【黄金の記憶】本山雅志と東福岡~雪の決勝でなぜ彼らは、伝説の“3冠”を達成できたのか

カテゴリ:Jリーグ

川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)

2020年05月07日

笑顔の陰で本山は、深刻な持病と戦っていた

しなやかに、優雅にピッチを舞った芸術家。その圧倒的な技巧で、全国のサッカー少年たちを虜にした。(C)SOCCER DIGEST

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 高校時代、本山には志波先生と並ぶ恩師がいた。かつて八幡製鉄サッカー部で監督を務め、全国有数の強豪に鍛え上げた人物、寺西忠成さんだ。この時、60代後半。すでに第一線の指導から退き、週に1~2回だけやってきては、東福岡の選手たちに極意を伝授していた。
 
 とりわけ本山は、才能に惚れ込まれたのか、つねに傍に置かれて指導を受けたという。八幡製鉄サッカー部は北九州市を本拠地とし、九州サッカーの礎を築いた伝説のチーム。北九州がサッカーどころなのもそこに起源があり、寺西さんは自身も暮らす北九州の出身である本山を、ことのほか気にかけていたのだ。本人も心酔しきっていたと語る。
 
「すんごい細かい局面の話とか、なにを質問してもすぐに明確な答をしてくれるんです。1ボランチなら1対2になった時にどうやって守るか、どうやって遅らせるか。個と個の駆け引きのところとかもたくさん教えてもらった。誰かが、寺西さんに『パスが通らない』って言ったんですよ。したら、『パスなんてボール1個あれば通るんだよ』と言って、ふたつのコーンのすごい狭い間をこれでもかってくらい通す練習をさせられた。シンプルだけど、確実に身に付く練習でしたね。

 寺西さんは車で北九州を往復してたんですよ。で、いつも助手席に座らされるのが僕で、理由は『寝ちゃうから話し相手になってくれ』(笑)。そこでもサッカーの話ばっかりしてましたね。タメになる話ばっかり。寺西さんとの出会いは途轍もなくデカかったんです」
 
 九州サッカー界のレジェンドは1999年1月14日、東福岡の選手権連覇を見届け、他界した。享年72。

 
 選手権で一躍脚光を浴びた東福岡だったが、本山の2年時は受難のシーズンを送る。主軸だった3年生が抜けた穴は想像以上に大きく、守備の要である3年生の古賀正紘は、アンダー世代の代表の活動で留守がちだった。そしてなにより、本山自身が厄介な持病を発症してしまう。プロになってからも彼を悩ませ続けた、椎間板ヘルニアである。
 
「試合に出るメンバーは3年生が少なくて、どちらかというと1、2年生が主体。でも飛び抜けて守備面で頼り切ってた古賀さんが代表で忙しくて、なかなかチームとしてまとまっていけなかったんですよね。インターハイは予選で負けて、全日本ユースは準優勝したんだけど、決勝で鹿実(鹿児島実)にボロ負け(1-5)。そして僕は国体で腰を傷めてしまった。選手権も県で負けてしまって、なにも残せないまま終わった1年でしたね」
 
 新チームが発足してからも、本山は部分合流しか果たせないでいた。ようやく新人戦の途中から出場できるようになったが、高校サッカーでよくある1日・3試合などのハードメニューはもはやこなせず、春のフェスティバルでも1日・1試合の限定起用が続いた。
 
「当時はまだ内視鏡手術とか技術が進歩してなかったんで、ヘルニアを治すには開腹手術しかなかった。それは嫌だったんで、だましだましのまま1年を過ごしました」
 
 栄光に彩られる3冠ストーリーにあって、本山は笑顔の陰で深刻な持病と戦っていたのだ。
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