晴耕雨読に猫とめし
自己肯定感の話 ⑪

作品に栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

「イギリスでお泊まりするのは、今日が最後だよ」 朝食の席で私がそう言うと、祖母は優雅にミルクティーを飲みながら、「あら」と小首を傾げました。 どこで習ったものか、カップの持ち手に人差し指を通すのではなく、持ち手を親指、人差し指、中指で挟むように持っています。 うーん、ロイヤル! そんなところまで、「姫」になりきっているとは。 「もう、そんなにここで過ごしたかしら」 「過ごしましたよ」 「もう少しいてもいいように思うけれど。あと2、3日くらいなら延長しても、ねえ?」 「海外旅行の場合は、そう簡単に日程変更はできないよ。有馬温泉に来てるわけじゃないんだからさ。飛行機の手配とか……ほら、色々と」 私が払ってるわけじゃないけど、お金のこともあるからね! ここ、一泊いくらだとお思い? などという世知辛い台詞は、姫の手前、口にすべきではないでしょう。 曖昧な言いようで延泊を却下した私に、祖母は、「まあ、頭の固いこと」と不満げな顔つきになりましたが、そこに颯爽と現れたのが、朝食時には必ず顔を合わせる、スパニッシュ系の陽気なウェイター氏。 たっぷりのヘアワックスを使い、癖のある短い黒髪をつやっつやのオールバックにセットしている彼は、若くてとてもハンサムで、フレンドリーで、それでいて折り目正しいので、滞在中、祖母の大のお気に入りでした。 「さあ、どうぞ、マダム。今朝は僕が厨房に潜入して、いちばん大きなメロンを見つけ出してきましたよ」 そんな言葉と共に祖母の前に置かれたのは、くだんの「メロン半割・種を取り除いた凹みに苺山盛り」の一皿でした。 本当は、ビュッフェテーブルからみずから取ってこないといけない品なのですが、足がいささか不自由な祖母を労り、同時に「あの鈍くさそうな秘書に運ばせていたら、そのうち持ったまま転びそうだな」とでも思ったのか、毎朝、ウェイター氏が運んでくれるようになりました。 歯もそれなりにくたびれていた祖母なので、イギリスの、薄いけれど歯ごたえ抜群のトーストはどうにも咀嚼が難しく。 柔らかくて美味しいフルーツと、小さくて甘くて軽いデニッシュをひとつ、紅茶を2杯。 それが、彼女にとってちょうどいい朝食でした。 お昼も夜も美味しいものを食べたいから、お腹が膨れるシリアルやヨーグルトは願い下げ。 ジュース? 果物で十分でしょう。 胃にもたれる卵料理もお肉料理も、朝は要らないわ。 お魚? お魚は日本で食べるからここでは結構よ……という祖母の意向を尊重してくれつつも、サービスする側としては、もしや少し物足りなかったのでしょうか。 祖母の前に置かれたメロンは、確かに、銀の器からはみ出すほどのサイズでした。 メロンが大好きな祖母を喜ばせようと、本当は、わざわざ特別に大きなものを用意してくれたに違いありません。 「さすがのマダムも、今朝は食べきれずに降参なさるのでは?」 そんなウェイター氏の軽やかな挑発を通訳すると、祖母は持ち前の負けん気を発揮して、すぐさま「メロンなら、1つだってペロリと平らげるわ!」と言い返します。 ウェイター氏はそれを聞くと、舞台役者がカーテンコールで見せるような優雅なお辞儀をして、「それでこそ、我等がマダム。でも、決して無理はしないで」と、少しだけ癖のある英語で、優しい一言を添えてくれました。 それから、彼は私に視線を移し、派手なウインクをひとつ。 「今朝は……いつもほど空腹ではないかもしれませんね。何をご用意致しましょうか」 今朝もー! スタッフミーティング完璧ーッ! 「オリエント急行ディナートリップで帰りが遅くなったので、例のバッド・ガールは、昨夜はたいへんグッド・ガールでした」 などという報告が誰かから……おそらくはフロント係か夜勤明けのティムからなされたに違いありません。 しかし、読みが甘いよ、ウェイター君。 夜遊びしなかったということは、すなわち夕食後、まったく間食していないということなので、私は稀にみる腹ペコなのです! 私は普段、朝食など身体が受け付けないタイプの人間ですが、旅先だと何故かもりもり食べられる。そういう人種でもあります。 旅館の朝ごはんは、卵かけご飯に味付け海苔がジャスティスです。 しかし、ここはロンドン。 どうせなら、フルブレックファーストを楽しまなくては。 私はメニューも見ず、元気よくオーダーを発しました。 「カリカリのベーコン二枚と、柔らかめのスクランブルドエッグ、あと、焼いたトマトとベイクドビーンズと、焼いたマッシュルームたくさん!」 「焼いたマッシュルームたくさん」 ふむふむと聞いていたウェイター氏、最後だけ面白そうに復唱すると、”Very good."というお決まりの台詞を口にして、去っていきました。 私は、メロンの凹みに盛りつけられたイチゴを一粒ずつ楽しげに頬張っている祖母に訊ねました。 「今日は予備日で、特に予定は入れてないねん。お祖母ちゃんの体調と気分次第でどうにでもって感じなんやけど、何かしたいことある? 行きたいとことか?」 すると祖母は、真顔でこう言いました。 「もう、観光は十分にしました」 えええー? マジで? 私としては、あまりにも観光できていないので、帰国して伯父たちに何と報告しようかと、内心頭を抱えているというのに。 祖母は、「もう、ロンドンは見切った」と言いたげに、剣豪のような眼差しで私を見て、こう続けました。 「今日は、存分にお買い物がしたいわ。そろそろ三越に行っておかないとね」 「ああ、確かに。それはそう。みんなにお土産を買わないとだし」 「あと……ホテルのご近所の……なんだったかしら」 「フォートナム&メイソン?」 「そう、それ。それから、そうよ、アフタヌーン・ティーもまだじゃないの!」 「……あっ」 私は思わず天井を仰ぎました。 それー! なんか忘れてたと思ったら、それよ! 我々が宿泊中のこのホテル、実はゴージャスなアフタヌーン・ティーで有名なのですが、予約が必須。 しかも、けっこう競争率が高いという話を前もってCA師匠から聞いていました。 それなのに、予約をコロッと忘れていた私のばかばか。 しかし、言い訳をさせてください。 タイミングが、どうにも読めなかったのです。 というのも、アフタヌーン・ティーはけっこうなボリュームなので、その日のランチは抜くか、ごく軽く済ませる必要があります。 おそらく夕方もなかなかお腹がすかないので、夕食はやめにして、もう少し遅い時間に軽いお夜食でも……ということになるのではないでしょうか。 しかし、美食家の祖母としては、昼にも夜にもそれなりに美味しいものを楽しみたいわけです。 お茶とお菓子ごときで、食事の楽しみを奪われてはたまったものではない、というようなニュアンスのことを、旅の前半、どこかで言われた記憶があります。 それで、何となく予約し損じていたし、そういうことなら、無理して試すほどのものでもないかな、という気すらしていて……。 それなのに、何故今、このタイミングで思い出すかなあ! 実は現在、このホテルのアフタヌーン・ティーは、大人気すぎてずいぶん規模が拡大したらしく、時間帯も、昼前から夕刻まで2時間刻みでフル回転……という状態なのだそうです。 ですが当時はそこまでではなく、用いられるのは「パーム・コート」というとびきりゴージャスな空間のみ、時間制限も大して厳密ではなかったように思います。 ゆえに、余計に予約は難しく、しかし言い出したらきかない祖母のこと、忘れたり諦めたりすることはなさそうです。 ここはひとつ、我等がバトラーに相談するしかありますまい。 しかし朝食後、部屋に戻った私から打診を受けたティムは、初めて「うーん!」と難しい顔をしました。 そりゃそうです。 前もっての予約すら難しいというのに、当日の朝になってそんなことを言い出されても、困りますよね。 「ごめんなさい。せめて昨夜お願いするべきでした。やっぱり無理ですか?」 私が訊ねると、彼は即答せず、唇に人差し指を当ててしばらく考え込んでいましたが、やがて難しい顔のままで口を開きました。 「いえ、昨夜でも今朝でも、難しさに変わりはありません。当ホテルのアフタヌーン・ティーは、常に皆様にご好評をいただいておりますので」 「ですよね! じゃあ諦めて、どこか他をあたることに……」 「ノー。いけませんよ」 「えっ?」 「そんな風に、簡単に諦めてはいけません。でないと、僕が頑張る甲斐がないでしょう?」 「……あ」 ティムに窘められて、私は自分がつい、いつものように物わかりのいいふりをしてしまったことに気づきました。 そうでした。 本当に祖母の希望を叶えてあげたいと思っているなら、そして、ティムに無理なお願いを是非とも聞いてほしいと思っているなら、まずは私自身が熱意を見せなくてはいけないのに。 やんわりと叱ってくれたティムは、私が「ごめんなさい」と言いかけるのを礼儀正しく遮り、いつもの笑顔になって言いました。 「謝る必要はありません。ただ、『燃料』をくださればいいんです。僕が、あのタイトな空間に、お二方のための小さなテーブルと椅子をねじ込むのに必要なだけの」 私は深呼吸をひとつして、それから思いきり気持ちを込めて、「プリーズ」とティムに言いました。 「祖母はこのホテルがとても気に入っていて、このお部屋も、朝ごはんも、ディナーも、スタッフの皆さんも大好きです。このホテルの思い出に、アフタヌーン・ティーも加えてあげたいんです」 "Very good!" さっきのウェイター氏と同じ台詞を、ティムは笑みを深くして言いました。 たぶん、「かしこまりました」だけでなく、この場合は、「よくできました」の意味合いも込めてくれたのだと思います。 「お二方のバトラーがいかに優秀か、知っていただくよい機会です。どうにか致しましょう」 胸を張ってそう言ったティムは、「ただし……」と急に声をひそめました。 「はい?」 「今朝、マダムは大きなメロンを召し上がったと伺っております」 情報伝達、早ッ。 目を丸くする私に、ティムは小声で囁きました。 「当ホテルのアフタヌーン・ティーはなかなかの強敵ですよ。どうか、この後は何も召し上がらぬよう、マダムにご忠告ください。勿論、あなたも」 「了解です!」 私がへたくそな敬礼をしてみせると、ティムもまた、こちらは英国海軍式のかっこいい敬礼を返して、片目をつぶりました。 「アフタヌーン・ティー作戦については、僕にお任せを。では、本日のその他のご予定を伺いましょうか」 そうか。こうして、ティムと一日の予定を話し合い、あれこれと手配してもらうのも、今日が最後なのか……。 急にじんわりとした寂しさを感じながらも、私は「まずは、祖母が食休みから復活したら、ピカデリーの『ロンドン三越』でお買い物を……」と喋りつつ、彼が小さなメモ帳に素早くペンを走らせるのを眺めたのでした。 (次回、今は亡きロンドン三越からの、アフタヌーン・ティーという名のデスマッチ……までたどり着けるかな? お楽しみに!)

応援コメント
0 / 500
なな 2022/09/08 12:02

なんてイケメンなんだ!ティムさん!大事なことですね。助けてあげたいと思ってくださる相手なら、惜しみなく受け取って心からありがとうと言うべきときもあるって。本当に実り多き素敵な旅ですね...

あさば 2022/08/11 05:53

もう、そんなにここで過ごしたかしら 楽しくて満足な滞在だったのでしょうね。とても姫らしく素敵な台詞。 相変わらず優秀なバトラー、ティムとのお話はよい勉強になりました。ひとりで何とかしようとして、気持ちを抑えたり諦めてしまうので。 圧で動かされる仕事は嫌なものですが、熱の無い要求や手腕を信じないような振る舞いは、相手をがっかりさせてしまうのだと心に刻みます。 マダムの本腰を入れたショッピングからのデスマッチ(え?!)、まだまだワクワクできそうです。

SAY 2022/08/10 03:26

姫様ティーカップ持ち方完璧…流石姫様!!! ホテルスタッフが皆さま本当にチャーミングだなぁとしみじみ思いました。 それで今回もティム!惚れてまうやろ!!!ですね。 来週のロンドン三越からのティムの有能さ全開アフタヌーンティー楽しみにしております✨

ステキユーザー 2022/08/10 03:25

お祖母様のお買い物とアフタヌーンティー🎶 どちらも楽しめそうなイベントですね しかし、本場のアフタヌーンティーはかなりのボリュームと聞きます お祖母様お腹は大丈夫でしょうか? もしや別腹発動されるとか?! バトラーティムさんはいつもステキですね お持ち帰りしたいくらい(笑) 来週も楽しみにしております😄

ステキユーザー 2022/08/10 03:19

アフタヌーンティーってやっぱりボリュームありますよね?気持ち良く食べ切る事の出来るタイミングが難しいのわかり過ぎる。 次回のコンシェルジュ殿の手腕を楽しみにしています。