2021年1月、楽天モバイルの社員が前職のソフトバンクから5G通信に関する秘密情報を不正に持ち出したとして、不正競争防止法違反容疑で逮捕された事件が、注目を集めた。
報道によると、元ソフトバンク社員は2019年12月31日に退職し、翌日付で楽天モバイルに転職。ソフトバンクに退職を申し出た11月から実際に退職するまでの間に約30回にわたって同社から約170のファイルを持ち出したと報道されている。
転職先での仕事に生かしたいと思ったのか、その動機は分からないが、会社員として知り得た機密情報を盗むのは、不正競争防止法が禁じるれっきとした犯罪行為だ。
雇用が流動化し、就業者の7割が転職を経験する時代。前職で培ったスキルやコネクションは、どこまで次の仕事へと持っていくことが許されるのか? 多くの人にとって他人事ではないこの疑問を、ケースごとに見ていきたい。
「営業秘密」の侵害事件は過去にも相次いだ
法律が禁止する不正な手段によって営業秘密を取得して自ら使用、もしくは第三者に開示することは「営業秘密の侵害」に当たる。
営業秘密とは「秘密として管理されている生産方法、販売方法、その他の事業活動に有用な技術上または営業上の情報であって、公然と知られていないもの」(不正競争防止法第2条6項)と定義されている。
営業秘密には研究・開発データや顧客情報なども含まれ、法律の抵触者には10年以下の懲役、または2000万円以下の刑事罰もあるほか、民事上の損害賠償請求もできる。また、営業秘密を利用し、何らかの製品を生産していたことを立証した場合、転職先企業にも損害賠償を請求できる。
転職に絡んだ営業秘密の侵害は今回の元ソフトバンク社員に限らない。
たとえば2012年に新日鉄住金の元社員が韓国の鉄鋼会社ポスコに「方向性電磁鋼板」に関連する営業秘密を提供したとして、新日鉄住金がポスコと元社員に対し、約1000億円の損害賠償を求める訴訟を起こした。2015年にポスコが300億円を支払うことで和解が成立している。
2014年には東芝の半導体メモリーに関する技術情報を、東芝の業務提携先企業の元社員が韓国のSKハイニックスに提供したとして、SKハイニックスと同社に転職した元社員に対し、東芝は約1100億円の損害賠償を求める訴訟を提起。同年12月にSKハイニックスが東芝に330億円を支払うことで和解し、元社員は懲役5年、罰金300万円の判決が下されている。
社員にとっては転職を有利に運ぶための出来心とはいえ、企業間の巨額訴訟を引き起こし、そもそもの会社員としての立場も窮地に陥ることとなる。その代償はあまりにも大きい。
競合他社への転職で気になる「競業避止義務」
実は転職に伴うリスクは、営業の秘密の侵害だけにとどまらない。もう一つ、契約によって競合他社に転職することを禁止し、それを守らないと会社が損害賠償を請求できることをご存知だろうか。
これを「競業避止義務」と呼ぶ。正確には「所属する企業と競合する会社・組織への転職、または競合する会社を自ら設立したりするといった行為を行ってはならない」という義務である。
会社と従業員の契約である、就業規則の競業避止義務の規定例としては次のようなものがある。
従業員は在職中及び退職後1年間、会社と競合する他社に就職及び競合する事業を営むことを禁止する。ただし、会社が従業員と個別に競業避止義務について契約を締結した場合には、当該契約によるものとする。
あるいは退職する際に誓約書を書かせて、競合行為を防止しようという会社もある。
たとえば次のような内容だ。
貴社を退職するにあたり、退職後1年間、貴社からの許諾がない限り、貴社で従事した○○に係る職務を通じて得た経験や知見が貴社によって重要な企業秘密ないしノウハウであることに鑑み、これに類する職務を、貴社の競合他社において行いません。
実際に退職する社員とこうした誓約書を交わす企業は増えている
企業がここまでやるのは機密事項や顧客データの流出だけではなく、自社の教育で培われたスキルやノウハウ、経験、人脈がライバル企業に利用され、損失を被ることを防止するためだ。とくに近年は退職者が増加し、ビジネスモデルやノウハウの流出を防ぐことが、企業の危機管理の重要な課題になっている。
義務があるか「分からない」が4割
内閣府が実施したアンケート調査(2019年)によると、退職後・契約終了後に競合企業への転職などを禁じる競業避止義務があると答えた人は雇用者全体で13.9%、「あるかもしれない」が10.5%、「わからない」が37.8%だった。
正社員に限定すると「ある」が18.3%、「あるかもしれない」が13.1%だった。
調査は古いが、経済産業省が2013年に実施した企業調査では、従業員と競業避止義務を結んでいる企業は14.3%。産業別では製造業が23.7%、専門・技術サービス業31.2%、教育・学習支援業29.4%。相当数の企業が競合他社への転職を禁じているのだ。
とはいっても同業他社に転職しようとするのが一般的だ。前職で培った経験と知識を活用し、キャリアアップを図る、あるいは年収を上げようとするのであれば同業他社への転職が有利だ。
何より職業選択の自由が憲法で保障されている(22条1項)。これまでの裁判では仮に社員が競業避止契約を結んでいたとしても、企業が被る不利益がどの程度かを分析し、それが合理的な範囲を超え、退職した社員の職業選択の自由を不当に拘束する場合は公序良俗違反として無効だという判決も下されている。
競合への転職が問われたヤマダ電機事件
競業避止契約を結んだところで、基本的には「職業選択の自由」により、同業他社への転職を止められないのであれば、結局は何が問題になるのだろう。
これまでの判例では転職後に訴えられるケースが多いのは、以下の3つだ。
- 前職での営業秘密やノウハウの使用。たとえば店舗での販売方法、人事管理の手法、全社的な経営戦略
- 前職でつきあいのある顧客などを奪うこと
- 退職後に元の会社の社員を引き抜くこと
もちろんすべてのケースについて競業避止契約が有効と認められたわけではないが、1の有効性が認められた典型的な事例がヤマダ電機事件だ(東京地裁2007年東京地裁判決)。
家電量販店チェーンの店長、地区部長などを歴任した社員が退職し、競合関係にある家電量販店チェーンに転職した。元社員は退職前に
「退職後、最低1年間は同業種(同業者)、競合する個人・企業・団体への転職は絶対に致しません」
という誓約書を交わしていた。
さらに違反した場合は
「会社から損害賠償他違約金として、退職金を半額に減額するとともに直近の給与6ヶ月分に対し、法的措置を講じられても一切異議は申し立てません」
という条項も入っていた。
そこで会社は誓約書中の競業避止条項に違反するとして元社員に違約金通りの損害賠償を求めて訴訟を提起し、裁判では誓約書の有効性が争われた。
結論を言えば、裁判所は次のように判断した。
「店舗における販売方法や人事管理のあり方を熟知し、また全社的な営業方針や経営戦略を知ることができる被告のような地位にあった従業員に対して、会社固有のノウハウの保護を目的として競業避止義務を課すことは不合理ではない」
誓約書の有効性を認め、退職金の半額と、退職前1カ月の賃金額の計143万2755円を限度に原告の請求を認容した。
ただし、元社員が店舗の販売方法や全社的な経営戦略を知りうる上級幹部従業員だったことも、契約の有効性を認める要素の一つになっている。逆にごく一般的な業務に関する知識を使う業務は、競業避止義務の対象にならないとする判決もある。この種の裁判ではケースごとに異なる判決が下されるなど混沌としている。
職業選択の自由は憲法が保障
しかし、素人にはどういう形で会社に訴えられるとも限らない。
転職しようとする場合、会社から訴えられないためには、会社と競業避止の契約や誓約書を交わさないことが肝心だ。また、誓約書を交わしても、顧客を奪う行為や前職の社員を引き抜く行為をしないようにすることだろう。
繰り返しになるが、職業選択の自由が憲法で保障されている以上、競業避止契約があるために同業他社への転職を萎縮させること自体は問題だ。
これに関しては政府部内でも労働移動の円滑化の観点から疑問視する報告も出ている。内閣府の「日本のフリーランス—その規模や特徴、競業避止義務の状況や影響の分析—」(2019年7月)では、競業避止契約の締結対象者が技術者・研究者に加えて営業職や事務職の割合が多いことを踏まえ、こう述べている。
「事務職の割合は、全体の有業者に占める割合が21.4%と職業別にみた場合に最も高く、その分野で必要性の乏しい競業避止義務が課せられているのであれば、労働移動の過度な制約となる可能性があり、その見直しが課題と考えられる」
とくに政府はフリーランス推進の立場から、競業避止義務契約の「競合する事業を営むことを禁止する」ことを懸念しているようだ。いずれにしても、今回逮捕された元ソフトバンク社員の例からも言えることだが、転職する場合は細心の注意を払う必要がある。
(文・溝上憲文)
溝上憲文:1958年鹿児島県生まれ。人事ジャーナリスト。明治大学卒。月刊誌、週刊誌記者などを経て、独立。新聞、雑誌などで経営、人事、雇用、賃金、年金問題を中心テーマに執筆。『非情の常時リストラ』(文春新書)で2013年度日本労働ペンクラブ賞受賞。主な著書に『隣りの成果主義』『超・学歴社会』『「いらない社員」はこう決まる』『マタニティハラスメント』『辞めたくても、辞められない!』『2016年残業代がゼロになる』『人事部はここを見ている!』『人事評価の裏ルール』など。