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こんにちは森田です。
え〜、「パンツ一丁で立たされていた」というタイトルでもお分かりのとおり、今回は僕の子供のときの話です。
こうして今、自分が子供を育てる身になったのでよくわかりますが、自分の子供時代を振り返ると、「まあ、よくも運良くここまで育ったもんだな〜」、と関心するくらい変な子供だったわけですね。
そんなことをフェイスブックにちょっと書いたら意外と好評だったので、今回は、僕の子供〜学生時代のことをプロフィールの補足程度に書いておこうと思います。
幼少期
僕は、小学校から中学校・高校まで、宿題をしたことがありませんでした。
だから、先生たちには目をつけられて、タイトルのような「パンツ一丁で廊下に立たされる」…今ではありえないようなこともしょっちゅう経験していました…(^_^;)
宿題に関しては、「たまにはする」
とかでもなく、本当に全くしなかったですね。ゼロ。
理由は単純。
・家に帰ったら遊びに夢中になって、学校のことは大体忘れちゃう
し、
・明日先生に怒られる?そんな遠い未来のことは今の僕には考えも及ばないから明日のことは明日考えよう、
みたいな。
子供ってそんなもんですよね。
親もなんだかおおらかだったので、全然宿題しろなんて言われませんでしたし。
それでもテストの点は悪くない…、先生にしてみれば可愛くない生徒だったでしょうね。
考えてみれば・・
3歳のときには「近づくな」と言われていた崖の上を目をつぶって歩くという自分への挑戦に失敗し落ちて、太ももの骨が折れて皮膚から飛び出る開放骨折と、口裂け女のように口の右側が鼻の横まで裂けて骨が見えてしまうという大怪我(今でも右頬には傷痕がくっきりと残っています)をしましたし、
小学校入学式直後には、「登るな」と言われてた桜の木に得意げに登って落ちて、手首の骨を折り学校中大騒ぎのなか救急車で運ばれるという(^_^;)
…まあ今思うと「多動」だったのかもですね。
ADHDとか多動とかそういう概念は当時なかったので今更わかりませんが、まあ多分そんな感じだったんでしょう。
パンツ一丁で立たされるのもそれなり理由があったのだと思います。(覚えてないけど!)
ちなみに、僕には2つ上の兄がいるのですが、この兄がまた非常に優秀な人だったんですね。
勉強はもちろん出来るし、地域の野球チームではエースで4番!みたいな。ある意味憧れの兄でもあったのですが、「多動で変な子ポジション」の自分としては、なんとも歯がゆい状況でもあったわけです。
「出来杉君はすごいけど、弟くんはなんかいつもワーワーうるさいし、変だよね。」的な視線を浴びること多々。
小学校高学年くらいになると、なんとかこの状況を打破できないか?と考え始めます。その結果、
「運動は無理っぽいけど、勉強ならなんか出来るような気がする」
と思うようになり、3人兄弟で誰も言いださなかった「中学受験の塾に行かせてくれ!」と言い出します。
もちろん、自分にもそこに何があるのか、そこでどんなことをしているのか、さっぱり分からず言っていたのですが、とにかく何か状況を動かしたかったのでしょうね。多動だし。
で、塾に入ったら、なんか毎週のようにテストはあるし、テストの順位は張り出されるし、順位で席順も決まるし!みたいな、なんかわかりやすい世界だったんですね。で、勉強すればするだけ順位が上がっていく。レベルをあげようと思えば、勉強して経験値ためてテストの点数上げる。こんな、ある種のドラクエ感覚で寝る間も惜しんでゲーム(=勉強)してました。持ち前の多動力を存分に発揮して。
そんな感じで、中学から駒場東邦という中高一貫の私立進学校に入ることになります。(結局3兄弟の中で私立中学に行ったのは僕だけでした)
中高生時代
そもそも親もそんなとこに行かせるつもりもなかったし、自分もそんなところに行こうなんてかけらも思っていなかったのに、進学校に行ってしまった。
でも、そこでは普通に授業があるだけでした。あの中学受験塾のようなわかりやすいゲーム感覚がないのです。進学校って意外に「勉強ゴリ押し」ではなく「勉強?勝手にやれば〜」的な雰囲気なところも多いんですよね。
それに乗じて、、宿題も勉強も全くしない、あの夢の小学校生活に戻っていくわけです。
しかも中学時代、音楽に目覚めていき、主に当時流行っていたハードロック・ヘビーメタル系の音楽のギターの練習に没頭するようになります。
その頃にはもうゲーム=ギターで、一日中ずーっとギターのことを考えているみたいな生活をしていました。授業中もずっと頭の中でギターの指の動きを練習しているみたいな。
本当に中高時代は、まっっっっったく勉強しなかったです。
高校生にもなるとほとんど学校にも行かない感じ。行っても午後からとか(^_^;)。
当然勉強は出来ないので、中高6年間一貫してほぼビリの成績でした。
しかも、多動なので、酒・タバコ・麻雀その他、面白そうなこと全部やる!で、高校で停学2回。いわゆる典型的な進学校の落ちこぼれ、って奴ですね。
それでもなんとかビリながら卒業はさせてもらいましたが、、いかに進学校でもビリに学力はない(笑)。勉強してないんだから当たり前ですが、、
大学受験なんて箸にも棒にも引っ掛からない。全ての大学に落ちて浪人することになります。
で、浪人中に通ってた駿台予備校でやっとゲーム感覚を取り戻します。さすが予備校ですね。○○模試やら、○○テストやらで順位付けしてクラス分けして、とかその辺の仕掛けがうまい。ここでまた一年間寝る間も惜しんでゲーム=勉強に打ち込みまして、一橋大学の経済学部に滑り込むことになります。
大学時代以降
もうおわかりだと思いますが、大学に入学すれば、またしても
「勉強しない」わけですね。
大学の勉強に「ゲーム性」なんてまったくないから。
平均したら1年のうち10日も大学に行ったかな〜?というレベル。
(ま、学内の寮(一橋寮という学生自治寮)にいたので学校にはいたんですけど。)
しかもなんと、
就職もしたくない!
だから就職活動も一切しない!
お前はバカか?
と言われてもなんの文句も言えない状況でした。
ま、
「多動の僕にはサラリーマンみたいな組織の中での仕事は絶対に務まらないだろう」
となんとなく思っていたのでしょうね。
スバリ正解!なんてったって40半ば過ぎた今でも就職せずフリーターなんですから(笑)
で就職もしない、目標も見えない。
なので僕は一橋大学で2年留年し、6年かかって卒業することになります。
そんなグータラでダメダメ学生だったころ、大学5年目の冬に阪神大震災がありまして、生活費のために仮設住宅・仮設校舎の建築バイトを6年目の夏までやっていました。
そんな、土方のおじちゃんたちと真っ黒に日焼けして笑いながらの楽しい大学生&土方生活のあるとき、ある方から、道端に捨てられた子犬を憐れむような眼差しで、
「医者になったらどうだ?」
と、言われたのがきっかけで、
「たしかになんとなく医者になったらカッコがつくかな?」
と思いはじめ・・・
また勉強ゲームに没入→宮崎医大に入学となったわけです。
ちなみに、もうこの時期になると勉強のゲーム化は自分で出来るようになってきます。
日単位で毎日こなす課題(スライム級)と週単位の課題(中ボス級)と月単位のラスボスの目標を随時設定していき、毎日経験値を稼いで、自分で設定したレベルをあげていく。だんだん中ボス、ラスボスを倒せるようになっていくという、勉強のドラクエ化がセルフでできるようになっていました。
ちなみにうちの親は医者でもなんでもなく、僕の医学部受験には大反対だったんですけど。(未だに毎月奨学金を返済しております。)
で、医学部入学後はというと、、
もうさすがパターンなのでおわかりだと思いますが、
医大でもまたしても全く勉強しない!
学校も行かない!
医学部の授業も全然ゲーム性がないので、、、
医大時代は殆どの時間、寸暇を惜しんでバンド活動に心血を注いでました。
そんな6年間をなんとか留年せずにギリギリで進級していたら、なんと医師国家試験前にインディーズデビューが決まりまして…
こちらがそのバンド、pitcher56 (ピッチャーゴロ)です。
ちなみに、あと二人のメンバー(男・女)は結婚して子供が4人。僕が院長のときに夕張に呼んで、今でも夕張で医師として働いてくれています。
↑無料で試聴できます↑
んなことで、国試前なのに全国のタワーレコードをツアーして回ったりしてましたおかげで、
当然国家試験も落ちる!
(国試浪人というやつ!)
そもそも勉強してないので当然と言えば当然ですね。
で、もうおわかりですね。。。
また次の一年は「勉強のゲーム化」で国試勉強ゲームに没入し、なんとか医師国試合格。
で、このあと内科医・総合診療医の研修をしたあと、財政破綻で大変だった時の夕張の村上先生の本を読んでのめり込み、持ち前の「多動力」を生かしていきなり夕張へ!
その夕張で、これまでの経済の勉強と医療の勉強が、「医療経済学」としてガッツリ活きてきまして、結果、医者のくせに
「医療崩壊のすすめ!」
なんていう突拍子もない事を言い始める訳ですね。
その辺の医療・経済・夕張などの超おもしろ話の詳細はこちらを御覧ください。ある意味、こちらが今回の続きになりますね。
↓↓↓
ということで、今回はおしまい。
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