最終更新: izon_matome 2009年09月03日(木) 20:16:28履歴
作者:wkz◆5bXzwvtu.E氏
手で触れそうなほどとろりとした藤色の光がフローリングの
床を浸していた。夜明け前、それも夏の朝の夜明け前だけに見
られる、湖の水面のような朝の光。
まだ蝉の鳴き始める前、夜明けの空気の中を、夏の日の予告
編が遠く響いている。壁に掛かったデジタルの時計はまだ4時
でしかない。暖かい布団に首まで入って、うっすらと目を開け
る。まるでお風呂に入って居るみたいに、お尻のそこから背筋
を、ひたひたと幸せがぬくもりを持って覆ってくる。
頬の下には、わたしのそれよりもずっと太い腕。自然に頬が
緩んでしまう。少しだけ身じろぎ。背中に杜守(ともり)さん
のぬくもりを感じて、甘えるように身体をすり寄せて、居心地
の良い体勢を作り出す。
あんまり体重を掛けちゃわないように、杜守さんの腕を頬の
下に感じて、思わずもらす吐息のような笑みをこぼしながら頬
ずりをする。杜守さんだ~。なんて脳内ではリフレイン。寝起
きのIQが下がった脳みそは、たやすく幸せに蕩けてしまう。
だって、杜守さんのベッドにお邪魔するなんて、週に一回も
ないイベントなのだ。わたしがこんなに嬉しくなっても仕方な
い。
なんて考えているわたし杜守さんの腕枕じゃない方が触れる。
髪の間に杜守さんの長い指先が探るように潜って、そのまま
手櫛のように流れてゆく。わたしは突然の感触に、思わず自分
を抱え込むように緊張してしまう。だって、それはあんまりに
も親密で甘やかな感触。不意打ちで受けるには、色っぽすぎる
気持ちよさだったのだ。
「おはよ、眞埜(まの)さん。早いね」
パニックになりかけて凍り付きそうなわたしの後頭部から、
杜守さんは低い声で声を掛けてくれる。
夜が明けきる前の杜守さんのベッドの中。わたしは杜守さん
が起きているなんて全然思ってなかったので、慌ててしまって
口の中でごにょごにょと返事をするしか出来ない。恥ずかしい
~。頬が染まる。杜守さんが寝ていると思って、子供みたいに
甘えてしまった。ううう、格好悪い。わたしはごまかすために、
じりじりとベッドの端っこの方に逃げてゆく。
でも、杜守さんはそんなわたしの腰をぐいっと抱き寄せちゃっ
たりして。杜守さんの腕の中にすっぽりと抱え込まれてしまう。
「逃げよーとした」
「してない、してません……」
「ほんと?」
わたしは、上手に答えることも出来ずに、こくこくと頷く。
杜守さんの体温はわたしよりわずかに高くて、抱え込まれると、
いつもよりテンポの上がったわたしの心臓の音さえも、その熱
に煽られているのが判る。全身を巡る血流は、なんだかわたし
を、焦るような、怖いような、でもちょっぴり嬉しいような、
そんな居ても立っても居られないような気分にさせる。
逃げ出したいのに、ちっとも動く気分になれない。麻薬的に
手遅れで、膝が笑っちゃうほど甘美なパニック。それが杜守さ
んの腕の中の感触なのだ。
わたしは、ちょっと俯くように身を固くする。けれど、その
わたしの身体を、杜守さんは布団の中で引き寄せて、髪の毛を
梳くように触ったりして、それだけでわたしはどんどんあがっ
てきてしまう。
……白状すると、朝からえっちな気分にもなってしまってい
る。最近濡れやすくなっているのだ。それについては……それ
は杜守さんの責任だって大きいと思うのだけど、とてもそんな
責任追及出来ないわたしは、背中に杜守さんを感じながら、あぅ
あぅと云うくらいしか出来ない。
しばらくそうして髪を撫でられていたわたしは、やがて気が
つく。
「……杜守さん?」
「ほい?」
「もしかして、寝てないですか?」
そうだ、わたしがうっすらと目が覚めた時に起きていたのだ
とすれば、4時間も寝てないのではないか。考えてみると、わ
たしは杜守さんの寝姿をあまり見たことがない気がする。――
いや、違う。あまり、じゃなくて一度も見たことがないではな
いか。
「ちゃんと寝たよ。気にしちゃ、ダメダメ」
「だめですよ、ちゃんと寝ないとお仕事大変です……
あ、ふわぁっ!」
わたしの言葉を遮るように、杜守さんの指先がわたしの耳を
くすぐる。な、な、なんてことをするんですか。びっくりした。
衝撃だった。あんな動物的な……えっち臭い声を出しちゃう自
分にびっくりだ。
「むうぅ」
「じゃぁ、こっち向いて」
杜守さんのリクエストで、わたしはごそごそと杜守さんの胸
の中に、顔を埋める。背中から抱きしめられるのも幸せだけど、
こうして自分の腕で杜守さんに抱きつくのも、嬉しい。大きな
杜守さんに抱きつくのは、なんだか「しがみつく」っていうイ
メージだけど、それだけに途轍もなく安心ししてしまうところ
がある。
身長差のあるわたしは、布団に溺れちゃいそうになって、頭
を振る振ると振って掛け布団から出すと、杜守さんの肩に頬を
寄せる。杜守さんはわたしを抱き寄せて、抱き寄せて、ぎゅっ
と抱きしめて。
わたしは怪訝に思う。
杜守さんが、こんな風にわたしを抱きしめるのって、殆ど初
めてじゃないだろうか? わたしは良く判らなくて、ただ杜守
さんに回した腕で、ぽんぽんと背中を叩いたり、撫でたりして
みたけれど。杜守さんは少し寝ぼけているのかも知れない。
「……杜守さん?」
「ん?」
「どうしました? 眠いですか?」
わたしの質問に、杜守さんはしばらく答えないで、髪の毛に
触れている。その触り方は丁寧で、指の間をこぼれてゆく髪の
感触を惜しんでいるみたいだ。やがて杜守さんはわたしをきゅぅ
っと抱き寄せると、勢いを付けるように起き出して微笑んだ。
「実は今週、ちょっと仕事が立て込んでてね。気合いを入れて
いたのだ」
その笑顔は、いつも通りの優しくて頼りがいのある方の表情
だった。居候のわたしとしては心苦しく、何かしてあげたかっ
たのだけど、ダメ女子で、しかも引きこもりとしては出来るこ
とは殆ど何もない。杜守さんの言葉にも、頷くことしか出来な
いのだ。
「そこで眞埜さんを撫でてねー。ちょっとエネルギー補給をね」
なんて冗談めかして笑う杜守さん。
その表情に誘われるように、わたしは殆ど反射的に杜守さん
の頭に手を伸ばす。杜守さんの前髪。わたしのとは違う、男の
人らしい、ちょっと堅めの直毛。その前髪の間に指を差し入れ
て、撫でる。
あれれ。
なんて、自分でも驚いて、照れくさくて、気まずい思いをし
てしまう。何でわたしはこんな事をしているんだろう。杜守さ
んを子供みたいに撫でるなんて。杜守さんはわたしよりも十も
年上なのに。ううう、申し訳ないような言い訳したいような気
持ちになる。だって自分でも何でこんな事をしちゃったのか良
く判らないのだ。
こういう時に、ほとほと自分の察しの悪さというか、頭の悪
さが恨めしい。わたしは挙動不審気味に視線を泳がせながら、
杜守さんに良い子良い子をする。
「これ、応援?」
杜守さんのその問いかけに、うん、多分、はいです。なんて
言い訳をして。でも、実はちょっと違うような気もしていて。
頭の片隅に、昨日の夜寝る前に感じた違和感が横切るのを感じ
る。でもそれは明確な理由として判るわけもなく、ただ横切っ
ただけで。わたしは、ただ、子供みたいに杜守さんをちらちら
と見上げながら、撫でることしか出来なかった。
――八月の後半から九月の頭に掛けて。
杜守さんは予告通り忙しかった。毎日のように遅く帰ってき
て、食事とシャワーもそこそこに部屋にこもって仕事を続ける。
どうやら職場から持ち帰ってくる作業も大いにあるらしく、明
け方までキーを叩く音が聞こえることもあった。
ある晩は会社に泊まったかと思えば、あるときは始発で帰っ
てきて、一日中部屋にこもって、あちこちへと電話をしながら
書類を作っている事もあった。
杜守さんに迷惑だけは掛けまい。
そう思っていたけれど、寂しさは身を切られるようで。杜守
さんにかまってもらえない日々のながれは、まるでコールター
ルじみた粘着性で時計の針さえゆっくりと進むのだった。
杜守さんは、杜守さんの言うところ「籠もって」しまうと、
お茶とカロリーメイトだけで良くなってしまうのだという。食
事をしすぎると、眠くなってしまうなんて云うのだ。わたしは
それでも、身体をこわさないように、下手くそなりに手早く食
べれるような食事を作ろうとした。
お陰でサンドイッチのレパートリーが増えたけれど。
杜守さんの言う「集中力」。
その意味合いがはっきり判ってきたのは、五日ほどたってか
らだった。「必要のない余計な部品は捨てる」なんて言葉では
判っていたけれど、本当に目にしたのは初めてだった。
考えてみれば、お茶とカロリーメイトなんて云う食生活はそ
の前兆だったのだろう。杜守さんは「食事について考える」と
いう部品を一端取り外してしまったのだ。その分シンプルになっ
て身軽さを増した杜守さんはさらに仕事にうちこんだ。
ある日、杜守さんの部屋に差し入れに行くと、クローゼット
の前にはYシャツと下着とネクタイのセットが、五日分並べて
おいてあった。杜守さんは「その日何を着るか」も取り外して
しまったのだろう。歯磨きやシャワーなども最小限になって、
それらはどこか上の空で行なわれているようだった。
仕事をしている杜守さんをそっと観察したことがある。こん
なに忙しいのだからさぞや激しい仕事をしているのかと思って
いたけれど、そんなことはなかった。杜守さんは表情も消えて
どこか仏像めいた超然とした雰囲気で、ただ確実に、ものすご
い速度でキーボードを叩いていた。
喜びも悲しみも無いかのような、ある意味「やる気」さえも
見えない、ただ純粋に入力された情報を高速で処理して結果を
出していくようなその姿勢は、「表情を作る」部品を取り外し
てしまったかのようだった。
わたしはただひたすらに驚いてしまい、でも声を掛けること
も出来ずに、自分のロフトに戻って、丸くなってた。それは、
わたしにとっては少し怖い光景だった。
日に何度か、わずかな時間、杜守さんと話をする。
それは紅茶の差し入れだったり、軽食を届けに行ったりする
タイミングでのことで、わたしはその時間を毎日毎日心待ちに
していた。
杜守さんからかまってもらえない不安感は、まるでお日様を
遠ざけられた植物がそうであるかのように、わたしからエネル
ギーを奪ってゆくから。杜守さんの何気ない仕草で幸福になっ
てしまうわたしは、忠犬のようにその時間を待ち構えていたり
した。
そんなわたしに、杜守さんは「ごめんねー、しばらくの事だ
から、ごろごろしたり遊んだりしててよ」なんて云って笑うの
だった。杜守さんは優しくて、精神的に大人で、おそらく仕事
では相当に煮詰まっているのにわたしの前ではいつも笑ってい
た。
でもそれは、逆にわたしが居るから、わたしと話をするから、
杜守さんが仕事の最中は外しちゃっている「世間的に会話をす
る」とか「面倒くさい女の子に気を遣う」なんていう部品を装
備しなければならない、つまり重くなって集中力を阻害してい
ると云うこともわたしには判ってしまう。
仕事も出来ないダメ女子が、ただ頭を撫でて欲しいなんて言
う自分勝手な欲求で、杜守さんの手を煩わせているのかと思う
と、みっともなくて申し訳なくて、ひどく自己嫌悪したりもした。
わたしがこの家に転がり込んだ、最初の週を思い出す。
冷蔵庫の中はミネラルウォーターとアイス、それにチョコと
お酒、カロリーメイトしか入っていなかった。
杜守さんは、わたしが居ない間、シンプルに生きてこれたの
だ。杜守さんを下界に引きずる降ろしているのは、わたし自身
なんだなぁ、なんて思うと、泣きたい気持ちになる。
時間の流れはゆっくりすぎて、夜が明けて日が暮れるまでに
一週間が丸ごと入るのではないかと思われるほどだった。杜守
さんが仕事で空けている家の中はむやみに広くて。それが落ち
着かないわたしは、自分のロフトに引きこもってその3畳もな
い天井の低い空間の中で、布団に丸くなって時を過ごす事が多
かった。
居間でTVを見てても音楽を聴いてても良いのだけれど、杜
守さんが仕事で疲れ切っているのじゃないかと思うと、胃の中
がぎゅぅっと固くなったような気分になり、遊ぶような気持ち
も無くなってしまう。
有り余る時間に考えるのは、杜守さんのことだった。
ただ、杜守さんのことを考えていた。
もちろん自分の寂しさや心細さ、先行きの無さについても、
それはもう自分でもがっかりするくらい考えたのだけれど、そ
うではなく、ただ杜守さんの事を想ったりもしたのだ。
多分、わたしは生まれて初めてと云っていいくらい「他人」
のことを考えたのだと思う。自分の寂しさを通してではなくて、
「寂しさを紛らわせてくれる誰か」ではなくて、ただ「杜守さ
ん」のことを考えた。
わたしは要領が悪すぎて、それは考え事をする、と言うただ
それだけのことですら手際が悪すぎるのだ。ダメ女子はこれだ
から本当に使えないのだけれど、とても沢山の時間を必要とし
てしまった。
砕け散ってしまったガラスの破片を集めるみたいに、判りきっ
たことの欠片を一つ一つ集めて、ああでもない、こうでもない、
そんな訳がない、あるはずがないという頭の中の言い訳で、迷
路の壁に総当たりをしながら、どうにもならないほどのろのろ
と考えをまとめ上げた。
わたしの右側には、うんざりするほどのネガティブな要素が
積まれている。不細工ではないけれど、あんまり美人とも云え
ない冴えない容貌。めりはりに乏しい、痩せて小さな体型。引
きこもりで高校中退。仕事できない。社交性無し。要領が悪く
て、頭も悪くて、第一印象は「影が薄い娘」。
家出中で、杜守さんの家に転がり込んでいて、杜守さんが居
ないとホームレスになってしまう。根暗で、鬱が激しくて、
ちょっとしたことで不安になって杜守さんに泣きつくことで、
どうにかこうにか落ち着いて過ごせるようになったばかりの、
面倒くさいことこの上ないしょんぼり娘だ。
杜守さんに撫でられたい。杜守さんに甘えたい。杜守さんが
居ないと、本当は一日だって耐えられない。それくらい、杜守
さんに寄りかかっちゃってしまっている、ダメダメ女子。
それがずっと判っていたわたしの姿。
ううう。自分で列挙しているだけで、泥のたまったどぶに片
足を落としてしまったような気分になる。
片や、わたしの左側には、この10日で発見した傲慢で自分
勝手きわまりないわたしがいる。そのわたしを見つけ出して、
認めるのに10日もかかってしまったほど、わたしはそんな気
持ちを無かったことにしようとしていた。
わたしは。
杜守さんが、欲しいのだ。
こんなダメ女子で、杜守さんに支払えるどんな代価もないと
いうのに。わたしは杜守さんに、求められたいと思っているの
だ。
杜守さんは大人で、余裕があって、優しくて、わたしがいや
がることは絶対にしない。無理矢理働け、とか外に出ろ、とか
も云わないし、家事をしているのだって、杜守さんに言われた
からやっているわけではけしてない。えっちだって――前回の
アレをのぞけば、なんだかしないと不自然だから、身体を重ね
ました、みたいな雰囲気だった。
でも、それでは我慢できなくなってしまった。
思えばわたしは誰かを望んだ事なんて一度もなかったように
思う。女の子は、自分の商品価値には敏感なのだ。小学生の頃
から、自分の長所と弱点、そんなものは数値で表示されている
ように分かりきったものとなる。自分が誰かにどれくらい望ん
でもらえるかというのは、非常に残酷で、デジタルに処理され
るものだと、女子は全員知っている。
わたしはわたしの「左側」によって自分の価値が、一山いく
らの粗悪品であると判っていた。だから本当に何かを望んだ事
なんて、無いような気がする。
だけど、やっぱりもう誤魔化せないみたい。
わたしは、杜守さんが欲しい。それは「杜守さんが居ないと
困る」とは全く別の感情で、もっと我が儘で傲慢な想い。
杜守さんに、甘えて欲しいのだ。
杜守さんの役にたって、杜守さんに偉いねって言われて、お
世辞じゃなくて、杜守さんに「居なきゃ困る」って云われたい。
あの人は本当に女の子の相手が慣れているから、気を利かせて
そんな台詞は普通に言ってしまうのは、すごく予想できてしま
う。でも、そうじゃなくて、杜守さんに求められたい。
胸をつくような締め付けられる気持ちで、そう思う。杜守さ
んはいつだって優しくて、でもちょっと諭すような、保護者の
ような表情でわたしを撫でてくれていた。それはわたしの「左
側」、杜守さんが居ないと困ってしまうわたしにとっては都合
が良かった。ううん、都合が良かったからこそ、杜守さんがそ
れを演じてくれていたのだと、今なら判る。杜守さんはそれが
可能なほど、精神的に大人だったのだ。
でも、わたしの「右側」はそれでは満足できなくなっている。
杜守さんが欲しい。全部なんて云わない。ほんのちょっぴりだ
けで良い。わたしが杜守さんを必要とする十分の一でも良いか
ら、杜守さんに必要とされたい。甘えて欲しいのだ。杜守さん
に優しく抱きしめられるのは魂に羽が生えるほど幸せだけど、
ほんのちょっぴりで良いから、杜守さんも我を忘れるほどわた
しに溺れるように、求めて欲しいと思ってしまう。
ううう。
脱線した。頭の中がピンクの妄想で溢れてしまいそうになる。
溺れるとか、求めて、とか。そう言う単語は禁止しておかない
と、思考がぐるぐる回って先へと進まないじゃないですか。
へ、変態めっ。
自分をちょっとしかりつけて、布団の中でもぞもぞと身体の
向きを調える。うわ。裏切り者! パンツがちょっと重くなっ
てる。すぐそう言う気分になるんだからはしたない。
もちろん、その欲求、求めて欲しいなんて云う夢は相当に虫
の良い話で、望みが薄いって事は良く判っている。
世の中にはわたしより可愛い女の人なんて星の数ほども居る
のだ。オトナで、ちゃんとお仕事をしてて、わたしよりスタイ
ルが良くて、化粧なんかも上手で、美人で、明るくて……とに
かく、わたしより優れた部分が、沢山あるような女の人は、きっ
と杜守さんの周りにいると思う。
それを考えると気分がへこんで、布団の中でめそめそして、
鼻を真っ赤にすることもあった。
杜守さんがそんな女の人と知り合いじゃないと思う方がおか
しいのだ。会社にはOLの女の人だっているし、学生時代の旧
友とか、良く判らないけど、取引先の美人なお姉さんとか、い
るに違いない。いや、絶対にいる。
だって杜守さんは女慣れしているのだ。わたしは絶対の確信
を持って断言できる。
だいたい、そうだ。あんまり考えたこともなかったけれど、
杜守さんだってわたしより10近く年上なのだから今まで付き合
った女の人が居ないわけがない。そんなの当たり前だ。あれだ
け仕事も出来るし、何でもそつなくこなす男の人だから、きっ
と高校とか中学時代にすでに彼女を作ってたりしていたに違い
ない。
いつでも余裕があるあの態度は、料理と同じく、場数によっ
て育まれた経験なのだ。
どんな人だったのかな。
高校の後輩とか? ものすごく可愛くて、髪の毛は栗色のふ
わふわで、何でも良く気がつくかいがいしい女子かな。大学に
入ってからは一つ年上の、けだるい感じのそれでもすごく有能
な才女とか。きっと服を脱がしたら、ものすごく綺麗な身体な
のだ。
大きなため息をついて、自分の持ち物を確認してみる。
相も変わらぬ、ひょろりとしたにょろにょろボディだ。食生
活が改善されたせいで、肌には張りと潤いが戻ってきた。色が
白くてすべすべなのは、実は数少ない自慢だ。けれど、そんな
のは十代だったらどんな子でも、健康に暮らしていれば当たり
前に持っているわけで、何のアドバンテージにもならない。
杜守さんがかまってあげた女の子の中でも、一番残念賞スタ
イルなんだろうな、なんて思うとナチュラルにへこむ。
わたしの「左側」の後ろ向きで杜守さんに寄りかかりたい気
持ちと、「右側」の杜守さんを甘えさせたい、杜守さんの役に
立ちたいという気持ちは、わたしの中で衝突して、せめぎ合っ
ている。
バランスなんて、とっても悪いのだけど。
だって物心ついてからずっとダメ女子だったのだ。「左側」
の発言力が強くて、どうしたって恐れ多いというか、罪悪感で
一杯になってしまう。
心の中で思っただけで、本当に申し訳なさでいっぱいになっ
てしまうのだ。わたしみたいなダメ女子がそんな大それた願い
を持ってごめんなさい。いえ、その。自信があるとか、絶対手
に入れるとか、杜守さんにふさわしい女性になるなんて自信は
ちっとも無いんですけれど。わたしは杜守さんが居なきゃだめ
な引きこもりなんですけれど。
よりによって、一番始めに願う宝物が、杜守さんだなんて。
でも。それでも、やっぱり。
幸せって麻薬なのだ(良薬だったっけ?)。その魅力には、
ダメ女子のわたしは、ダメであればあるほど逆らいがたい。
だってわたしの身体には、杜守さんに抱きしめられた感触が
残っているのだもの。腕の外側から大きく締め付けられる、鳥
肌に似た気持ちよさを覚えている。可愛いだなんて、あんなこ
と言われたのは生まれて初めてなのだ。雛鳥だって刷り込まれ
れば懐いてしまうと云うではないか。
その小さいけれど決して消えない願いは、どんなに諦めよう
としても、そんなの無理だと理性が告げても、執拗にわたしの
中で燃え続けた。
わたしは、杜守さんの留守がちな十日間をとおして、ダメ女
子であるばかりか、自分がえっちで変態でその上欲深い贅沢も
のだと云うことも思い知らされてしまった。
長い長い杜守さんの修羅場が終わって、やっと何とか一息付
けたのは、九月の2回目の週末だった。「もーやだ。終わり。
仕事しない」と云って家庭用電話の線まで引っこ抜いた杜守さ
んは連続で10時間も寝て、わたしの作ったおにぎりを食べて、
それからまた昼寝までして、やっと体調が元に戻ったようだっ
た。
かくいうわたしも我慢しきれず、お昼寝はご一緒させてもらっ
てしまった。ううう。10日ぶりの杜守さんですよ? ぬくいの
です。大きいのです。
本当は疲れているのだし、1人で寝かせてあげるべきなのは
判っていたのだけれど、わたしの方も不安な気持ちとか、頭の
中がぐるぐるしてしまっていて、杜守さんが手招きしてくれた
のにまんまと乗っかって一つのタオルケットで昼寝をしてしま
った。
目が覚めたのは夕暮れ時。
やっぱり杜守さんの寝顔はみれなかった。なんだか悔しいし、
ちょっぴり悲しい。でもそのせいで「やっぱり」というように
確信が持てた。多分、おそらくだけど杜守さんは、やっぱりわ
たしに気を許してくれている訳じゃないのだ。
優しくしてくれるし、気を遣ってくれるし――こ、こんなダ
メ女子ですけど? そのぅ「女の子扱い」してくれる。それは、
嬉しい。杜守さんの腕の中で目覚めるのは格別に幸せで、昼寝
の数時間だけで、3日分くらいぐっすり眠ってしまった。
でも、杜守さんにとってはやっぱりわたしはどこか、お客さ
んなのだろう。それはわたしにはどうすることも出来ないけれ
ど、とても寂しい。本当はわたしがもっと自立して、素敵な女
の子で、杜守さんが居なくても生きていければ、こんな寂しさ
に耐えることも出来るのかも知れないけれど、それは無理。杜
守さんは、わたしの中でそれほど大きくなってしまっている。
例の「右側」は杜守さんに甘えたい、甘えたいっ、かまって
欲しいと騒ぎ立てている。でも「左側」は「左側」で杜守さん
の本音の部分が知りたい、出来れば杜守さんもわたしに夢中に
なって欲しいなんて分不相応な願いを繰り返す。
真ん中のわたしは杜守さんの事を好きな気持ちで湧かしすぎ
たお鍋のように沸騰しているし。そんなわたしすべてを、「杜
守さんに迷惑を掛けるのだけは絶対ダメ!!」と細くて頼りな
ーい理性が御している状態だ。
杜守さんは、そんなわたしのぐるぐるに気がついてないわけ
もなかったのだけれど、何も言わないでいてくれた。夕暮れの
部屋の中でもそもそ起き出した2人。
視線を合わせられないわたしは、メールチェックをする杜守
さんの横顔を、こっそりと見つめる。
卑しくて自分勝手な考えだけど、誤魔化すことが出来そうに
もなくて、思い知る。わたしは、杜守さんにも癖になって欲し
いのだ。わたし以外じゃ、ダメになって欲しい。
杜守さんに必要とされたい。
杜守さんみたいな何でも出来る人に必要とされるって、そん
な方法全然判らないけれど。
杜守さんが、さりげなーく。本当にさりげなーく。モスバー
ガーとポテト食べたいな~なんて云う。確かに食べたい。お腹
がきゅるるんなんて音を立てて鳴く。
仕事が一段落した今、ちゃんとした食事を杜守さんに作って
あげなきゃいけない立場なのだけど、もちろんそのつもりで準
備もしてあるのだけれど、昼寝をしちゃったせいですぐに食事
が出る、と言うわけにも行かない状況だった。
「眞埜さん、眞埜さん。久しぶりに買い食いってことで」
杜守さんが、悪戯小僧みたいに笑う。
引きこもりのわたしとしては、外出はちょっと怖いのだけれ
ど、駅前くらいまでなら何とか……。なんて考えて、顔を洗い
に向かう。コンビニに行くくらいなら今までだってやってきた
のだ。幸いもう夕暮れ時だし。
マンションから外に出たわたしたちは、まだ熱気の残る街を
2人で歩く。
青鉄の色に染まってゆく空に、宵の明星が輝いている。手を
つないでみたりなんかしたりしたら、も、もしかしてすごく幸
せかも知れない。なんて考えては見たのだけど、そんなこと自
分から出来るはずもなく、並んでいるような、後を付けている
ような、微妙な角度で歩く杜守さんとわたし。
云うまでもなく、ちょっと後方から追跡しているのがわたし
だ。手をつなぐのはともかく、あのシャツの裾の辺りをちょこ
んとつかんで歩く、位は良いのじゃなかろうか。――なんて考
えてたから、杜守さんの言う言葉を聞き逃してしまった。
「はい? はい」
何を訊ねられたかも判らないで返事をするわたし。杜守さん
は嬉しそうにしているので、まぁいいか、と納得すると、なん
と杜守さんが手を握ってくれるではないか!! ううう、手を
つなぐって想像以上に恥ずかしい。膝の力が抜けてしまう。
世間の人たちはこんな事をやっているのでしょうか?
よく事故も起こさないで歩けますですよ。
なんて自己突っ込み。杜守さんの手は大きくて、本当に大き
くて、わたしはなんだか宝物を渡されたような気分で、ぎゅぅ
っと握ってしまう。杜守さんはちょっと振り返って、駅前の水
銀灯とイルミネーションに逆光になって、ニヤっと人の悪い笑
みを浮かべる。……人の悪い? わたしはそこで気がついて直
後に涙ぐみそうになる。
だ、騙されたっ! はめられましたっ!
杜守さんはにやにや笑うと、わたしが苦手なのを知っていて、
何食わぬ顔でわたしを美容室に連行する。引きこもりが最も恐れ
る場所の一つが美容室だというのにっ!
杜守さんはなんだかすごく手慣れた様子で、こぎれいな女性
の人へ挨拶したりして。知り合いじゃないらしいけれど、何で
そんなに物怖じしないのだろうと悩んでしまうようななめらか
さで、わたしの意見など一切斟酌せずに注文を付けて、代金も
先払いしてしまう。
これだから社会人は~。
わたしは泣きそうな表情で杜守さんに助けてください、お願
いって思ってみるけれど、杜守さんは聞こえていないみたいだ。
当たり前ですよ、そんなの。
「では、どうぞこちらへー」
くすくす笑いをこらえたヘアカットの人がわたしをチェアに
案内する。ううう。杜守さん! 杜守さん!! この落とし前
はきっちり付けますからねっ! なんて鏡の中を睨むと、杜守
さんは例のいじめっ子風の笑顔でにこにこしてる。
ううう。あの表情には、弱いのだ。癖を付けられたのが、えっ
と、その。……えっちの最中なので、あの意地悪そうな、しか
し相当に楽しそうな杜守さんの顔を見ていると、恥ずかしいこ
とに抵抗する気力がすぐに甘く蕩けてしまう。
わたしは俯いて視線をそらして、お姉さんにごにょごにょと
口の中で挨拶をすると、大きくて座り心地の良いチェアに腰を
下ろす。美容室によくあるその大きな椅子はふかふかだけど、
わたしは電気椅子もきっとこんな感触なのだろうな、と絶望的
な気分になる。
だいたい、わたしは引きこもりだし、別に可愛くもなんとも
ないのだ。
髪の毛は毎日洗って綺麗にしてあるけれど、そんなにおしゃ
れじゃなくて、適度な短さで整っていればいいではないか。そ
れなのに杜守さんはこんな高そうな店に飛び込みで押し込んで、
にこにこしてたりして、すごく意地悪だ。
ヘアサロンのお姉さんは、愛想良く何事かをわたしに話しか
けてくれる。そのたびにわたしはパニックに襲われる。昔はさ
ほどでもなかったけれど、半年も引きこもると他人に話しかけ
られるのがすごく怖い。
被害妄想なのかもしれないけれど、こうやってニコニコされ
ると、わたしのことをくすくす笑っているんだという気持ちが
どうしてもぬぐえない。
杜守さんはそんなわたしを見てにこにこしてたけど、途中で
モスバーガーに行って、ちゃっかりテイクアウトを買ってきた
らしい。コーヒーなんかしてくつろいで、鏡越しのわたしの恨
みの視線も飄々と受け流している。
やっと完成したのは1時間以上かかってからだった。
「杜守さんは意地悪ですよ」
はっきりと抗議したつもりだったけれど、やっぱり強く云え
ないわたしは、ごにょごにょと恨み言を呟いてしまう。
「眞埜さん髪綺麗なんだから、もったいないでしょ。軽くなっ
て、似合ってるよ?」
むぅ。そんなお世辞に誤魔化されたりはしないのだ。なんて
思っていても、ちょっとだけ頬が緩む。背中の中程まである髪
は確かに最近重くなっていた。長さは調えるくらいで、ボリュ
ームを減らしてもらったので、すんなりまとまって、ちょっと
清楚なお嬢様風に見える。……もちろん中身はダメ女子のまま
なのだけど、自分でも可愛いかな、と思えていたわたしは杜守
さんの言葉に他愛なく嬉しくなってしまうのだ。
もしかして、わたしは杜守さんに洗脳されつつあるのかも知
れない。
陽が暮れて藍色になった街を2人でマンションに帰る。
帰る場所があるというのは、本当に素敵だ。短かったけれど、
ネットカフェで寝泊まりしてた、どこにも行く場所がない、切
り離されてしまった感覚をわたしは良く覚えている。
もちろんこのマンションは杜守さんの家で、わたしは居候。
でも、杜守さんが「居て良いよ」と云ってくれている間は、わ
たしの住み処なのだ。杜守さんが「ここが眞埜さんの寝床ね」
とロフトを調えてくれた時、わたしは安心感でじわーっと涙が
溢れそうになってしまった。その部屋へ、2人で帰るのは、く
すぐったくて幸せな気分だ。
部屋に帰ると、早速ハンバーガーのテイクアウトを広げる。
杜守さんはチーズバーガーとフライドチキンとポテト四つだっ
た。ポテト四つ。ポテト四つですよ? と言う表情のわたしに、
杜守さんは「いいじゃん。たまに食べたくなるんだよ」と拗ね
たように云う。ちょっと可愛い。
わたしはキッチンへアイスティーを入れに行く。冷蔵庫で冷
やしてあるので、シロップを入れるだけですぐに出来て簡単だ。
戻ってきたわたしは、ちょっとだけ迷ったけれど、ソファに座
る杜守さんの横に腰を下ろした。
2人で食べるハンバーガーは美味しかった。家の中で食べて
いるのだけれど、どこかへお出かけしている気分で楽しい。わ
たしもお腹がすいていたし、一生懸命食べていたのだけれど、
杜守さんはいつにもまして早かった。わたしがハンバーガー一
個食べる間に、ポテト四つまで綺麗に平らげてしまったのだ。
杜守さんは、お腹一杯、と言うようにごちそうさまをすると、
ソファによりかかって、のびのびとしている。杜守さんは、目
を細めて、まぶしそうな少しだけ眠そうな表情で、わたしに話
しかける。
「うん、綺麗になったよ。髪の毛、つやつや」
「杜守さんは、髪の毛好きなのですか?」
いつかの夜明け、撫でてもらった髪を思い出しながらわたし
は訊ねる。杜守さんはその言葉に不意を突かれたように考え込
み、しばらくしてから「うん、云われてみればそうらしい」な
んて答えた。そうかーそうだったんだー。なんて意外そうな声
で呟きながら、わたしの髪の毛を触ってくる。
それはとても嬉しいのだけど、照れくさいわたしは両手でア
イスティのグラスを持って俯いてしまう。氷を入れたグラスが、
ひんやりして気持ちいい。気がついてみれば、指先まで桜色に
染まっている。頬だって茹だっているに違いない。
杜守さんは、わたしの背中を軽く抱き寄せるように、自分の
方へと引き寄せる。わたしの身体が杜守さんにぴとっとくっつ
いて、体温がまた1度ほど上昇する。
「甘えてもらうのが好きなんだよ」
独り言のようにもらした杜守さんの言葉は透明で、なんだか
随分素直に聞こえた。だからわたしも思わず、何の考えも無し
に「寂しいのですね」なんて云ってしまう。
杜守さんの反応が消えて、部屋の中には静寂が訪れる。街の
音も遠いこのマンションの中で、わたしの身体も固まる。やっ
てしまったかな、ううう、まずいことを云ってしまったんだ、
きっと。さっきまで上がっていた体温が一挙に低下する。
心の中でごめんなさいすみませんとパニックになるわたし。
久しぶりの杜守さんとの休日で気が緩んでいたに違いない。
ダメ女子なのに生意気なことを云ってしまった。ご、ご、ご、
ごめんなさいっ。わたしは内心で慌てふためいて、それをどう
にか取り繕おうとするのだけど、突然メンテナンス不良になっ
た身体は錆が浮いた機械のように動いてはくれない。
神経だけが集中して、寄りかかった杜守さんの反応を背中で
探ってしまう。でも、杜守さんが何かに集中しているような気
配がするだけで、それが怖くて仕方ない。
ひどく長く感じたけれど、実際には呼吸五回程度の時間しか
たっていなかったように思う。
「うん、それも本当みたいだ。眞埜さん賢い」
杜守さんは小さく笑うような気配と共に、わたしの髪の毛を
撫でてくれる。その仕草でわたしはほっと一息つくけれど、で
も同時にすごく切ないような気分になるのだ。
甘えられたいって云うのは寂しい気持ちの裏返しだって、わ
たしはこの十日間で思い知っていたけれど、それは杜守さんに
とってもそうなのか、それとも他の理由があってそう言ったの
か、わたしには判らない。そもそも、杜守さんみたいな何でも
出来る男の人の寂しいと、わたしみたいなダメ女子の寂しいが
同じものなのかも判らない。
「要領が良いとね。1人で色々出来ちゃうからねー。人恋しさ
が募るね。……修行が足りないなぁ」
杜守さんの声には少しだけ自嘲するような響きがあって、で
も優しくて、わたしはその声だけで悟る。
杜守さん、やっぱりそれは寂しさですよ。同じものかどうか
は判らないけれど。杜守さんみたいに何でもこなせる人が、な
ぜ寂しくなるのか、わたしには杜守さんの言っている言葉の理
屈は良く判らなかったけれど、その寂しさだけはよく知ってい
るように思えて、反射的に立ち上がると、杜守さんに向き直る。
「あ、あ、あのっ」
なんだか放っておけないような、居ても立っても居られない
気持ちに突き動かされたわたしは必死に声を絞り出す。でも、
話し始めてみたは良いものの、何をしゃべるか考えてなかった
のですぐ言葉に詰まってしまう。
杜守さんがどんな表情をしているのか、気になるけれど、視
線を上げて確認するのは怖いし恥ずかしい。
心臓が鼓動を早める。全身の血が熱くなって、杜守さんしか
見えなくなる。杜守さんが「どうしたの?」って云ってくれて
るけれど、わたしは勝手にわなわなしちゃってる口と、へばり
ついたようになっている舌を無理矢理動かして宣言する。
「と、杜守さん」
俯いたまま上目遣いで杜守さんをちらっと見る。恥ずかしい。
これから自分が何をしようとしているのか、何を言い出すのか、
考えると恥ずかしくて恥ずかしくて逃げ出しそうになる。でも、
もう身体は甘やかな、あの蕩けるような延々とした快感を思い
出して準備を始めてしまっているのだ。
わたしは意を決して、ソファに座った杜守さんに近寄る。
杜守さんの膝の上。いままでそんなはしたないことを自分か
らしたことはないけれど、その上にまたがるように腰を下ろし
て、その肩に手を回す。
緊張して、震えてしまっている手のひら。
自分でも桜色になっちゃっているのが判る熱い頬。
でも、その全部で。杜守さんを感じたくて、わたしは堰を切
る。
「今から、あの、ぅー……甘える、甘え……てしま。ちがう。
甘え、ちゃいますっ」
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手で触れそうなほどとろりとした藤色の光がフローリングの
床を浸していた。夜明け前、それも夏の朝の夜明け前だけに見
られる、湖の水面のような朝の光。
まだ蝉の鳴き始める前、夜明けの空気の中を、夏の日の予告
編が遠く響いている。壁に掛かったデジタルの時計はまだ4時
でしかない。暖かい布団に首まで入って、うっすらと目を開け
る。まるでお風呂に入って居るみたいに、お尻のそこから背筋
を、ひたひたと幸せがぬくもりを持って覆ってくる。
頬の下には、わたしのそれよりもずっと太い腕。自然に頬が
緩んでしまう。少しだけ身じろぎ。背中に杜守(ともり)さん
のぬくもりを感じて、甘えるように身体をすり寄せて、居心地
の良い体勢を作り出す。
あんまり体重を掛けちゃわないように、杜守さんの腕を頬の
下に感じて、思わずもらす吐息のような笑みをこぼしながら頬
ずりをする。杜守さんだ~。なんて脳内ではリフレイン。寝起
きのIQが下がった脳みそは、たやすく幸せに蕩けてしまう。
だって、杜守さんのベッドにお邪魔するなんて、週に一回も
ないイベントなのだ。わたしがこんなに嬉しくなっても仕方な
い。
なんて考えているわたし杜守さんの腕枕じゃない方が触れる。
髪の間に杜守さんの長い指先が探るように潜って、そのまま
手櫛のように流れてゆく。わたしは突然の感触に、思わず自分
を抱え込むように緊張してしまう。だって、それはあんまりに
も親密で甘やかな感触。不意打ちで受けるには、色っぽすぎる
気持ちよさだったのだ。
「おはよ、眞埜(まの)さん。早いね」
パニックになりかけて凍り付きそうなわたしの後頭部から、
杜守さんは低い声で声を掛けてくれる。
夜が明けきる前の杜守さんのベッドの中。わたしは杜守さん
が起きているなんて全然思ってなかったので、慌ててしまって
口の中でごにょごにょと返事をするしか出来ない。恥ずかしい
~。頬が染まる。杜守さんが寝ていると思って、子供みたいに
甘えてしまった。ううう、格好悪い。わたしはごまかすために、
じりじりとベッドの端っこの方に逃げてゆく。
でも、杜守さんはそんなわたしの腰をぐいっと抱き寄せちゃっ
たりして。杜守さんの腕の中にすっぽりと抱え込まれてしまう。
「逃げよーとした」
「してない、してません……」
「ほんと?」
わたしは、上手に答えることも出来ずに、こくこくと頷く。
杜守さんの体温はわたしよりわずかに高くて、抱え込まれると、
いつもよりテンポの上がったわたしの心臓の音さえも、その熱
に煽られているのが判る。全身を巡る血流は、なんだかわたし
を、焦るような、怖いような、でもちょっぴり嬉しいような、
そんな居ても立っても居られないような気分にさせる。
逃げ出したいのに、ちっとも動く気分になれない。麻薬的に
手遅れで、膝が笑っちゃうほど甘美なパニック。それが杜守さ
んの腕の中の感触なのだ。
わたしは、ちょっと俯くように身を固くする。けれど、その
わたしの身体を、杜守さんは布団の中で引き寄せて、髪の毛を
梳くように触ったりして、それだけでわたしはどんどんあがっ
てきてしまう。
……白状すると、朝からえっちな気分にもなってしまってい
る。最近濡れやすくなっているのだ。それについては……それ
は杜守さんの責任だって大きいと思うのだけど、とてもそんな
責任追及出来ないわたしは、背中に杜守さんを感じながら、あぅ
あぅと云うくらいしか出来ない。
しばらくそうして髪を撫でられていたわたしは、やがて気が
つく。
「……杜守さん?」
「ほい?」
「もしかして、寝てないですか?」
そうだ、わたしがうっすらと目が覚めた時に起きていたのだ
とすれば、4時間も寝てないのではないか。考えてみると、わ
たしは杜守さんの寝姿をあまり見たことがない気がする。――
いや、違う。あまり、じゃなくて一度も見たことがないではな
いか。
「ちゃんと寝たよ。気にしちゃ、ダメダメ」
「だめですよ、ちゃんと寝ないとお仕事大変です……
あ、ふわぁっ!」
わたしの言葉を遮るように、杜守さんの指先がわたしの耳を
くすぐる。な、な、なんてことをするんですか。びっくりした。
衝撃だった。あんな動物的な……えっち臭い声を出しちゃう自
分にびっくりだ。
「むうぅ」
「じゃぁ、こっち向いて」
杜守さんのリクエストで、わたしはごそごそと杜守さんの胸
の中に、顔を埋める。背中から抱きしめられるのも幸せだけど、
こうして自分の腕で杜守さんに抱きつくのも、嬉しい。大きな
杜守さんに抱きつくのは、なんだか「しがみつく」っていうイ
メージだけど、それだけに途轍もなく安心ししてしまうところ
がある。
身長差のあるわたしは、布団に溺れちゃいそうになって、頭
を振る振ると振って掛け布団から出すと、杜守さんの肩に頬を
寄せる。杜守さんはわたしを抱き寄せて、抱き寄せて、ぎゅっ
と抱きしめて。
わたしは怪訝に思う。
杜守さんが、こんな風にわたしを抱きしめるのって、殆ど初
めてじゃないだろうか? わたしは良く判らなくて、ただ杜守
さんに回した腕で、ぽんぽんと背中を叩いたり、撫でたりして
みたけれど。杜守さんは少し寝ぼけているのかも知れない。
「……杜守さん?」
「ん?」
「どうしました? 眠いですか?」
わたしの質問に、杜守さんはしばらく答えないで、髪の毛に
触れている。その触り方は丁寧で、指の間をこぼれてゆく髪の
感触を惜しんでいるみたいだ。やがて杜守さんはわたしをきゅぅ
っと抱き寄せると、勢いを付けるように起き出して微笑んだ。
「実は今週、ちょっと仕事が立て込んでてね。気合いを入れて
いたのだ」
その笑顔は、いつも通りの優しくて頼りがいのある方の表情
だった。居候のわたしとしては心苦しく、何かしてあげたかっ
たのだけど、ダメ女子で、しかも引きこもりとしては出来るこ
とは殆ど何もない。杜守さんの言葉にも、頷くことしか出来な
いのだ。
「そこで眞埜さんを撫でてねー。ちょっとエネルギー補給をね」
なんて冗談めかして笑う杜守さん。
その表情に誘われるように、わたしは殆ど反射的に杜守さん
の頭に手を伸ばす。杜守さんの前髪。わたしのとは違う、男の
人らしい、ちょっと堅めの直毛。その前髪の間に指を差し入れ
て、撫でる。
あれれ。
なんて、自分でも驚いて、照れくさくて、気まずい思いをし
てしまう。何でわたしはこんな事をしているんだろう。杜守さ
んを子供みたいに撫でるなんて。杜守さんはわたしよりも十も
年上なのに。ううう、申し訳ないような言い訳したいような気
持ちになる。だって自分でも何でこんな事をしちゃったのか良
く判らないのだ。
こういう時に、ほとほと自分の察しの悪さというか、頭の悪
さが恨めしい。わたしは挙動不審気味に視線を泳がせながら、
杜守さんに良い子良い子をする。
「これ、応援?」
杜守さんのその問いかけに、うん、多分、はいです。なんて
言い訳をして。でも、実はちょっと違うような気もしていて。
頭の片隅に、昨日の夜寝る前に感じた違和感が横切るのを感じ
る。でもそれは明確な理由として判るわけもなく、ただ横切っ
ただけで。わたしは、ただ、子供みたいに杜守さんをちらちら
と見上げながら、撫でることしか出来なかった。
――八月の後半から九月の頭に掛けて。
杜守さんは予告通り忙しかった。毎日のように遅く帰ってき
て、食事とシャワーもそこそこに部屋にこもって仕事を続ける。
どうやら職場から持ち帰ってくる作業も大いにあるらしく、明
け方までキーを叩く音が聞こえることもあった。
ある晩は会社に泊まったかと思えば、あるときは始発で帰っ
てきて、一日中部屋にこもって、あちこちへと電話をしながら
書類を作っている事もあった。
杜守さんに迷惑だけは掛けまい。
そう思っていたけれど、寂しさは身を切られるようで。杜守
さんにかまってもらえない日々のながれは、まるでコールター
ルじみた粘着性で時計の針さえゆっくりと進むのだった。
杜守さんは、杜守さんの言うところ「籠もって」しまうと、
お茶とカロリーメイトだけで良くなってしまうのだという。食
事をしすぎると、眠くなってしまうなんて云うのだ。わたしは
それでも、身体をこわさないように、下手くそなりに手早く食
べれるような食事を作ろうとした。
お陰でサンドイッチのレパートリーが増えたけれど。
杜守さんの言う「集中力」。
その意味合いがはっきり判ってきたのは、五日ほどたってか
らだった。「必要のない余計な部品は捨てる」なんて言葉では
判っていたけれど、本当に目にしたのは初めてだった。
考えてみれば、お茶とカロリーメイトなんて云う食生活はそ
の前兆だったのだろう。杜守さんは「食事について考える」と
いう部品を一端取り外してしまったのだ。その分シンプルになっ
て身軽さを増した杜守さんはさらに仕事にうちこんだ。
ある日、杜守さんの部屋に差し入れに行くと、クローゼット
の前にはYシャツと下着とネクタイのセットが、五日分並べて
おいてあった。杜守さんは「その日何を着るか」も取り外して
しまったのだろう。歯磨きやシャワーなども最小限になって、
それらはどこか上の空で行なわれているようだった。
仕事をしている杜守さんをそっと観察したことがある。こん
なに忙しいのだからさぞや激しい仕事をしているのかと思って
いたけれど、そんなことはなかった。杜守さんは表情も消えて
どこか仏像めいた超然とした雰囲気で、ただ確実に、ものすご
い速度でキーボードを叩いていた。
喜びも悲しみも無いかのような、ある意味「やる気」さえも
見えない、ただ純粋に入力された情報を高速で処理して結果を
出していくようなその姿勢は、「表情を作る」部品を取り外し
てしまったかのようだった。
わたしはただひたすらに驚いてしまい、でも声を掛けること
も出来ずに、自分のロフトに戻って、丸くなってた。それは、
わたしにとっては少し怖い光景だった。
日に何度か、わずかな時間、杜守さんと話をする。
それは紅茶の差し入れだったり、軽食を届けに行ったりする
タイミングでのことで、わたしはその時間を毎日毎日心待ちに
していた。
杜守さんからかまってもらえない不安感は、まるでお日様を
遠ざけられた植物がそうであるかのように、わたしからエネル
ギーを奪ってゆくから。杜守さんの何気ない仕草で幸福になっ
てしまうわたしは、忠犬のようにその時間を待ち構えていたり
した。
そんなわたしに、杜守さんは「ごめんねー、しばらくの事だ
から、ごろごろしたり遊んだりしててよ」なんて云って笑うの
だった。杜守さんは優しくて、精神的に大人で、おそらく仕事
では相当に煮詰まっているのにわたしの前ではいつも笑ってい
た。
でもそれは、逆にわたしが居るから、わたしと話をするから、
杜守さんが仕事の最中は外しちゃっている「世間的に会話をす
る」とか「面倒くさい女の子に気を遣う」なんていう部品を装
備しなければならない、つまり重くなって集中力を阻害してい
ると云うこともわたしには判ってしまう。
仕事も出来ないダメ女子が、ただ頭を撫でて欲しいなんて言
う自分勝手な欲求で、杜守さんの手を煩わせているのかと思う
と、みっともなくて申し訳なくて、ひどく自己嫌悪したりもした。
わたしがこの家に転がり込んだ、最初の週を思い出す。
冷蔵庫の中はミネラルウォーターとアイス、それにチョコと
お酒、カロリーメイトしか入っていなかった。
杜守さんは、わたしが居ない間、シンプルに生きてこれたの
だ。杜守さんを下界に引きずる降ろしているのは、わたし自身
なんだなぁ、なんて思うと、泣きたい気持ちになる。
時間の流れはゆっくりすぎて、夜が明けて日が暮れるまでに
一週間が丸ごと入るのではないかと思われるほどだった。杜守
さんが仕事で空けている家の中はむやみに広くて。それが落ち
着かないわたしは、自分のロフトに引きこもってその3畳もな
い天井の低い空間の中で、布団に丸くなって時を過ごす事が多
かった。
居間でTVを見てても音楽を聴いてても良いのだけれど、杜
守さんが仕事で疲れ切っているのじゃないかと思うと、胃の中
がぎゅぅっと固くなったような気分になり、遊ぶような気持ち
も無くなってしまう。
有り余る時間に考えるのは、杜守さんのことだった。
ただ、杜守さんのことを考えていた。
もちろん自分の寂しさや心細さ、先行きの無さについても、
それはもう自分でもがっかりするくらい考えたのだけれど、そ
うではなく、ただ杜守さんの事を想ったりもしたのだ。
多分、わたしは生まれて初めてと云っていいくらい「他人」
のことを考えたのだと思う。自分の寂しさを通してではなくて、
「寂しさを紛らわせてくれる誰か」ではなくて、ただ「杜守さ
ん」のことを考えた。
わたしは要領が悪すぎて、それは考え事をする、と言うただ
それだけのことですら手際が悪すぎるのだ。ダメ女子はこれだ
から本当に使えないのだけれど、とても沢山の時間を必要とし
てしまった。
砕け散ってしまったガラスの破片を集めるみたいに、判りきっ
たことの欠片を一つ一つ集めて、ああでもない、こうでもない、
そんな訳がない、あるはずがないという頭の中の言い訳で、迷
路の壁に総当たりをしながら、どうにもならないほどのろのろ
と考えをまとめ上げた。
わたしの右側には、うんざりするほどのネガティブな要素が
積まれている。不細工ではないけれど、あんまり美人とも云え
ない冴えない容貌。めりはりに乏しい、痩せて小さな体型。引
きこもりで高校中退。仕事できない。社交性無し。要領が悪く
て、頭も悪くて、第一印象は「影が薄い娘」。
家出中で、杜守さんの家に転がり込んでいて、杜守さんが居
ないとホームレスになってしまう。根暗で、鬱が激しくて、
ちょっとしたことで不安になって杜守さんに泣きつくことで、
どうにかこうにか落ち着いて過ごせるようになったばかりの、
面倒くさいことこの上ないしょんぼり娘だ。
杜守さんに撫でられたい。杜守さんに甘えたい。杜守さんが
居ないと、本当は一日だって耐えられない。それくらい、杜守
さんに寄りかかっちゃってしまっている、ダメダメ女子。
それがずっと判っていたわたしの姿。
ううう。自分で列挙しているだけで、泥のたまったどぶに片
足を落としてしまったような気分になる。
片や、わたしの左側には、この10日で発見した傲慢で自分
勝手きわまりないわたしがいる。そのわたしを見つけ出して、
認めるのに10日もかかってしまったほど、わたしはそんな気
持ちを無かったことにしようとしていた。
わたしは。
杜守さんが、欲しいのだ。
こんなダメ女子で、杜守さんに支払えるどんな代価もないと
いうのに。わたしは杜守さんに、求められたいと思っているの
だ。
杜守さんは大人で、余裕があって、優しくて、わたしがいや
がることは絶対にしない。無理矢理働け、とか外に出ろ、とか
も云わないし、家事をしているのだって、杜守さんに言われた
からやっているわけではけしてない。えっちだって――前回の
アレをのぞけば、なんだかしないと不自然だから、身体を重ね
ました、みたいな雰囲気だった。
でも、それでは我慢できなくなってしまった。
思えばわたしは誰かを望んだ事なんて一度もなかったように
思う。女の子は、自分の商品価値には敏感なのだ。小学生の頃
から、自分の長所と弱点、そんなものは数値で表示されている
ように分かりきったものとなる。自分が誰かにどれくらい望ん
でもらえるかというのは、非常に残酷で、デジタルに処理され
るものだと、女子は全員知っている。
わたしはわたしの「左側」によって自分の価値が、一山いく
らの粗悪品であると判っていた。だから本当に何かを望んだ事
なんて、無いような気がする。
だけど、やっぱりもう誤魔化せないみたい。
わたしは、杜守さんが欲しい。それは「杜守さんが居ないと
困る」とは全く別の感情で、もっと我が儘で傲慢な想い。
杜守さんに、甘えて欲しいのだ。
杜守さんの役にたって、杜守さんに偉いねって言われて、お
世辞じゃなくて、杜守さんに「居なきゃ困る」って云われたい。
あの人は本当に女の子の相手が慣れているから、気を利かせて
そんな台詞は普通に言ってしまうのは、すごく予想できてしま
う。でも、そうじゃなくて、杜守さんに求められたい。
胸をつくような締め付けられる気持ちで、そう思う。杜守さ
んはいつだって優しくて、でもちょっと諭すような、保護者の
ような表情でわたしを撫でてくれていた。それはわたしの「左
側」、杜守さんが居ないと困ってしまうわたしにとっては都合
が良かった。ううん、都合が良かったからこそ、杜守さんがそ
れを演じてくれていたのだと、今なら判る。杜守さんはそれが
可能なほど、精神的に大人だったのだ。
でも、わたしの「右側」はそれでは満足できなくなっている。
杜守さんが欲しい。全部なんて云わない。ほんのちょっぴりだ
けで良い。わたしが杜守さんを必要とする十分の一でも良いか
ら、杜守さんに必要とされたい。甘えて欲しいのだ。杜守さん
に優しく抱きしめられるのは魂に羽が生えるほど幸せだけど、
ほんのちょっぴりで良いから、杜守さんも我を忘れるほどわた
しに溺れるように、求めて欲しいと思ってしまう。
ううう。
脱線した。頭の中がピンクの妄想で溢れてしまいそうになる。
溺れるとか、求めて、とか。そう言う単語は禁止しておかない
と、思考がぐるぐる回って先へと進まないじゃないですか。
へ、変態めっ。
自分をちょっとしかりつけて、布団の中でもぞもぞと身体の
向きを調える。うわ。裏切り者! パンツがちょっと重くなっ
てる。すぐそう言う気分になるんだからはしたない。
もちろん、その欲求、求めて欲しいなんて云う夢は相当に虫
の良い話で、望みが薄いって事は良く判っている。
世の中にはわたしより可愛い女の人なんて星の数ほども居る
のだ。オトナで、ちゃんとお仕事をしてて、わたしよりスタイ
ルが良くて、化粧なんかも上手で、美人で、明るくて……とに
かく、わたしより優れた部分が、沢山あるような女の人は、きっ
と杜守さんの周りにいると思う。
それを考えると気分がへこんで、布団の中でめそめそして、
鼻を真っ赤にすることもあった。
杜守さんがそんな女の人と知り合いじゃないと思う方がおか
しいのだ。会社にはOLの女の人だっているし、学生時代の旧
友とか、良く判らないけど、取引先の美人なお姉さんとか、い
るに違いない。いや、絶対にいる。
だって杜守さんは女慣れしているのだ。わたしは絶対の確信
を持って断言できる。
だいたい、そうだ。あんまり考えたこともなかったけれど、
杜守さんだってわたしより10近く年上なのだから今まで付き合
った女の人が居ないわけがない。そんなの当たり前だ。あれだ
け仕事も出来るし、何でもそつなくこなす男の人だから、きっ
と高校とか中学時代にすでに彼女を作ってたりしていたに違い
ない。
いつでも余裕があるあの態度は、料理と同じく、場数によっ
て育まれた経験なのだ。
どんな人だったのかな。
高校の後輩とか? ものすごく可愛くて、髪の毛は栗色のふ
わふわで、何でも良く気がつくかいがいしい女子かな。大学に
入ってからは一つ年上の、けだるい感じのそれでもすごく有能
な才女とか。きっと服を脱がしたら、ものすごく綺麗な身体な
のだ。
大きなため息をついて、自分の持ち物を確認してみる。
相も変わらぬ、ひょろりとしたにょろにょろボディだ。食生
活が改善されたせいで、肌には張りと潤いが戻ってきた。色が
白くてすべすべなのは、実は数少ない自慢だ。けれど、そんな
のは十代だったらどんな子でも、健康に暮らしていれば当たり
前に持っているわけで、何のアドバンテージにもならない。
杜守さんがかまってあげた女の子の中でも、一番残念賞スタ
イルなんだろうな、なんて思うとナチュラルにへこむ。
わたしの「左側」の後ろ向きで杜守さんに寄りかかりたい気
持ちと、「右側」の杜守さんを甘えさせたい、杜守さんの役に
立ちたいという気持ちは、わたしの中で衝突して、せめぎ合っ
ている。
バランスなんて、とっても悪いのだけど。
だって物心ついてからずっとダメ女子だったのだ。「左側」
の発言力が強くて、どうしたって恐れ多いというか、罪悪感で
一杯になってしまう。
心の中で思っただけで、本当に申し訳なさでいっぱいになっ
てしまうのだ。わたしみたいなダメ女子がそんな大それた願い
を持ってごめんなさい。いえ、その。自信があるとか、絶対手
に入れるとか、杜守さんにふさわしい女性になるなんて自信は
ちっとも無いんですけれど。わたしは杜守さんが居なきゃだめ
な引きこもりなんですけれど。
よりによって、一番始めに願う宝物が、杜守さんだなんて。
でも。それでも、やっぱり。
幸せって麻薬なのだ(良薬だったっけ?)。その魅力には、
ダメ女子のわたしは、ダメであればあるほど逆らいがたい。
だってわたしの身体には、杜守さんに抱きしめられた感触が
残っているのだもの。腕の外側から大きく締め付けられる、鳥
肌に似た気持ちよさを覚えている。可愛いだなんて、あんなこ
と言われたのは生まれて初めてなのだ。雛鳥だって刷り込まれ
れば懐いてしまうと云うではないか。
その小さいけれど決して消えない願いは、どんなに諦めよう
としても、そんなの無理だと理性が告げても、執拗にわたしの
中で燃え続けた。
わたしは、杜守さんの留守がちな十日間をとおして、ダメ女
子であるばかりか、自分がえっちで変態でその上欲深い贅沢も
のだと云うことも思い知らされてしまった。
長い長い杜守さんの修羅場が終わって、やっと何とか一息付
けたのは、九月の2回目の週末だった。「もーやだ。終わり。
仕事しない」と云って家庭用電話の線まで引っこ抜いた杜守さ
んは連続で10時間も寝て、わたしの作ったおにぎりを食べて、
それからまた昼寝までして、やっと体調が元に戻ったようだっ
た。
かくいうわたしも我慢しきれず、お昼寝はご一緒させてもらっ
てしまった。ううう。10日ぶりの杜守さんですよ? ぬくいの
です。大きいのです。
本当は疲れているのだし、1人で寝かせてあげるべきなのは
判っていたのだけれど、わたしの方も不安な気持ちとか、頭の
中がぐるぐるしてしまっていて、杜守さんが手招きしてくれた
のにまんまと乗っかって一つのタオルケットで昼寝をしてしま
った。
目が覚めたのは夕暮れ時。
やっぱり杜守さんの寝顔はみれなかった。なんだか悔しいし、
ちょっぴり悲しい。でもそのせいで「やっぱり」というように
確信が持てた。多分、おそらくだけど杜守さんは、やっぱりわ
たしに気を許してくれている訳じゃないのだ。
優しくしてくれるし、気を遣ってくれるし――こ、こんなダ
メ女子ですけど? そのぅ「女の子扱い」してくれる。それは、
嬉しい。杜守さんの腕の中で目覚めるのは格別に幸せで、昼寝
の数時間だけで、3日分くらいぐっすり眠ってしまった。
でも、杜守さんにとってはやっぱりわたしはどこか、お客さ
んなのだろう。それはわたしにはどうすることも出来ないけれ
ど、とても寂しい。本当はわたしがもっと自立して、素敵な女
の子で、杜守さんが居なくても生きていければ、こんな寂しさ
に耐えることも出来るのかも知れないけれど、それは無理。杜
守さんは、わたしの中でそれほど大きくなってしまっている。
例の「右側」は杜守さんに甘えたい、甘えたいっ、かまって
欲しいと騒ぎ立てている。でも「左側」は「左側」で杜守さん
の本音の部分が知りたい、出来れば杜守さんもわたしに夢中に
なって欲しいなんて分不相応な願いを繰り返す。
真ん中のわたしは杜守さんの事を好きな気持ちで湧かしすぎ
たお鍋のように沸騰しているし。そんなわたしすべてを、「杜
守さんに迷惑を掛けるのだけは絶対ダメ!!」と細くて頼りな
ーい理性が御している状態だ。
杜守さんは、そんなわたしのぐるぐるに気がついてないわけ
もなかったのだけれど、何も言わないでいてくれた。夕暮れの
部屋の中でもそもそ起き出した2人。
視線を合わせられないわたしは、メールチェックをする杜守
さんの横顔を、こっそりと見つめる。
卑しくて自分勝手な考えだけど、誤魔化すことが出来そうに
もなくて、思い知る。わたしは、杜守さんにも癖になって欲し
いのだ。わたし以外じゃ、ダメになって欲しい。
杜守さんに必要とされたい。
杜守さんみたいな何でも出来る人に必要とされるって、そん
な方法全然判らないけれど。
杜守さんが、さりげなーく。本当にさりげなーく。モスバー
ガーとポテト食べたいな~なんて云う。確かに食べたい。お腹
がきゅるるんなんて音を立てて鳴く。
仕事が一段落した今、ちゃんとした食事を杜守さんに作って
あげなきゃいけない立場なのだけど、もちろんそのつもりで準
備もしてあるのだけれど、昼寝をしちゃったせいですぐに食事
が出る、と言うわけにも行かない状況だった。
「眞埜さん、眞埜さん。久しぶりに買い食いってことで」
杜守さんが、悪戯小僧みたいに笑う。
引きこもりのわたしとしては、外出はちょっと怖いのだけれ
ど、駅前くらいまでなら何とか……。なんて考えて、顔を洗い
に向かう。コンビニに行くくらいなら今までだってやってきた
のだ。幸いもう夕暮れ時だし。
マンションから外に出たわたしたちは、まだ熱気の残る街を
2人で歩く。
青鉄の色に染まってゆく空に、宵の明星が輝いている。手を
つないでみたりなんかしたりしたら、も、もしかしてすごく幸
せかも知れない。なんて考えては見たのだけど、そんなこと自
分から出来るはずもなく、並んでいるような、後を付けている
ような、微妙な角度で歩く杜守さんとわたし。
云うまでもなく、ちょっと後方から追跡しているのがわたし
だ。手をつなぐのはともかく、あのシャツの裾の辺りをちょこ
んとつかんで歩く、位は良いのじゃなかろうか。――なんて考
えてたから、杜守さんの言う言葉を聞き逃してしまった。
「はい? はい」
何を訊ねられたかも判らないで返事をするわたし。杜守さん
は嬉しそうにしているので、まぁいいか、と納得すると、なん
と杜守さんが手を握ってくれるではないか!! ううう、手を
つなぐって想像以上に恥ずかしい。膝の力が抜けてしまう。
世間の人たちはこんな事をやっているのでしょうか?
よく事故も起こさないで歩けますですよ。
なんて自己突っ込み。杜守さんの手は大きくて、本当に大き
くて、わたしはなんだか宝物を渡されたような気分で、ぎゅぅ
っと握ってしまう。杜守さんはちょっと振り返って、駅前の水
銀灯とイルミネーションに逆光になって、ニヤっと人の悪い笑
みを浮かべる。……人の悪い? わたしはそこで気がついて直
後に涙ぐみそうになる。
だ、騙されたっ! はめられましたっ!
杜守さんはにやにや笑うと、わたしが苦手なのを知っていて、
何食わぬ顔でわたしを美容室に連行する。引きこもりが最も恐れ
る場所の一つが美容室だというのにっ!
杜守さんはなんだかすごく手慣れた様子で、こぎれいな女性
の人へ挨拶したりして。知り合いじゃないらしいけれど、何で
そんなに物怖じしないのだろうと悩んでしまうようななめらか
さで、わたしの意見など一切斟酌せずに注文を付けて、代金も
先払いしてしまう。
これだから社会人は~。
わたしは泣きそうな表情で杜守さんに助けてください、お願
いって思ってみるけれど、杜守さんは聞こえていないみたいだ。
当たり前ですよ、そんなの。
「では、どうぞこちらへー」
くすくす笑いをこらえたヘアカットの人がわたしをチェアに
案内する。ううう。杜守さん! 杜守さん!! この落とし前
はきっちり付けますからねっ! なんて鏡の中を睨むと、杜守
さんは例のいじめっ子風の笑顔でにこにこしてる。
ううう。あの表情には、弱いのだ。癖を付けられたのが、えっ
と、その。……えっちの最中なので、あの意地悪そうな、しか
し相当に楽しそうな杜守さんの顔を見ていると、恥ずかしいこ
とに抵抗する気力がすぐに甘く蕩けてしまう。
わたしは俯いて視線をそらして、お姉さんにごにょごにょと
口の中で挨拶をすると、大きくて座り心地の良いチェアに腰を
下ろす。美容室によくあるその大きな椅子はふかふかだけど、
わたしは電気椅子もきっとこんな感触なのだろうな、と絶望的
な気分になる。
だいたい、わたしは引きこもりだし、別に可愛くもなんとも
ないのだ。
髪の毛は毎日洗って綺麗にしてあるけれど、そんなにおしゃ
れじゃなくて、適度な短さで整っていればいいではないか。そ
れなのに杜守さんはこんな高そうな店に飛び込みで押し込んで、
にこにこしてたりして、すごく意地悪だ。
ヘアサロンのお姉さんは、愛想良く何事かをわたしに話しか
けてくれる。そのたびにわたしはパニックに襲われる。昔はさ
ほどでもなかったけれど、半年も引きこもると他人に話しかけ
られるのがすごく怖い。
被害妄想なのかもしれないけれど、こうやってニコニコされ
ると、わたしのことをくすくす笑っているんだという気持ちが
どうしてもぬぐえない。
杜守さんはそんなわたしを見てにこにこしてたけど、途中で
モスバーガーに行って、ちゃっかりテイクアウトを買ってきた
らしい。コーヒーなんかしてくつろいで、鏡越しのわたしの恨
みの視線も飄々と受け流している。
やっと完成したのは1時間以上かかってからだった。
「杜守さんは意地悪ですよ」
はっきりと抗議したつもりだったけれど、やっぱり強く云え
ないわたしは、ごにょごにょと恨み言を呟いてしまう。
「眞埜さん髪綺麗なんだから、もったいないでしょ。軽くなっ
て、似合ってるよ?」
むぅ。そんなお世辞に誤魔化されたりはしないのだ。なんて
思っていても、ちょっとだけ頬が緩む。背中の中程まである髪
は確かに最近重くなっていた。長さは調えるくらいで、ボリュ
ームを減らしてもらったので、すんなりまとまって、ちょっと
清楚なお嬢様風に見える。……もちろん中身はダメ女子のまま
なのだけど、自分でも可愛いかな、と思えていたわたしは杜守
さんの言葉に他愛なく嬉しくなってしまうのだ。
もしかして、わたしは杜守さんに洗脳されつつあるのかも知
れない。
陽が暮れて藍色になった街を2人でマンションに帰る。
帰る場所があるというのは、本当に素敵だ。短かったけれど、
ネットカフェで寝泊まりしてた、どこにも行く場所がない、切
り離されてしまった感覚をわたしは良く覚えている。
もちろんこのマンションは杜守さんの家で、わたしは居候。
でも、杜守さんが「居て良いよ」と云ってくれている間は、わ
たしの住み処なのだ。杜守さんが「ここが眞埜さんの寝床ね」
とロフトを調えてくれた時、わたしは安心感でじわーっと涙が
溢れそうになってしまった。その部屋へ、2人で帰るのは、く
すぐったくて幸せな気分だ。
部屋に帰ると、早速ハンバーガーのテイクアウトを広げる。
杜守さんはチーズバーガーとフライドチキンとポテト四つだっ
た。ポテト四つ。ポテト四つですよ? と言う表情のわたしに、
杜守さんは「いいじゃん。たまに食べたくなるんだよ」と拗ね
たように云う。ちょっと可愛い。
わたしはキッチンへアイスティーを入れに行く。冷蔵庫で冷
やしてあるので、シロップを入れるだけですぐに出来て簡単だ。
戻ってきたわたしは、ちょっとだけ迷ったけれど、ソファに座
る杜守さんの横に腰を下ろした。
2人で食べるハンバーガーは美味しかった。家の中で食べて
いるのだけれど、どこかへお出かけしている気分で楽しい。わ
たしもお腹がすいていたし、一生懸命食べていたのだけれど、
杜守さんはいつにもまして早かった。わたしがハンバーガー一
個食べる間に、ポテト四つまで綺麗に平らげてしまったのだ。
杜守さんは、お腹一杯、と言うようにごちそうさまをすると、
ソファによりかかって、のびのびとしている。杜守さんは、目
を細めて、まぶしそうな少しだけ眠そうな表情で、わたしに話
しかける。
「うん、綺麗になったよ。髪の毛、つやつや」
「杜守さんは、髪の毛好きなのですか?」
いつかの夜明け、撫でてもらった髪を思い出しながらわたし
は訊ねる。杜守さんはその言葉に不意を突かれたように考え込
み、しばらくしてから「うん、云われてみればそうらしい」な
んて答えた。そうかーそうだったんだー。なんて意外そうな声
で呟きながら、わたしの髪の毛を触ってくる。
それはとても嬉しいのだけど、照れくさいわたしは両手でア
イスティのグラスを持って俯いてしまう。氷を入れたグラスが、
ひんやりして気持ちいい。気がついてみれば、指先まで桜色に
染まっている。頬だって茹だっているに違いない。
杜守さんは、わたしの背中を軽く抱き寄せるように、自分の
方へと引き寄せる。わたしの身体が杜守さんにぴとっとくっつ
いて、体温がまた1度ほど上昇する。
「甘えてもらうのが好きなんだよ」
独り言のようにもらした杜守さんの言葉は透明で、なんだか
随分素直に聞こえた。だからわたしも思わず、何の考えも無し
に「寂しいのですね」なんて云ってしまう。
杜守さんの反応が消えて、部屋の中には静寂が訪れる。街の
音も遠いこのマンションの中で、わたしの身体も固まる。やっ
てしまったかな、ううう、まずいことを云ってしまったんだ、
きっと。さっきまで上がっていた体温が一挙に低下する。
心の中でごめんなさいすみませんとパニックになるわたし。
久しぶりの杜守さんとの休日で気が緩んでいたに違いない。
ダメ女子なのに生意気なことを云ってしまった。ご、ご、ご、
ごめんなさいっ。わたしは内心で慌てふためいて、それをどう
にか取り繕おうとするのだけど、突然メンテナンス不良になっ
た身体は錆が浮いた機械のように動いてはくれない。
神経だけが集中して、寄りかかった杜守さんの反応を背中で
探ってしまう。でも、杜守さんが何かに集中しているような気
配がするだけで、それが怖くて仕方ない。
ひどく長く感じたけれど、実際には呼吸五回程度の時間しか
たっていなかったように思う。
「うん、それも本当みたいだ。眞埜さん賢い」
杜守さんは小さく笑うような気配と共に、わたしの髪の毛を
撫でてくれる。その仕草でわたしはほっと一息つくけれど、で
も同時にすごく切ないような気分になるのだ。
甘えられたいって云うのは寂しい気持ちの裏返しだって、わ
たしはこの十日間で思い知っていたけれど、それは杜守さんに
とってもそうなのか、それとも他の理由があってそう言ったの
か、わたしには判らない。そもそも、杜守さんみたいな何でも
出来る男の人の寂しいと、わたしみたいなダメ女子の寂しいが
同じものなのかも判らない。
「要領が良いとね。1人で色々出来ちゃうからねー。人恋しさ
が募るね。……修行が足りないなぁ」
杜守さんの声には少しだけ自嘲するような響きがあって、で
も優しくて、わたしはその声だけで悟る。
杜守さん、やっぱりそれは寂しさですよ。同じものかどうか
は判らないけれど。杜守さんみたいに何でもこなせる人が、な
ぜ寂しくなるのか、わたしには杜守さんの言っている言葉の理
屈は良く判らなかったけれど、その寂しさだけはよく知ってい
るように思えて、反射的に立ち上がると、杜守さんに向き直る。
「あ、あ、あのっ」
なんだか放っておけないような、居ても立っても居られない
気持ちに突き動かされたわたしは必死に声を絞り出す。でも、
話し始めてみたは良いものの、何をしゃべるか考えてなかった
のですぐ言葉に詰まってしまう。
杜守さんがどんな表情をしているのか、気になるけれど、視
線を上げて確認するのは怖いし恥ずかしい。
心臓が鼓動を早める。全身の血が熱くなって、杜守さんしか
見えなくなる。杜守さんが「どうしたの?」って云ってくれて
るけれど、わたしは勝手にわなわなしちゃってる口と、へばり
ついたようになっている舌を無理矢理動かして宣言する。
「と、杜守さん」
俯いたまま上目遣いで杜守さんをちらっと見る。恥ずかしい。
これから自分が何をしようとしているのか、何を言い出すのか、
考えると恥ずかしくて恥ずかしくて逃げ出しそうになる。でも、
もう身体は甘やかな、あの蕩けるような延々とした快感を思い
出して準備を始めてしまっているのだ。
わたしは意を決して、ソファに座った杜守さんに近寄る。
杜守さんの膝の上。いままでそんなはしたないことを自分か
らしたことはないけれど、その上にまたがるように腰を下ろし
て、その肩に手を回す。
緊張して、震えてしまっている手のひら。
自分でも桜色になっちゃっているのが判る熱い頬。
でも、その全部で。杜守さんを感じたくて、わたしは堰を切
る。
「今から、あの、ぅー……甘える、甘え……てしま。ちがう。
甘え、ちゃいますっ」
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