正直者が馬鹿をみる社会を  
放置せず  

承継に耐えうる  
次代をつくる‼️  


市政における職権濫用を  
放置せず  

市民不在の私物化を  
許さない‼️  
自分にとって一番大切な事のために票する

プロフィール

辻内 たけはる (ウチナームークー)
誕生日:1980年2月29日(42歳)
出身地:東京都東村山市
神奈川大学卒(工学部経営工学科)
NPO理事、会社代表、防災士、宅建士、ファイナンシャルプランナー
【経歴】
14年前に沖縄へ移住。
不動産建設会社、税理士事務所での勤務後、個人事業主として独立、その後、経営コンサルティング会社を立ち上げ、県内外の流通、IT、地域商社、観光関連企業等の経営支援の傍ら、沖縄で働く・学ぶ外国人の教育、国際交流事業を行うNPOの理事を務める。

【その他の活動】
日本防災士会沖縄県支部 会員
那覇市倫理法人会 会長(2017)
NAHAマラソン・沖縄マラソンにて伴走ボランティア

人となり、活動

防災士活動
「災害弱者」と呼ばれる乳幼児や高齢者、食物アレルギーがある人への防災備蓄食に関する課題解決から始まった私の防災Life。地域毎に必要な、平常時の防災意識啓発のため、自助・共助活動の訓練へ積極的に参加、連携を深めています。
 
フルマラソンの伴走ボランティ
伴走者として走った各マラソン大会は、私の人生でかけがえの無い1日となっています。相手を想う、相手に合わせるという動作を繰り返す事で、自我が消える瞬間を経験します。人と人とが、目線を合わせ連携すれば、より大きなチャレンジができると確信します。
国際交流ボランティア
沖縄で暮らす・働く外国人の支援、教育、交流事業を行うNPOの理事として、「多文化理解」や「持続可能な社会をつくるための教育、生活のしかた、人権や男女の平等、平和や暴力を使わないことなどを理解できる教育」をすすめています。(沖繩SDGsパートナー)
経営団体活動を通し人間力の研鑽
生活・組織運営・経営に必要な、考え方×熱意×能力を磨くため、日々研修や新聞、読書を通し研鑽を続けています。動機は善か?私心は無いか?と自省を繰り返し、目まぐるしく変わる社会情勢の中、適切な情報を取捨選択してまいります。家族・夫婦のより良い関係性が、暮らしの土台になると考えております。

旧来型の政党間闘争からの脱却を目指し、「完全無所属」として市政刷新が必要と判断‼️


<政策発表会見で説明した内容は、下記よりご確認いただけます>

政 策

自己紹介、志



  • はじめまして、辻内たけはると申します。

    私は、一市民であり、父親であり、ビジネスマンである一般的な42歳です。東京の出身ですが、妻はウチナーンチュ、豊見城に生まれ育った「トミグスクンチュ」で、わたしは正真正銘の「ウチナームークー」です。4歳の息子もこの地で産まれ、子育てしながら仕事をし、豊見城はわたしの第2の故郷(ふるさと)になりました。それでも、内地出身のものが、突然、豊見城市の市長選挙に出馬を表明したということで、不思議に思われたという地元の方々も多くいらっしゃるかもしれません。この場を借りて、自己紹介を兼ねて、出馬に至った経緯を伝えさせていただきたいと思います。

    私は、1980年に東京の東村山市で生まれ育ちました。私の実家は、裕福な家庭ではありませんが、両親がコツコツ働いてくれたおかげで、奨学金を借りながら大学へ通い、卒業後東京で就職、社会人生活をスタートさせました。その後、今から14年前の2008年に沖縄に移り住み、不動産会社や税理士事務所などで働き、2016年に個人事業主として独立、2018年に経営コンサルティング会社を立ち上げました。

    豊見城で仕事や生活をしながら地域団体の活動にも参加し、とみぐすく祭りやハーリー大会、県外と市内の子どもたちの交流イベント、チャリティー活動などに携わってきました。先輩、後輩思いの地元の方々が本当に温かく受け入れてくださり、皆さんとのご縁は、本土から移り住んできた私にとって、何ものにも変えがたい財産となりました。地元の方々と過ごした時間を通して、大好きな豊見城に深く根をおろし、もっと地域に貢献できるようになりたい!そう真剣に考えるようになりました。

    仕事の面では、様々な職種、業種の企業経営、個人経営の実情に触れる中で、沖縄経済の歴史的、構造的な問題が、県民の暮らしに大きな影響を及ぼしていることについて理解を深めてまいりました。わたしの第2の「地元」になった豊見城市の現状を考えながら、地域の人々の暮らしをよりよくできる「政策」がもっとあるのではないかと、「政治の場」を強く意識し始めたのは3年ほど前のことです。それ以来、豊見城市の市政運営に注目し、国内外を歩く中で、自分なりの勉強と経験を重ねてまいりました。

    私が大学4年だった22歳の時に「政治」を志す最初のきっかけがありました。2002年、就職を控えて横浜にある学生寮で暮らしていた時のことです。記憶にある方もいらっしゃるかもしれませんが、ちょうどそのとき、横浜市長選挙に37歳の若さで出馬した中田宏さんが、初当選を果たすという出来事がありました。当時、巷では、「建設官僚の天下り先が、日本最大の市の市長」と言われるような、まだそんな時代でしたので、若い候補者が挑んできたこと自体に、物凄い衝撃を受けました。現職を相手に絶対勝てるわけがないと言われていた選挙でしたが、若き候補者が、2万票差で勝ち抜き、当時365万人の市の市長に就任しました。

    強固な地元の地盤看板には、地縁血縁を土台とした昔ながらの強固な人間関係があります。それでも、「市民益の最大化」を理念に掲げた若く、青臭い市長候補者の訴えが、岩盤を突破していったのです。地域に愛着はあれど、旧来の選挙に対し、長く疎外感を覚えてきた多くの市民が、投票で意思を示した結果ではないかと、純粋に感銘を受けたことを鮮明に覚えています。その後、横浜から、今では当たり前になったゴミの分別回収の仕組みや、クレジットカード払いの公金支払いなど、全国標準となる行政サービスの基盤がつくられていったことに、社会を動かす政治の力を見て、いつか地方政治の場に関われるようになりたいと、考えるようになりました。

    そして、横浜で芽生えた「政治」への関心が、10年余りを経て沖縄で膨らむことになりました。キーパーソンとなったのが、今回、選対本部長を買って出てくださったこちら、とみぐすく出身、とみしろ団地育ち、沖縄水産高校野球部出身の平良尚也さんです。2016年に、ある人の紹介で知り合ったのですが、なんと、あの横浜市長選で若き候補者を擁立した選対本部の中心にいて、経験ゼロから選挙戦を盛り立てていった張本人だったのです。

    そして、その平良さんを紹介してくれたのが、今回後援会長に率先して手を上げてくださった沖縄ワタベウェディング元社長の翁長良晴さんです。翁長さんもまた、平良さんと同じく、高校野球の名指導者・栽弘義監督の門下生で豊見城高校時代の教え子であるという、私にとっては奇跡のような共通点がありました。

    平良さんも翁長さんも、大学に行かずとも、「やればできる」という栽監督の薫陶を胸に上場企業の役員や上場企業子会社の社長、起業などを経験し、全国各地や世界各国を渡り歩いており、私も仕事を通して行動を共にしてきました。お二人が世界の現状を沖縄や地元である豊見城(とみぐすく)に置き換え、社会のあるべき姿をひたすら考え続けていることは、私にとって大きな刺激となり、私自身、沖縄と足元の豊見城(とみぐすく)の課題に向き合う覚悟が鍛えられたと思っています。

    そして、いよいよ「政治の現場」の第一歩として、この度豊見城市長選挙へ立候補をすることを決意しました。なぜ今だったのか。それは、従来の政党間の対立や既存の枠組みの中に、「共感」を見出すことが非常に難しくなった、できなくなったと強く感じたからです。

    豊見城市は、20年前に村から一気に市に昇格しましたが、その後人口が増え続け、新たな土地が生まれ、外から移り住んでくる人々の層がかなり厚くなっています。私のように、外から移り住み「愛着」を持って豊見城市に暮らす皆さん、あるいは若い方々の目に、今の市政運営や市議会の様子はどのように映っているでしょうか。

    現職候補のチラシには、4年間で21の議案や人事案が否決されたとありました。たとえ、素晴らしい政策を掲げていたとしても、トップに問われるのは、多様な意見を持つ市民や議会の中で、いかに「共感」を広げていくかだと思います。謙虚で丁寧なコミュニケーションこそ、物事を動かす原動力になります。しかし、現在の市長と市議会の関係性では、それが叶わず、市民が置き去りになっているように思います。昔ながらの上下関係の影響を受けた、地元固有の勢力争いが、豊見城市の発展の阻害要因になってはいないでしょうか。政策に集中した、建設的な対話や議論は行われているでしょうか。否決議案の多さ、市長に対する職員からのパワハラの訴えなどは、豊見城市本来の魅力を損なわせ、発展を阻害していることの表れではないかと考えます。

    14歳以下人口全国1位、アジアに開かれた空の玄関口に最も近い、最高に価値のある街が豊見城市です。テクノロジーの進化と、コロナ禍によるリモートワークの促進によって、移り住んでくる方々の中には、企業や組織に捉われない自由な働き方を選ぶ人々の割合も増えつつあると思います。投票率が50%を下回ろうとする中、組織や団体の指示によらない、一人一人の意思や考えを反映できる機会、行き場を失った多様な声をすくい上げる新たな政治のあり方が求められていると考えます。外の目を持ち、豊見城市に最大の愛着を持つ私自身が、その受け皿になりたいと考えています。

    かつて、米国で学んだ豊富な経験と知識をもとに、日本の開国や近代化に大きく貢献した「ジョン万次郎」という人物がいました。アメリカから鎖国中の日本へ帰国する途中、沖縄に滞在し、ここ豊見城でも半年間、滞在したことで知られていますが、日本はその万次郎が、外の目を持ちながら、出来うる仕事に真摯に取り組んだからこそ、新たな道を拓くきっかけをつかんだのだと思います。

    今の豊見城にとって、正に必要な要素ではないかと考えます。私は、令和のジョン万次郎となり、外からの適切な情報と地元愛をおり混ぜながら、多様な個性ある子どもが等しく自分の可能性を感じられる街、自分らしい働き方を模索する人々にも選ばれる街を目指して、豊見城市の価値最大化に、取り組んでいきたいと思います。




<政策発表会見で説明した内容は、下記よりご確認いただけます>

候補者 『辻内たけはる』
推薦人紹介

選対本部長(経済政策顧問)

平良尚也(たいらなおや / 1971年生、豊見城団地育ち。とみ小3年時から豊団地やスターディーズで野球を始める) とみしろ小学校・豊見城中学校卒業後、沖縄水産高校無線通信科。同校野球部で栽弘義監督の指導や期待を受けるも病気や故障の連続で挫折。

1990年4月伊藤忠商事系IT企業へ入社。2003年から世界No.1クレジットカード会社VISAアジア太平洋データセンターのアナリスト。2007年に沖縄へ戻り、フォーモストブルーシールで経営戦略室長を務めた。在職中にはブルーシール豊崎出店を記念し、地元スポーツ少年団と野球大会を企画。「ブルーシールカップ」として地域に親しまれるイベントとして長く定着した。その後、42歳でマーケティング関連の上場企業の子会社で名護市経済特区内にある事業会社の社長を2年務め、独立。2015年から県内外の企業の「経営者特命顧問」として活動、デジタル先進国のエストニア(北欧)をはじめ、ケニア、エチオピア、タンザニアのアフリカや、ベトナム、香港、台湾などのアジアで築いた人的ネットワークを生かし戦略的接点開発を担う経営コンサルタントとして国内外を全力で走り込んでいる。顧問企業には、流通業、製造関連企業のほか、アグリテックに関心のある畜産業、司法書士事務所など多岐にわたる。

「通信と移動が距離を超え世界が近接する時代、勃興するアジアに最も近い沖縄の地理的優位性は、無限の可能性に満ちている。かつてジョン万次郎が幽閉され居候した”高安家”のあるこの地元豊見城から、辻内たけはる君と共に沖縄の未来の扉を開きたい」
後援会長(観光政策顧問)

翁長良晴(おながよしはる/1961年那覇市出身)
首里中学校野球部で活躍し、甲子園を目指して豊見城高校に進み、栽弘義監督の指導を受ける。高校卒業後、ハワイに留学。アルバイトを経て83年、ワタベウェディング米国法人に入社。92年、ワタベウェディング本体に転籍し、海外事業部課長としてサイパン支社出店を皮切りに豪州、欧州への進出を手掛け、日本人海外挙式の先駆者となった。2003年には子会社「沖繩ワタベウェディング」を設立、05年同社社長に就任した。その後本社の取締役営業本部長を兼務し、沖縄やアジアにおける新たな挙式サービスの創出、新規市場の開拓に携わった。2013年に退職し独立。現在、那覇市にあるウェディングビジネス関連のベンチャー企業、株式会社バリューブリッジ代表取締役社長、沖繩リゾートウェディング協会シニアアドバイザーを務める。

「ウエディングこそ平和産業。海軍豪公園から望む豊見城市内の景色が、さらに平和で、訪れる人々に幸せを届けられる街並みになるよう、様々な取り組みとアイデアで辻内たけはる君に協力していきたい」

ニュース・活動報告

9月15日 完全無所属での立候補を表明
9月29日 政策発表会を開催いたしました
10月2日 豊見城市長選挙 立候補届出をおこないました

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ブラたけはる(豊見城市内巡り)

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