観察者 観察されるもの あるがまま

>はじめまして。youtube拝見し勉強させて頂いております。

>先日クリシュナムルティのビデオを見ていたとき以下の発言がありました。

The observer is the image looking at the image which he has related about the other. So the relationship between the observer and the observed is not a relationship. It is two image looking at each other. When the observer has no image at all, which quite a tremendous problem inquiry which is meditation all that- then the observer is the observed. 'What is' is the observer. Not the observer is looking at 'what is'.

>私は、今まで’観察者がなんのイメージを持たない時、あるがままが見える’と理解していたようで、ちょっとわからなくなり、混乱しております。最後の
the observer is the observed. 'What is' is the observer. Not the observer is looking at 'what is'.をご解説いただけるとありがたいです。
’観察者がいないときは、ただ観察があるだけで、その時、見るものと見られるものの区別はなく、それがあるがままである’という事でしょうか?

これを訳してみましょう。前後の脈絡がわからないので、適切でないかもしれませんが・・・

観察者は、他(観察されるもの)に関連したイメージを見ているイメージです。ですから、観察者と観察されるものの関係は、関係ではありません。それは、お互いを見ているイメージです。観察者がなんのイメージもないとき、それはまったく途方もない問題探求ですが、それが瞑想のすべてです。そのとき、観察者は観察されるものです。「あるがまま」は観察者です。観察者が「あるがままを」見ているということではありません。

難解な文章ですね・・・・・

言っていることは難しくありません。観察者をわたしという言葉に置き換えます。

わたしは、わたしについてのイメージ・・・利口だ、バカだ、欲深だ、ああだこうだ・・・・を、見ている主体というイメージだ。わたしもイメージ、見られているものもイメージ。だから、わたしと、わたしに見られているものは、無関係です。つまり、わたしは、わたしのイメージの外にいる、ということです。ふたつのイメージがお互いを見てるようなものです。
ここで、わたしがなんのイメージもないとき、つまり、見るわたしのイメージがないとき、わたしがいないとき、それが瞑想なのですが、わたしは、わたしに見られているものです。

これでもややっこしい文章ですね・・・・

街を歩いていて、美人に出会う、おもわず、「きれいな人だなー」というところが、「あるがまま」です。観察者と観察されるものが分離していません。そこで、「俺は、美人に弱いんだな」というのは、観察者と観察されるものを分離しています。俺というイメージと、美人に弱いというイメージと、わかれてしまっています。

これだけのことです。

だから、街を歩いて、「きれいな人だなー」「あの車いいなー」・・・・「くやしいなー」「憎いなー」「不安だなー」・・・それになにも手を加えなければ、それが瞑想だといっています。「わたしが、きれいなひとだなー、と思っている」んじゃないんです。ただ、「きれいな人だなー」があるだけでしょ?

観察者がなんのイメージも持たないとき、あるがままが見える、というようなこともかれは言っていたような気がしますが、その意味は、たとえば、自分が、女性などに興味がないというイメージを持ってたりすると、「きれいな人だなー」という思考を、即座に抑圧して、否定してしまい、自分はそんなこと感じていないなどと、あるがままが見えなくなるからです。

言っていることは非常に簡単ですが、どうしても、思考に思考を重ねてしまうので、禅でいえば、二念が継いでしまうので、グチャグチャになるわけです。

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この記事へのコメント

2018年11月06日 19:03
自己イメージを構築してしまうと二元性の罠に陥るわけですね。

その印象や欲望を感じるままにするとき、分離はない。

分かれているってのは自分で勝手に後から作り出した幻想で、
世界と自分は本当は分かれてないんですね。

しかし、人間は分かれているというドラマが好きみたいです。

憧れ、一体性への願い 葛藤 至福 恍惚 戦い

こういったドラマが好きみたいです。

人間と超人覚者の違いは、ドラマの中心に自分がいるかいないかだと思っています。

我が落ちて、ドラマの主人公にならない人が、人間を卒業するのではないでしょうか。

2018年11月06日 20:37
ふと思ったのですが、醜さの中に美を感じるときがあります。

形あるものの美しさははかないです。どんな醜いものも避けず、乗せれる必要があります。

また、神や解脱など形ないものへの欲望を抱く人もいます。

どちらも欲望には変わりません。

2018年11月06日 20:45
社会的には問題あるかもしれませんが、私はホロコーストや貿易センターのテロや、ポルポトの大殺戮に、崇高な美を感じてしまいます。

悪や醜さの大きさのあまり感性が圧倒されるのです。
2018年11月06日 23:41
寂しさや恋しさがなければ平静や優しさもないのだから、それらなしには完璧さもない。

覚者はしかし、ドラマをも内包するのかもしれません。
2018年11月06日 23:46
〈在る〉が、方法なき方法です。やってくるものをただ観照し、去るものもまたただ観照します。それは何か対象があり、それを観察することではありません。ただ全てが私であり、その全ての私を私が見ているのです。

見るものに見られているのではないでしょうか。

覚醒とは、すべてが知っている。すべてが覚醒しているということでしょうか。

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