晴耕雨読に猫とめし
自己肯定感の話 ⑱

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切に忍ばせた「とうとうご出立ですね。お荷物を下までお運びしましょう」 午後二時。 ついにホテルを去るときが来ました。 ティムは、少年のような……いえ、実際10代と思われる、赤い頬をしたベルボーイを連れて来て、彼に私たちのスーツケースを託しました。 そして自分は祖母に腕を差し出し、「では、この旅、最後のエスコートを」と微笑みました。 祖母もすっかり慣れた様子でティムの腕を取り、私はそれを背後から見守りつつ、ついていきます。 この旅の間、何度も見たふたりの背中。 長身をさりげなく祖母のほうへ傾け、祖母にあわせてゆっくり歩いてくれるティムのような気配りを、私もいつかできるようになるだろうか。 数日前にそう言ったら、彼は「それが僕の仕事ですからね」とクールに笑っていました。 でも実際は、絶えず人を観察する訓練をしていなければ、顧客が求めるもの、必要としているものが何か、すぐに気づくことなんてできないと思うのです。 たゆまぬ努力を見せないことは素晴らしいですが、同時に、相手にそれを自然に感じさせるような仕事をしなくてはならないのだ、ということを、私はティムから教わりました。 廊下やエレベーターホールに漂う、おそらくはルームフレグランスのスズランっぽい香りにも、これでお別れです。 ところが。 エレベーターに乗った途端、祖母はこんなことを言い出しました。 「最後に階段を降りてみたいわ」 は? いや、せっかくゆっくり休息させていただいたのに、どうしてわざわざそんな疲れそうなことを……? 私は混乱しましたが、問い質してみると、祖母が言う「階段」というのは、ホテルのフロントから2階へ上がる、それはそれは優美なカーブを描く赤い絨毯敷きの階段のことでした。 そこを降りていくところを、写真に撮って欲しい。 それがこのホテルにおける、祖母の最後の望みだったのです。 「おお、お安いご用です。君は先に行って、お荷物をタクシーに。ドライバーには少し待つようにと伝えなさい」 ベルボーイに指示を出すと、ティムは面倒くさがりもせず、祖母を連れて二階でエレベーターを降り、階段まで案内してくれました。 階段に敷かれた絨毯の毛足が長くて、足を滑らせたら大変だからと、彼は階段の踊り場まで祖母を連れていき、下で待つ私にも、綺麗に撮れる立ち位置まで教えてくれました。 「一度、こういうところで写真を撮ってほしかったの」 祖母はまるで昭和の映画スターかファッションモデルのように、踊り場で優雅に立ち、写真に収まりました。 その後、階段を一歩降りたところで、またパシャリ。 ポーズは素人くさかったかもしれませんが、階段をヨタヨタと頼りなく降りてきたことなど微塵も感じさせない、堂々たる立ち姿だったのをよく記憶しています。 きっとその写真も、祖母がお友達に自慢げに見せたもののひとつだったのでしょう。 写真の現物が残っていないのは本当に残念ですが、少なくとも私が生きている間は、あのときの祖母の晴れ姿は折に触れ、私の海馬の中で強く輝き続けると思います。 親戚は何人もいますが、ロンドンでの祖母の姿を知っているのは、私ただひとり。 祖母の記憶を抱いて、背負って、私は今、生きているのだなあ……と、エッセイを書きながら、何度も実感したものです。 その後、私はチェックアウトを済ませ、フロントのスタッフに「よい旅を!」という言葉で送り出して貰いました。 今日も巨大な花瓶に生けられた大量のバラの横を通り抜けて、私はまたしてもティムと祖母の後を追います。 エントランスの回転ドアを抜けると、そこにはいつものドアマン氏の笑顔がありました。 彼は、祖母を優しくタクシーに乗せ、そして、もうすっかり慣れっこのやり方でチップを渡そうとした私の手を、1ポンド硬貨ごとギュッと握り、ニヤリと笑って言いました。 「バッド・ガール。マダムと共に、ジャパンまで安全で素晴らしい旅を。そして、次のときには、バッド・レイディになった君に会えることを楽しみにしているよ」 それを聞くなり、胸がいっぱいになって何も言えない私の背中をポンと叩いて、彼は「もう予定の時刻をずいぶん過ぎてしまったから、急ぎなさい」とタクシーのほうに押しやりました。 結局、私は彼に「ありがとう」と「さようなら」しか言えなかったのですが、それで十分だったような気がします。 ドアマン氏が扉を閉めると、タクシーはすぐに走り出しました。 ドアマン氏と、彼に並んで立ち、手を振ってくれるティムが、瞬く間に遠くなっていきます。 さっきまですぐ近くにいた人たちが、ロンドンに来てから毎日会っていた人たちが、おそらくはもう二度と会えない存在になってしまう。 ホテルに泊まって、そんな寂しさを感じたのは初めての経験でした。 きっと、祖母も同じ心境だったのでしょう。 「窓を開けてちょうだい」 切羽詰まった声でそう言った祖母は、タクシーが角を曲がるまで、ずっと二人に手を振っていました。 二人の姿が見えなくなってからも、視界からホテルの建物が消えるまで、祖母は閉めた窓にへばりついていました。 まるで、小さい子供のように、一生懸命の面持ちで。 祖母にとっては、晩年になってできた、忘れ得ぬ「旅の宿」だったのだと思います。 私にとっても、あんなに贅沢な宿はあのとき一度きりの経験でしたし、ホスピタリティという言葉の本当の意味を教えられた、貴重な体験でした。 そういえば、とうとう最後まで、「私、本当はマダムの孫なんです」と言わずじまいだったなあ……。 でも、打ち明けなくてよかったかもしれない、と私は思いました。 もし、孫娘だと知ったら、彼らは私のことも、純然たる顧客としてベタベタに甘やかしてくれたかもしれません。 そうでなくてよかったと、タクシーの座席に深くもたれて、私は思いました。 宿泊客でありながら、彼らと同じ「仕える者」だったからこそ貰えたアドバイスや叱責は、この先の人生で、きっと大きな宝物になる。そんな確信があったからです。 スーツのポケットから出して開いてみたのは、最後の最後に、ティムがそっと手渡してくれた二つ折りの紙片。 開いてみると、そこには、彼のオフィスの電話番号と共に、こう書かれていました。 「素晴らしいスシランチのお礼に、お二方がロンドンを発つまで、僕はあなた方のバトラーでいます。どうしても困ったことがあったら、お電話を」 ほらねー! 頼りない「若き秘書」である私が酷いしくじりをしないように、最後の最後まで心を繋いでいてくれる、その温かさ。 私が祖母と二人きりになって、疲れ切った彼女を無事に日本まで連れて帰れるだろうかと心細く思っていることなど、ティムにはお見通しだったのでしょう。 メモには「お電話を」と書いてはありますが、おそらく本当の意味合いは、「ちゃんと見ていてあげるから、頑張りなさい」なのだと、今はわかります。 真剣に誰かを思いやり、サポートすることを知らなかった私に、心構えと目の付け所、そして、自分で頑張るべきことと人を頼るべきことの区別を寄って集って教えてくれたホテルのスタッフに、メモを眺めながら、私は心から感謝しました。 このメモをお守りにして、私は何としても、祖母を無事に家まで送り届けるのだ。 「ああ、あそこでお買い物したわね。あの店でも。何かまだ買い忘れている気がするけれど、寄り道する時間はないわよねえ……?」 ヘロヘロのくせに、買い物に対する情熱だけは何故か失わない祖母を、「空港にもハロッズがありますよ」と宥め、私は決意を新たに、メモを再び二つ折りにして、ポケットに入れたのでした……。

応援コメント
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ステキユーザー 2022/10/01 11:02

まるで映画を観ているように感じます。素敵。

ステキユーザーkair 2022/09/30 01:26

先生が秘書の立場であったからこその経験は、普通のお客様には決してできない経験ですね。 おばあ様が眠っている間の「その時秘書(孫)は」的サイドストーリーも読みたいです!

あさば 2022/09/28 13:21

さすが姫様!そうでなくてはっ! いつ素敵な階段に気付いたのかはわかりませんが、最後の日に望みをうちあけるとは、なんて可愛らしいんでしょう。 主賓のお祖母様をお姫様のようにもてなしてくださり、その秘書(と思われる人物)に自らの仕事を見せて、仕事について考えさせてくれたホテルのみなさんの懐の深さ。とても美しい方たちですね。 ドアマン氏ーっ! 夜遊びバッドガールは素敵なバッド・レィディにおなりですよ~今度ロンドンが舞台のエッセイを出版されるんですよ~♪

ステキユーザー 2022/09/28 12:57

おばあさまとのとてもとても素敵な旅のお話を物語のように情景を想像しながら毎週楽しみにしていました。 幸せな時間をありがとうございました。

ステキユーザー 2022/09/28 08:36

ドラマか映画のような余韻を残しつつ、最高のエンディング!と思いきや、来週もお祖母様のお買い物を拝見できそうで楽しみですw ホテルマンの皆さん、本当にカッコいいプロフェッショナルばかりで溜め息が出てしまいました。

SAY 2022/09/28 03:33

おばあ様姫様がティムのエスコートで優雅かつ姫様の凛とした姿で降りてらっしゃる光景が脳内に展開されました。 先生が秘書(仮)とバッドガールの二役されてる事で本当にホテルスタッフさんたちが見守りつつも要所要所で手を貸し、知恵を貸し、時には己の背を見せ若い秘書(仮)が立派な秘書(仮)になれるようにされてた様に思います。 とうとう素敵なスタッフさんたちとのお別れに私も貰い泣きです。 メモも素敵なお守りですね。 素敵なお話ありがとうございます✨ 読ませていただいて、私も素敵な経験、金言等を体験した気持ちになりました。

久羽 2022/09/28 02:19 (編集済み)

今回はタクシーとメモのところで、二度も泣いてしまいました。これまでずっと堪えていたのに。。。 あと、お祖母さまが階段に立たれているお姿が目に浮かびましたです。素敵なホテルでのお話をありがとうございます。