先ほどから煮込んでいる鍋の蓋が蒸気でカタカタと細かく鳴った。少し蓋をずらすと、ふわりと白い湯気と共に食欲をそそる香りが沸き立ってくる。俺は頬を緩ませながら鍋を覗き込み、中で煮えているロールキャベツを転がすようにスープをかき混ぜた。ロールキャベツに使った残りのキャベツを細かく刻んで冷蔵庫に保存し、ついでに冷えている炭酸水のペットボトルを取り出す。そのまま食器棚からグラスを2つ取り出してダイニングテーブルの上に置いた。
キッチン横のカウンターに置いてある自分の端末に目をやる。今朝ナイダンは帰ってくるのが少し遅くなるかもしれないと言っていて、俺は夕方には家に帰ってこれそうだったので夕飯は作っておくと伝えていた。今日の夕飯はロールキャベツと、帰宅途中に寄ったパン屋で買ったフランスパン、ひよこ豆とブロッコリーのサラダ、あとは昨日の残り物のスープだ。食後のデザートとして冷蔵庫には苺のパックが入っている。
端末の画面をタップしてみても、ナイダンからの新着メッセージは来ていなかった。ちょうど普段夕食をとっている時間だ、ロールキャベツも出来る頃だし、何も連絡がないということはもうすぐ帰ってくるということなのだろう。
俺はパン切りナイフで切ったフランスパン、バターとオリーブオイル、サラダやドレッシングなど必要なものをテーブルに並べた。キッチンの作業台の上にロールキャベツ用の深皿を置く。くつくつと煮える鍋の横に置かれたキッチンタイマーはあと数分を示していた。
ガチャリ、と玄関のドアが音を立てた。ノブが少し回されて鍵が引っかかり、途中で止まる。コンコン、とノックの音がした。
「待つネ、ナイダン!今開けるヨ」
タオルで手を拭き、玄関の方に急いで向かう。帰宅した時の癖で、つい鍵を閉めてしまっていた。
玄関のドアの鍵を回して、ドアを開ける。
「おかえりネ、ナイダン」
「───劉」
目の前にナイダンが立っていた。俺は微笑んで、ナイダンが部屋に入りやすいようにドアを押さえたまま身体をずらした。
「? どしたヨ、ナイダン?」
「……」
ナイダンは少しだけ躊躇したように身体を強ばらせて固まっていた。声を掛けると、ハッとしたようにこちらに足を踏み入れる。俺がドアから手を離すと、ナイダンは靴を脱ぎながら後ろ手でドアを閉め、鍵をかけた。
「…ただいま」
「おかえりネ、ナイダン。なにか」
なにかあったのか、と軽い気持ちで尋ねようとして、次の瞬間ふわりと視界がナイダンのコートでいっぱいになった。倒れ込むようにナイダンが俺を抱き込み、ギュッと抱き締められる。耳元で、劉、と声がした。
「ナイダン、?」
抱き締められたまま、ナイダンの名前を呼ぶ。ナイダンの大きな手が俺の頭の後ろに回り、ナイダンの肩口に押し付けられるようにもう一度ぎゅう、と力がこもった。
ナイダンの手が俺の頭から離れて、それから俺の髪を撫でるようにまた手が添えられる。俺はナイダンの背中に手を回し、ポンポンと幼い子どもをあやすように叩いた。
俺の耳元で小さく響いた俺を呼ぶナイダンの声、それは少しだけ震えていて、寂しさを含んだような頼りない声だった。俺を抱き締めたままのナイダンが、吐息を漏らす。
「どしたネ」
「劉、りう、僕」
「ウン」
「…劉」
ナイダンが俺の名前を呼ぶ。そのまま、俺はしばらくナイダンの暖かい熱に包まれていた。