
私が大学4年だった22歳の時に「政治」を志す最初のきっかけがありました。2002年、就職を控えて横浜にある学生寮で暮らしていた時のことです。記憶にある方もいらっしゃるかもしれませんが、ちょうどそのとき、横浜市長選挙に37歳の若さで出馬した中田宏さんが、初当選を果たすという出来事がありました。当時、巷では、「建設官僚の天下り先が、日本最大の市の市長」と言われるような、まだそんな時代でしたので、若い候補者が挑んできたこと自体に、物凄い衝撃を受けました。現職を相手に絶対勝てるわけがないと言われていた選挙でしたが、若き候補者が、2万票差で勝ち抜き、当時365万人の市の市長に就任しました。
強固な地元の地盤看板には、地縁血縁を土台とした昔ながらの強固な人間関係があります。それでも、「市民益の最大化」を理念に掲げた若く、青臭い市長候補者の訴えが、岩盤を突破していったのです。地域に愛着はあれど、旧来の選挙に対し、長く疎外感を覚えてきた多くの市民が、投票で意思を示した結果ではないかと、純粋に感銘を受けたことを鮮明に覚えています。その後、横浜から、今では当たり前になったゴミの分別回収の仕組みや、クレジットカード払いの公金支払いなど、全国標準となる行政サービスの基盤がつくられていったことに、社会を動かす政治の力を見て、いつか地方政治の場に関われるようになりたいと、考えるようになりました。
そして、横浜で芽生えた「政治」への関心が、10年余りを経て沖縄で膨らむことになりました。キーパーソンとなったのが、今回、選対本部長を買って出てくださったこちら、とみぐすく出身、とみしろ団地育ち、沖縄水産高校野球部出身の平良尚也さんです。2016年に、ある人の紹介で知り合ったのですが、なんと、あの横浜市長選で若き候補者を擁立した選対本部の中心にいて、経験ゼロから選挙戦を盛り立てていった張本人だったのです。
そして、その平良さんを紹介してくれたのが、今回後援会長に率先して手を上げてくださった沖縄ワタベウェディング元社長の翁長良晴さんです。翁長さんもまた、平良さんと同じく、高校野球の名指導者・栽弘義監督の門下生で豊見城高校時代の教え子であるという、私にとっては奇跡のような共通点がありました。
平良さんも翁長さんも、大学に行かずとも、「やればできる」という栽監督の薫陶を胸に上場企業の役員や上場企業子会社の社長、起業などを経験し、全国各地や世界各国を渡り歩いており、私も仕事を通して行動を共にしてきました。お二人が世界の現状を沖縄や地元である豊見城(とみぐすく)に置き換え、社会のあるべき姿をひたすら考え続けていることは、私にとって大きな刺激となり、私自身、沖縄と足元の豊見城(とみぐすく)の課題に向き合う覚悟が鍛えられたと思っています。
そして、いよいよ「政治の現場」の第一歩として、この度豊見城市長選挙へ立候補をすることを決意しました。なぜ今だったのか。それは、従来の政党間の対立や既存の枠組みの中に、「共感」を見出すことが非常に難しくなった、できなくなったと強く感じたからです。
豊見城市は、20年前に村から一気に市に昇格しましたが、その後人口が増え続け、新たな土地が生まれ、外から移り住んでくる人々の層がかなり厚くなっています。私のように、外から移り住み「愛着」を持って豊見城市に暮らす皆さん、あるいは若い方々の目に、今の市政運営や市議会の様子はどのように映っているでしょうか。
現職候補のチラシには、4年間で21の議案や人事案が否決されたとありました。たとえ、素晴らしい政策を掲げていたとしても、トップに問われるのは、多様な意見を持つ市民や議会の中で、いかに「共感」を広げていくかだと思います。謙虚で丁寧なコミュニケーションこそ、物事を動かす原動力になります。しかし、現在の市長と市議会の関係性では、それが叶わず、市民が置き去りになっているように思います。昔ながらの上下関係の影響を受けた、地元固有の勢力争いが、豊見城市の発展の阻害要因になってはいないでしょうか。政策に集中した、建設的な対話や議論は行われているでしょうか。否決議案の多さ、市長に対する職員からのパワハラの訴えなどは、豊見城市本来の魅力を損なわせ、発展を阻害していることの表れではないかと考えます。
14歳以下人口全国1位、アジアに開かれた空の玄関口に最も近い、最高に価値のある街が豊見城市です。テクノロジーの進化と、コロナ禍によるリモートワークの促進によって、移り住んでくる方々の中には、企業や組織に捉われない自由な働き方を選ぶ人々の割合も増えつつあると思います。投票率が50%を下回ろうとする中、組織や団体の指示によらない、一人一人の意思や考えを反映できる機会、行き場を失った多様な声をすくい上げる新たな政治のあり方が求められていると考えます。外の目を持ち、豊見城市に最大の愛着を持つ私自身が、その受け皿になりたいと考えています。
かつて、米国で学んだ豊富な経験と知識をもとに、日本の開国や近代化に大きく貢献した「ジョン万次郎」という人物がいました。アメリカから鎖国中の日本へ帰国する途中、沖縄に滞在し、ここ豊見城でも半年間、滞在したことで知られていますが、日本はその万次郎が、外の目を持ちながら、出来うる仕事に真摯に取り組んだからこそ、新たな道を拓くきっかけをつかんだのだと思います。
今の豊見城にとって、正に必要な要素ではないかと考えます。私は、令和のジョン万次郎となり、外からの適切な情報と地元愛をおり混ぜながら、多様な個性ある子どもが等しく自分の可能性を感じられる街、自分らしい働き方を模索する人々にも選ばれる街を目指して、豊見城市の価値最大化に、取り組んでいきたいと思います。
9月15日 | 完全無所属での立候補を表明 |
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9月29日 | 政策発表会を開催いたしました |
10月2日 | 豊見城市長選挙 立候補届出をおこないました |