晴耕雨読に猫とめし
自己肯定感の話 ③

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話を聞いたときは過剰だと思った気遣い、まことに適切でした。 ごめん、伯父さんたち。 伯父たちが日本から手配しておいてくれたタクシーでヒースロー空港から宿まで送り届けてもらいつつ、私は心の中で何度も伯父たちに謝り、感謝しました。 祖母ときたら、足元がおぼつかなくて、英語もまったくわからないのに、空港内で何かが気になると、そちらのほうへどんどん行ってしまうんですもの。 二人分の大きなスーツケースを運んでいると、迷走する祖母を大声で呼び止めるしかないのですが、私の声など何の抑止力にもならぬのです。 祖母、もはや行動が3歳児。 かこさとし先生の名作絵本「とこちゃんはどこ」を、こんなところでリアルに体験する羽目になるとは思いませんでした。 祖母の名前を書いたボードを手にしたタクシードライバーの姿を見て、私は泣くほどホッとしましたし、彼にスーツケースを託して、人混みに紛れそうになっていた祖母をギリギリのタイミングでひっ捕まえることができました(さっそく、店頭で一目惚れしたというストールを買わされました)。 ドライバー氏がいなかったら、祖母とはヒースロー空港で生き別れになっていたかもしれません。 天井が高く、広々としたロンドンタクシーの車内が祖母は気に入り、さらにロンドンタクシーの運転手になるには、物凄く難しいテストに合格しないといけないんだよ、などという私からのありふれた情報にいたく感心し、窓外に広がるロンドン郊外の牧歌的な風景に、「イギリスは意外と田舎なのね」などという失礼を軽やかにぶちかましたりして、イギリス初ドライブを大いに楽しんでおりました。 まあ、確かに意外と田舎パートは多いし、それがかの国のとてもよいところなのですが。 1時間弱のドライブで、いよいよロンドン中心部、ピカデリー・サーカスのすぐ近くにあるホテルにタクシーが近づくと、祖母は「どんなお宿かしらねぇ」とワクワクさんでしたが、私はドキドキでした。 例のCA師匠から、「そのクラスのホテルでしたら、タクシーが横付けになったら、ドアマンがすかさず扉を開けてくれますし、ベルボーイに荷物を運ばせてくれます。そのときに……」という大切な教えを受けていたからです。 そう、チップ。 日本ではよほど上流階級の人々でなければお馴染みのないあの習慣が、イギリスではあちこちでまだバリバリに存在しているのです。 一流ホテルに宿泊するのであれば、一流の客になるべく努めねばならぬ、特にチップはスマートに渡せるようにならねば、というのがCA師匠の教えでした。 私とて、イギリス在住の頃、色々な局面でチップを払った経験はあります。しかし、スマートな渡し方と言われると、かなり心許なく。 そこで、機内でやり方を教わって練習し、タクシーの中でもイメトレを繰り返しました。 大丈夫、できる! タクシーが停まると、なるほど、素敵な制服を着込んだおじさん……いや、かなりおじいちゃん寄りの恰幅のいいドアマンが、これまた素敵な笑顔でタクシーの扉を開けてくれました。 彼はまず、祖母に手を貸してそろそろと車から降ろし、次に私にも手を差し出してくれます。 そのときに、自分の手の中にあらかじめお金を入れておいて、彼の手を握ると……私が車から降りて手を離すとき、彼はお金をサッと指で掬い取るように回収し、流れるように上着のポケットへ。 そうすれば、我々の間でやり取りされるささやかなお金は、誰の目にも触れることがありません。 見事なまでにスムーズでさりげなく、無駄のない動きです。 なーるーほーどー! ポケットから出したときには既に空っぽの手、その指をパチンと鳴らすと、若いベルボーイが飛んできて、私たちのスーツケースをタクシーから降ろし、ホテルに運び込んでくれます。 ドアマンは私にウインクして、祖母をホテルの中へと恭しく誘導してくれたので、私は落ち着いてタクシー料金を精算することができました。 このドアマン氏とは、旅行中、毎日幾度も顔を合わせ、言葉を交わし、大いに助けてもらったので、チップできちんと感謝の意を形にできるシステムというのは、意外といいものだなあと思ったものです。 ホテルは、出入り口こそ驚くほど狭かったですが(一度にたくさんの人間がなだれ込めないようになっているのさ、セキュリティのためにね。ここにはやんごとなき方々がご宿泊になるから……とドアマン氏は後日、言っていました)、エントランスホールは思いのほか広々しており、豪華のひとことに尽きました。 何しろ、どっちを向いてもゴージャスな家具。 どっちを向いても何かが金色! あちこちにある存在意義がわからない神殿の柱みたいなもの。 ホールのど真ん中にある巨大な大理石の台の上には、これまた巨大な花瓶、そして数え切れないほどのバラ。 正直、目が眩みました。ベルサイユか、ここは。 祖母は、ドアマン氏にふっかふかの大きなソファーへエスコートされ、ニコニコどっかりと座っています。 何だろう、この度胸。マジで姫。 一方、キョドりまくる私を、フロントカウンターから出てきたホテル職員の男性が、 「チェックインの手続きはこちらで承ります、マダム」 と丁重に案内してくれました。 マダム! それは、もしかしなくても私のことですね……!? ここでは本当にお行儀良く振る舞わねばならんのだ……と痛感した瞬間です。 とにもかくにも、私と祖母のパスポートを提示したり、祖母のために特にお願いしたいものをお伝えしたりして、我々はようやくお部屋に入る権利を勝ち取りました。 タキシードにカラフルなベストという、それ、映画「アナザー・カントリー」で見たわ! 上級生やん! という正装の若い男性が迎えに来て、祖母に合わせてゆっくり歩き、段差ではごく自然に手を貸しながら、部屋まで案内してくれました。 どうやら彼が、私たちの部屋のサービスを専任で担当していたらしく、彼とも毎日顔を合わせ、わけあってかなり仲良くなったのですが、それはまた別の話。 部屋に到着し、彼から色々な設備やルームサービスについて説明を受け、そのあいだにベルボーイが荷物を運んできてくれて、慌ただしいひとときののち、ようやく我々は二人きりになりました。 伯父たちが予約してくれた部屋は、ジュニアスイート。 手っ取り早く言えば、ツインより少し贅沢で、スイートほど破天荒にゴージャスではない。そんな中途半端な位置づけの客室です。 実際、部屋は思ったほど広くはありませんでした。 調度品も、覚悟したほど派手派手しくはなく、「まあ、豪華だねえ」と冷静に評価できる程度。 これなら、さほど緊張せずに、普通にくつろぐことができそうです。 早くもふかふかのベッドに大の字になった祖母は、開口一番、「あの素敵な男の人と、何を話していたの? ずいぶん話が弾んでいたわね」とチェックを入れてきました。 「んー? 日本の神戸から来たってもう知ってるから、姫路城の話とかしてくれたよ。凄いね、話題も下調べしてるんだね。一流ホテルって感じ!」 と私が答えると、祖母は何故か微妙に不満顔。 「何?」 訊ねると、祖母は私をジロリと見て言いました。 「私のことは?」 「は?」 「風格があるから、宮様が来たんじゃないかとか思ってなかった? 驚かせてしまったんじゃないかと思って心配していたの」 不覚にも、私は絶句しました。 何だ、この自己肯定感の塊みたいな人物は。 自己評価高すぎない!? いや、待って。それより、私はどう答えるべきなんでしょうか。 これが友達や親なら、「思ってへんわ!」と即座に渾身のツッコミをぶちかますところですが、ここは一流ホテル、目の前にいるのは老婆だけど姫。 しかし、嘘はつきたくない。 短い葛藤ののち、私はギリギリ嘘ではない、彼が口にした言葉を復唱しました。 「貫禄のある、素敵なご婦人ですね、って言ってた」 「まあ! やっぱり短い時間でも、よく見てる人には気品が伝わるのねえ!」 祖母、たちまちご満悦。 ふー。切り抜けたぜ。 しかし、額の汗を拭う間もなく、ご機嫌の祖母は、楽な服装に着替えたい、お紅茶? それもいいけど緑茶が飲みたいわ、何か甘いものはないの? 疲れたから、お夕飯はここで食べたいわねえ、あっ足を揉んでちょうだい、と次々とリクエストを繰り出してきます。 要求の玉手箱や~! と心の彦摩呂さんが叫ぶ中、私は、小間使いのようにくるくるとお世話に奔走するのでした。 とはいえ、祖母自身が、夕食はホテル内のレストランがいいと言ってくれたのは、私にとっても幸いでした。 何しろ予約はさっきのサービス担当氏に告げればすぐですし、祖母の苦手食材も彼に伝えておけば安心。 祖母が食べられる量を把握するにも、よい機会でした。 ただ、エントランスホールがアレだったので、予想はしていたのですが、ホテルのメインレストランは、さらにアレでした。 宮殿。 さらに金色が増量され、テーブルではドレスアップした素敵な人々が和やかに歓談しながら料理を楽しんでおり。 紳士淑女の社交場、というフレーズが頭を駆け巡ります。 よく見ると、レストラン自体はそう広くないのですが、壁面にズラリと鏡を仕込んであるので、視覚マジックで広大なホールのように見える仕掛けが施されています。 とにもかくにも、我々は恭しくテーブルに案内され、大きな判型のメニューをそれぞれ渡されました。 祖母にコース料理は重すぎるので、とりあえずアラカルトで食べたいものを注文することにしたのですが、あらかじめサービス担当氏に「彼女は高齢であまり量が食べられないから、ハーフサイズにできますか?」とお願いしておいたので、祖母が食べたがった生牡蠣もステーキも、ごくさりげなく小さなポーションにしてもらえて、大いに助かりました。 と思ったら、祖母、「生牡蠣がとっても美味しかったわ! お代わりを頼んでちょうだい!」と。 えええー! まさかの、生牡蠣、ステーキ、そして生牡蠣に戻りデザートはパス、という超変則オーダーになり、私はとても焦りましたが、レストランスタッフは、「私たち自慢の牡蠣を気に入ってくださって嬉しいですよ」と、叶姉妹のような微笑みで応じてくれました。 たぶん、やんごとなき方々の無茶振りに慣れていて、そんなことくらいは屁みたいもん、というやつだったのだと思います。 今なら私も冷静に対応できると思うのですが、なにぶん、当時は若くて、圧倒的に経験不足でした。生真面目だったなあ……。 どうにか無事に夕食を済ませ、しばらくお部屋でくつろいでから、祖母の入浴に手を貸し、髪を乾かしてあげ、後片付けをして、さて、とバスルームを出ると、寝間着姿の祖母は、既にベッドに潜り込んでいました。 当時、祖母と半同居していた伯母からは、祖母は服用している薬のおかげもあり、いったん寝入ると6時間くらいはピクリともせず眠る、と聞いています。 よーし。よしよし。 ならば、ここからは私の時間だ! 変っ! 身っ! 私は終日着続けていた窮屈なスーツをぽいぽいと脱ぎ捨てると、このあと何度となくそう呼ばれる「バッドガール」に姿を変えるべく、静かに素早く着替え始めたのでした……。 (まーだまだ続きます)

応援コメント
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あさば 2022/06/15 08:03

CA師匠のレディ講座は本当に素敵。 そして今回もつよつよでファビュラスな姫伝説がっ! はぐれたと思ったら5軒先の団子屋で、試食品を片手にお茶を飲んでいる叔母を見つけたときの虚脱感がフラッシュバックするところでした。ご無事で何よりです。 祖母様に翻弄され、レストランで鏡に囲まれ、夜にバッドガールに変身するといえば、あの大映ドラマの世代なので来週までワクワクがとまりません♪ 真面目なミチル先生が別人格のどうりゅう先生(え?)になるかもしれない。 うふふー。

ステキユーザー 2022/06/15 06:54

お祖母様の自己肯定感の高さ、羨ましい限りです。ついつい卑屈になりがちなので、ここまで好き放題にできたら気持ちいいだろうなぁと思っちゃいました。いや、私には絶対無理ですが(笑)。そんなお祖母様を満足させた若き先生、素晴らしいです! そんな先生がバッドガールに変身ですって。次回が楽しみです。

ステキユーザー 2022/06/15 03:41

読んでいると目の前にその状況が広がり、クスクス笑いが止まりませんでした お祖母様、強者ですね 姫様ではなく宮様! でも何ものにも物怖じしないところは素晴らしいと思います なんでも楽しめる気心が素敵です また次回の更新も楽しみにしてます☺️