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連載・特集

プロ化50年 広響ものがたり 第3部 飛躍のとき <1> 名匠の就任 成長途上 望外の返事

 原爆の焦土から立ち上がった広島市民が希望を託し、育んできた広島交響楽団。プロ化25年を過ぎた1998年、日本を代表する指揮者の秋山和慶さんがミュージックアドバイザー(後に音楽監督)に就いた。ローカル楽団から全国に知られるオーケストラへ。広響は飛躍のときを迎えた。(西村文)

北欧シリーズ 新たな顔に

 「次の音楽監督を探しています。誰か紹介していただけませんか」。97年夏、広響の大野英人事務局長(現関西フィルハーモニー管弦楽団常務理事)は、客演で招いた秋山さんに尋ね、返ってきた言葉に驚いた。「僕じゃ駄目?」

 広響の音楽監督は、中興の祖となった巨匠・渡邉曉雄(あけお)さん(19~90年)以降、高関健さん、田中良和さん、十束尚宏さんと、当時30代の気鋭指揮者が担ってきた。「まさか日本を代表する秋山先生が。最高だ!と思った」と大野さんは回顧する。

 望外の返事を引き出したのは、楽団員のひた向きな姿勢だった。秋山さんは前年の初協演の際に難曲のエルガー交響曲第1番を指揮。「一生懸命、弾きこなしてくれた。いい楽団だなあと」。大野さんも、この初協演が強く印象に残っていた。「当時はアマチュア出身の団員も多く、まとまりが弱い部分があった。秋山さんが振ると、ピシッと演奏が整った」

 秋山さんの就任からさかのぼること8年前―。元トロンボーン奏者で関西フィルの事務局に勤務していた大野さんは、広響に請われて事務局長に就任した。「地域性を大事にしつつ、外からも人を入れてオケの発展を促したい」。97年4月。楽団創設以来、広島出身者が習わしだったコンサートマスターに、東京出身の28歳のバイオリニスト伊藤文乃さんを抜てきした。

 今は経験豊かなコンマスとして群馬交響楽団を率いる伊藤さんだが、広響時代は「初めてのことばかりで無我夢中だった」。桐朋学園大を首席で卒業後、スイスのベルン音楽院に留学。帰国して間もなく、広響初の女性コンマスとして着任した。

 高い演奏技術に加え、楽団員を統率する人間力も要求される重責。「やっていけるのか」と不安を抱えたさなか、秋山さんの就任というサプライズが起きた。「楽団のモチベーションが一気に上がり、気持ちが一つになった」

 名匠のタクトに鍛えられた楽団は成長を遂げ、伊藤さんに続いて首席クラスの若手たちが次々と入団。2012年9月のプロ改組40周年記念定期演奏会では、メシアンの大曲「トゥーランガリラ交響曲」を披露した。「チャレンジだったが、心配はいらなかった。演奏に色付けする余裕があった」と、秋山さんは振り返る。

 エストニア出身でスウェーデンに亡命したトゥビン(1905~82年)。この知られざる作曲家が、その後の広響を有名にした。02年秋、秋山さんの指揮で交響曲第3番を日本初演。広島市の演奏会場には、全国各地から熱心な音楽ファンが集った。以後、広響はデンマーク、ノルウェーなどの作品を次々と日本初演。広島でしか聴けない「北欧シリーズ」は広響の顔になった。

 この人がいなければ「シリーズは生まれなかった」と秋山さんと大野さんは口をそろえる。広島市中区で北欧音楽専門のCD店を経営する津田忠亮さん。素朴なぬくもりと透明感にあふれる北欧音楽に引かれ、98年に「ノルディックサウンド広島」を開店した。

 当時、訪れた大野さんは、小さな店内に広がる未知の音楽世界に驚いた。CDを繰り返し聴き、「聴衆に楽しんでもらえる作品を夢中で探した」。秋山さんに提案すると、「面白いね」と即決だった。

 「秋山先生と楽団員の熱気が、素晴らしい演奏に結び付いた。客席で心が躍った」と津田さん。コンサートの録音を北欧の音楽専門家たちに送った。「いいね、と絶賛だった」

秋山和慶(あきやま・かずよし)
 1941年東京都生まれ。桐朋学園大卒。64年に東京交響楽団で指揮者デビュー。同団の音楽監督・常任指揮者を経て、桂冠指揮者。アメリカ響、バンクーバー響などの音楽監督も歴任。98年から広島交響楽団を率い、2017年に音楽監督を退任、終身名誉指揮者に就任した。14年文化功労者。

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(2022年9月6日朝刊掲載)

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