米朝首脳会談は各論としては「北の非核化」と「アメリカによる北の体制保障」の取引だが、より本質的には「朝鮮戦争を終わらせる」ことにテーマがある。
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「朝鮮戦争が終わる」ということは、本来、日本の安全保障政策、近隣諸国外交について、根底から捉え直し、構想を新たにすることを要求する。
◆確認事項(時系列)
戦後日本の国際社会への復帰、自衛隊の前身の創設、平時における米軍駐留という基本線は、朝鮮戦争の最中に進められた。
1947年 日本国憲法施行(戦力不保持)
1950年 朝鮮戦争はじまる
1950年 警察予備隊創設(1952年保安隊、1954年自衛隊)
1951年 サンフランシスコ平和条約締結。
同日に、日米安保条約締結
1953年 朝鮮戦争休戦
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(動く朝鮮半島)
朝鮮戦争、苦難の歩み
休戦から65年
来月、米朝会談
朝日新聞 2018年5月23日05時00分
https://digital.asahi.com/articles/DA3S13506299.html
6月12日に予定される米朝首脳会談では、朝鮮戦争で戦火を交えた米朝のトップが初めて顔を合わせる。東西冷戦で生まれた分断国家のうち、ベトナムとドイツは統一を果たし、南北朝鮮のみが残った。休戦から65年近くという長い分断の歴史に、終止符を打てるのか。大国の対立の渦に巻き込まれ続け、多くの悲劇に見舞われた朝鮮半島の歩みを振り返る。
■分断 38度線で分割管理、米提案
昭和天皇の1945年8月15日の玉音放送は、日本にとっては平和の始まりだったが、朝鮮半島にとってはさらなる動乱の幕開けだった。
米軍には、日本の植民地だった朝鮮を独立させること以外、具体的なプランは白紙だった。
だが、急を要した。自由主義と共産主義。戦後の世界を二分する争いは始まっていた。8月8日にソ連が日本に宣戦し、朝鮮半島を南下しつつあった。米国は北緯38度線を境にソ連が北、米国が南という分割管理を提案。ソ連が受け入れた。
38度線に大した根拠はなかった。分割案の作成を命じられた米軍将校は半島の地図を広げ、真ん中にくびれを見つけた。38度線だった。(デビッド・ハルバースタム「ザ・フィフティーズ」)
半島の南では、米国が後ろ盾となって李承晩(イスンマン)大統領を中心とする大韓民国(韓国)が生まれた。北ではソ連の支援を受け、金日成(キムイルソン)が中心となって朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を樹立した。
48年、分断国家の並立が決まった。当時、米国の世界戦略での朝鮮半島の位置づけは小さかった。関心事は、分断国家となりベルリン封鎖で緊迫するドイツの行く末だった。
アジアでは、中国共産党が49年に中華人民共和国を樹立。国民党政権に長年肩入れしていた米外交の失敗は歴然としていた。
50年1月、アチソン国務長官はアジアに関する演説を行う。「西太平洋における米国の防衛線はアリューシャン列島、日本、沖縄、フィリピンを結ぶ線だ」。そこでは韓国と台湾が除外されていた。韓国防衛に米国は消極的だと、内外に表明したようなものだった。(神谷不二「朝鮮戦争」)
金日成は武力による朝鮮の統一を目指し、極秘にソ連のスターリン、中国の毛沢東の両最高指導者を訪ね、南側への侵攻の同意を取り付けた。米国は介入してこないだろうと踏んだのである。
50年6月25日未明、北朝鮮軍は38度線沿いに一斉に攻撃を開始した。ソ連製の最新鋭戦車も投入された。米軍は前年にすでに撤兵し、韓国軍には侵攻に対処する備えはなかった。
■開戦 米中参戦、焦土と化す半島
不意打ちをくらったトルーマン米大統領は、こう記した。「共産主義はヒトラーや日本とまさに同じことをやっている」(「トルーマン回顧録」)
世界でドミノ倒しのように共産陣営の侵略が広がることを恐れたトルーマンは6月27日、朝鮮半島への米軍の派遣を命じる。
国連安全保障理事会では、中国の国連代表権をめぐってソ連が審議をボイコットしていた。ソ連の拒否権行使がないまま、米国による朝鮮半島への軍事措置は承認された。北朝鮮と戦う米国中心の16カ国が「国連軍」のお墨付きを得た。
南北の勢力図は、細長い半島に何度もローラーをかけるように塗り変わった。開戦から3日でソウルが陥落。北朝鮮軍は進撃を続け、米韓両軍は8月、南端の釜山周辺に包囲された。
戦局を逆転させたのは、日本占領軍トップの米国のマッカーサー元帥。9月、ソウルに近い仁川に上陸し、南進する北朝鮮軍を後ろから挟み撃ちにした。勢いに乗り、38度線を越えて北へ進撃。10月下旬には中朝国境に迫った。
そこで中国の人民義勇軍が鴨緑江を越えて進軍。毛沢東主席は指示した。「出兵しなければ、敵は鴨緑江周辺まで制圧し、われわれは各方面で不利になる」(朱建栄「毛沢東の朝鮮戦争」)
半島北部の冬は厳しい。米軍は酷寒と中国軍の猛攻に苦しんだ。マッカーサー元帥は原爆投下を大統領に進言し、司令官を更迭された。
戦線は38度線周辺で止まった。52年11月、戦争終結が公約のアイゼンハワーが米大統領に当選。53年3月にスターリンが病死し、潮目が変わった。7月に南北朝鮮と国連軍、中国の4者は停戦に合意し、国連軍を代表する米国と北朝鮮、中国の3者が休戦協定を結んだ。不満の残る韓国は署名しなかったが、協定実施は拒まないと約束した。
朝鮮戦争は、欧州の冷戦をグローバルな軍事対立に広げ、長く続く米中対立の構図もつくり出した。一方で日本の国際社会への復帰を早め、戦争特需が経済復興を助けた。戦後のアジアを形づくる戦争だった。
■休戦 東西の対立、挫折する和平
朝鮮戦争を終わらせるため、休戦協定を平和協定に換える。その試みは、挫折の歴史をたどる。
54年4月から約2カ月間、スイスのジュネーブで国連軍15カ国と韓国、中国、北朝鮮、ソ連が会談し、平和協定について話し合った。
6月11日。中国の周恩来外相が国連軍を非難する。「討議打ち切りの計画に断固反対する。米代表は朝鮮問題ばかりでなく、インドシナの平和問題も妨害したいのだ」
会談は、戦争終結後の朝鮮半島に統一国家をつくる際の選挙のあり方をめぐって紛糾した。国連軍側は国連による監視を、中朝ソ側は中立国の監視を主張。軍を撤退させる手順でも双方譲らず、国連軍側は討議打ち切りを模索していた。
インドシナとは、のちに冷戦が「熱戦」となるベトナム戦争の舞台だ。東西対立の構造のなかで、ジュネーブの議論は決裂した。
「戦争状態」のままの朝鮮半島では、その後も軍事的な衝突が相次いだ。
しかし、やがて世界史的な出来事が半島を揺らす。89年、ベルリンの壁が崩壊。冷戦の終結だ。雪解けの流れをうまく利用したのが韓国だった。
90年5月31日。韓国は初の韓ソ首脳会談を開くと突然発表。4日後には米サンフランシスコで、盧泰愚(ノテウ)韓国大統領がゴルバチョフ・ソ連大統領と向き合い、国交樹立で原則合意した。
韓国は92年、中国とも国交を結ぶ。ソ連と中国は朝鮮戦争の休戦後も、北朝鮮を軍事的にも経済的にも支えてきた。北朝鮮にとってみれば、後ろ盾が突然、「敵」と手を組んだと映ったはずだ。
残る北朝鮮が米国や、米国と同盟関係の日本と国交を結ぶことができれば、休戦協定を平和協定に換える環境が整い、冷戦構造がなくなる――。しかし、歴史の歯車はそのように回らなかった。
孤立を深めた北朝鮮は、核とミサイルの開発を加速する。核開発をめぐる多国間協議が行われ、その度に平和体制についての文言が合意に盛り込まれた。
だが、合意は破られた。
■転換 非核化、平和協定の道筋は
平和協定をめぐる合意と破綻(はたん)の悪循環を、今度は断ち切ることができるのか。
文在寅(ムンジェイン)韓国大統領と金正恩(キムジョンウン)朝鮮労働党委員長は、4月27日の首脳会談で板門店宣言に合意した。そこで、「今年に終戦を宣言し、休戦協定を平和協定に転換」するとうたった。
宣言は、平和協定に道筋をつける具体的な枠組みにも触れた。「南・北・米3者または南・北・米・中4者会談の開催を積極的に推進していく」
この「3者」会談にかかわる動きが南北首脳会談の翌日にあった。米朝首脳会談の開催地をめぐるやりとりだ。文氏はトランプ米大統領との電話会談で、米朝首脳会談を板門店で開くように勧めた。米韓朝による3者会談も併せて開き、平和体制も話し合いたいという狙いがあったようだ。
「4者」の思惑も動き始めた。文氏は今月4日、中国の習近平(シーチンピン)国家主席と電話会談。両氏は平和協定について協力することで一致する。
その後、習氏は7、8日、中国・大連で正恩氏とも会談。「中国は地域の安定を実現するため積極的な役割を果たしたい」と述べた。平和協定に中国も積極的に関わるとの強い意思表示だった。
ただ、朝鮮戦争を終結させて平和協定を導くには、関係国が北朝鮮の核問題を解く必要がある。
トランプ政権は来月の米朝首脳会談で、北朝鮮が「完全」かつ「検証可能」で「不可逆的」な非核化に応じれば、見返りに北朝鮮の体制保証を考えている。平和協定につながる道筋でもある。
ただ、和平の手続きをめぐり、在韓米軍を警戒する中国がその撤退を求めれば、関係国がかかわる「方程式」は複雑になる。北朝鮮の核問題をめぐる6者協議にかかわった日本と北朝鮮の間には、日本人拉致問題が未解決で残っている。ロシアも朝鮮半島への関与をうかがう。この半島が大国の角逐の舞台という構図は、朝鮮戦争の当時から変わっていない。
軍事境界線上にある板門店では、今も水色の国連軍の旗がはためいている。降ろされる日は、いつ訪れるのだろうか。
◇この特集記事は三浦俊章、牧野愛博、平井良和、グラフィックは田中和が担当しました。