「では、いただきましょうか」 祖母の厳かな言葉を合図に、私たちはほぼ同時に折詰の蓋を取りました。 おお、という声が、全員の口から同時に出ます。 しかし「おお」には、色々な感情が含まれうるのです。 感動もあれは、それ以外も。 私が本当に口走りたかったのは、「レゴブロックみたいやな」という、身も蓋もない印象でした。 そこにあるのは、確かに紛れもないにぎり寿司でした。 ただ、店頭で見た食品サンプルとは、だいぶ印象が違うのです。 確かに、にぎり寿司10貫と卵焼き、そして生姜の甘酢漬けことガリの取り合わせには違いありません。 ネタに使われている魚のバリエーションについても、看板に偽りなしです。 板前さんの名誉のために言うと、どのネタもつやつやで、エッジがキリッと鋭く、新鮮そのもの。とても美しかったです。 ただ、致命的に違うのは……お寿司のサイズでした。 イギリスの外食のボリューム感に合わせたのか、シャリもネタも滅多やたらに大きいのです。 おにぎりとまでは言いませんが、日本の回転寿司で出てくるにぎり寿司の1.5倍はありそうです。 全員が折詰に入れるギリギリのサイズを攻めているせいで、すべてのお寿司が密着して押し合いへし合い状態。 ゆえに真上から見ると、色とりどりのカラーブロックを敷きつめたようなありさまになっているというわけです。 これは、ちょっとまずいかな。 お寿司を手に入れたときの高揚感はたちまち去り、私の背中はゾワッとしました。 祖母は自宅に誰かを招いたとき、よくお寿司の出前をとるので、私も何度かご馳走になったことがあります。 丸くて黒い寿司桶の中に、十分過ぎるほどの距離を空け、ほっそりした小振りなお寿司がスッ、スッ、とスマートに並べられているさまを思い出すと、それと目の前のお寿司の密度の差は歴然です。 あれと比べれば、今、目の前にあるお寿司のサイズは3倍かもしれません。 つまり、あの店のにぎり寿司を見慣れている祖母の感覚では、目の前のこれは、まさに超ジャンボ寿司。 たいそう……やぼうございますね。 狼狽えて余計なところで言葉遣いが丁寧になってしまいつつ、いったい祖母がどんな感想を漏らすかと、私はドギマギしながらひたすら待ちました。 しかし。 「……立派だこと」 祖母の口から出たのは、そんな一言でした。 ズバッと「こんなものはにぎり寿司じゃない」と言うかと思いきや、幾重に包んでも芯には含みしかない、それでも表向きは褒め言葉でコメントしてくれてありがとう祖母! 「本物の寿司を振る舞う」と言って招いたティムの手前、幻滅を口にできなかったというのは確実にあると思いますが、私の苦労も少しは察してくれたのだと信じたいところです。 「もう少し上品な大きさでもいいと思うけれど、お若い方々にはこのくらいがいいでしょうね。さ、召し上がれ」 そう言ってお寿司をティムに勧める祖母の目には、驚きや落胆や憤りといった感情を抑えて、好奇心が煌めき始めました。 いったい、この巨大寿司をティムがどんな風に食するのか、そしてどんな反応を示すのかが、俄然楽しみになってきたようです。 「では、さっそく。実は、さっき調べてきました。日本ではこういうとき、『イタダキマス』と言うんですよね?」 勉強熱心な面を見せつつ、ティムは割り箸を慎重に、そして首尾良くほぼ左右均等に割りました。 祖母は少し心配そうに問いかけます。 「お箸は大丈夫なの?」 「ああ、チャイニーズのテイクアウェイをよく利用するので、ある程度は。日本の方がご覧になったら、こんな感じかもしれませんが」 両手を顔に当て、指の間から見る仕草をしてみせてから、ティムは確かに少しだけ危なっかしい箸使いで、それでも密着寿司の間に箸先をぐいと力強く差し入れ、まずは端っこにあった鯛のお寿司を持ち上げました。 つまむというよりは、若干、掘削の趣ですが、それでも、とりあえず最初の段階、無事にクリアです! 「……こう、すると、日本の行儀作法のテキストで学びました」 これまで見たことがないほど真剣な面持ちで、彼は箸を持っているほうの手を肘から慎重に回転させ、寿司ネタのほうに小皿の醤油をたっぷりつけました。 そういう動き、どっかの工場で見た。ロボットアームがやってた。 そんな感想を胸にじっと見守る私の前で、ティムは大きな口を開け、巨大寿司を丸ごと頬張りました。 祖母、思わず大きな拍手を送ります。 足が不自由でなければ、スタンディングオベーションをしたかもしれません。 「そう、にぎり寿司は噛み切ったりせず、一口で食べるのが美しいわ。素晴らしい!」 「ほへほ、ほんへははひはひは」 日本語に翻訳するとこんな感じの返事をして、ティムは目を白黒させながら咀嚼を続けました。 たぶん、「それも、本で学びました」と言っていたんだと思います。 祖母は呼吸も忘れて、じっと彼の感想を待っています。 それに気づいていても、咀嚼がなかなか終えられなくて、クールを装いつつも明らかに焦るティム。 ティムが喉に寿司を詰めたりしないか、祖母が静かに窒息死しないかとハラハラして見守る私。 よくわからない感じの緊張が支配する室内で、ティムはようやくお茶の力を借りて寿司を飲み下し、満足だか安堵だかの溜め息をついて、「これがジャパンの本物のスシ、なのですね」と言いました。 いや、微妙に違う。 そうなんだけど、なんか違う。 とはいえ、板前さんが大急ぎでわざわざ用意してくれた、本物のにぎり寿司ではあるんだよなあ。凄くジャンボなだけで。 「これは、ロンドンの、本物のスシ、ですね」 どうにか婉曲な表現を絞り出した私に、ティムは面白そうな目つきで同意してくれました。 「ああ、なるほど。さすがに他の国においては、手には入らない食材もあるでしょうね。でも、とても美味しいです。少なくとも、スシバーのスシとは全然違う。何が違うんだろう……」 ティムはすぐに次のにぎり寿司に手をつけようとはしませんでしたが、熱いお茶を啜り、コンディションを整えながらしばし考えて、こう言いました。 「そうだ、魚とライスがよくフィットし、調和しています。魚には敢えて味をつけず、ライスには甘くてほどよく酸っぱい、優しい風味のドレッシングがかかっている。そこにソイソースを添えて、最後に塩気を足し、各々が好みのバランスの味わいに仕上げることができるわけですね」 「……そんなに真面目にお寿司を考察したことはなかったですけど、言われてみれば確かに」 私が感心して同意し、通訳すると、祖母は姫というより女王の風格で頷き、「やはり、わかる方は仰ることが違うわね」と喜んだあと、こんなことを言い出しました。 「寿司飯がほんのり赤いのは、赤酢を使っているからよ。赤酢は江戸時代から作られていて、原料は酒粕なの。米酢のような鋭い酸味ではなく、優しい酸味と甘みがあるし、旨味も強いから、寿司飯には向いているのよね。ああでも江戸時代は、米酢より安いという理由で使われていたそうで、江戸時代はお寿司もこれよりまだ大きくて、屋台で提供される庶民の味……」 あああー。やめてー。 祖母としては、ティムに少しでもたくさんの寿司にまつわる雑学を教え、これから先にやってくる日本人客たちを驚かせてほしいという、もはや親のような心境でいるに違いありません。 でも、通訳をする私の身にもなってほしい。 今でこそ、日本食がブームになり、「旨味」という言葉はそのまま「UMAMI」としてヨーロッパでも定着しています。 スーパーマーケットなどで「UMAMI PASTE」というチューブに入った出汁の素的な商品を、ごく普通に見かけるようにもなりました。 しかし当時、少なくともイギリスには、「旨味」なんて概念はなかったのです。 そもそも、「酒粕」って英語で何て言うんや……! 悩みに悩んで、酒粕については「ワインを作るときのぶどうの絞りかす的なもの」と説明してことなきを得たものの、まあ、祖母が繰り出す蘊蓄をいちいち英語に翻訳するのは大変でした。 「さあ、どうぞマダムたちも召し上がってください」 ひとしきり喋ったあと、今度は逆にティムにお寿司を勧められ、そうだ、と私は祖母に目を向けました。 さっき、「にぎり寿司は一口で食べるのが美しい」と言った手前、祖母も、このジャンボ寿司を一口でいってしまうつもりなのだろうか。 そんなことが、既に一部の歯が人工物になっている祖母に可能だろうか。 ハラハラする私に、祖母は涼しい顔で折詰を押しやり、こう言いました。 「全部、3つに切って頂戴」 な、なるほど。1貫を3貫にすればノープロブレム。さすがマダム。 しかし、この部屋には果物用の、なかなか微妙な切れ味のナイフしかありません。 にぎり寿司を切断するにはちょいと力不足でしょう。 事情を話すと、ティムはすぐにレストランのシェフからペティナイフとチーズボードを借りてきてくれて、それでどうにか、私は祖母のために、小さなにぎり寿司を量産することができました。 さすがにすべては食べきれず、ペロリと10貫を平らげたティムが少し手伝ってくれたのですが、それも祖母にはとても嬉しかったようです。 食後に淹れ直したお茶を飲みながら、祖母はしみじみとティムに言いました。 「お寿司を一緒に食べてくれて、本当にありがとう。あなたのためになればと思ったけれど、むしろ、私にとって素晴らしい思い出になりました。生魚が、本当は嫌いだったりしなかったかしら」 祖母の少しだけ心配そうな質問に、ティムは「生魚に抵抗はありません」とハッキリ答えてくれました。 「正直申しまして、大人になるまでは駄目でした。我が家は、肉も魚も野菜も、徹底的に火を通して食べる主義でしたので。でも、友人たちと旅行したイタリアで、生魚のカルパッチョを怖々食べて、その美味しさに驚いたんです。以来、新鮮な生の魚は、むしろ大好きですね」 私の通訳でそれを聞くと、祖母は誇らしげに胸を張りました。 「今日のお寿司のお魚は、紛れもなく新鮮だったわ。イタリアの生魚もいいけれど、日本のお刺身も素晴らしいわよ。いつかきっと、日本にいらして。そのときには、もっと色々なものを召し上がっていただきたいわ」 「ええ、今日のように、マダムの『授業』を日本で受けてみたいものです。……僕はきっと、今日のことを忘れません。スシを食べるたびに、いつもマダムのことを思い出しますよ」 「私も、お寿司をいただくたびに、あなたとこうして大きなお寿司を食べたことを思い出すわ。きっとそのたび、楽しい気持ちになれるわね」 「僕もです。僕のスシの師匠」 そう言って立ち上がると、ティムは祖母に手を差し出しました。 握手かな、と私は思いましたし、祖母もそう思ったでしょう。 でも、こちらは座ったままで失礼して、と祖母が差し出した手を、ティムは恭しく、掬うように取りました。 そして、長身を屈め、祖母の手の甲に、軽く唇を当てたのです。 まるで童話に出てくる王子様が女王様にするような、敬愛のキス。 バトラーからマダムへの、最上級の感謝と尊敬の表現でした。 「どうか、日本までよい旅を。そして、またこうしてお目にかかれる日が、できるだけ近いように祈ります」 すぐに唇は離したものの、手は優しく触れたまま、ティムはそう言いました。 彼の少し照れ臭そうな笑顔と、顔を赤らめ、ときめきを隠せない祖母の少女のような顔を思い出すと、今もなんだか、ちょっと泣きたいような気分になります。 祖母にとって、ロンドンでの最後のランチは、生涯、お友達に自慢し続けた、大切な、嬉しい記憶となりました。 まるで釣り人のように、話すたびにお寿司のサイズは少しずつ大きくなり、最終的には祖母の中で「草履のような」巨大寿司になってしまいましたが、それもまたよし。 板前さんには、ここでそっとお詫びを申し上げたいと思います。 そこまで大きくはありませんでしたし、とても美味しかったです。 海外旅行先で、わざわざ日本食を食べるなんて……とかつては思っていた私でしたが、この日、認識を新たにしました。 海外で試す日本食、本格的か否かなどという野暮はさておき、なかなか楽しく、面白いものです。
ティム!あなたってばもう!実写反対派が増えそうよ!大丈夫!? 王冠モチーフのハンドタオルをお膝に広げた美しい白髪のご婦人が、ロンドンで食べた草履ぐらい大きなにぎり寿司のお話をしているのを、後ろの席でこっそり聞いてみたかったなぁと思っています。そして、ごちそうさまの後のシーンのところでは盗み聞きしているのを忘れて「きゃーっ」って赤くなりたいです。 先生のおばあ様なら絶対お話が上手だと思うんですよね。 「立派だこと」今度どこかで使ってみようと心のメモに残しました。
今週もとてもおもしろく、そして感動的でした。 通訳に四苦八苦する先生のお姿が見えるようです。 姫とバトラーのやり取りも映像が浮かんできます。 パラレルワールドの日本でティムがお祖母様に再会し、一緒に旅行している姿も浮かびました。 素敵なお話をありがとうございます。 単行本には、バッドガールのお話も入っていると嬉しいです✨