防災情報新聞
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周年災害
2010年6月の周年災害/日本の災害・防災年表(「周年災害」リンク集)
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【2010年6月の周年災害:欠号追補版】

・京都「治承の大風](830年前)
・全国的大干ばつ-応永の大飢饉へ(590年前)
・永禄から元亀へ改元(440年前)
・明和の大干ばつ-一揆起き幕府緊縮予算(240年前)
・嘉永中国地方瀬戸内海沿岸部大洪水、高潮災害(160年前)
・万延東海・東北地方大水害(150年前)
・内務省警視局に消防本部創設され公設消防組織誕生(130年前)
・備荒儲畜(びこうちょちく)法制定(130年前)
・東京本郷明治23年春木町の火事(120年前)
・コレラ長崎から全国に拡大(120年前)
・警視庁で科学的な諸検査開始(120年前)
・道路取締規則制定、左側通行決まる(110年前)
・高岡明治33年の大火-土蔵塗り耐火建築へ(110年前)
・大正9年北海道夕張北炭北上坑ガス爆発事故(90年前)
・安保闘争デモ隊国会議事堂前で警官隊と衝突(50年前)
・防災の日を閣議決定(50年前)
・平成2年梅雨前線豪雨(20年前)
・雪印低脂肪乳集団中毒事件(20年前)

○京都「治承の辻風」(830年前)
 1180年6月1日(治承4年4月29日)
 鴨長明の「方丈記」に『中御門京極のほどより大なる辻風おこりて、六条わたりまで、いかめしく吹きけること侍りき、三、四町をかけて吹きまくるに、その中に籠もれる家ども、大きなるも小さきも、一つとして破れざるはなし』と、京都の中御門京極から六条大路あたりまで、町中を吹き抜けた旋風の様子が活写されている。その旋風に巻き込まれた家々は、公家屋敷や寺のような大きな家も庶民の小さな家もすべて倒壊したという。
 その状況は『さながらに平に倒れたるもあり、桁(けた)柱ばかり残れるもあり』と平らにつぶれた家もあり、家の骨組みだけ残して『家の内のたから数を尽くして空にあり、ひはだ(檜皮)・葺き板のたぐい、冬の木の葉の風に乱るるがごとし』と、家の中の家財道具はすべて空に吹き上げられ、屋根板などは冬の木の葉が風に乱れて飛ぶようだったと細かく描写している。
 方丈記以外にも公家たちの記録が残っているが、共通しているのは滅多にない事に対する恐怖で、『かかることやある、ただごとにあらず』とし『さるべきものの、諭しかなとぞ疑い侍りし』と記し、しかるべき神仏からの諭しではないかと長明は思ったという。
 この災害は、400年にわたる藤原氏を中心とした貴族政治が終わり、平家が滅亡し源氏による武家政権(幕府)が開かれる10年ほど前のことである。鴨長明の危ぐは当たったようだ。(出典:鴨長明著方丈記>「治承の辻風」)

○全国的大干ばつ-応永の大飢饉へ(590年前)
 1420年6月~1422年(応永27年4月~応永29年)
 1420年(応永27年)は日照りが続き、公家・中原師郷の日記「師郷記」によれば、6月9日(旧4月19日)以降8月20日(旧7月2日)までの間に5回も『祈雨奉幣』などと神社や寺に雨乞いを続けた記録があり、歴史書「建仁以来年代記」には『天下大旱魃(干ばつ)』と記録されている。
 特に畿内では琵琶湖の水が減って淀川の水が干上がるなど四国から奥羽地方にいたるほぼ全国が大干ばつに見舞われた上、秋になると一転大雨となり、わずか成長した稲などに打撃を与えこの年は大凶作となった。
 翌21年の記録によると、食料の乏しくなる春になり難民が京都に殺到したが、みやこの人びとも『洛中人家衰微「蔭涼軒日録」』で『天下飢饉疫病、人民死亡不可計数「武家年代記裏書」』『山野江河亡人充満「建仁以来年代記」』という状況になった。
 22年になっても事態は好転せず、みやこびとの間にさまざまな奇怪な噂が飛び交い、10月1日(旧9月7日)には五条河原で死者を弔う大施餓鬼が行われている。(出典:京都歴史災害研究会編「京都歴史災害年表」、国会資料編纂会編「日本の自然災害」、講談社刊「日本全史」ほか)

○永禄から元亀へ改元(440年前)
 1570年6月6日(永禄13年4月23日)
 戦乱など災異のため改元とある。
 2年前の1568年10月(永禄11年9月 )、織田信長が足利義昭を奉じて入京して以来、天下統一は進んだが100年間続いた戦乱はまだ収まっていない。収束への期待を込めての改元か。(出典:講談社刊「日本全史」ほか)

○明和の大干ばつ-一揆起き幕府緊縮予算(240年前)
 1770年6月~9月(明和7年6月~8月)
 この年の夏は全国的に雨が降らず、九州から東北地方まで大干ばつとなり農作物の凶作と水不足が深刻化する。
 特に九州では筑前国(福岡県)秋月藩領、中国の長門・周防両国(山口県)から隣国の安芸国(広島県)にかけて、四国の讃岐国(香川県)と淡路国(兵庫県)が大凶作。畿内では河内国(大阪府)の被害がひどく稲も大豆も小豆も全く実らず、京都夏の名物、大文字焼も中止となった。
 東海地方では遠江国(静岡県)が前代未聞の干ばつ、関東地方では相模国(神奈川県)足柄地方がひどく、江戸近郊ではイナゴが異常発生し、東北仙台藩領では表高(額面上の米の収穫高)の5割にあたる31万石余の損害を負った。
 当然、各地で年貢減免を要求した一揆(大衆運動)が多発し、幕府の年貢収納率は最低に落ち込み、緊縮予算を組まざるを得なかったという。(出典:講談社刊「日本全史」、国会資料編纂会編「日本の自然災害」ほか)

○嘉永中国地方瀬戸内海沿岸部大洪水、高潮災害(160年前)
 1850年6月~9月(嘉永3年5月~8月)
 中国地方瀬戸内海沿岸部ではこの年、6月から9月の間に2度の大風雨が襲来、洪水や高潮によって大災害となった。
 まず7月8日(旧5月29日)からの大雨により、翌9日(旧6月1日)安芸国(広島県)の太田川が決壊して広島城下のほとんどが軒端近くまで浸水、また備中国(岡山県)では同日に高梁川、11日(旧6月3日)夜には東高梁川の堤防が決壊、周囲の村々の民家から倉敷代官陣屋内までも水が入り死者多数という。
 そして9月12日(旧8月7日)再び襲った暴風雨によって洪水や高潮が起こり、広島藩領だけでも7月とあわせ60人死亡、家屋全壊・流失4425軒、同損壊3558軒、社寺破損134ヵ所、田畑の損害29万8000石と表高(額面上の米の収穫高)の7割に及ぶ大災害となった。(出典:内閣府編「過去の災害一覧:21頁・風水害[1/11]安芸国大水」、広島県編「広島県史」、国会資料編纂会編「日本の自然災害」ほか)

○万延東海・東北地方大水害(150年前)
  1860年6月28日~7月(万延元年5月10日~6月)
 この日から7月にかけて、近畿から中部、関東、東北地方が連日の暴風雨に襲われた
 特に東海地方各地の被害が大きく、伊勢湾に高潮が発生し木曽・揖斐・長良の三川や天竜川が大洪水となった。また、東北仙台藩領でも大洪水が起こり、表高(額面上の米の収穫高)の9割近い54万5500石余の損害を受けたと幕府に届け出ている。(国会資料編纂会編「日本の自然災害」、高木勇夫編「明治以前日本水害史年表」ほか)

○内務省警視局に消防本部創設され公設(常備)消防組織誕生(130年前)
 1880年(明治13年)6月1日
 明治時代に入り首都東京の消防隊組織は、江戸時代の町火消を改組した消防組しかなく、その所管も東京府→司法省警保寮→東京警視庁と移り一定していなかった。
 ところが前年12月に1万戸以上を焼失する日本橋の大火があり、政府もやっと重い腰を上げ、この日、内務省警視局(現・警察庁)の下、消防本部を創設。消防職員にあたる掛官員を採用し職制も決定、現在につながる公設(常備)消防組織が誕生した。
 公設消防組織としては江戸時代に定火消が存在したが、明治の組織は軍隊式の制度で、小隊に消防ポンプ2両、小隊司令以下消火卒まで合計43名、3小隊で1中隊とし予備隊1小隊40名を附属した。またその上に2中隊からなる大隊を設け、合計ポンプ12両、342名で消防隊を編成した。
 翌81年(明治14年)1月14日、警視庁が再設置されて消防本部は消防本署と改称。同年6月1日、消防本署の下、現在の消防署の前身に当たる消防分署が日本橋、芝、麹町、本郷、上野、深川の6ヵ所に設けられた。以後、戦後の自治体消防発足(1948年3月)まで70年近く首都の防火に当たることになる。(出典:東京消防庁・消防雑学事典「公設消防の誕生」、東京消防庁編「東京消防百年の歩み」、日本消防協会編「日本消防百年史」ほか、参照:08年10月の周年災害「幕府定火消を新設」)

  

○備荒儲畜(びこうちょちく)法制定(130年前)
 1880年(明治13年)6月15日
 この日、災害により生活手段を失った被災者や地租(税金)納入が不能になった人びとを援助する「備荒儲畜法」が太政官(内閣)から布告された。
 この法では第一条で『非常の凶荒(凶作)不慮の災害に罹りたる窮民に食料、小屋掛料(住宅手当)、農具料、種穀料を給し、また罹災のため地租を納むるに能はざる者の祖額を補助し或いは貸与するものとす』と規定した。
 ところが第二条で『各府県は土地を有する人民(地主)より地租の幾分にあたる金額を公儲(公に蓄える)せしめ、もって儲畜金を設くべし……』としたため、地主階級が主力の各府県会(議会)で反対が強く、県令(県知事)との衝突事件が起きたという。(出典:日本法令索引(明治前期編)「太政官布告第31号・備荒儲畜法」、講談社刊「日本全史」)

○東京本郷明治23年春木町の火事(120年前)
 1890年(明治23年)6月23日
 午前10時半ごろ、本郷春木町二丁目(現・文京区本郷三丁目)の焼豆商所有の家屋から出火、折からの西南風の強い風にあおられて火は四方に広がった。
 当時、戸主は所用があり留守を頼んで旅行していたが、留守を頼まれた男も不在で、発火の原因はタバコの火の不始末とされた。
 家屋全焼934戸、同半焼39戸、土蔵全焼5棟、同半焼1棟を出し午後1時40分鎮火。(出典:文京区編「文京区史」ほか)

○コレラ長崎から全国に拡大(120年前)
 1890年(明治23年)6月27日~12月
 明治19年(1886年)の大流行以来、数年鳴りを潜めていたコレラが6月下旬、突然長崎市内から全国へと拡大した。
 感染は長崎港への入港船からと推定されたが、病勢は猛烈でたちまちの内に長崎県、福岡県から九州一円へと広がり、山口県から兵庫県、神奈川県へと全国に伝播した。
 中でも流行のすさまじかったのは大阪府で年内に8815人がかかり7486人が死亡した。東京府では7月23日に初めて発生し、年内の患者4027人で3307人死亡と、ともにその死亡率は8割を超えている。
 流行の最盛期は9月で全国で2万1466人がかかったが、10月に入ると病勢は衰え12月は全国の患者数114人と減少した。この年の全国患者数4万6019人、死亡者3万5227人、死亡率76.5%は明治期の大流行年における最大数値となっている。(出典:内務省衛生局編「法定伝染病統計」、山本俊一著「日本コレラ史」)

○警視庁で科学的な諸検査開始(120年前)
 1890年(明治23年)6月30日
 「警視庁史」の「田中(光顕)警視総監時代の事跡」の中に、明治23年6月30日『技師技手を置き警察上の科学的検査に従事』との記録がある。
 一方、消防関係の年表によると『…警察上の…』のところが『…警察消防上の…」となっている。これは当時、消防本署が警視庁内に設けられていたので、『…警察上の科学的捜査』には火災関係の科学的捜査も行われていたとの解釈であろう。
 当時の警視総監・田中光顕は在任中「巡査勤務要則」などの規則を決め組織強化を図っているので、近代警察(消防)として、捜査面でも強化を図ったと見られる。また、かって土佐藩士として陸援隊に参加、1867年12月(慶応3年11月)隊長の中岡慎太郎が坂本龍馬とともに暗殺された際、現場に駆けつけ状況を見た。というから、犯罪現場からの犯人捜査に科学的方法を導入しようしたのかもしれない。
 その後警視庁は、1911年(明治44年)4月、刑事課に鑑識掛を設け指紋鑑定による捜査活動を開始するなど、現在の科学捜査研究所(室):科捜研を中心とした“科学捜査の警察”へと発展していく。(出典:警視庁編「警視庁史」ほか、参照:08年10月の周年災害「犯人指紋検挙法」制定)

○道路取締規則制定、左側通行決まる(110年前)
 1900年(明治33年)6月21日
 首都東京の“車”は増加し、馬車、人力車をはじめ自転車も交通手段として一般化しつつあり、この日警視庁は、道路交通情勢に対処した規定「道路取締規則」を警視庁令第20号で制定した。
 その内容は、道路の使用と管理、通行区分など総合的なもので、中でも通行区分として諸車と牛馬の“左側通行”を決めたが、実施上の混乱が絶えないので、翌年4月の「警視庁告諭第3号」では『人道・車馬道の区別ある場合は人道の左側』区別の無い場合は『その道の左側』と歩行者の左側通行も明示した。
 その事情について原案を作成した松井茂警視庁第二部長(交通警察責任者)によると『……特別な理由や研究に基づいたものではない。古来日本では武士が左腰に大小を差していたため(中略)自然に左側を通る習慣がついたという説があり、また、明治22年制定の「人力車営業取締規則」では、車馬が行き合うときは、互いに左に避けることになっていたことなどを参考として……。「警察協会雑誌・大正13年6月号」』と述べている。
 この左側通行制は、1920年(大正9年)12月、「内務省令第45号道路取締令」施行で全国的に行われることになった。(出典:警視庁編「警視庁史」、日本における道路交通法規の変遷「道路取締令」ほか)

○高岡明治33年の大火-土蔵塗り耐火建築へ(110年前)
 1900年(明治33年)6月27日
 激しい西南風のさなかの午後2時ごろ、市の中心部二番町の桶屋の不用意なたき火から、火の粉が烈風にあおられて飛び各町へ延焼、33町1095平方kmを焼いて夜中の12時にようやく鎮火した。
 市役所、警察署、郵便局など主な建物を含む3589戸が全焼、25戸半焼、破壊30戸、7人死亡、46人負傷。市人口の大半2万9000人余が被災した。
 市は大火後、区画整理をして道路を拡張、土蔵塗りという関東風の耐火建築を奨励した。現在でもその面影は残っており2000年(平成12年)12月、中心の山町筋は国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。(出典:高岡市編「高岡市史」、高岡市教育委員会文化財課「山町筋重要伝統的建造物群保存地区」ほか)

○大正9年北海道夕張北炭北上坑ガス爆発事故(90年前)
 1920年(大正9年)6月14日
 北海道夕張の北海道炭鉱鉄道(株)北上抗で起きたガス爆発は、坑内の局部的なガス流出からガス爆発を誘発して全坑内に波及、さらに隣接する大新抗に及んだ。
 爆発により、坑口周辺の建物や設備は爆風のため破壊され、坑内では炭じんにも引火し、爆発が起きるたびに坑口から焼けただれた坑木が飛んでくる激しさだったという。そのため遺体を収容しないまま坑口は密閉された。
 坑内夫ら209人死亡、7人負傷。会社側のこの仕打ちに対し、当時の夕張抗夫組合・夕張連合会は、抗議のしるしとして、末広共同墓地に「北上抗遭者之碑」を義援金で建立、碑の両面に未救出の犠牲者全員の名前を刻み込んだ。(出典:夕張市編「夕張市史」ほか)

○安保闘争デモ国会議事堂前で警官隊と衝突(50年前)
 1960年(昭和35年)6月15日
 最初の「日米安全保障条約」は、1951年(昭和26年)9月、アメリカなど連合国と日本との太平洋戦争「対日講和条約」と同時に調印されている。当時の自民党・岸信介内閣は、その安保条約の改定を図り議会に提案していたが、5月20日、自民党単独で強行採決した。
 この新安保条約によって、アメリカの軍事体制へ強く組み込まれることを恐れ全国的な反対運動が起きていたが、かって岸首相が戦争中の閣僚であったこと等による不信感が強行採決によって強まり、反対運動はより一層高まりを見せた。
 新安保条約が自然成立を迎える4日前の15日、“安保改定阻止第二次実力行使”は全国で580万人が参加、国会議事堂を数十万人のデモ隊が取りまいた。
 全日本学生自治会総連合を中心としたデモ隊は、右翼とやくざによる一般デモ隊への暴行事件を聞いて国会南通用門へ駆けつけ、午後5時50分、国会構内で抗議集会を開こうと突入を試みた。
 午後7時20分、デモ隊はいったん構内への突入に成功したが、午後10時7分と翌16日未明、警官隊は実力を行使してデモ隊を強制排除した。
 この一連の衝突により、東大生樺美智子さんが死亡、43人重傷、546人軽傷、182人逮捕。樺さんの死因は解剖結果から警官隊の暴行によるものという。(出典:講談社刊「日本全史」ほか)

○防災の日を閣議決定(50年前)
 1960年(昭和35年)6月17日
 安保闘争のデモ隊が国会議事堂で警官隊と衝突し、590人もの死傷者を出した2日後「防災の日」が閣議決定された。
 その主旨は当初『広く国民が台風高潮、津波、地震等の災害について認識を深め、これに対処する心構えを準備する』ということで、関東大震災の日の9月1日が選ばれた。また9月1日はいわゆる二百十日にあたり、例年台風の襲来が多いとされている日であることもこの日が選ばれた背景になっている。また当日の行事としては防災訓練、防災思想の普及、防災功労者の表彰が考えられ実施されている。
 創設の主旨から当日の主役であるべき一般住民は、防災訓練に災害ボランティアや自主防災組織の一員として組織的に参加してはいるが、むしろ当日の訓練の実際の主役として、消防、警察、自衛隊、海上保安庁など国または各地方自治体の防災関係機関が装備や訓練度などから目立っている。
 防災の日を創設したのは、前月の5月に“国民安全の日”を閣議決定したのに続く一連の処置だが、この閣議決定の日から推測して、防災の相手は過激派ではないかとささやかれたという。(出典:国立国会図書館・リサーチナビ「防災の日の創設について」ほか。参照:2010年5月の周年災害「国民安全の日を閣議決定」)

○平成2年梅雨前線豪雨災害(20年前)
 1990年(平成2年)6月27日~7月3日
 この年の梅雨降水量は平年の70%程度と少なかったが、九州地方と東北地方を中心にしばしば大雨が降るという地域的にかたよった状況だった。
 6月27日、北陸から東北南部にあった梅雨前線上を低気圧が東進、山形県の鳥海山で1日の降水量が392mmのほか同県内、秋田、宮城の各県では1日100~200mmの豪雨となり、浸水被害が広がった。
 28日から7月3日にかけては、同前線が停滞した九州地方が豪雨となり、熊本、佐賀、長崎の各県で1日の降水量が300mmを超えた地域では土砂崩れ、浸水などによる大きな被害を出した。
 全体で32人死亡、19人負傷。住家全壊219棟、同半壊290棟、同床上浸水1万186棟、同床下浸水3万9419棟。(出典:気象庁・災害をもたらした気象事例「梅雨前線」ほか)

○雪印低脂肪乳集団中毒事件(20年前)
 2000年(平成12年)6月25日~8月1日
 雪印乳業(株)大阪工場で製造された“雪印低脂肪乳”を飲んだ子どもがおう吐や下痢の症状になったのは6月25日だという。27日、子どもを診察した大阪市内の病院から大阪市保健所へ食中毒の疑いが報告された。
 翌28日、大阪市は同工場に対し同製品の製造自粛と自主回収および事実の公表を指導、29日には同事件の発生を記者発表、30日には製品回収命令を出した。
 しかしこの間、自主回収が遅れたため被害は関西一円に拡大、最終的には被害者1万3420人という、近年例を見ない大規模集団食中毒事件となった。
 7月2日、大阪府立公衆衛生研究所は問題の低脂肪乳から黄色ブドウ球菌を検出、大阪工場を営業禁止とした。一方、雪印乳業も11日、全国の21工場での牛乳生産を停止、当時の厚生省(現・厚生労働省)が安全宣言をしたのは翌月の8月2日である。
 原因菌の黄色ブドウ球菌が発生したのは、3月31日、同社北海道大樹工場で3時間も停電し、生乳からのクリーム分離過程で脱脂乳が加熱された状態で約4時間も滞留、濃縮工程の回収乳タンクでも9時間以上も冷却されずに放置され、その間黄色ブドウ球菌が増殖したとわかった。
 その後、滞留した脱脂乳から脱脂粉乳を製造、大阪工場では安全と信じこの脱脂粉乳から低脂肪乳を製造し販売したものである。この間、同社の工程及び製品管理のずさんさや危機管理の甘さなども指摘された。(出典:科学技術振興機構・失敗知識データベース「雪印乳業の乳製品による集団食中毒事件」ほか)

▼読者の皆様へ
 ここに掲載した大災害以外に、永く銘記すべき災害について掲載のご提案がございましたら、下記へご一報ください。
 防災情報新聞社 担当者:山田征男 Eメール:yama@88.catv-yokohama.ne.jp

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