晴耕雨読に猫とめし
自己肯定感の話 ⑤

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最晩年、視力が急激に低下し、何もできなくなって認知症が急速に進んでしまうまでは、祖母はとても多趣味な人でした。 そしてその趣味がことごとく雅でした。 茶道、華道、謡(うたい)、小鼓、人形作り、懐石料理、寺社仏閣巡り、能・歌舞伎鑑賞、骨董品……。 そう、祖母はとにかく美しいもの、豪華なもの、優雅なもの、伝統的なものが好きだったのです。 当然、ロンドン観光も、そうした祖母の美学に添うものでなくてはなりません。 美しいものが、嫌いな人がいて……? どころではないのです。 美しいものしか許しまへんえ、という過激派ララァのような人なのです。 知っていたつもりで、実のところそれをちゃんと理解できていなかった私は、最初の目的地、大英博物館で途方に暮れる羽目になりました。 重厚な建物こそ大いに気に入ったものの、誰もが興味津々のはずのミイラ部屋も、誰もが見たがるはずのロゼッタ・ストーンも、誰もが呆れるであろう「エジプトからとにかくでっかいものをガンガン持ち帰りました」コーナーや豪快に引っぺがしてきたギリシャの神殿の壁も、ことごとく祖母の興味の範囲外。 「干物や石ばっかり見せられてもね……」 いやいや、そんなざっくりした評価する人いる……? 「なんだかゴチャゴチャしたところねえ。せっかく建物はいいのに。もういいわ、次へ行きましょう」 ええっ、もういいんですか!? むしろゴチャゴチャしてへん博物館を私は知らんのやけど!? ものの1時間弱であの広大な博物館に見切りをつけてしまった祖母とは対照的に、私は1週間だって大英博物館に通い続けたいほうです。 どのフロアで何を見てもワクワクできるので、その感動と興奮を祖母とまったく共有できないことに、私は観光ツアーしょっぱなから大きなショックを受けました。 大英博物館をろくすっぽ見ないうちに去るだなんて、まさに後ろ髪を引きちぎられる思いでしたが、とにかく祖母が好みそうな他の場所を、急遽見つけなくてはなりません。 祖母のご不浄待ちをしながら、私は必死でガイドブックのページをめくりました。 今ならスマホでささっと検索できそうなものですが、当時はそんな便利なガジェットはなく、とにかく本と地図と自分の目と記憶が頼りだったのです。 ナショナルギャラリー……は、他の日に行く予定だからダメ。 テートはおそらくモダンすぎて、お好みではなさそう。 ロンドン動物園……いや、掠りもしない気がする。水族館、論外。 自然史博物館……今度は「骨と干物ばっかり見せられてもねえ」とか言われるに決まってる。 シャーロック・ホームズ博物館……ホームズに興味が微塵もなさそうだし、そもそも狭くて急な階段がちょっと祖母にはきつい。 どうも私の好きな場所は、だいたい祖母の好みにはそぐわなそうです。 唯一、ヴィクトリア&アルバート美術館なら……あ、いや、ちょっと待って。 さっき、ジュエリーだけは、けっこう真剣に見ていたっけ。 だったら……そう、断然、あそこだわ。 たぶん祖母には、大量の素晴らしいものより、選び抜かれた数少ない至宝のほうが、インパクト大でよさそうな気がします。 トイレから出て来た祖母と共にタクシーに乗り込み、私が向かったのは、テームズ川沿いにある「ロンドン塔」でした。所要時間10分ほど、小休止にはピッタリの移動距離です。 メジャーな観光地の一つですから、たくさんの人が来ていました。 無料で入れる施設がいくつもあるロンドンで、こちらの入場料はちょっと躊躇うお値段ですが、この際、スパッと払います。 特に何の下調べもしていない祖母は、ロンドン塔を見て、「これはどなたのお城なの? エリザベス女王?」と訊いてきました。 仕方なく、ここはいわゆる監獄として使われた場所で……と正直に教えると、祖母の顔色が変わりました。 まあ、そうですよねー。 「どうしてこんなところに? 刑務所なんて見てどうするの!」 ぷりぷり怒り始めた祖母に、私は簡潔に説明しました。 ここは祖母が思う刑務所とは少し趣が違って、監獄として使われた日々がありつつも、それ以前は国王の居城であり、今も宮殿のひとつという扱いであること。 動物園が併設されていた時代もあること(動物のオブジェが今も迎えてくれます)。 たくさんの高貴な人々がここに囚われ命を落とした、歴史の悲哀とロマン溢れる場所であること。 そして何より……王室秘蔵の素晴らしい宝石や王冠を見学できる施設があること! ずっと憮然としていた祖母ですが、最後の情報に、たちまち目を輝かせました。 「まあ、エリザベス女王の王冠もあるの? 他の宝石も見られるの? 世界で2番目に大きなダイヤモンドが王笏に? どこ? 早く見たいわ!」 せっかちかー! 杉下右京がキレるときくらいマッハでテンションをぶち上げた祖母は、「クラウン・ジュエルズ」と名付けられたいわゆる宝物館の展示品に、文字どおり大はしゃぎしました。 「エリザベス女王の戴冠式はね、うちの人と映画館で見たのよ。テクニカラーと当時は言って……そう、この王冠、あの王笏よ、間違いない!」 ガラスケースの中の目が眩むような宝石たちに引けを取らないくらい、祖母の目はピッカピカに輝いていました。 私にとっては、これは「ただただ凄まじく価値のあるジュエリー」ですが、祖母にとっては、「若き日の、亡き夫との思い出」もプラスされて、とても特別な感慨があったようです。 何しろ、戦後のまだまだ色んなことが大変な中、「遠くの国のうら若きプリンセスが、初々しくも堂々たるクイーンになる」というおとぎ話のような映画で見た王冠と王笏が、今、目の前にあるのですから。 物語が現実世界とリンクする瞬間は、いつだって素敵なものです。祖母の興奮も、十分に理解できます。 「あのときのエリザベス女王の美しさと気品といったらなかったのよ。……今はすっかりお婆ちゃんだけど」 それはあんたもや。 というツッコミは賢明にもゴクンと飲み込み、私は祖母の思い出話にただ耳を傾けました。 うっとりしながら、ガラスケースからガラスケースへと、おぼつかない足のことなど忘れたようにすたすた歩を進めていた祖母は、ハッとした様子で私を見ました。 「ここのことは、帰ったら必ずお友達にお話ししなくちゃ。パンフレットを手に入れておいてちょうだい。それから宝石の写真も……えっ、撮っちゃダメなの。ケチね! 絵はがき? そうね、それはいい考え! どっさり買っておいて。お土産に差し上げたいわ! 話をしたら、きっとみんな欲しがるから」 すべて姫のお望みのままに。 まだ夢見心地でカフェの座席に落ち着いた祖母が、ランチ代わりの紅茶とケーキをのんびりと楽しみ、足を休めている間に、私は祖母が喜びそうなお土産を求めて売店を彷徨います。 ロンドン塔の観光パンフレット、有料ですが、日本語版がありました! やった! 絵はがきを数種類……祖母が欲しがった「クラウン・ジュエルズ」のものだけでなく、祖母がまったく興味を示さず、むしろ縁起が悪いと嫌がった、ロンドン塔名物のカラスの絵はがきも一応買っておきます。 土産話の幅は、広いほうがいいに決まっているので! あと、展示されていた王冠をモチーフにしたハンドタオルを1枚。 年齢のせいで、食事のときにちょっとした「お零し」をしがちな祖母なので、ナプキン代わりにいいかな、と。 特に頼まれてはいない買い物でしたが、帰国後、祖母は外食のたびにそれを持参し、誇らしげに膝に広げていたので、おそらくとても気に入ったのだと思います。 「もう、あれこれ大変やんか~」 とぼやきながらも、ようやく祖母の求めるものが理解できてきた安堵感に、私の頬も緩むのでした。 しかし、祖母をわかった気になったのも束の間、次の衝撃が私を襲います。 次回、お買い物編。お楽しみに……!

応援コメント
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あさば 2022/06/30 10:37

「レディ、干物や石の他にも金細工や陶器なども…えっもうお帰りですかっ」 ジパングのレディはつよつよ過ぎて、大英博物館のゴーストも苦笑いしたことでしょう。 王冠モチーフのハンドタオルがお気に召したようで、なんだか私まで嬉しくなりました。ただ文句の多いご婦人なのではなく、素直な可愛らしさがあちこちに感じられるので、次のエピソードがどんどん楽しみになっています。 が、しかし!次の衝撃がっ! 楽しみですっ!

ステキユーザー 2022/06/29 03:19

キラキラとした物が大好きなのですね、お婆様❤️ そして「雅」これがキーワードなんですね なるほどです お婆様がお若い頃はドレスはまだ王侯貴族のお召し物の域だったのだと想像します その上に王冠とか王笏とか、夢物語ですよね はしゃがれるのもわかります 私も王冠なんておとぎ話のものとしか思えませんもの お婆様がとても楽しまれてて私もワクワクしました 先生は大変だと思いますが、執事としての腕は磨かれたと思います🤣 また来週の更新楽しみにしております♪

ステキユーザー 2022/06/29 02:28

石と干物www お祖母様、強すぎますw ロンドン塔、入場料高いですよね。やたら人懐こいレイブン達が可愛いですが。