今回の旅行の目的は、祖母姫にロンドンをめいっぱい楽しんでもらい、元気に帰国、いや、帰宅させること。 それはわかっていても、私だって、せっかくのロンドン、自分の時間がほしい! ロンドン在住の友人たちと会いたいし、一緒に遊びたい! でも、祖母が起きているうちは、一秒だって目が離せないことは、これまでの一連の経験で痛いほど理解しています。 ならば、祖母の就寝後、ホテルを抜け出すしかありません。 いや、抜け出さないと、私のメンタルが確実に死にます。 祖母を守るためには、まず私が自分を守らねば。 行こう。行っちゃえ! 後悔先に立たず、ならばゴー! 若さというのは恐ろしいもので、私はロンドン到着当日から、祖母に内緒の夜遊びを始めました。 さすがに、祖母が寝続けると聞いている6時間をフルに使うのはリスキー過ぎるので、私に許された自由時間は、おそらく4時間程度でしょう。1分たりとて無駄にするわけにはいきません。 ホテルの格式に気を遣い、ジーンズこそ避けましたが、カジュアルかつそこそこ個性的な服装で単身、外に飛び出した私を、くだんのドアマン氏は訝しそうに見やり、「マダム、タクシーは?」と訊ねてくれました。 「いいんです、またあとで!」とあからさまに浮かれて駆け出す私。 怪しまれていることはわかっていても、気にしてなんかいられません。 待ち合わせ場所の近くのパブで、懐かしい在英時代の友人たちに会って、互いの近況を語り合って。 パブでは、順番に全員分の飲み物を買いに行くのが暗黙のルールだったので、4人集まれば最低4杯は飲むことになります。 友人たちは、涼しい顔でビールを4パイント(1パイントが568ミリリットルなので、2リットル超えですね!)飲み干し、私はみんなが「やっぱり、いつものやつ」と笑うアップルタイザーを4本。 今思い返すとカロリーに震えますが、妙に美味しかったんですよね、パブのもっくもくの煙と喧騒の中で飲むアップルタイザー。 パブが閉まったら、いちばん近くに住んでいる友人宅にみんなで集まって、ジャンクなお菓子を食べながら、また喋って。 結局、ホテルに戻ったのは、祖母就寝から5時間後の午前2時過ぎでした。 さすがにドアマン氏はもうおらず、フロントでも特に咎められることなく鍵を受け取り、おやすみなさいの挨拶を交わして部屋へ向かいます。 ドキドキしながら部屋に入ったのですが、長時間の移動で疲れているせいか、祖母は高いびきをかいて熟睡中。 セーフ! 私はホッと胸を撫で下ろし、ああ、楽しかったなあ……と自由時間の余韻に浸りながら、できるだけ音を立てないように寝支度をして、祖母の隣のベッドに潜り込みました。 欠伸をする間もなく昏倒状態で眠りに落ちたようで、瞬きしたつもりがもう朝。 祖母は「時差ボケ? 何なのそれは」くらいのシャキッと感で、既に起床していました。 「お腹が空いたわ。朝ごはんに行きましょう!」 そう言いながら、祖母が選んだ服は、華やいだ心をそのまま映したような、上品な花柄のワンピースでした。 私はといえば、昨夜着ていた服はクローゼットの奥底に押し込め、地味優しい、何の変哲もないデザインのスーツに着替えます。 祖母に腕を貸し、昨夜、ディナーをいただいたメインダイニングに現れた我々を見たときから、スタッフの私に対する態度が、微妙に変わりました。 勿論、物腰は丁重なままですし、祖母をケアしていると、誰かがすぐシャッと来て手を貸してくれるところも変わりません。 ただそのとき皆が、決して祖母に見えないように、「大変だね~」というようなウインクやおどけた表情をしてくれるようになり……私は悟りました。 あー、なるほどなー! 母方の祖母なので、我々は名字が違います。 そして、私の顔はどちらかといえば父方の要素を寄せて固めた感じなので、祖母と私はまったく顔が似ていないのです。 そこへもってきて、昨夜の私の外出。 カジュアルな服装で飛び出し、あからさまにタバコ臭くなって(私は吸っていませんが、パブにいるだけで当時は死ぬほど燻されました)超ご機嫌で帰還したので、遊んできたのはバレバレです。 おそらく、私の夜遊びの件はしっかりと朝のミーティングでスタッフ全員に共有され、彼らはこう考えたに違いありません。 「間違いない。あの二人、金持ちの老婦人とその秘書だわ。そして秘書はなかなかのバッド・ガールだわ」と。 違うよ、グランマとかわいい孫だよ~、とさりげなく正しい情報を提供しようかと思ったのですが、いや、待てよ。 これは、誤解されておいたほうが、色々とやりやすいのでは? 一流ホテルのスタッフみんなが、「気難しいカスタマーにお仕えする仲間」として扱ってくれる今の状況、望んでも経験できないレアなケースなのでは……? むしろ、この誤解はおいしい。 そんな考えが頭にスパーンと浮かび、私は彼らの勘違いをありがたく受け入れることにしました。 よし、この旅のあいだ、私は祖母に仕える若くて経験の浅い秘書のロールプレイに徹しよう。 でっかいメロンを半割にして、種を取った真ん中のスペースに苺をたんまり盛りつけるというとんでもなく素朴ゴージャスなメニューを朝食ビュッフェテーブルで見つけ、大喜びでうまうま食べている祖母を見ながら、私はそう決心しました。 孫ではなく秘書だと思えば、祖母の無茶振りにも仕事としてクールに対応できる気がします。 たぶん、気がするだけですが、気は心とも言うので! 朝食を済ませていったん部屋に戻ると、我々のサービス担当、ティムが朝の挨拶に来てくれました。 「朝食はお楽しみになれました? 昨日は要らないと仰せでしたが、モーニングティーをご希望ならいつでも仰ってください。ベッドまでお茶やジュースを、新聞を添えてお届けしますからね。今日はどちらへ? 何か手配すべきことがあれば……」 昨日、「滞在中はあなたがたのバトラーです」と言ってからというもの、本当に細やかににこやかに世話を焼いてくれる彼も、私にだけ聞こえる小さな声で、「Strong teaを飲みましたか? あなたには必要でしょう」と言って、チラッと綺麗で悪い笑顔をくれました。 わかりやすく翻訳すると、「お前夜遊びして眠いだろ、カフェインがんがん摂っとけよ」です。 ご心配はノーサンキューよ、3時間寝れば何とかなる! ヒソヒソと返事をした私に、ティムは少し驚いた顔をしてから、「今夜も出掛けるなら、せめてタクシーを。ドアマンが心配していましたよ」と囁きました。 ああ! そういえば、ドアマン氏には、昨夜、夜の街に徒歩で飛び出していったきり会っていないのでした。 もしかしたら彼はずっと、私が無事に戻ってきたかどうか、退勤後も心の片隅で気にかけてくれていたのかもしれません。 「ごめんなさい。そうします」 そう言うと、ティムは「お返事は、どうぞ彼に」と早口に言ってから、祖母にも快活に声をかけました。 「マダム、よくおやすみになれましたか? 昨夜は当ホテル自慢のダイニングをお楽しみいただきましたが、今夜は如何なさいますか?」 これはティムに限ったことではないのですが、このホテルのスタッフは、まったく英語が通じないとわかっていても、皆さん、祖母に用事があるときは、必ずちゃんと祖母に話しかけてくれました。 「どうせ本人には英語が通じないんだから、最初から秘書に話したほうが話が早いじゃん」なんて時短発想は、彼らのサービスにはないのです。 祖母に用事があるときは、祖母の顔を見て、祖母に話す。 それを私が横で聞いていて、素早く通訳するのを彼らはちゃんと待ってくれます。 私の翻訳した彼らのメッセージを聞いた祖母もまた、ごく自然に彼らに日本語で返します。 それを私が今度は英語にして彼らに伝え、そうやってちゃんと当人同士でコミュニケーションがなされるわけです。 その都度、通訳ロボと化す私が大変ですが、でもこれは、とても当たり前で、とてもいいことだと思いました。 「どうせわからないんだから」「どうせ伝わらないんだから」「どうせできないんだから」と、悪気がないとしても、つい誰かを蔑ろにしてしまうことがある自分を、このときのことを思い出すたび、大いに反省します。 「お祖母ちゃん、今日のお夕飯、何食べたい? レストラン、ティムが予約してくれるって」 私が彼の質問を翻訳すると、祖母は元気に答えます。 「昨夜の生牡蠣がとっても美味しかったから、今夜は他のレストランでも食べてみたいわ!」 生牡蠣フィーバー、まだ続いとったんかい! 呆れたり感心したりしつつ、私はティムに伝えました。 「今日は大英博物館を見て、いったんお部屋に戻って休憩して、ご近所のフォートナム&メイソンでショッピングの予定です。あと、ディナーは、生牡蠣が美味しいお店を希望しています。カジュアルな店よりエレガントな店が好みです」 生牡蠣お代わりの件もきっちり申し送りされていたらしく、ティムは破顔して、「我々の牡蠣がロンドンで一番ですと言いたいところですが、同じくらい素晴らしい牡蠣を出すいい店があります。予約を入れておきましょう。昨日と同じ時刻でいいですか?」と、テキパキと手配をしてくれました。 そして、我々が出発するとき、エントランスまで腕を貸して祖母をエスコートしてくれながら、彼は私にさりげなくこう言いました。 「ミス○○(私の本名です)、当ホテルのゲストでいらっしゃるからには、このロンドンで、ひとりぼっちで解決しなくてはならないことなど何ひとつありません。困ったことがあったら、必ずお電話を」 そしてひと呼吸置いて、「おひとりのときもですよ?」と念まで押して。 幸い、祖母関係では、そこまでの困ったことは一度も起こらなかったのですが、こう言ってもらえたおかげで、私がどれほど心強かったことか。 そして……ティムの言葉が決して社交辞令でないことを、私は数日後に知ることとなるのですが、それはまた後ほど。 (次回、ようやく観光編!)
先生のエッセイが毎回楽しすぎて、とうとう会員登録いたしました。一日も早く紙の本になって欲しいと思います。手元に置いていつまでも何度でも読み返したいです。 今回のおばあさまとのロンドン旅行のお話にいつにも増してドキドキワクワクいています。来週が待ち遠しいです。
ロンドンのホテルのバトラーさん、素敵です! 本当に人をもてなすというのはこういうとこらからはじまるんですね 私もきっちり見習わなければと思わされました 英語がわからなくても、本人に話しかける とても大事だと思います また来週を楽しみにしております😊