ロンドンのヴィクトリア駅といえば、私にとっては古なじみの友人のような駅です。 何故なら、かつて暮らしたブライトンからロンドンへ行くとき、いつも到着する駅だったから。 小さな街、丘、羊、池、羊、川、教会、羊、丘……というイングランドの田舎の風景が突然切り替わり、新旧入り交じった大きな建物が目に入り、緑が極端に減りると、もうすぐヴィクトリア駅。 さて、今日は何をしようか。 美術館で大好きな絵を心ゆくまで眺めようか。 博物館を特にあてもなく歩き回ってみようか。 それとも、ロンドン動物園の素敵なペンギンプールの前で夕方まで座っていようか。 公園のベンチで、リスが現れるまで待つのもいい。 今思えば、なんて贅沢な時間の使い方だったんでしょう。 暇ってステキ。 とにかく、列車からホームに降り立ち(当時は、窓を下ろして自分で扉を外側から開く、懐かしのシステムでした)、ワクワクした気持ちを軽やかな足取りに乗せて、天井が驚くほど高いヴィクトリア駅の構内を歩くのが、私はいつだって大好きでした。 しかし今夜は、少し様子が違います。 私も祖母も、なかなかのドレスアップ。 特に祖母は、生地が軽くて柔らかい、お気に入りのレオナールのワンピースをまとい、レースのカーディガンを羽織り、薄手のコートを重ねています。 レオナールお得意の、色鮮やかな植物が躍るあの派手なワンピース、地味好みの私には、未だに触れることすらできる気がしません。 でも祖母は、ワンピースの華やかさに負けない真っ赤な口紅をキリリと引き、総白髪を雲のようにふわりとセットし(私が頑張りました)、惚れ惚れするほど華やかに着こなしていました。 思い出しても、あれは立派な出で立ちだったな~! と感じます。 西陣織のとっておきのクラッチバッグも、ぺたんこだけどドレッシーな靴も、わざわざこのためだけに持参していてビックリしました。 気合い入ってる~! 私も、ロンドンに来てから、祖母の買い物のついでに「このくらいちゃんとしたものを着なさい!」と半ば無理矢理買い与えられた、ローラ・アシュレイのもっさり……もといコンサバでクラシックなスーツを着て、バッド・ガールは厳重に封印しています。 今夜の我々、いつも以上に「マダムと秘書」だなと思いつつ、人混みから祖母を守りながら向かったのは、2番ホーム。 近づくにつれ、何だか軽快な音楽が聞こえてきます。 ディキシーランドジャズ……? 駅で? えらい浮かれてんな! 首を捻りつつ歩を進めると、突然現れるアーチと、床に敷かれた細長い絨毯。 そして、お洒落なスーツを着込んだおじさんたちのバンド。 足で拍子を取り、笑顔で楽しそうに演奏しています。 さっきから聞こえていたのは、この人たちの生演奏だったようです。 ひょー。初っぱなからゴージャス! 実は、このヴィクトリア駅2番ホームは、オリエント急行専用の特別な乗り場なのです。 旅行の計画が持ち上がったときから、祖母が熱烈に乗りたがっていたオリエント急行。 でも、さすがに列車旅は、高齢の彼女にはいささか過酷でしょう。 体調に重大な異変が生じたとき、すぐに対処できない可能性もあります。 ならば! 日帰りだ! ありがたいことに、オリエント急行には、昔ながらの車両を使った日帰りショートトリップのプログラムがあります。 ランチ、お茶と観光、そしてディナー。 やはりここはディナーで豪華に、と伯父たちは考え、手配してくれたようです。 待合室ではシャンパンが振る舞われるそうですが、できるだけ外出時間は短くしたい上、祖母はとにかくせっかち。 到着、即乗車したがるに決まっていますし、待ち時間をできるだけ少なくしたほうが、体力の消耗も防げます。 なので、敢えて少しゆっくりめに駅に向かったのが功を奏して、すぐに乗車手続きをすることができました。 ホームに停車中のオリエント急行は、まさにアガサ・クリスティのドラマで見たまんまの、重厚で美しい車両です。 笑顔の素敵なおじさん、もとい制服姿のスチュワード氏が、「日本からのお客様はとても多いんですよ! 皆さん、『オリエント急行殺人事件』の話をなさいます。お読みになりましたか?」と朗らかにお喋りしながら、祖母と私を席に案内してくれます。 今回は3時間ほどの乗車なので、案内されたのは食堂車とおぼしき車両でした。 といっても、座席はソファー。窓際に二人が向かい合って座り、真ん中に造りつけの木製のテーブルがあります。 それぞれの席の間隔や通路など、決して広々しているとは言えない配置ですが、そこは列車なのでノープロブレム。 テーブルの窓近くに飾られたささやかな花や、テーブル自体にさりげなく施された装飾、そしてソファーの座面の、スプリングを感じる懐かしい固さ、ゴージャスな張り地。 何もかもが、古き良き英国を感じさせてくれます。 足元が冷えるからと(確かになかなかの冷気でした)配られるぼってりした膝掛けも、懐かしさが胸に来る感じです。 「素敵ねえ。若い頃から、いっぺんこれに乗りたかったのよ」 ゆったりとソファーに掛けた祖母は、辺りを見回し、他の席の方々と軽い礼を交わし、満足げに微笑みます。 なんだかロンドンに来てから、祖母は格段に笑顔が増え、そしてもとから堂々としていた立ち居振る舞いに風格が加わって、本物の貴婦人然としてきたような。 旅先で緊張しているせいもあるのでしょうが、やはり、「日本から来た姫」として異国で旅をしているという自意識が、祖母を生き生きシャッキリとさせているのかもしれません。 ロールプレイ、大事。 スチュワード氏が、祖母に声をかける。 「ウェルカムドリンクのシャンパンは如何ですか、だって」 私、通訳する。 祖母、私を見ずに、スチュワード氏に向かって日本語で、 「普段はお酒はいただかないんだけど、特別な機会だから、少しだけ」 私、通訳する。 "Very good, Ma'am" スチュワード氏、祖母に恭しくそう言って微笑み、去っていく。 「何が、『とってもいい』の?」 自分が本当は少し英語がわかることに気づいた祖母、旅の後半になり、こんな風に訊ねてくることが増えました。 「あー、あれはこの場合はその意味じゃなく、『かしこまりました』って言ったんだよ」 「そうなのね。そのあと何か付け加えてたのは?」 「お水も一緒にお持ち致しますって」 「行き届いているわね。さすがオリエント急行。ところで……」 「まずはご不浄だよね。列車が走り出す前に済ませておいたほうが安全でいいと思う。空いてるかどうか、見てくるわ」 私のほうも、だんだん祖母の行動や生理現象の間隔が理解できてきて、旅のはじめに比べれば、トイレへの誘導もずいぶん上手になったと思います。 オリエント急行のお手洗いは、やはり内装はすべて落ち着いた色の木目、床はモザイクタイルになっていて、驚くほど狭いものの素敵な雰囲気でした。 祖母が用を足すのを待つ間に、小さな白いシンクに水をちょっとだけ流してみたり、山盛りに用意された小さな石鹸の匂いを嗅いでみたり、壁の一輪挿しに生けられた赤いミニバラを眺めたり。 祖母に手を貸して席に戻ると、飲み物が用意されていて、ちょうど列車もゆっくりと走り出しました。 間違いなくこの旅のハイライトだね、と言い合いながら、二人でまずは乾杯。 優雅……なのですが、思ったより揺れるねオリエント急行!? シャンパンの液面がちゃぷちゃぷ波立つほどの揺れに、私たちはビックリしてしまいました。 いや、レールの上を走っているわけですから、揺れるのは当たり前なのです。まして、古い車両なのですし。 ですが、滑るように走る日本の新幹線や、車体が揺れる前にはわざわざ注意喚起のアナウンスが流れる在来線に慣れっこの私たちには、ちょっと衝撃の事態。 とはいえ、各国からお越しの他の乗客の皆さんも多かれ少なかれ同じだったようで、あちこちからさざ波のように驚きの声が上がったのが面白かったです。 でもそんな揺れなどものともせず、しばらくの後、ディナーが始まりました。 料理はすべて一品ずつ、オリエント急行のロゴマークが入った白いお皿で供されます。 正直、驚きの乗車料金のわりに、料理は普通。 勿論、列車で提供される料理としては相当にきちんとしているのですが、献立にも盛り付けにも味にも、これといって特筆すべきものはありません。 美味しいけれど……うん、そうね、という感じです。 ただ、盛大に揺れる車内で、スマートかつ丁重な給仕ぶり。 これだけは手放しで評価したいポイントでした。 立っているだけでよろめくような状態なのに、いちいちテーブルに来て、大きなスープポットからスープをよそってくれるときには、思わず息を呑んだものです。 軽くカレーの風味をつけたスクワッシュ(かぼちゃ)のポタージュ、スリルもスパイスになって、ディナーの中ではいちばん美味しく感じました。 さらにメインディッシュでは、お魚のときもお肉のときも、昔ながらに温めたお皿を置く係、メインと付け合わせを盛りつける係、ソースをかける係が連れ立ってやってくるのです。 狭い通路で入れ替わり立ち替わりサービスしてくれる、その仰々しさがなんだか面白くて。 祖母は笑いながら、「チップ。チップを差し上げなさい」と私に囁きました。 さすがにその場では、彼らの両手が塞がっていることもあり遠慮しておいて、あとでお礼のメモを小さな折り鶴にして添え、お渡ししました。 これは、ホテルのルームメイドさんたちにも喜んでいただけた、例のCA師匠が教えてくれたテクニックです。 グルメな祖母も、ここで料理の味に文句を言うのは無粋だと思ったのか、「列車の狭いお勝手で、よく頑張って作っていること」と、褒め言葉すら口にして、残さず食べていました。 それにしても残念なのは、これがディナートリップであること。 イギリス南東部のカントリーサイドを走っている、と言われても、何も見えないんですよ! 夜だから! それでも日本ならそこそこの夜景を楽しめそうなものですが、何しろイギリスのカントリーサイドはガチのカントリー。 窓の外は、ほとんど暗闇ばかりです。 ぶっちゃけ、どこを走っていても同じ! なんなら食事中は停車していてくれたほうが、みんなが楽かもしれない……そんなことすら考えてしまいますが、手抜きはなしなので、とにかく列車は走り続け、揺れ続け、スリリングなお給仕で食事は続きました。 そんな中、デザートまで食べ終えてしまうと、もう、することがなくて退屈するかも……と思いきや、そこはさすがのオリエント急行。 食後のコーヒーや紅茶をいただきながら、席に座ったままで楽しめるイベントがいくつか用意されていました。 各テーブルを巡ってリクエスト曲を演奏してくれる、ギタリストとバイオリニスト、フルート奏者のご機嫌なトリオ。 タロットカードを操る、クレオパトラ風メイクのミステリアスな女性占い師。 それに、トランプやコインを使い、客の手も適度に借りて、見事なテーブルマジックを披露してくれる、若くてハンサムな手品師。 なんというか、少し古臭くて地味なイベントが、クラシックな列車の旅にはよく似合っていて、車窓からの眺望なしでも、あっと言う間に3時間の旅は終わってしまいました。 占いによれば、私と祖母の旅は、最後まで穏やかかつ無事であるそうで、それは嬉しいのですが……穏やか……? この旅の間に、いつそんな時間があったかしら。 それはともかく、列車は再びヴィクトリア駅に戻り、我々は乗り込んだときと同様、スチュワード氏に案内されて席を立ちます。 列車の入り口で立ち止まった祖母は、名残惜しそうに、さっきまで座っていた座席を見てこう言いました。 「これが映画なら、日本から来た高貴な老婦人である私は、きっと殺されていたと思うんだけど……何もなかったわね。まあ、名探偵もいないことだし、帰りましょうか」 待って待って、そんなこと考えて乗ってたの!? 祖母の無邪気な空想が何やら可愛くて、私は噴き出してしまいました。 そうなると、さしづめ、地味で冴えない秘書の私は、意外と鋭い推理を繰り出して名探偵を驚かせる役柄なのでは? かっこいいのでは!? 「名探偵、いなかったのがかえすがえすも残念だねえ……」 「いたら私が死んでしまうじゃないの」 そんなくだらない会話をしながら、我々は夢の世界から戻ってきた心境で、タクシー乗り場へ向かうのでした……。 (まだ続きます。来週も読んでね!)
イングランドの田舎の羊の頻度すごいなっ! おばあさま、オリエント急行で殺される役はちょっと・・・。 異国から来た人間観察のエキスパートが華麗な推理を披露なさる役の方がお似合いかと存じます。でもそうすると、秘書の先生は聞き込みと証拠集めに奔走する役になるでしょうから、穏やかに過ごす時間は無くなりそうですね。 丁寧に書いてくださったので、オリエント急行の雰囲気を味わうことができました。ありがとうございます。 さて来週の姫様は?ってワクワクして待ってます♪
おばあさま!!!そこはおばあさまが名探偵になるターンで!!!(笑) ロールプレイングマジで大切ですね。 ラグジュアリー空間を楽しんでらっしゃるのすごく優雅で素敵です。 来週も楽しみにしております✨