時差ボケの関係で、ロンドン滞在中は、いつも早朝にポカリと目が覚めていました。 ちょうど、祖母が起床してトイレに行きたくなるタイミングだったので、それは我々双方にとって具合がよく。 寝起きで足取りがおぼつかない祖母に手を貸してバスルームに連れていき、おめざの緑茶と、日本から持参した梅干しを用意する。 ホテルに備え付けの電気湯沸かしポット(今は日本でもすっかり一般的になりましたね)は、驚くほど素早くお湯が沸くので、祖母が悠々と用を足す間に余裕でお茶の支度ができて、なんて便利なんだろうと実感したものでした。 ああ、そんな朝も、これが最後なんだなあ。 ロンドン滞在最後の日、目覚めるなり思ったのは、そんなことでした。 ほとんど旅をやり遂げたという安堵感、そして、不思議な物寂しさ。 まだとなりでむにゃむにゃと寝言を言いながら寝ている祖母の横顔を眺め、「なんで歳を取ったらそんなに鼻が低くなるんやろなー」などと失礼なことを思ってぼんやりする時間が、なぜだか愛おしく感じられました。 実際、祖母と同じ部屋で共に朝を迎えるのは、その日が最後でした。 この旅以降、祖母とふたりでどこかへ遠出することは、一度もなかったからです。 なんでかなあ、なんでもっとあんな風にふたりで旅をしなかったのかなあ。 今、この文章を書きながら大きな後悔が胸に湧き上がりますが、これは疑問ではありません。 何故なら、理由は非常にクリアだからです。 ものすごく。 それはもう、ものすごく、たいへんな、旅だったから! 今、こうしてエッセイを綴っていると、あの旅で自分が学んだこと、得たものの多さと大きさにあらためて驚き、打ちのめされる思いですが、当時の私は、それに気付くには若すぎました。 ただただ、口うるさく気難しくわがままな祖母に振り回されている、と感じていました。 本当に、何もわかっていなかったお馬鹿ちゃんでしたね。 彼女の夫である祖父があまりにも早く、私が物心つく前に亡くなってしまったので、「身近な誰かが死ぬ」というのがどういうことか、当時の私にはわかっているようでわかっていなかったのだと思います。 そう遠くない日に祖母を失い、二度と会えなくなる、二度と話せなくなる……そんな危機感は、当時の私には、残念ながらありませんでした。 ただ、無事に祖母を家に連れて帰れそうなことを喜び、でも、「せっかく慣れて上手く回るようになってきた頃に終わっちゃうんだな」と残念がる、まるで部活の合宿が終わるときのような気持ちだったように思います。 朝食の席では、お馴染みのスパニッシュ系のウェイター氏が、祖母との別れを惜しんで、やはり特大のメロンと山盛りのイチゴを用意してくれていました。 「マダム、この朝食が恋しくなったら、いつでも戻ってきてくださいね」 そんな言葉に、祖母も感慨深そうに頷いていました。 祖母はいったい、どんな気持ちでいたんでしょう。 いつかロンドンを本当に再訪するつもりだったのか、あるいはそんな日が来ないであろうことを予感していたのか。 色々な病を抱えつつも、生き続ける気まんまんの祖母でしたから、前者であったと信じたいものですが。 さて、通常の宿泊プランの場合、朝食後、午前10時までにはチェックアウト、ということになるわけですが、我々が乗る飛行機は、夕方にヒースロー空港を発つのです。 私だけならば、ホテルに荷物を預かってもらって、ショッピング、あるいは観光に繰り出して、最後の最後まで旅を満喫するところですが、祖母はもはや、明らかに疲れきっていました。 通訳がいつも一緒にいるとはいえ、言葉の通じない外国、食べ慣れない料理、初めての経験の連続では、疲れるなというほうが無理です。 この上、夕方まで外で過ごすというのは、祖母にはあまりにも酷だと感じました。 そこで、前もってティムと相談して、しばらくこの部屋に宿泊予約が入っていないこともあり、出発しなくてはいけないギリギリの時刻、午後二時まで部屋に留まることを許してもらいました。 レイトチェックアウトの極みですね。 「話は伺いました。大丈夫ですよ。ご出発まで、ここはマダムのお部屋です。ゆっくりおくつろぎください。ルームサービスでも何でもいつもどおり、ティムにお申し付けください」 朝食後、わざわざ部屋を訪ねてくれた支配人も、そう言って、祖母を安心させてくれました。 「ありがたいわね~!」 支配人が去り、実感のこもった一言を口にするなり、祖母は服を脱ぎ捨て、ベッドにバッタリ。 まだスーツケースに詰めていなかったパジャマをえっちらおっちら着せつけながら、私はおそるおそる切り出しました。 「あのさ、お祖母ちゃんが寝てるあいだに、私、買い物に出ていいかな?」 祖母は、ほぼ閉じかけていた目を薄く開き、私の顔を見上げました。 「何を買うの」 疲弊していても、ショッピングには興味津々。さすがです。 「んー、マークス&スペンサー。ええと、わかるようにたとえると、イギリスの『いかりスーパー』みたいな、自社ブランドの商品が山ほどあるスーパーやねん」 「わざわざスーパーマーケットに行くの?」 「いいんだよ、イギリスのスーパー。友達へのお土産に、美味しい自社ブランドのショートブレッドとか、お安めの紅茶とか、チョコバーとかが買えて」 「まあ。お友達のお土産に、スーパーの商品なんて。そんなにお金がないなら、お小遣いを……」 「大丈夫だって! 高級スーパーだからいいんです~。っていうか、マジで美味しいんだよ、M&Sのショートブレッド。お祖母ちゃんにもひとつ、買ってこようか?」 「いえ、結構」 さっくりと断りの返事をする祖母に、私はちょっとガッカリしながらももうひとつ、質問してみました。 「お昼、どうする? 食べに出てもいいけど、着替えて出掛けるのはしんどいでしょ。ルームサービス頼んどく? 昨日、サンドイッチが美味しいって言ってたやん? まったく同じもんかどうかはわからへんけど、スモークサーモンのサンドイッチ、メニューにあるよ」 祖母が飛びつくかなと思ってそう訊ねてみたのですが、祖母は目を閉じて、胸の上で両手の指を組み合わせ、まさに「え、死なはったん?」みたいなポーズでこう言いました。 「買ってきて頂戴」 「ん? よその店のサンドイッチがいいってこと? あ、そうだ。マークス&スペンサーは、サンドイッチのバリエーションも凄くて……」 「サンドイッチはもういいわ。昨日、堪能しました」 ああ、おかわり分で満喫しちゃいましたか。 じゃあ、どうしようかな。何を買ってくればいいかな。 私のいちばんのお勧めは、そのへんに停まっているフードトラックで買うケバブなのですが、今の祖母にはちょっと重そう。 1ピースから買える薄くて大きなピザも、同じ理由で、ちょっと。 かといって、いくら軽いといっても、サラダがそれだけで「食事」になる世代ではないし。 うーん、と悩む私に、祖母は神の託宣を受ける巫女のように厳粛な表情と口調で、こう言いました。 「お寿司にします」 ……はい? 当時はまだ存在すらしていませんでしたが、その瞬間、私は杉下右京でした。 はいいぃ? いや待って。 まさに帰国する日の、イギリス最後のランチに、わざわざお寿司を? それこそ家に帰ってから出前でも何でも……ああああー! そうか、祖母はまだ、昨日、ロンドン三越の日本食レストランでランチを食べ損ねたことを引きずっているのか……! 今なら、ロンドンでお寿司を買い求めることは、さほど難しくはありません。 日本食レストランが増えましたし、クオリティはピンキリ、しかも外国ならではの斬新なアレンジが加えられていることもあるとはいえ、現地の色々なお店でもお寿司のパックが売られています。 SUSHIといえば誰にでも通じるほど、お寿司はヨーロッパの人たちに「ヘルシーな食べ物」として、日常的な存在となりました。 柚子やワサビといった和食の食材もかなり手に入れやすくなり、口に入れた瞬間、「おっ」と驚くほど本格的な(そして時に斬新な)日本の味に遭遇することも珍しくありません。 ですが当時は、生魚を食べる現地の人はまだまだ少なく、回転寿司のお店が、ようやく現れ始めた頃でした。 しかも、その回転寿司のレーンに並ぶのは、私たちが思っているような「お寿司」とはいささか違うものが多く……。 おそらく、そうした店のテイクアウトでは、祖母は納得しないでしょう。 私は暗澹たる気持ちで、それでもどうにか祖母を説得しようとしました。 「あのさ、お寿司は帰ってから食べたほうが、確実に美味しいやつが食べられるんと違う?」 「今日、食べたいの」 言うと思ったー! 言い出したらきかないこと、3歳児の如し。 これはもう、真っ先にロンドン三越へ行って、お寿司のテイクアウトが可能かどうか訊いてみるしかないか。 駄目だったら、ジャパンセンターへ寄ってみよう、あそこにもお寿司はあったはず(当時は曜日限定販売でした)だし、と私があれこれ頭の中で算段していると、祖母は薄目を開けてこう付け加えました。 「ちゃんとしたものを買ってきて頂戴。色々お世話になったから、ここであの方に、本物のお寿司を一緒に召し上がっていただきたいのよ」 「!」 祖母のいう「あの方」が誰をさすのか、私にはすぐわかりました。 ティムです。 いつぞや、ここで日本茶をいただきながら、彼と回転寿司の話をしたことを、祖母はずっと気にしていたようです。 日本人の宿泊客は、間違いなくこれからも、このホテルにたくさんやってくる。 そのときに「回転寿司しか知りません」では、一流ホテルのサービスマンの名が泣くでしょう、と祖母はボソボソと言いました。 なるほど、祖母なりに、ティムに感謝の気持ちを形にして伝えたいのだ……と気づいた瞬間、私は「わかった!」と、大きな声で返事をしていました。 「まず、ティムに訊いてみる。そんで、美味しいお寿司を探してくる。ティムが無理だったら、ふたりで美味しいお寿司を食べよう。お祖母ちゃんは、安心して寝とって。オーケー?」 「…………」 返事はありません。 何かご不満でも? と思ったら、祖母はもう寝息を立てていました。 現在の祖母の可動時間は、地球上でのウルトラマン並みのようです。 お昼までぐっすり眠って、少しでも体力気力を回復してもらわないと、ランチどころではありません。 私は祖母にブランケットを掛けると、お財布の入ったバッグを手に、静かに部屋を抜け出しました。 「おや、今朝はルームメイドを敢えて入れませんでしたが、何かお入り用なものでも? それとも最終日は、朝からバッド・ガールですか?」 エレベーターホールへ行く途中で出くわしたティムは、イタリア語で書かれた大判の本を何冊か、両手で抱えていました。 おそらく、次の顧客はイタリアの人で、彼らとの話題を作るため、「仕込み」の資料をゲットしてきたのでしょう。 さすがバトラー、頑張ってるな、と思いつつ、私は返事をしました。 「バッド・ガールはもう終了しました! グッド・ガールとして、お友達にお土産を買いに、最後のショッピングに出掛けてきます」 そう言うと、ティムはニッコリ笑って「いいですね」と言ってくれました。 「マダムは?」 「グッスリです。少しでも体力を回復してもらったほうがいいと思って」 「そうですね、長旅になりますからね。広いベッドでご出立までゆっくりとお休みになっていただければと」 「ありがとうございます。でも、ちょっとご相談があって……」 「マダム」のたっての望みで、お部屋で最後の記念に、3人でスシランチをできないでしょうか。お寿司は私が今から手に入れてきますので……と持ちかけると、ティムはちょっと驚いた様子で眉毛を数ミリ上げ、「本当に?」と言いました。 この場合は「本気で言ってんの?」ではなく、「そんなことをして貰っていいの?」のニュアンスです。 「是非にと。あなたに、本当の日本のお寿司を食べてほしいですって。できる限り、その要望にかなうお寿司を買ってくるつもりです」 私がそう言うと、ティムはすぐにいつもの笑顔に戻り、軽く一礼してくれました。 「喜んで! あなたをお使い立てするのは申し訳ないですが、僕は恥ずかしながら、スシにはまったく詳しくないものですから」 「そこは任せてください! 頑張ります」 「では、ありがたく。ただ、お客様のお部屋で飲み食いするとなると、一応、上司の了承を得なくてはなりません。ただ、マダムのお気持ちを無にするようなことは決して致しませんので、本物のスシ、楽しみにしています」 「はい、じゃあ、買い物から戻ったら、お電話しますね。それまで、お勉強していてください」 私が本を指さしてそう言うと、ティムは悪戯っぽい顰めっ面で、片手の中指を人差し指に絡める「成功を祈る」仕草をしてみせました。 「僕は、イタリア語の本と格闘を、あなたはスシの入手を。お互い、幸運に恵まれますよう」 「はい! じゃあ大急ぎで行ってきます!」 同じポーズを返して、私はエレベーターホールに向かって、元気よく駆け出したのでした……。 (なかなか終われない旅……次回に続きます)
「そんな朝も、これで最後」 無事に最終日を迎えられて良かった!でも少し寂しいな。と思いながら読んでいましたが、姫様の本領発揮ですねっ! 「わたくしのバトラーが回転寿司しか知らないなんていけないわっ!」ということでしょうか。回を追うごとにファンを増やしているティムですから、お祖母様がそのようなお気持ちになるのは当然ですよね。 来週、最終日だけグッド・ガールな秘書の大活躍の巻を楽しみにしています。