意外に思われるかもしれませんが、SONYと白虎隊は無関係ではないのです。SONYの創業者といえば、盛田昭夫(もりたあきお)さんと井深大(いぶかまさる)さんですが、井深大さんが白虎隊と関係があるのです。
もちろん、井深大さんが白虎隊士だったわけではありません。会津戦争のときは、まだ井深大さんは生まれていませんしw(井深大さんは明治41年生まれ)
井深大さんの血縁関係の人物こそ白虎隊で、しかも会津の飯盛山(いいもりやま)で自刃した19人のメンバーに入っているです。しかも二人。
一人は井深茂太郎(いぶか・しげたろう)、もう一人は石山虎之助(いしやま・とらのすけ)。
井深茂太郎は、学問に優れて、しかも勇気があったようです。会津に湯川というところがありまして、その湯川の近くにお地蔵様をまつった辻堂(※1)があったようです。深夜にこの辻堂にいけば、何かふしぎな事が起きるというので、だれも近づきませんでした。あるとき茂太郎は深夜にひとりその堂へ行き、立ったりしゃがんだりして、あとはお堂の周りをウロウロと回ってみたそうです。
そんな事をしているうちに夜が明けましたが、ついぞ何も起こりませんでした。のちに茂太郎がこう言ったそうです。
「世の中にバケモノだとというものは、いるはずがない。ただ臆病な人たちが勝手に心の中で思うものだから、見えていないものまでも見えるようになるだけだ」と。
石山虎之助は井深家から石山家に養子にいったそうです。石山虎之助は温厚、で冷静沈着(※2)、さらに勇気もあったそうです。
しかも虎之助は記憶力がよかったそうです。なんでも5,6才のころには百人一首をすべて暗誦できたそうです。 すごいですね!
けれど、この二人が飯盛山で自刃してしまうとは、とても悲しいです・・・
井深茂太郎は16才、石山虎之助は17才の若さです。
飯盛山では白虎隊の19人が悲しい最後を遂げましたし、会津は新政府軍との戦いで敗れてしまいました。けれど、会津魂はのちの世になってもなくなりません。井深大さんは、祖父から会津魂をたたきこまれ、人間形成の基礎を築いたといわれています。
※1 道ばたに建っている仏堂。
※2 冷静で落ち着いているさま。

井深大 自由闊達にして愉快なる―私の履歴書 (日経ビジネス人文庫) [文庫]
もちろん、井深大さんが白虎隊士だったわけではありません。会津戦争のときは、まだ井深大さんは生まれていませんしw(井深大さんは明治41年生まれ)
井深大さんの血縁関係の人物こそ白虎隊で、しかも会津の飯盛山(いいもりやま)で自刃した19人のメンバーに入っているです。しかも二人。
一人は井深茂太郎(いぶか・しげたろう)、もう一人は石山虎之助(いしやま・とらのすけ)。
井深茂太郎は、学問に優れて、しかも勇気があったようです。会津に湯川というところがありまして、その湯川の近くにお地蔵様をまつった辻堂(※1)があったようです。深夜にこの辻堂にいけば、何かふしぎな事が起きるというので、だれも近づきませんでした。あるとき茂太郎は深夜にひとりその堂へ行き、立ったりしゃがんだりして、あとはお堂の周りをウロウロと回ってみたそうです。
そんな事をしているうちに夜が明けましたが、ついぞ何も起こりませんでした。のちに茂太郎がこう言ったそうです。
「世の中にバケモノだとというものは、いるはずがない。ただ臆病な人たちが勝手に心の中で思うものだから、見えていないものまでも見えるようになるだけだ」と。
石山虎之助は井深家から石山家に養子にいったそうです。石山虎之助は温厚、で冷静沈着(※2)、さらに勇気もあったそうです。
しかも虎之助は記憶力がよかったそうです。なんでも5,6才のころには百人一首をすべて暗誦できたそうです。 すごいですね!
けれど、この二人が飯盛山で自刃してしまうとは、とても悲しいです・・・
井深茂太郎は16才、石山虎之助は17才の若さです。
飯盛山では白虎隊の19人が悲しい最後を遂げましたし、会津は新政府軍との戦いで敗れてしまいました。けれど、会津魂はのちの世になってもなくなりません。井深大さんは、祖父から会津魂をたたきこまれ、人間形成の基礎を築いたといわれています。
※1 道ばたに建っている仏堂。
※2 冷静で落ち着いているさま。
井深大 自由闊達にして愉快なる―私の履歴書 (日経ビジネス人文庫) [文庫]
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