晴耕雨読に猫とめし
自己肯定感の話 ⑫

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今はもうなくなってしまったロンドン三越は、かつてロンドンの一等地、ピカデリーサーカスにありました。 ロンドン中心部の多くのお店がそうであるように、新築ではなく、古くて重厚な雰囲気の建物の内装だけをモダンにリフォームしてあり、そんなに大きな店舗ではなかったように記憶しています。 でも、とにかく日本語がバリバリに通じて便利なのと、品揃えが日本人好みでそれなりに幅広く、おまけに色やサイズも日本人向けと、とにかく日本人観光客がショッピングをしたりお土産を見繕ったりするのに抜群に便利なお店でした。 免税の手続きをフルに手伝ってくれるので心強く、観光についてのアドバイスも親切にしてくれて、ただ買い物をする場所というよりは、日本人観光客にとって、回復機能つきセーブポイントのような存在でした。 強いて言うなら、およそ安物を置いていないところが唯一の欠点だったかもしれませんが、そこは伝統と信頼と安心の三越だもの……というやつです。 これまで、秘書役の私に通訳を任せ、ロンドンで出会ったどんな人とも臆することなくやり取りしてきた祖母ですが、それでもやはり、日本人スタッフと日本語で直接やりとりできることが、とても嬉しかったようです。 「車いすをお借りして頂戴!」 店に入るなりそう宣言したのも、足の痛みを気にせず、買い物を存分に楽しみたいと思ったからに違いありません。 私の存在など忘れたように、担当についた店員さんに車いすを押してもらってお勧めを聞きながら、祖母は子供たちや孫たち、そしてお友達のためのお土産を次々と選び、自分のためにはスカーフや小さな版画などを買い……そして、いつの間にか、私にもプレゼントを用意してくれていました。 「あんたには、これを買ってあげましょう」 そう言って祖母が私の前に置いたのは、楕円形のカメオのブローチでした。 貝のカメオではなく、石のカメオです。 ウエッジウッドを思わせる明るいブルーの瑪瑙に立体的に彫刻されているのは、美しい女性の横顔で……その、なんというか、たいへん綺麗なお品ではあるのですが、同時によく言えばクラシック、悪く言えば古臭く。 カジュアルな服装を好み、あまりアクセサリー類を身につけない私としては、持っている服のどれにも合わない、どう扱えばいいか皆目わからないアイテムでありました。 「これは」 明らかに困惑する私に、我々に付き添ってくれている女性店員さんは、にこやかに援護射撃を繰り出してきます。 「イタリアの職人がひとつひとつ手彫りした、たいへんに上質なものです。彫刻の細かさが見事なんです」 でしょうね……!  それが、商品というより作品と呼びたくなるほどよいものなのは、さすがの私にもたちどころにわかりました。 品を見るふりでさりげなく引っ張り出した小さな小さな値札に手書きされたお値段も、想像していたよりは若干安いとはいえ、なかなかのものです。 特別なお出掛けのときにはつけていこうと思えるけれど、万が一なくそうものなら、たちまち真っ青になって途方に暮れてしまう。 そんなあたりの価格帯です。 「でも、これは私には向いてないというか、向いているものが他にありそうというか」 やんわりお断りして、どうせ買ってくれるなら私のほしいものを……そう、あっちにある男性用の素敵なハンチング帽などを、と言おうとした私の言葉を遮り、祖母はやけに厳かな口調で言いました。 「こういうものはね、他人に選んでもらったこと自体が値打ちなの」 今なら何となくわかるこの台詞、当時の若い私には、まったくピンと来ませんでした。 「えー? どうせなら、私が好きなものをお祖母ちゃんが買ってくれたってほうが、旅の記念としてはええん違う?」 なおも食い下がる私に、祖母は仏頂面でキッパリ。 「あんたが好きなものを買ってあげたら、それをあんたが好きでなくなったら、どうでもようなるでしょう」 「それはそうだけど、好きじゃないものを貰ったら、最初からどうでも……」 「好きじゃなくても、目上の人が確かな目で選んだ本当にいいものを、こういう機会に持っておきなさい。思い出にもなるし、目を肥やすための材料にもなるし、困ったときには売ればいいんだし」 祖母の反論には一滴の澱みもなく、隣では店員さんが「そうそう」とおたべ人形ばりに深く頷いています。 どうも、ここで「他のものがほしい」と言ったところで、聞き入れてくれる雰囲気ではありません。 目の前のカメオがほしいわけではまったくないですが、確かに「困ったときに売ればいい」というのだけは一理ある、と、当時、駆け出しの貧乏作家だった私はそう考えました。 んもう、品がない! しかし、医大を卒業して即、大学院生となった私は、まだ医師としての収入がなく、作家の稼ぎも微々たるもので、電車の定期券を更新することすらおぼつかない日々を過ごしていたのです。 まさに「貧すれば鈍する」の典型例ですね。 「それじゃあ……ありがたく」 きっと私は、少しもありがたそうでも嬉しそうでもない顔をしていたと思います。 それでも祖母は、「いいから大事に持っておきなさい」ともう一度念を押し、店員さんに「これも包んでちょうだい」と言いました。 しかも祖母は、その場で私にカメオを手渡してくれたわけではなく、帰国してから、ご丁寧に母を通じて贈ってくれました。 私がまったくカメオに興味がないことも、金額以外の価値を少しも理解していないことも把握していた祖母は、母という保険をかけて、カメオを私の手元に確実に留めようとしたのでしょう。 そのカメオは、祖母が死んでずいぶん経つ今も、手放すことなく私の寝室にあります。 経済的に「困った」のは、今、私が暮らしている仕事場を建てたときだったので、幸か不幸か、カメオひとつ売ればどうにかなる、というような規模の借金ではなかったのです。 今も、カメオのブローチが合うような服はクローゼットにほんの一着か二着しかありません。 加えて、私の顔色はどうも明るいブルーと相性がよろしくないようで、鏡の前で胸元に当ててはみるのですが、「うーん……?」と唸って元の場所にしまい込んでばかり。 現在に至るまで、一度も使ったことはありません。 それでも、たまに思い出して小箱を取り出し、蓋を開けてみると、たちまち思い出すのです。 あの日のロンドン三越に流れていた、繁華街の喧騒とは無縁の、おっとりした和やかな空気。 物腰柔らかで親切だった店員さんたちの姿。 ふんわり漂っていた、化粧品か香水の上品な香り。 祖母の自慢の総白髪や、決まり文句だった「はあ、そうしてちょうだい」という声、どんな場所でもすぐに眠くなってしまう仏像のような顔、そして、カメオの繊細な彫刻を静かに撫でていた皺だらけの白い手と、洋服に合わせてきちんと毎朝選んでいた指輪まで。 祖母が目を留め、気に入り、私のためにと買ってくれたものだからこそ、このカメオは世界にただひとつの特別なものなのだと、今はわかります。 好き嫌いなど関係ない。 金銭的価値など、まあどうでもよくはないけれど、決して最重要項目ではない。 大事なのは、このカメオが、私と祖母だけが知る大切な時間と記憶をずっと抱え込み、守ってくれるタイムカプセルの役目を果たしていること。 もういない祖母の気配を私に思い出させ、祖母との絆を繋ぎ続けてくれていること。 今なら。 今ならもっと素直に、あの日の祖母に「ありがとう!」が言えるのにな、と、思い出と一緒にほろ苦い後悔も湧き上がりますが、こればかりはどうにもならないことです。 歳をとってこそわかることがあるのに、わかった頃には相手はもういない、というよくあるパターンですね。 おっと、そんな感傷と共に、余計なことまで思い出してしまいました。 ロンドン三越、実は地下一階に日本食レストランが併設されていました。 丁寧に調理されたお弁当やお寿司を提供していて、日本人観光客だけでなく、現地在住の日本人の方々にとっても、当時はとても貴重な存在だったようです。 買い物を終えた祖母、店員さんの「よろしければ、地下のレストランでお弁当など召し上がっていかれては? お刺身や炊き合わせ、あと天ぷらなんかが入っていて、とっても美味しいんですよ」と言われて、たちまち目を輝かせました。 「そうねえ、日本に帰れば美味しいお店がいくつもあるんだし、ロンドンまで来てわざわざ日本食というのは、どうにもつまらないけれど」 言葉ではそう言っていますが、たぶん祖母の脳内では、お刺身と天ぷらが腕を組んで踊っていたに違いありません。 「おすすめしていただいちゃったら、ねえ?」 そう続けて、祖母は私をチラリ。 今度は私が厳かに口を開く番です。 「駄目です。今日は午後に、ホテルでアフタヌーン・ティーの予定が入ってます。今朝、ティムにムリムリで席を作ってもらうことにしたんだから」 しかし、簡単には諦めない祖母、すぐに食い下がってきます。 「お寿司をひとつふたつ摘まむくらい、大丈夫よ」 「ティムから、『朝ごはんのあとはもう何も食べないように』って言われてるから、駄目」 「まあ、憎らしい」 私はこんなに日本食の気分なのに! と顔じゅうで主張する祖母ですが、そこでくだんの店員さんが、「あら、どちらのホテルですか?」と控えめに問いを挟んでくれました。 ホテル名を告げると、彼女は「あらあら、それは」と両手を口に当てました。とても上品な驚きの表現です。 「あのホテルのアフタヌーン・ティーは、なかなか大変ですから……そうですね、お孫様が仰るように、お昼はおやめになったほうが」 こういうとき、身内の言葉はスルーするわりに、他人の言葉は素直に聞き入れるのが高齢者あるある。 祖母も、「あら、そうなの? 残念だわ」と、ヒラリと態度を軟化させました。 「是非また、別の機会に」 「そうね。別の機会に。ああ、こんなことだとわかっていたら、こちらを優先させたのにねえ。でも、お約束だから」 ティムに我が儘を言った自覚はあるのか、さすがに「こんなことならやめておけばよかった」とは言わなかった祖母ですが、まあ、声のニュアンス的には「お茶のせいでお寿司を逃すなんて!」です。 気持ちはわかる。 お寿司の口になっているときに、甘いもののことなんて考えたくないよね。 でも、今日のアフタヌーン・ティーだけは、「やっぱりいいです」とは死んでも言えません。 そんなことをしては、日本の姫の名折れですから! 視線で祖母にそう言い聞かせつつ、一方では、明日には日本に帰ってしまうので、別の機会はなさそうだけど……とも思いつつ、ここは駄目押ししておくべきだと、私も「別の機会に」とすかさず重ねます。 「わかりました。本当に残念だけど」 「不用意にお勧めしてしまって、失礼致しました。せめて、美味しいお煎茶をお持ち致しますので、少しお休みになってください。その間に、免税用の書類をお作り致します」 そう言って、店員さんは席を立ちました。 「さあ、ここを出たら、次は『フォートナム&メイソン』に行くよ。お紅茶とかビスケットとか、お友達に買うんでしょ?」 私がそう言うと、まだご機嫌斜めの祖母は、つっけんどんに言い返してきました。 「買うけれど、今はお寿司のことが頭から離れないわ!」 「……酢飯に魚を載っけるかわりに、スコーンにジャムとクロテッドクリームを載っけましょう」 さすがにそのフォローはないな……と自分でも思いつつ、私は、少女のように膨れっ面をしている祖母を、同情半分、面白さ半分で見たのでした。 (ごめんなさい、デスマッチなアフタヌーン・ティーは来週! しばしお待ちください)

応援コメント
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あさば 2022/08/23 14:55

先生とお祖母様を繋ぎ続けるカメオのブローチ。 今回は人気エッセイの一話を飾ることになったので、しまい込んでいたことを許してもらえそうですね。カメオを贈ったことで、お祖母様にもロンドン旅行の想い出が一つ増えたのではないでしょうか。 「ロンドン三越でお寿司を食べる機会を阻止した鬼のような孫」という想い出になっていなければいいのですが。 ずいぶん遅刻してしまいましたが明日の更新を楽しみにしています。

ステキユーザー 2022/08/18 03:40

お祖母様の「他人に選んでもらったものが値打ちがあるの」というお言葉 最初今一つピンと来ませんでしたが、読み進むうち「なるほど」となりました 確かに私も意に添わないものを貰ったことはあります しかしそれを見るとそれを贈ってくれた人の顔やその時の状況など、直ぐに思い出せます 価値があるのは物よりも記憶なんですね お祖母様のわがままは毎回クスッと笑ってしまいます 先生とのやりとりも面白いです また来週を楽しみにしています

SAY 2022/08/17 03:03

おばあ様可愛いです。お寿司のお口なのにティータイムの為に我慢!でも姫様が無理を通した案件なので仕方なし!で我慢出来る姫様。 お土産のお話は深く頷かせていただきました。亡き父が中高生には高価な装飾品をお土産に幾度かくれましたが、当時の私は見た目が男の子だったので全く似合わず「このチョイスないわぁぁぁ」となっておりましたが、世間では言うお年頃をだいぶ過ぎてからやってきたオトシゴロ…その時にありがたみが出てきました(笑) おばあ様のお話で思い出しました。 帰宅したらお仏壇拝んどきます(笑)(‐人‐)チチサンキューヤデ!