晴耕雨読に猫とめし
自己肯定感の話 ⑩

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夢のようなオリエント急行の旅からホテルに戻ったのは、ずいぶん遅い時刻だったと記憶しています。 「あああ、疲れたわ!」 タクシーの中でも、左右にぐらんぐらん揺れながらあくび連発だった祖母、部屋に辿り着くなり、ベッドに直行、そしてダイブです。 カーペットの上に、エナメルのぴかぴかしたぺたんこ靴が、コロン、コロンと転がっていて、いかにも最後の力を振り絞ってそれだけは脱いだんだな、という風情。 急いでバスタブにお湯を張ったところで、とてもお風呂に入る余裕はなさそうです。 まあ、汗をかくような季節でもなし、明日の朝でも大丈夫。 高齢者の常か、はたまた時差ボケマジックか、祖母はのけぞるほど早起きなので、おめざのお茶を飲んでからゆっくり入浴しても、朝食には余裕で間に合うことでしょう。 ただ、晴れ着のままで眠ってしまっては、身体がちゃんと休まらない気がして、私は大の字になった祖母から、一枚、また一枚と苦心惨憺して服を脱がせ、パジャマを着せつけました。 祖母はときおり億劫そうに手足を少し上げてくれる程度で、あとはじっと目を閉じているだけ。 これはなかなかの「やわらか重量系老婆マネキン」やな……などと思いながら、パジャマの前ボタンを留め終えたところで、祖母が眉根をギュッと寄せたやけに険しい顔で、目を閉じたまま何かブツブツ言っているのに気づきました。 「何? 辞世の句?」 時代劇なら確実にご臨終シーンなのでついそう訊ねると、祖母はカッと目を見開き、「それはまだ」ときっぱり言い放つと、こう続けました。 「お化粧を落としてちょうだい」 ええー? ベッドの上で? 「さすがにそれは、洗面所で顔を洗ってもらわないと」と言った私を、祖母はむしろ物知らずに対する哀れみの目で見上げてきます。 なんだなんだ、私、何かおかしなこと言った? すると祖母、本当に面倒臭そうに10センチくらい右手を挙げてバスルームのほうを指さしました。 「あそこに、コールドクリームがあるから、持ってきてちょうだい」 はて、コールドクリームとは? よくわかりませんが、言われるがままに洗面台の周囲にズラリと並べられた祖母の化粧品を漁ると、なるほど、円筒形の小さな容器に「コールドクリーム」と書かれています。 蓋を開けて匂いを嗅いでみると、おお、昭和女子の香り。 容器もかなり昭和感が漲っていて、とてもクラシック。 こんなの今どき、どこで買うんだい……と首を傾げながら、私は祖母の待つベッドに、よいしょっと上がって胡座を掻こう……として、自分自身はまだスーツ姿だったことを思い出し、お上品に座りました。 「あったよー。これ、冷たいクリームなの?」 「クリームはだいたい冷たいでしょう。それを顔にたっぷり塗って、マッサージしてちょうだい。白粉が全部落ちるように」 「ほうほう……? つまりこれはクレンジングクリームなのね?」 言われるがままに、私はクリームを指にたっぷり取ると(まあまあ冷たかったです)、祖母のほっぺたに小さな山を作ってから、顔全体に塗り広げ始めました。 何だか、奇妙な感覚です。 思えば、赤ん坊の頃はいざしらず、物心ついてから、祖母の顔に触れる機会など一度もありませんでした。 この旅に出てからは、色々な場面の介助で手や腕に触れることはありましたが、顔は本当に、人生初タッチの心境です。 祖母の頬の皮膚はいやにひんやりしていて、とても薄く、柔らかく、そのくせハリがなくて、何だか……そう、温めた牛乳の上に張る膜のような感触でした。 あの膜と違うのは、指先にまとわりついてこないこと。 クリームを丹念に塗り、ファンデーションが落ちるよう、指先でくるくるとマッサージしていても、人間の皮膚というよりは繊細なシートを擦っているような感じで、どうにも落ち着きません。 「こんな感じでええの?」 不安になって訊ねてみると、祖母はやはり目をつぶったままで、「もっと丁寧に、隅々まで。白粉が残らないようにね」と厳しい口調で言いました。 「はー。ちゃんとしてるねえ。私なんて、疲れてるときは、使い捨ての化粧落としシートでシャッシャッと拭いて寝ちゃうよ」 祖母の人使いの荒さに少し呆れながら私がそう言うと、祖母のほうは、もっと呆れた声音で言い返してきます。 「そういうことをしてると、あとで後悔するわよ。私なんか、若い頃はお湯を使うたび、ぬか袋で全身を丹念に擦ったもんです。だから今も綺麗でしょう」 いやもう本当に。 この旅を始めてからずっと、祖母のこのみなぎる自信というか、自己肯定感の高さというか、そういうものが眩しくて不思議でたまらない私は、思わず彼女に訊ねてしまいました。 「どうして?」 「どうしてかは知らないけど、ぬかで擦ると肌が白くきめ細やかになるって、私の母が……」 「ああいや、それは聞いたことがあるし、実際、お祖母ちゃんは今でも色白だけど、そっちじゃなくて」 「どっちなの」 「どうしてお祖母ちゃんはいつもそう自信満々でいられるのかなーって。絶対、迷わないやん? いつも断言するし、自分のことそうやって美人だと思ってるし。凄い才能だと思うんだよね。そのつよつよ遺伝子、引き継ぎたかったわ~」 祖母はやっぱり、私に顔をうにうにと擦られつつ、「もっとこのあたりを丁寧に」と言わんばかりに目元を指さしながら、さも当然といった口調で答えました。 「私はねえ、自分を生まれながらの美人だと思ったことはないの。だからこそ娘時代から、美しくなろうと努力したわけ。お肌が白くなるよう磨いて、お化粧を工夫して、髪型も着るものも、自分に似合うものを研究して」 「それは凄く偉いけど、努力したって、実るとは限らへんやん?」 「努力しなければ0のままだけど、100努力すれば、1か2にはなるでしょう。1でも違いは出るのよ」 「そんなもんかなあ。骨折り損の……って感じがするけど」 「あんたはそうやって、最初から諦めているから不細工さんのまま。0どころか、日焼けして、お手入れをさぼって、お洒落もしないで、マイナス5にも10にもなってしもてるんと違いますか?」 「ヴッ」 思わず、喉というよりみぞおちのあたりから、変な声が出ました。 祖母の目尻を擦る指に、つい力がこもります。 「あんた自身が、本当にそれで構わないと思ってるんならいいけれども、そうと違うでしょう。人の目も気になる、自分でも気になる、美人に生まれた他人様が羨ましい」 「うう」 もはや返事というより呻き声ですが、祖母は、私のコンプレックスなどお見通しだったようです。 「それなのに何もしないのは、自分を見捨てて痛めつけてるようなもんよ。それで自信が持てるはずがないわ。鏡を見て、ああ、昨日の自分より少しだけ綺麗だわ、って嬉しく楽しくなれるように、少しでも努力してみたらどうなの」 「ぐう」 「もっと綺麗になれる、もっと上手になれる、もっと賢くなれる。自分を信じて努力して、その結果生まれるのが、自信よ」 祖母の言葉には少しの澱みもなく、でも同時に、驕りもありませんでした。 家事にも育児にも趣味にも努力を惜しまなかった、そんな自分自身への信頼と尊敬が、祖母のあの堂々とした態度の源だったようです。 そりゃ羨んでいるだけで身に付くものでも、DNAで受け継げるものでもないわ。 むしろ、これまで祖母の態度を、偉そうやなあ、謎の自信やなあ、なんて思っていた自分が恥ずかしいわ。 謎でも何でもなかった祖母の自信の根拠と理由を知って、感嘆と自己嫌悪で言葉を失った私に、祖母はツケツケと命じました。 「もういいから、熱いタオルを作ってきて、綺麗に拭いてちょうだい」 あ、そういうタイプの化粧落としですか。なるほど。 洗面所で熱いお湯を出してフェイスタオルを濡らして絞り、その蒸しタオルをしばらく顔に乗せてパックしてから、コールドクリームを拭き取っていくと、現れた祖母の素肌は、シワがあっても、ハリがなくても、ピカピカでした。 自分の長年の努力の賜であるこの肌を、祖母は誇りに思い、美しいと心から感じているのだなあ、と納得できるほどに。 「確かに、お祖母ちゃんは何でも全力投入やもんなあ……。そうか、だから、全方位自信があるんや」 「そうよ。自信なんて、ないよりはあったほうがいいでしょう」 「そらそやわ。売るほどあったほうがええわ」 「まだ若いんだから、今からでももっと努力しなさい。色んなことに」「はぁい」 ようやく目を開けた祖母と見つめ合って、私はこの旅行で初めて、自分の顔に心からの笑みが浮かぶのを感じました。 祖母も輝くスッピンで笑っていました。 なんだろう。 今思い出しても、ちょっと涙ぐんでしまいます。 私が祖母と、率直に心をさらけ出して長い話をしたのは、あの夜が最初で最後でした。 どうして、祖母が生きているうちに、もっと会う機会を持たなかったのか。 こんなに親密になれた一瞬があったのに、何故また、そこはかとなくよそよそしい、希薄な関係に戻ってしまったのか。 悔やんでも悔やみきれませんが、それでも、せめてこの夜があってよかったとしみじみ思います。 祖母と二人きりで語り合い、教わったことは、今も私だけの大切な宝物です。 お化粧を落としたら、あとは化粧水と保湿クリームで肌を整えるだけ。 「ああ、気持ちがよくなった。さっぱりした」 そう言った五秒後には、もう祖母は健やかな寝息を立てていました。 「ありがとうはー? チップもくれていいんだよ~?」 小声で囁いてみましたが、応答なし。ぐっすりです。 相変わらず、脅威の寝付きのよさ。 今日は色々盛りだくさんで疲れたと思うので、余計に入眠が早かったようです。 さーて、今夜も訪れた、深夜の自由時間! 私はスーツ姿のまま、財布を持って、抜き足差し足で部屋を出ました。 といっても、さすがに外出はなし。 向かったのは、ホテルのエントランスロビーの片隅に設置された公衆電話でした。 海外で携帯電話を使うことなど夢の夢だった時代、必要だったのは、小銭あるいは日本で言うところのテレホンカード、イギリスでは「フォーンカード」と呼ばれていた固くて四角いカードでした。 受話器を取って、カードをスロットに差し込み、数字が書かれたボタンをぽちぽちと押して電話をかけるのです。 日本の呼び出し音とは違う、ブーッ、ブーッ、という音が幾度か続いたあと、耳に押し当てた受話器から聞こえた「ハロー?」という懐かしい友人の声。 一日じゅう祖母の声ばかり聞いているので、とにかく誰かと存分に英語で会話できることが嬉しくて、私は挨拶を返し、他愛ないお喋りを始めました……。 「はあ……」 たぶん、たっぷり1時間は話し込んでいたと思います。 通話を終えた私は、溜め息をつきながら、エントランスロビーを横切りました。 もう真夜中を過ぎているので、エントランスの扉の向こうに立っているのはいつものドアマンではなく、眠そうな若いベルボーイ。 フロントにもスタッフの姿はなく、呼び鈴だけがちょこんとカウンターに置かれています。 宿泊客の姿も見えず、いつもは賑わっているスペースに自分ひとりという状況が、なんとも奇妙な気がしました。 しんと静まり返った中で見上げる、ロビー中央の巨大な花瓶。そして、そこにいけられた大量の赤いバラ。 深く息を吸うとバラの芳醇な香りが胸いっぱいに広がって、ちょっとクラクラするほどです。 お城にひとりきりで暮らすお姫様は、こんな感じだろうか。 祖母姫と旅をしてきたせいか、そんな柄にもない空想を脳内で展開しかけたそのとき、背後から不意に名前を呼ばれ、私は飛び上がりました。 バッと振り返ると、そこに立っていたのは、我等のバトラー、ティムでした。 「こんばんは。今夜はグッド・ガールですね」 ニッコリして挨拶してくれる彼は、いつものパリッとした制服のままです。私は再び驚いて訊ねました。 「まだお仕事中ですか?」 すると彼は、笑顔のままでこう答えました。 「今夜は、夜勤があるんです。僕たちは交代で夜通し詰めて、お客様に応対しますからね。でも、何もご用がなければ仮眠できるので、これから宿直室へ行くところです」 なるほど! そういえば、二日目の夜、祖母がうっかりお風呂のお湯を溢れさせてしまったとき、大量のタオルを持って駆けつけてくれたのはティムではなく、もっと年かさのバトラーでした。 「今夜はたくさん眠れるといいですね」 「本当に! もし明日の朝、僕が眠そうな顔をしていたら、労ってください」 そう言ってウインクした彼の顔には疲労の欠片も見えず、サービス業のプロは凄いなあ、と感心していると、彼は私の顔を覗き込み、小首を傾げました。 「なんだか元気がありませんね。オリエント急行の旅は、お楽しみになれませんでしたか?」 本当に、サービス業のプロは凄いなあ……。 たちどころに気持ちの落ち込みを悟られてしまい、私は半ば感心、半ば閉口しつつ、正直に答えました。 「オリエント急行は楽しかったです。ただ、さっき、ブライトンに住んでいたときのルームメイトと電話していて……」 「おや、それは素敵ですね」 「そうなんですけど、本当は明日の夜、彼がロンドンに出てきてくれるはずだったんです」 ふむふむと礼儀正しく耳を傾けてくれていたティムは、片手を頬に当てると、ちょっと悪戯っぽい目つきをして、小声で囁きました。 「He(彼)……もしや、ボーイフレンドですか?」 「んー、そのような、ものでもあり、ソウルメイトのようなものでもあり」 私の曖昧な返答に、ティムはクスリと笑って、すぐにビジネスライクな気取った表情に戻りました。 「素敵なご関係です。それで……?」 「でも、急に外せない仕事が入って、終わるのが夜の十時を過ぎるんですって。それからロンドンに出てくるのは、ちょっと」 「本数は少ないですが、列車はありますよ?」 私は力なく首を横に振りました。 「翌朝も早くから仕事だし、車の運転もあるので、無理をしてほしくないです」 「ああ、それは確かに。では、あなたがブライトンへ出向くというのは?」 「それも考えたんですけど、列車、けっこうな確率で遅れたり、あっさり運休になったり、終着駅が変わったりするでしょう?」 私の言葉に、ティムは大袈裟に顔をしかめ、両の手のひらを天井に向けました。 「仰せのとおり。列車旅は、ちょっとしたギャンブルのようなものですからね。目的地にたどり着けないことも、目的地から戻れないことも、大いにあり得ます。深夜、お目覚めになったときにあなたがベッドに戻っていらっしゃらないと、マダムがパニックに陥ってしまわれるでしょう。明日の夜は、残念ながら僕はいませんから、何とか誤魔化すということもできません」 そう言って、ティムは私からバラのほうへ視線を向け、こう続けました。 「それに、深夜の列車は……色々な人が乗りますからね。安全面でお勧めできないのも事実です。きっと、またの機会がありますよ。そんなことしか言えず、残念ですが」 私もバラを眺めて頷きました。 「彼に会いたくて来たってところもあるので、本当に残念ですけど、こればかりは仕方がないです。でも、きっとすぐこの国に戻ってくるので。大丈夫」 「ええ、大丈夫ですとも。そのときは、またここにお泊まりください」 「それは、お財布的にどうでしょう」 「お仕事を頑張って。あるいは、再びマダムとご一緒に。バッド・ガールのサポートはお任せあれ」 大丈夫とは言いつつ、やはり凹んでいる私を気遣ってか、ティムは笑顔で、そんな軽口を言ってくれました。 本当に、このホテルのスタッフの温かな思いやりに、私は助けられてばかりです。 本心を言えばもう少しお喋りしたい気分ではありましたが、彼の仮眠時間をこれ以上奪うわけにはいかず、私は自分から「おやすみなさい」を言いました。 「おやすみなさい。明朝、昨夜はあなたがグッド・ガールだったと知ったら、ドアマンが喜びますよ」 そう言って去って行く彼のシャンと伸びた背中を見送り、私は気を取り直して、でもやっぱりとても寂しい気持ちで、祖母が眠る部屋へと戻ったのでした。 (来週はまた朝から元気に動きます!)

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あさば 2022/08/03 17:29

大切な宝物を教えてくださってありがとうございます。 人の目を気にしても、他人様を羨ましく思っても、努力して超えるべきは常に自分であるところが美しいなと思いました。 バッド・ガールに変身する先生がなかなか見られなくて残念ですが、お出かけせずに部屋へ戻られて少しホッとしていたりもします。このお話ももう10回目、ガール時代の先生が親戚の娘さんのように思えているのかもしれません。 来週も楽しみですっ!

SAY 2022/08/03 12:55

おばあ様のつよつよは努力と経験に裏打ちされた素敵つよつよですね✨そして、正論で実行なさってるからお耳が痛いです‥自分磨き大切‥宝石も磨かなければただの石ですもんね。 ティムも先生のことよくみてらっしゃる。本当にお伺いするだけでもホスピタリティが身に付いてるなぁと。 当時の先生も専属秘書から専属エステティシャンまでご苦労様でした。 また来週も楽しみにしてます🎵

ステキユーザー 2022/08/03 11:08

毎週楽しみに拝読しています。 ちょうど今の私の母が、当時のお祖母様くらいの年齢で、お祖母様に比べれば小者(せいぜいスーパーで服を選ぶ私に「私はデパートじゃなきゃ嫌」と店員の前で言いきる程度の)ながら、どことなく似ていると思っていましたが、お祖母様の自己肯定感の根拠を伺って、似ているなどとんでもない勘違いだと反省しています。 とても楽しく、勉強になるお話しをありがとうございます。 次号以降も楽しみにしています。

ステキユーザー 2022/08/03 04:11

お祖母様の「自信は努力の後からついてくるもの」というようなお言葉に、「はっ」としました そうですよね 何にもしなくて自信なんて出来ませんよね 私はもう若くはないですが、まだ寿命は尽きていないので、これからをより良く過ごすために頑張ってみようと思いました お祖母様ステキです❤ バトラーティムもステキですね さり気にお話してくれるあたり、気遣いの人ですね 素敵なお祖母様と素敵なホテルそして素敵な従業員 ほんとうに素晴らしい思い出ですね👏👏👏 また来週も楽しみにしてます

ステキユーザー 2022/08/03 02:16

何だろ、目から汗が... 自己肯定感って何かしら才能のある人が持っている物だと長い事思っていましたが、自分で作っていく物なんですね。お祖母様ありがとうございます。もう少し頑張ります。