祖母の身体を気遣って、旅行中、移動はひたすらタクシーを使っていましたが、私ひとりなら徒歩と地下鉄とバスでどうにでもなります。 身軽に外に出ようとしたら、やはりというべきか、お馴染みの恰幅のいいドアマン氏 に呼び止められました。 「おや、バッド・ガール。またマダムを置き去りに?」 厳めしい口調ですが、綺麗に整えたヒゲに包まれた顔は、冗談8割、本気2割の笑顔です。 「マダムのお使いです。本物のお寿司のテイクアウトを探しにいきます」 そう答えると、彼は「スシならコンシェルジェがレストランを紹介できるのに……」と言いかけて、ふと口を噤みました。 「いや、本物のスシ、しかもテイクアウトとなると、難しいかもしれないね。上手く見つかりますように。でも、どうしても困ったら……」 電話をね、という代わりに、受話器を耳に当てるコミカルな仕草をしてみせるドアマン氏に「わかりました!」と手を振って、私は道路に出ました。 まず向かったのは、やはりロンドン三越です。 今思うとホテルからはまずまずの距離なのですが、イギリスにいると、何故か本当に長い徒歩移動が平気になってしまうのです。 店に入ると、ちょうど目の前に、昨日お世話になった女性店員さんがいて、「あら!」と笑顔で迎えてくれました。 「確か今日、お帰りでしたよね? 何かお買い忘れが?」 「あ、いえ。あの……地下の日本食レストランのことでお伺いしたいことが」 私は、祖母の希望を手短に伝えました。 店員さんはじっと耳を傾けていましたが、私が口を閉じると、控えめな困り顔で首を振りました。 「レストランをお勧めしたのは私なので、ご希望に添いたいと思うのですが……実はお寿司は賞味期限の問題があって、テイクアウトには対応していないんです。その、日本での常識が、こちらではまだまだ通用しないと申しますか……」 ああ、なるほど。 生魚の扱いに慣れていない人なら、にぎり寿司の折詰をテーブルの上にポンと置いて、そのままにしてしまいそう。 口に入るまでのお寿司の鮮度に責任が持てないならテイクアウトはやらない、という姿勢は、むしろとても誠実です。 とはいえ、あからさまに残念そうな顔をしてしまった私に、店員さんは、心底申し訳なさそうにこう提案してくれました。 「あの、お弁当ではダメでしょうか? お刺身はつきませんが、それでもきちんとした和食ですし、本当に美味しいですよ。それなら確実にご用意できるんですけど」 今度は、私が首を横に振る番です。 「どうしても、お寿司を振る舞いたいようで。祖母がお寿司といえば、それはにぎり寿司ですし、妥協できるギリギリ地点は、海鮮ちらし寿司かな、と。あの、日本人なのでにぎり寿司の扱いはわかっていますし、買って、宿ですぐ食べる、でも駄目ですか?」 「うーん……。そうですね。その条件を伝えて、シェフに訊いてみます。少々お待ちください」 店員さんはわざわざレストランまで訊きに行ってくださったようで、私は出していただいたお茶をありがたくいただきながら、ぼーっと待つしかありませんでした。 ほどなく戻ってきた店員さんの表情は、やはりパッとせず……。 「申し訳ありません。やはり、にぎり寿司は現状ではテイクアウトは無理と。ちらし寿司も交渉してみたのですが、ただいま開店準備で取り込んでおりまして」 そりゃそうだ! ランチ前の仕込みの時間なのに、いきなり手間の掛かるちらし寿司を3人前だけ作れなんて言われたら、私がシェフなら秒でキレてしまうところです。 それがわかっているのに食い下がってくれた店員さん、もしかしたら、厨房の方に言葉荒く対応されてしまったりしたんじゃないだろうかと心配しつつ、私は席を立ち、彼女にお詫びとお礼を言いました。 「いえ、こちらこそ無理を言って申し訳ありませんでした。たいへんお手数をおかけしました。ご親切が、本当にありがたかったです」 これ以上、お仕事の邪魔をするわけにはいきません。 私はすぐさま店を出ようとしました。すると店員さんが私を呼び止め、こう仰るではないですか。 「ああ、でも……。すみません、これはとても曖昧な記憶なのですが、もしかしたら、あそこがお寿司を始めたかも。噂だけ、ちらっと聞いたことがあるんです。にぎり寿司があるかどうかはわかりませんし、不確かな情報で申し訳ありませんが」 「!」 なんと、そこそこの有力情報が! 今は藁にも縋りたい気持ちの私、「行ってみます! ありがとうございます!」ともう一度お礼を言い、ロンドン三越を飛び出しました。 目指したのは、本来次に訪ねようとしていた、近くのジャパンセンター(今は移転しています)……ではなく、そこへ行く手前にある、これまた今は亡き、そごうロンドン店でした。 イギリス王室のどなたかの寄贈だったと記憶している、躍動感が物凄い立派な馬の彫刻つき噴水がある、厳めしい建物に入っていました。 その厳かな雰囲気に気圧され、実は中に入ったことは一度もなかったのですが、なるほど、三越の店員さんが仰るように、お店の入り口横に、小さなテイクアウトコーナーがありました。 カウンターの向こうには、日本人とおぼしき若い女性店員さんがひとり、ちょっと暇そうに立っています。 近づいてみると、カウンター兼冷蔵ガラスケースの中に、それっぽい商品がありました。 小振りな折詰がきちんと包装された状態でいくつか置かれており、ガラス際には、いかにもメイドインジャパン、実に精巧な食品サンプルが飾られているではありませんか。 あったー! サンプルは、紛うことなきお寿司! お寿司です! 巻き寿司といなり寿司の取り合わせ、いわゆる助六や、生ものが苦手な人のために用意されたとおぼしき精進細巻きのセットと共に、にぎり寿司の折詰もありました! サンプルを見る限り、ビックリするほど本格的なにぎり寿司です。 白身の魚が何であるかまでは判別がつきませんが、少なくともマグロと海老、そしてサーモンのお寿司があります。 10貫(10pcs)入って一人前。端っこには、ガリ(pickled ginger)と卵焼き(sweet japanese omelette)が添えられる模様。 ふむふむ、日本で買えるお寿司のパックより、むしろボリューム的には充実しているかも。 喜色満面でガラスケースに見入る私に、女性店員さんは、「やっとお客さんが来た!」という感じの明るい笑顔で、「ご観光ですか?」と声を掛けてくれました。 「はい、観光です。祖母と来ているんですが、どうしてもお寿司が食べたいというので、探していました」 私がそう言うと、店員さんは嬉しそうに胸を張って言ってくれました。 「ですよね! 日本の味が恋しくなりますよね。お寿司、こないだ始めたばっかりなんですけど、とっても好評なんです。よかったら」 彼女に詳しい事情を説明してもさほど意味はないので、私は曖昧に頷きずつ、食品サンプルに添えられた値札をさりげなくチェックして、「うぉ」と思わず小さな声を漏らしてしまいました。 案の定、お高い。 いや、正直言って、覚悟していたより、なおお高い。 そもそもイギリスでは、外食がとても高くつきますし、今よりずっとポンドが強い時代でしたから、値札に書かれた金額を日本円に換算すると、たちまち気が遠くなる……ということが頻繁に起こっていました。 私が在英時、1箱1000円を超えるポッキーを(食べたいなあ……。でもこれは買えないなあ)と切なく恨めしく眺めていたことなど、今もコンビニエンスストアに行くたび思い出します。 それはともかく、目の前のにぎり寿司の折は、日本円で考えると、そこそこゴージャスなフレンチレストランでお昼のフルコースが食べられるほどのお値段でした。 普段なら、あっさり「無理」と諦めるレベルです。 しかし! 今日は特別な理由があるのです。 今日を逃せば、二度と開催できないイベントがあるのです。 たとえ規模は極小でも、それは祖母と私にとって、とても大切な計画なのです。 お金は大事ですが、お金を思いきって使うこともまた大事! 最初から、この最後のランチについては、私が奢らせてもらおうと考えていました。 お世話係とはいえ、豪勢な外国旅行に同行させてもらったことについては、当時も祖母に感謝していましたし、ずっと何くれとなく力になってくれたティムにも、祖母だけでなく、私からも感謝の気持ちを形にして示したい。 ならば、買うしかないでしょう。 自分のためにあとで買い求めようと思っていたものをいくつか諦めねばなりませんが、それがどうした。 私は、ただのにぎり寿司を買うのではない。一生ものの思い出を買うのだ。 そう腹を括って、私は店員さんに、「にぎりを3人前ください」と告げました。 ところが店員さんは少し驚いたように目をみはり、「あら、3人前ですか! ありがとうございます。ただ、今、にぎりはここに2人前しかなくて……」と言うではないですか。 あああー。ここに来て、また問題が!? と思いきや、店員さんはニッコリして、店のほうを片手で示しました。 「少し待っていただければ、板前さんにすぐ用意してもらえます。どうせなら3人分、にぎりたてをお持ちになりませんか?」 このときほど、どんより垂れ込めた灰色の雲の間から、金色の陽光が差すような思いをしたことはありません。 「是非!」 すぐさま返事をすると、店員さんは「大急ぎでにぎってもらいますね!」と、こちらも何だか嬉しそうに、店内に駆け込んでいきました。 そこから待つこと20分。 店員さんは店に入っていったきりで、「待って、これ防犯上まずいのでは……」と、何となくお店番を引き受けたような気持ちで待つ私のもとに、ようやく折詰を抱えた店員さんが駆け戻ってきました。 相変わらず、気持ちのいいくらい開けっぴろげな笑顔です。 しかも「すぐお包みしますね!」と言いつつ、折詰の蓋に乗せたのは、イギリスでは初めて見る、小さな保冷剤ではありませんか。 「それ……もしかして」 私が思わず指さすと、店員さんはちょっと眉尻を下げて頷きました。 「そうなんです。やっぱりお寿司には保冷剤が必要なんですけど、ここにはそういうのがないので、日本から取り寄せてます。お米も折も、お魚の一部も……」 そう言われてしげしげと見ると、折箱はおそらく本物の杉。 なるほど、こりゃ高くなるわけだ、と納得しつつ、丁寧に包んで紙袋に入れてくれたお寿司を提げて、私はすぐにホテルに向かいました。 買い物は最悪、空港ですればいい。 それよりも、一刻も早く、にぎりたてのお寿司を二人に食べてもらおう。そう考えたのです。 部屋に戻って電話をかけると、ティムはすぐに来てくれました。 「上司が羨んでいましたよ。本物のスシを、お客様のお部屋で食せるとはと。本来は丁重にお断りすべきことですが、今回は、マダムの優しいお心に添うことこそバトラーの務め、よく学んでくるようにと言われました」 なるほど、ティムは素晴らしいバトラーだけれど、それは先輩スタッフたちが素晴らしいからでもあるのだなあ。 そんなことを考えつつ、彼が緑茶を淹れてくれているあいだに、私は洗面所で祖母の身支度を手伝い、それから部屋の丸テーブルに折詰を並べました。 お寿司をお皿に移すことも考えましたが、この場合、折詰に入れたままにして無闇に触れないほうが、清潔ですし、美しくもあるだろうと。 「まあ、お寿司、あったの!」 着替えて席についた祖母は、お昼寝効果もあり、元気を取り戻していました。 日本で見るような本格的な折詰に、お寿司を見る前から期待値がもりもり上がっているようです。 だ、大丈夫かな。いや、きっと大丈夫! 「あったあった。思ったよりスムーズに見つかったよ」 そう言いながら、ティムに借りたウエッジウッドの小皿に小袋入りの醤油を入れ、割り箸を添えれば、準備は完了。 お吸い物がないのはちょっと残念ですが、そこは許していただくとして。 ティムがお茶を運んできてくれて、それを各人の前に置けば、ちょっとした「お部屋パーティ」の準備は完了です。 「さ、お掛けになって」 ホステスである祖母は、威厳たっぷりの仕草で、ティムに椅子を勧めます。 「お招きに預かり、まことに光栄です、マダム。では、失礼して」 ティムは丁重にお礼を言って、椅子に腰を下ろしました。 思えば、彼がこの部屋で「座る」ところを見るのは、これが初めてです。 なんだか新鮮だなあ……などと思いつつ、私も着席します。 丸テーブルなので自然とそうなるのですが、祖母を私とティムでサンドイッチしたような趣です。 ティムは仕事中なので、お酒は厳禁。 熱いお茶を満たした湯呑みを軽く掲げて、私たちはまず「乾杯」しました。 お互いにありがとうを言い合う、和やかな雰囲気です。 私たちにとってはロンドン最後のランチが、とびきり特別なひとときになろうとしていました……。
単行本化決定おめでとうございます。嬉しいです!今回は異国での素晴らしい連携プレー!と感じましたが、それぞれのプロがプロらしさを発揮した結果のように思います。先生もお疲れ様でした。さぁ次回はきっと美味しい&楽しいひとときですね。楽しみです。
これはとても良い流れ。一流職人の腕であっても、急な特別注文の持ち帰りよりは、持ち帰りを考慮した献立で作りたてのほうが安心できる気がします。もちろんどちらの百貨店の店員さんも心尽くしの接客をされていて素敵なことは確かです。 おもてなしが美しい方は、相手の気持ちを受け取る技も長けているのだと感じました。感謝される喜びをご存じだからこそ、その喜びを相手に贈ることができるのですね。 ロンドン最後のランチ、楽しみにしています。ちょっと寂しいです。