晴耕雨読に猫とめし
自己肯定感の話 ⑥

作品に栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

ロンドン塔を(一部)満喫したあと、予定どおりホテルに戻った我々は、部屋でしばし休息しました。 祖母は、日本にいるときと同じように、一時間ほどお昼寝を。 このお昼寝習慣、私には「時間が勿体ない~!」というジタジタ感がありましたが、これを毎日続けたおかげで、祖母も元気に旅を続けることができたように思います。 そういえば、この旅行に出掛けたのは秋のことでした。 早く行きたいとジタジタしていた祖母を待たせたのは、私の仕事のスケジュールがなかなか調整できなかったこともありますが、いちばんに、旅行によい時期を待っていたからです。 期待どおり、夜はけっこう冷え込むものの、祖母が活動する日中は比較的過ごしやすい気温でした。 それでもオーバー80には、見知らぬ土地というだけで消耗する環境だったことでしょう。 祖母が妙に険しい顔でぐっすり寝ている間に、私はホテル最寄りのスーパーマーケットに行き、自分用のお安い紅茶や、祖母が時々欲するおやつになるようなバラ菓子を買い、ドラッグストアに寄って、硬水が肌に合わず乾燥して痒いという祖母のための保湿クリームを買い……。 休息じゃなかったのかって? ふふ、この手のお買い物は、魂の休息、命の洗濯というやつですよ。 ついでに公衆電話(今となっては懐かしい響きですね……!)から昨夜とはまた別の友人に連絡し、今夜の待ち合わせ場所と時刻の確認も済ませます。 さて、目覚めた祖母が、日本から持参した梅干しを齧り、煎茶を飲み干すのを待って向かうことにしたのは、おそらくはイギリスでいちばん有名な百貨店、「ハロッズ」でした。 本当は、ホテルから徒歩5分の距離にある「フォートナム&メイソン」へ行く予定だったのですが、祖母が「食べ物をお土産に買うのはもっとあとでいいじゃないの。私、実はロンドンで絶対に買うと決めているものがあるのよ。デパートがいいわ」と言うので、予定を変更したのです。 くだんのドアマン氏に行き先を伝えると、すぐに待機していたタクシーを呼び、目的地をドライバーに伝えてくれます。 昨日や今朝と同様、祖母がタクシーに乗り込むのに優しく手を貸したドアマン氏は、次いで私が乗り込む前に、いささか渋い顔で耳打ちしてくれました。 「バッド・ガール、寝不足は大丈夫かい? ハロッズでは会計のたびに、このホテルに宿泊していると言いなさい。買ったものを全部まとめて届けてくれるからね」 そんな便利なシステムが? と驚く私に、彼はさも当然といった様子でこう付け加えました。 「奥様は杖をお使いにならないのだから、その分、君が両手をフリーにして、お世話して差し上げないと。そうだ、ハロッズで杖の誂えをお勧めするのもいいんじゃないかね? お気に召したら使ってくださるのでは?」 わー。 たった1日弱で、ドアマン氏は、足が不自由なのに杖を使いたがらない、祖母の意地っ張りな気性を見抜いていました。 そして、杖を好まない本当の理由も、彼にはうすうすわかっていたようです。 杖をつくのが格好悪い以上に、杖自体がお洒落でない、美しくない。 それが祖母の言い分でした。 でも、確かにイギリスは紳士の国。 かつて紳士の必携アイテムであったステッキの売場へ行けば、お洒落で高品質なものがあって、祖母の好みにそぐうかもしれません。 このホテルのスタッフは、よってたかって私に知恵を授けてくれるので、滞在中、何度となく助けて貰いましたが、これもまた素敵な助言でした。 タクシーの中で、「ハロッズで素敵な杖を買うってのはどう?」と提案すると、祖母も大いに乗り気になったのです。 「そうね、お友達に会うとき、パッと目を引く杖を持っていたら、みんな羨ましがるわね! 脚が悪いんじゃなく、お洒落で持っていると思われたいわ」 羨ましがられる前提! ベリーベリーポジティブ! でも、杖より先に、祖母には日本を出る前から、ハロッズで必ず手に入れたいアイテムがありました。 オーバーコートです。 しかも、重い外套は祖母にはつらいため、カシミア100%の、薄くて軽くて、それでいて暖かいものを彼女は欲していました。 ただ、祖母は小柄なので、ハロッズよりは、むしろ当時ロンドンにあった三越で買い求めたほうが、日本人の体型に合ったものが手に入るのではないか……と、私は現実的なアドバイスをしたのですが、祖母はキッパリとそれを拒みました。 「ロンドン三越にはいずれ行きたいけれど、日本の百貨店ではなく、イギリス随一の百貨店でコートを買いたいのよ! そのほうが記念になるでしょう」 ふむふむ、なるほど。何となく、気持ちはわかるような気がします。 長い歴史を感じるハロッズの格式高い建物に、祖母はまず、「デパートはこうでなくっちゃ」という満足の表情。 エントランスを入るなり漂う香水の匂いに早くも興味津々の彼女を、まずは第一の目的を果たすべく、やや強引に婦人服売場へと連れていきます。 ハロッズは巨大な百貨店なので、寄り道などしていたら、オーバーコートを選ぶ前に、間違いなく祖母の気力と集中力が失われてしまうからです。 たまたま売場に他のお客さんがほとんどいなかったので、店員さんたちはよってたかって、とても親切に祖母のフィッティングを手伝ってくれました。 案の定、コートはどれもサイズ、特に袖丈と着丈が祖母には長すぎたのですが、きちんと採寸し、仕立て直して日本まで送ってくれるそうで、たちまち問題解決。 あとは、軽さとデザインと色です。 私なら、2、3着試したところで店員さんにお手数をかけて申し訳なくなり、つい妥協してしまうと思うのに、祖母はまったく遠慮なく、「見たときはいいと思ったけど、着てみたらイマイチね。こんなものなら、どこにでもあるでしょう。次はそれを持って来てちょうだい。それからあっちのも。もっと軽いのはないの? これじゃ肩が凝ってしまうわ」と、目についたものを片っ端から持ってこさせ、袖を通していきます。 私の母くらいの年齢層の店員さんたちは少しも嫌がらず、祖母がリクエストしたコートをどんどん持ってきてくれて、「これはちょっと顔写りがイマイチですね」だの、「襟のデザインが少しメンズライク過ぎるかしら。この方にはもっとエレガントな襟元がいいわ」だのと、討論まで始めてしまいました。 途中から私が通訳しなくても、言葉ではない何かが祖母と店員さんたちの間で通じ始めたらしく、身振り手振りと表情で、だいたいの意思疎通が出来ている模様。 私はちょっと離れたところで、それをただただ感心して眺めていました。 祖母の「何がなんでもここでいちばん自分に似合う特別な1着を見つけるのだ」という熱意は、言語の壁を越えて店員さんたちに伝わり、彼女たちのやる気に火を点けたようです。 プロ店員とプロ客の真剣勝負ともいうべきごうごうとガッツ燃えさかるコート選びを見ていると、なるほど、買い物とはスポーツであったか、という感慨すら湧いてきます。 結局、祖母が「これよ! これがいいわ!」とついに言ったときには、広い試着室にコートの山が築かれていました。 鏡の前で祖母が着込んでいたのは、上品なキャメルカラーのコートでした。 えっ、あんだけすったもんだして、結局それ? 普通過ぎん? いえ、さすが祖母が選び抜いただけあって、「普通」ではありませんでした。 デザインこそ、「そんなん日本で買えるやん」と言いたくなるようなシンプルな一着ですが、特筆すべきは裏地だったのです。 裾が翻ったとき、見た人がちょっとドキッとするような、アプリコット色の光沢のあるサテン生地。 華やかで明るくて、でも決して下品ではない、絶妙なさじ加減の色合いです。 そこ来たかー! 「どう? 派手過ぎるかしらね?」 少し不安げに祖母が訊いてきたので、私は「まあ、派手っちゃ派手だけど、いかにもロンドンで買ったって感じだよ」と応じました。 自分では絶対に選ばない感じの裏地だったので、返答のエッジが鈍いのは許してほしいところです。 リーダー格の女性店員さんは、「お歳を召した方は、華やかな色を身につけたほうがよいと思います。お似合いですよ」と祖母に言ったあと、少し考えてこう言いました。 「本当に素敵です。ただ……ご本人はとてもお気に召しているので、あなたにお訊ねするんですが、ボタンが目立ちすぎると思いませんか? もう少し控えめな色とデザインのものに交換することを提案してもよろしいでしょうか。あと、襟も一回り小さくしたほうが、お体とバランスがいいように思うのです。どう思われますか? 日本の方の感覚は、私たちと違うかもしれませんから」 そつがない……! 客観的な意見も求めてくるプロフェッショナル魂に、私は驚きつつもやっぱり真剣に考え、「仰るとおりだと思います」と答えました。 無論、それは改めて祖母に伝えられ、祖母も「言われてみたらそのとおりだわ!」と感心しきり。 「お直しが済んだら、素敵にラッピングしてお送りします。ちょうど、寒くなってコートが大活躍する頃に、お手元に届きますよ。日本で楽しみにお待ちくださいね」と、最後まで素敵な言葉で見送られ、「さあ、次は杖ね!」と張り切る祖母を、まずはティールームに。 祖母の大好きなアイスクリームはなかなかの大盛りなのを知っているので、ふたりでシェアすることにして、あとは何といっても紅茶がマストです。 熱いミルクティーと冷たいアイスクリーム。いささか歯の神経にはハードですが、とても美味しい組み合わせなのです。 注文を済ませると、祖母はまだ興奮冷めやらぬ様子で身を乗り出してきました。 「さっき、何を話してたの?」 「は?」 「最後のほう、店員さんと話し込んでたでしょう」 「ああ、だからボタンとか襟とか、その辺の話」 「それだけ? 私を見る店員さんの目に、敬意を感じたんだけど!」 そりゃまあ、あんだけ粘る客も珍しいだろうから、ボクサーが対戦後、心ゆくまで殴り合った相手に抱くリスペクトみたいなものは感じたんじゃないですかね……と思いつつ、「そーお?」と曖昧にかわそうとした私に、祖母は鼻息荒く一言。 「日本の羽織に、ああいう派手な裏地を楽しむ文化があるのよ! チラッと見えた裏地で、それを着ている人がお洒落かどうかがたちどころにわかってしまうの」 「ほほう」 「それをオーバーコートに応用した私に、あの人たちも服のプロだから、きっと感動したはずよ。日本から、何て綺麗で上品でお洒落なお婆さんが来たんだろうって言ってたんじゃない!?」 言うとらーん! さすがにそれは言うとらん! 嘘はつけないから、何か……何かこう、彼女たちが口にした、祖母を褒める言葉はなかったか……。私は脳内を必死で検索します。 そして……。 「そうだ。ボタンと襟の話の前に、ちょこっと言ってた」 「やっぱり! 何て?」 「高齢者ほど、ああいう華やかな色を身につけたほうがいいんだって。お祖母ちゃん、髪が真っ白だから、あの裏地の色が凄く映えるって言ってたよ」 「まあ、この髪に目を留めるなんて、やっぱり一流デパートの店員さんは、さすがねえ!」 祖母、たちまち大満足スマイル。 ふう、今回もどうにかこうにか切り抜けたぜ……。 啜ったミルクティがことのほか美味しかったことは、言うまでもありません。 祖母はある年齢から髪を染めるのをやめて、今流行りの「グレイヘアー」を最後まで通しました。 グレイどころか雪のような真っ白な髪をパーマでふっくらさせているさまは、確かに見事で美しかったことを、今、懐かしく思いだしています。 旅から帰って1ヶ月後に届けられたオーバーコートも、施設に入って外套のこと、いえ、あんなに自慢しまくっていたこの旅のことが脳から綺麗さっぱり消え去ってしまうまで、祖母はずっと大切に、堂々と着続けていました。 あのあと、やはり店員さんたちを巻き込んだ大検討会の末にセミオーダーした杖も、お出掛けのときの自慢の種だったようです。 あのコートと杖、貰っておけばよかったな。まさに、後悔先に立たず、というやつです。 と、しみじみしたところで、帰り際、「有名な場所だからちょっと覗こうよ」と、「フードホール」つまり、ハロッズが誇る食品売場を覗いたときのことまで思い出してしまいました。 世界じゅうの食が集うめくるめく空間で、「ここでも今度、お土産のお菓子を買いましょう!」と目を輝かせた祖母、まさかのオイスターバーを目敏く発見、止める間もなくすかさず着席。 「夜に生牡蠣が美味しいレストランを予約したやんか~」 などという私の言葉は華麗にスルーされ、祖母はここでも1ダースの生牡蠣に挑戦したのでした。 結局、2日間で3ダースの生牡蠣をペロリと平らげた祖母、「ハロッズがいちばんよかったわ!」と旅行から帰ってもずっと言っていました。 どこも美味しかったけれど、やはり目の前で、白衣に縦縞のエプロンという独特の服装をしたハンサムな店員さんが、見事な手つきで牡蠣の殻を開け、「さあどうぞ、マダム」と人懐っこい笑顔で差し出してくれる……あのライブ感が、とてもよかったそうです。 「カウンター席って滅多に座らないんだけど、お勝手でつまみ食いをしているみたいで、たまにはいいわね」 何故かちょっとはしたない買い食いをしているような顔でそう囁いた祖母の笑顔は、少女めいてとても可愛らしかったことを、ちゃんと思い出せてよかったなあ……と、今、嬉しい気持ちでいます。

応援コメント
0 / 500
ステキユーザー 2022/07/07 07:50

お祖母様の「私が求めているのはコレなの!」そこを見つけるまで諦めない精神が素晴らしすぎてクラクラしてます。ハロッズでのコートを決めるまでの店員さんとのやり取りは正に情熱と情熱のぶつかり合いという感じですね。そこには遥か及びませんが、グレイヘアーを現在進行形の私。お祖母様の愛される可愛らしさと情熱の1分でも目指して頑張りたいと思います。

ステキユーザー 2022/07/07 00:08

パワフルさ高貴さはお祖母様の足元にも及びませんが、現在80歳台の似たタイプの母を持ち、毎週、共感しきりに楽しませていただいています。 私の唯一の海外旅行体験もロンドン(南ドイツとロンドン)だった懐かしさも覚えつつ。 続きも楽しみにしています。

あさば 2022/07/06 11:18

なるほど…なるほど…おぉ~となりました。 きっと綺麗で上品でお洒落なお婆様だったのでしょうね。お会いできないのが残念でなりません。 と読者の人が言っていたと、夢で聞かれたときにはお伝えください。ぜひ満足したお顔で微笑んでいただきたいものです。

ステキユーザー 2022/07/06 04:04

買い物はスポーツ!納得です!「あんた、いい球なげるじゃないか」「いまのを、返せるお前、すげえな」的なラリー感のあるショッピングの快感。数年に一度しか体験できませんが。

ステキユーザー 2022/07/06 03:30

お婆様は買い物のプロだったのですね 私も先生同様、2、3着試着をしたらその中の一番良さげなのを購入してます 何着も出してもらうのは気がひけるんですよね しかしさすがお婆様です言葉は通じずとも気持ちが通じ合って素敵な一着をお選びになるなんて やはり店員さんも服好きなのだと思うので、そういうこだわりのある方に選んで頂くのは最高に嬉しいことなんでしょうね 私もご一緒にお買い物楽しみたかったです 楽しいエピソードありがとうございました😊