渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

ブッシュクラフトな千葉真一

2020年09月23日 | open



播州浅野家の赤穂城明け渡しの下知が
下り、幕府と一戦まみえんやもと赤穂城
に集まる浪人たち。

その中にかつて下僕を手討ちにして
主君の勘気により追放になった不破
数右衛門(千葉真一)の姿があった。
ジャパニーズトラディショナルオーブン
を掲げている。



日本の鍋は世界一古い。
縄文土器は現在のところ人類最古の
土器だからだ。
そして、鉄鍋は平安時代末期から
広く使われ始め、鎌倉期には庶民
にも普及した。
そうした鍋は囲炉裏鍋、このダッチ
オーブンならぬジャパニーズオーブン
だ。


城そばの野外で煮炊きをして野外食
を取るブックラな千葉ちゃん。
時代は元禄14年(1701年)だ。
劇画の世界では、翌年、拝一刀が死んだ。
私的なとこでは、うちのTという者が2年
前の元禄12年(1699年)に芸州浅野家
三原城内屋敷にて死んでいる。


草粥のようだ。


美味そうだ。


囲炉裏や火鉢ではなく、完璧にその場
で石竈を積んでの野外飯。ブックラだ。


まあ、基本的に武士のイクサ行軍は
すべてキャンプ&ブッシュクラフト
だ。
そして、武士は自分で炊事煮炊きが
できなければならない。男であろう
と。
「男子厨房に立たず」などというの
は明治以降の九州地区等限定の偏波
視野狭窄でしかない。
九州とて、黒田御家中や細川殿の
御家中等々、九州武士は己で煮炊き
だろうがなんでもできた事だろう。
でなくばイクサの軍陣に馳せ参じる
ことなどできない。武闘だけが武士の
資質ではない。自立せぬ武士など要ら
ぬのだ。自分の腹を切るのも自分で
ある。
こうした武士の訓は劇画『子連れ狼』
にも出てくる。
女、子供のいないイクサ場では誰が
飯をかしぐぞ、と柳生烈堂が幕府毒見
役の阿部頼母に言う。
「お主は武士でないから分かるまい」
とも。
男が米を研ぐことに驚いていた阿部は

炊事をする烈堂と拝一刀に更に驚愕する。
そして、この映画『赤穂城断絶』(1978)
では、ラストに大石内蔵助(萬屋錦之介)
が最期の切腹の時に幕閣を前に言上する。
「身分の上下の隔てなく、武士は武士に
御座りまする」と。



尾羽打ち枯らしても、武士は武士。
「武士は食わねど」ではない。
「腹が減ってはイクサができぬ」なのだ。
武士は食う。自分で煮炊きしてでも。

キャンプは基本的に自分で何でもやる。

私は人々の精神的および実務的な自立性
と創造力を育成する上に
おいて、最近の
キャンプ流行りは素晴らしい
気風が日本
に蔓延してきたと思っている。

ゆえに、金を出して何でもスタッフに
揃えさせて高級ホテルリゾートの野外版
である
グランピングなるものを私は全否定
する
のだ。あれはキャンプではない。
キャンプ気分でもない。別物だ。
かような野外活動の仕儀があるものか。
キャンプは元々野外活動をすることに
よって自立と創意工夫の思考力と協調性
と自然環境への理解と自然への適応力を
養う「教育」と
して各国で取り組まれて
きた。

それゆえ学校教育にも導入されている
のだ。
グランピングはそうした意義をすべて
踏み潰す。金さえ出せば、金持ちなら
ば、というレジャーだからだ。

キャンプってね、ちょっぴり武士の
在り方に通ずるものがあるのよ。


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