晴耕雨読に猫とめし
自己肯定感の話 ⑧

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ロンドンで上演されるミュージカルは数多かれど、やはり劇場の美しさ、音楽とお芝居のわかりやすい素晴らしさにフォーカスすれば、「オペラ座の怪人」がダントツではないでしょうか。 私自身も10代の頃から何度も見てきた大好きな演目のひとつなので、祖母にも自信を持って薦められます。 そんなわけで、お昼寝を済ませて元気いっぱいの祖母と共に、私はタクシーで「ハー・マジェスティ」劇場へ向かいました。 2度の火災と再建を経て、1705年からずっと同じ場所に存在し続けている劇場なのだと出がけにティムから聞いていた祖母は、劇場のエントランスに入るなりこう言い放ちました。 「ロンドンにおける、京都の南座のようなものね! 南座のほうがだいぶ歴史は長いけれど。何しろあちらは、慶長年間に……」 お、おう。 日本最古の劇場を比較対象に持ち出すとは、さすが歌舞伎好き。 まさかこの劇場で、南座のルーツともいうべき出雲阿国の興行を語られるとは思わず、私は若干戸惑いながら、祖母の話に相づちを打ちます。 ここでも、エントランスホールの天井の装飾が「お寺みたいで落ち着いた美しさがあったわね」と、祖母は独特の観察眼と審美眼を発揮していました。 さらに予約時、祖母の足が不自由なことを伝えておいたら、とてもアクセスしやすい席が用意されていて、その配慮の手篤さにも、祖母は感動しきりでした。 「バーが急階段の先の、とても混み合った空間だから」と、飲み物までスタッフが祖母の希望を訊いて運んでくれ、何かと特別扱いが大好きな祖母姫、もはや上演前からテンションがクライマックスです。 興奮しすぎて途中で寝るん違うか……と心配しつつ見守っていましたが、それは杞憂でした。 最初から最後まで、祖母のおめめはぱっちり! それもそのはず、ロンドンの「オペラ座の怪人」は、わりとメインキャストの調子に派手な波があり、それを毎度力技でねじ伏せている……という印象だったのですが、その日は、怪人もクリスティーヌもラウルも、みんな絶好調だったのです。 加えて、事前に、ストーリーを場面ごとに分け、かなり丁寧にレクチャーしておいたので、英語が一切わからない祖母でも、舞台上で何が起こっているかはちゃんと追えて、楽しめた模様。 幕間に売りにくるアイスクリームを当然のように買って食べる間も、祖母はずっと、 「何もかもが素晴らしいわ! 役者さんだけじゃなくて、オーケストラの音もいいわ。演奏前に、指揮者の方がちょっと顔を出して、こちらにご挨拶してくださるのがチャーミングね! 劇場の音の響き方もいい。大きなシャンデリアだって、この劇場以外で見ても、本当の美しさは伝わらないでしょうね!」 と、私が合いの手を入れる暇もなく、マシンガンのように賛辞を繰り出していました。 めちゃくちゃ大好きやん! よかった! 「趣味は全身全霊でやってこそ」がモットーの祖母、能も謡いも一流の専門家に師事して真剣に学んできたため、うっかり耳が肥えてしまって、あらゆる歌舞音曲に厳しいところがあります。 幼い日、ピアノの発表会に来てくれた祖母に「あれでよく人前で弾けること」というシビアな評価を喰らったトラウマがあるだけに、私は内心ハラハラしていたのですが、喜んでもらえて本当に安堵しました。 しかも、祖母がもっとも注目したのは、舞台に上がる若きダンサーたちを厳しく指導し、闇に潜む怪人の秘密にも通じている、マダム・ジリーという役柄でした。 黒髪をきつく結い上げ、禁欲的な露出度最低限の黒衣を纏い、注目を集めるときにはステッキで床を打ち、いつも厳めしい顔つきをして、背筋をピンと伸ばして胸を張り、高圧的な物言いをする……そんな彼女に初見で目を留めるとは、さすが祖母です。 実際、いつ、どこで「オペラ座の怪人」を見ても、マダム・ジリーには、とびきりの実力派がキャスティングされているように思います。 地味だけれど、厳格さ、強さ、恐ろしさと同時に、教え子たちを導き見守る優しさ、思いやり、葛藤、苦悩なども短い公演の間に表現しなくてはならない、怪人と並ぶ複雑で難しい役どころです。 「あの黒い服の女の人が、この舞台の要石ね。あの人が軸になって、その周りをみんなが自由に動き回っているのだから、あの人がしっかりしていないと、この舞台はダメになる」 それが祖母のマダム・ジリー評で、私は仰天してしまいました。 鋭すぎる。そして的確すぎる。 有り体に言うと、それは、「偉そうで我が儘で厄介な婆さん」であった祖母を、「頭の中に莫大な記憶と経験と知識を詰め込んだ、偉大な人生の先輩」と認識し直した瞬間でありました。 「さすがだなあ」 思わずそう言った私に、祖母は澄ました顔で、「ミュージカルは初めてだけれど、色んな舞台を見てきましたからね」と胸を張り、そしてこう言い出しました。 「そうそう、忘れないうちにハロッズに電話してちょうだい」 「ハロッズに? なんで?」 訝る私に、祖母は厳めしく一言。 「昨日注文したステッキのデザインを変更してもらって。あの人みたいなステッキがほしいわ」 おいおい、天下のハロッズに、マダム・ジリーのキャラグッズを作らせようとすんなー! とはいえ、言い出したら聞かない祖母のこと、私は大急ぎでハロッズの売場に連絡し、親切な店員さんに、しどろもどろの説明でオーダー変更をお願いすることになったのでした。 帰国後に届いた杖を、祖母がマダム・ジリーよろしく、威厳たっぷりの得意顔で使っていたことは、言うまでもありません。 この日は、夜にもうひとつビッグイベントが予定されていたので、我々は買い物をやめにして、終演後はまっすぐホテルに戻り、次の外出に備えて休憩することになりました。 「淹れ方を学んできましたので、今日はこちらをどうぞ!」 そう言って、我等がバトラー、ティムが張り切って美味しいお煎茶を用意してくれたので、祖母も私もビックリ。 茶器もティーカップではなく、きちんと茶托とお湯のみを使ってくれていました。 「日本では、これが伝統的なお茶菓子と聞き、用意しました。疲れがとれるそうですね。ときに、僕も先ほど試食したのですが……恐縮ながら、これは、本当に……お菓子、なのですか? ソフトなドライフルーツと思いきや、たいへん……そう、センセーショナルな風味でしたが」 おそるおそるの口調でそう言いながら、美しい小皿にちょんと盛ってティムが出してくれたのは、なんと大粒の梅干し。 祖母が日本から持参した小粒のカリカリ梅と違って、見るからに南高梅、ふっくらした立派な梅です。 もしかしてハチミツ漬けかな、とちょっと齧ってみたら、さにあらず。 健康志向の昨今、日本でもなかなかお目にかかれないような、しっかりした塩分濃度の古典的な梅干しでした。 「お茶菓子とお茶請けはちょっと違う」 というのを咄嗟に英語でどう表現していいかわからず戸惑うわ、すぐさま口に入れたそれが予想以上に酸っぱかったらしく、口がマンガみたいに「*」の形になっている祖母が面白いわ、ティムも試食して同じ口になったと思うと滅茶苦茶可笑しいわで、私の情緒はとても忙しいことになりました。 でも、旅程も半ばを過ぎ、祖母と私が疲れているだろうと考え、お国の味でリフレッシュさせてくれようとしたティムの気持ちはとても嬉しく。 私は彼に心からのお礼を言いました。 「凄く美味しいです。ありがとうございます」 実際、濃いお煎茶と梅干しで、胸のあたりがすうっと整った気がします。 しかし祖母はといえば、美味しそうにお茶を飲みながらも、ティムに向かってこう言いました。 「お茶も梅干しもとっても美味しかったわ。でも、こういうときのお茶請けには、そうね、お干菓子……ううん、それより羊羹なんかがいいと思うのよ。日持ちがするし、切る厚みを変えれば、人数の調整もしやすいし」 私は咄嗟に通訳を躊躇いました。 だって、せっかくの心遣いに対して、そんな頼まれてもいないアドバイスはちょっと。 ですが、私の表情から躊躇を読み取ったらしき祖母は、やけに厳しい面持ちで今度は私に言いました。 「本当に感謝しているなら、具合の悪いことをそのままにしてはだめよ。そりゃ勿論、梅干しを喜ぶ人もいるでしょうけど、甘味のほうが無難でしょ。次に日本のお客さんが来たとき、この人が恥をかかないように、優しい思いやりがちゃんと報われるようにしてあげるほうがいいと思うわ」 ああ、確かにそれは一理あります。 ただ、ティムが気を悪くしないかなあ……。 祖母がきつい口調で「伝えてちょうだい!」と促してくるので、私はしぶしぶ、羊羹についてティムに話してみました。 すると……。 注意深く私の話に耳を傾けていたティムは、特に怒るでもなく残念がるでもなく、ただ自然に平静に納得してくれました。 「やはり、これはお茶菓子とは別のものだったのですね。お茶菓子にはヨーカン……もしやそれは、ビーンズプディングのことでしょうか?」そう問われ、私はポンと手を打ちました。 ビーンズプディング! そういえば、できたばかりの東京ディズニーランドへ行ったとき、お土産にまさかの羊羹があり、箱裏のラベルに「ビーンズプディング」と書いてあったっけ、と、例のマウス氏の顔などを思い浮かべながら、私は頷きます。 「そうそう、そうです。どこかで食べたことが?」 そう訊ねると、ティムは悪戯っぽい笑顔でこう答えました。 「ピカデリー・サーカス近くにある寿司バーのレーンで、スシと一緒に回っていますよ。これくらいの四角い薄いシートが、二枚ほどお皿に載って。甘くてネッチリしていて、なるほど日本茶に合いそうです」 なんと、ロンドンの回転寿司では、スイーツのラインナップに羊羹が入っているのですか。 しかも、ティムが親指と人差し指で示した羊羹の厚みは、薄手のダンボールくらい。 うっす! ペラペラやん! 私がティムの言葉を通訳するなり、祖母は酷い顰めっ面になりました。 「だめだめ、ここに勤めている人なら、一流を知っていなくては。帰ったらすぐ、『とらや』の『夜の梅』を送ると伝えてちょうだい。それを分厚く切って、渋めのお茶と召し上がれって! お茶も私のお気に入りの、『一保堂』のものを添えます」 祖母の「送る」は、おそらく叔母や母が手配して、私が発送するわけですが、まあ気は心。 本当にティムのためになることをしたい、自分が思う「最高のもの」を味わってみてほしい、そんな祖母の気持ちは、私にもしっかりと伝わりました。 ティムにもそれをわかってほしい。願いを込めて通訳すると、ティムはとても嬉しそうに微笑んで、祖母に恭しく一礼しました。 「ありがとうございます。マダムのお勧めを味わうことを、楽しみにしています。次に日本からゲストがいらっしゃったときには、きっと美味しいビーンズプディングでおもてなしを致しましょう。素敵なマダムからの教えだと打ち明けて」 素敵なマダムと言われて、祖母は満面の笑み。 「それがいいわ。でも、もし甘いものが苦手な方や、朝のおめざには、この美味しい梅干しを出して差し上げて。これはこれで、とても美味しいものよ。よいものを手に入れてくださいました」 ティムもすかさず一言。 「ありがとうございます。僕ではなく、お店の方のお手柄ですが」 私は胸を撫で下ろしつつ、なんだかいいなあ、と感じていました。 おそらくこの旅を終えたあと、祖母はイギリスを再訪することも、ティムに再び会うこともないでしょう。 でも、ティムの親切のおかげで、日本で梅干しを食べるたび、祖母は彼を思い出すでしょうし、ティムもまた、羊羹……ビーンズプディングを寿司バーで見るたび、祖母を思い出してくれるのかもしれません。 そうやって、一期一会の出会いにしっかりと楔を打ち込んでいく祖母の姿勢を、少しは見習いたいなあ……と思いつつ、今も、厄介そうなことからはそっと逃げてしまう、ヨワヨワの孫なのでした。 それはともかく、思いがけない日本の味で英気を養った私たちは、この旅いちばんのドレスアップをして、とっぷり日が暮れた頃、ヴィクトリア駅を目指したのでした。 そこで私たちを待っていたものは……待て次回!

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SAY 2022/07/20 13:14

おばあ様ちゃんとティムに向き合ってらっしゃいますねぇ。確かにここでキチンと正しい事を教えるのは彼の為ですよね。 おばあ様、言葉は直接は通じないですが、心遣いがキチンと伝わってるんだろうなと。 そしてティムもおばあ様もキュートですよね。 しかしビーンズプディング‥間違ってないけど何か納得がいかないような名前に(笑) 待て次号!待ちます待ちます!!!一週間の楽しみですので💕

ステキユーザー 2022/07/20 12:21

おばあさまのお話を伺うたびにもう少し自分の祖母と話す機会が欲しかったなという思いがつのります。 毎回とても心に沁みます。次回も楽しみです。

あさば 2022/07/20 11:41

マダム・ジリーのグッズ(?)を誂えるなら、天下のハロッズがふさわしいような気がしますし、ステッキを持つたびにお祖母様がマダム・ジリーを思い出されるのなら、こんなにステキなことはありませんね。 出会った方と楽しく過ごすことは素晴らしいことだけれど、その方がこの先もっと楽しい時間を過ごせるような経験を贈ることができたら、それはお互いの心に残る時間になるのではと思いました。 待つのも楽しい!でも早く読みたい! 待ってます次回!

ステキユーザーkair 2022/07/20 08:54

うきうきと待ちます!

ステキユーザー 2022/07/20 03:39

お祖母様は相変わらず素敵ですね お茶とお茶請けの感想を率直に述べられるところ 日本茶に対するお茶菓子を正すところなんかは、おっしゃる通りです 私も遠慮してしまうので、大きく間違っていないとそのままにしてしまいます 近くにいると色々大変だったんだろうなと思わされるのですが、お話を伺っていると、意見を率直に述べられるかっこよさに痺れます また来週も楽しみにしています😄