生卵事件

Last-modified: 2022-09-10 (土) 22:59:07

1996年5月9日に、福岡ダイエーホークスの移動バスに20個前後の生卵が投げつけられた事件のこと。
江戸時代末期に起きた『生麦事件*1』を捩っている。

【目次】


1996年のホークスは開幕時から低調で*2王貞治監督の采配を疑問視する*3ファンによる過激なヤジや横断幕が度々見られた。
そして5月9日に日生球場で行われた近鉄バファローズ戦では試合中に発炎筒が投げ込まれる騒ぎ、また敗戦後にはバス周辺を取り囲まれる事件が起き、雨天中止を挟んだ翌々日の試合も敗戦*4すると、試合後に囲まれた上に「お前らプロか!」と罵声を上げながら生卵を投げつけるファンが現れた。生卵はほとんどがフロントガラスにぶつかったものの、一部は選手にも直撃している。

しかし王はこれに反感を覚えるどころか、逆に生卵をぶつけられた帰りのバスの中で「球場にわざわざ卵を持ってきて投げるなんてこんな熱心なファンはいない。彼らの為に野球をしよう」「ああいうファンこそ本物なんだ。将来優勝したときに一番喜んでくれるのはああいう人達なんだ」ぐう聖演説を披露、これが一つのターニングポイントとなったと後年語っている


これを受け近鉄側も安全策を講じたが、一部メディアがその新ルートの地図を掲載し物議を醸した。
事件から4ヵ月後の9月16日に西武球場で行われた西武戦では、過激な横断幕の掲示やヤジが飛ぶ中で、再び発炎筒が投げ込まれる事件も発生。このシーズンは54勝*574敗2分(勝率.422)で最下位に沈んだ*6

この年、出た横断幕は

  • 「南海復活!」
  • 「その采配は王間違い*7
  • 「ヘタクソ采配王貞治」*8
  • 「病原性敗北菌 OH-89」 *9
  • 「王ヤメロ」
  • 「すげーむかつく!!」
  • 「さようならダイエー こんにちはアサヒビール*10
  • 「門田*11助けてくれ!」
  • 「杉浦前監督*12再登板」
  • 「頼むからヤメてくれ!王」
  • 「Bクラスの責任 腹切れ! 王貞治」
  • 「チーム不振 山本和範解雇*13の責任を取れ 瀬戸山隆三*14
  • 「5年も待てるか 今すぐ辞めろ! サダハル*15
  • 「ホークス潰しの奸賊*16 王貞治 死んでお詫びしろ」
  • 「王退陣」
  • 「忌中」

などなど、王への非難、有能な人物が退団していることへの嘆き、南海OB冷遇への不満、身売りの要求*17まで多岐にわたった。

だが上記の王の発破や根本、瀬戸山らフロントの根気強い努力もあり、主砲の小久保裕紀城島健司に、長年代走・守備要員だった村松有人がこの頃から打撃面で覚醒し始め、秋山幸二も復調。翌年には松中信彦井口資仁・柴原洋らドラフトで獲得した選手が当たったことで1970年代後半の南海時代から長く続いていた暗黒時代から脱却し常勝球団になっていき、王の評価は徐々に変わっていった。1999年に監督として初の日本一を達成して以後、圧倒的な成績*18を残し続けた王を無能監督呼ばわりする者は少なくなった*19

現在では「生卵事件を偲ぶ会」という団体が立ち上げられるなど一種の語り草となっている。
当時の主力選手の一人であり、2010年に現役を引退した上記の村松有人*20は引退会見で、この事件の悔しさを野球人生にぶつけようと努力し続けたことを涙ながらに語った。


この他、2011年10月18日の横浜ベイスターズ対中日ドラゴンズの試合後に、横浜(当時)・村田修一の車が横浜スタジアムの駐車場を出ようとしたところ、横浜ファンから生卵がぶつけられる騒ぎが起こっている*21
この時車には村田の他にも家族(妻と息子2人)が同乗していたため「家族を危険に晒すのか」と激怒。残留かFA移籍かで迷っていた村田の意をFA移籍に傾かせるきっかけになったといわれている。




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*1 武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において発生した薩摩藩の大名行列に乱入した英国人を殺傷した事件。この一件に対する報復から薩英戦争に発展しその後の薩長同盟のきっかけとなった。
*2 事件発生の時点で4連敗、開幕から9勝22敗。
*3 1984~1988年の巨人監督時代は5年間でリーグ優勝1回で日本シリーズは優勝できておらず鹿取義隆に頼り切ったリリーフ投手起用なども相まって監督としての評価は決して高くなかった。
*4 日生球場は1958年から1983年までは近鉄の実質的な本拠地として、以後も準本拠地として使用されてきたが、当該試合が同球場での最後のプロ野球公式戦となった。
*5 このうち、同年に下柳剛らとのトレードで日本ハムから加入した武田一浩がリーグ3位となる15勝(8敗)を挙げたが、武田はチーム全体の勝利数のうち実に約27.78%(=15勝÷54勝)を1人で稼いだことになる。一方、武田(防御率3.84、投球回171.0回)より防御率が良く投球回数も多かった工藤公康(防御率3.51、投球回202.2回)は最多奪三振(178)のタイトルを獲得したにも拘らず、ムエンゴに悩まされたのか8勝15敗(リーグ最多敗戦)の成績に終わった。
*6 優勝したオリックスとは22ゲーム差。5位のロッテに対しても6.5ゲーム差も離れていた。一時は最下位脱出を果たしたものの、終盤に4勝14敗と大きく負け越し、結局はリーグ最下位でシーズンを終えた。優勝したオリックスとの対戦成績は12勝14敗と健闘したものの、2位・日本ハムは9勝17敗と大惨敗だった。
*7 「大間違い」の捩り。
*8 当時の王は武田や工藤を中心とした先発投手の完投を基本としていたが、終盤にピッチャーがへたばり逆転負けを許すことが多かった。親会社の本業と引っ掛けて「閉店直前のバーゲンセール」と言われていた。
*9 この年は関西を中心に0-157の感染者が10,000名を超え、小学生5名が亡くなっている。「89」は当時の王の背番号。
*10 同時期、アサヒビールやサントリーが、本業不振のダイエーや阪神電鉄からプロ野球球団を買収する噂が挙がっていたことから。
*11 門田博光(元南海→オリックス→ダイエー)のこと。1992年に引退したが、現役最晩年になってもなお2桁ホームランを打っており、その長打力は当時の現役選手よりも余程上とみられていた。
*12 南海生え抜きの杉浦忠は南海末期からダイエー初期の1986年から1989年にかけて監督を務め、「紳士」と渾名されるほど人柄の評価も高かったため待望論が挙がっていた。なお原文には「前監督」とあるが、その間に田淵幸一(1990~1992年)、根本陸夫(1993~1994年)が指揮を執っているため、厳密に言えば「元監督」が正しい。
*13 山本は1994年、「バントをしない2番」としてイチローに次ぐ打率2位の.317を記録する活躍を見せていたが、1995年開幕早々に右肩亜脱臼が原因でキャリアワーストの成績となった結果、2億円という高い年俸がネックとなり戦力外通告。同年のトライアウトを経て古巣近鉄に復帰していた。山本は福岡(北九州市)の出身で、ホークスの福岡移転当時はファンサービスもきちんとこなしていた事で一番の人気選手であった事、おまけに復帰後の近鉄で活躍し看板選手になった事から、ファンを怒らせる一因となった。
*14 瀬戸山は当時ダイエー本社からの出向で、翌1997年に小久保裕紀が脱税で摘発された責任を取り社長を辞任。
*15 皮肉なことに、ホークスの監督に就任して5年目の1999年にリーグ優勝と日本一を果たしている。
*16 王監督は現役時代、日本シリーズにてダイエーの前身である南海ホークスと幾度にもわたって対決していた。ホークスは南海、ダイエー、ソフトバンク時代を通じて日本シリーズで巨人を除くセのチームに負けたことがなく、逆に巨人には王監督がいたせいか通算で3勝9敗(3勝は1959年と2019年20年。その為事件時点では1勝8敗)。なおこの年、その巨人は広島につけられた11.5ゲーム差を大逆転し優勝した。
*17 皮肉にも、身売りの願いはダイエーがホークスを生卵事件当時とは見違えるほどの強豪に成長させた後の2004年オフに叶うことになる。
*18 1998年にオリックスと同率3位となり、球団としては1977年以来21年ぶりのAクラス入りを実現して以降、2007年まで10年連続Aクラス入りを果たした。リーグ優勝は1999・2000・2003年の3回(うち1999・2003年は日本一)。さらに(当時のプレーオフ制度により)プレーオフで敗退してリーグ優勝を逃した2004年(ダイエー最終年)・2005年(ソフトバンク元年)もレギュラーシーズンは1位で終えているため、王は在任期間中(1995~2008)に実質5回のリーグ優勝を果たしたことになる。
*19 「優勝は補強のおかげ」など、王無能論を撤回しなかった者は少数存在し続けた。とはいえ、補強しても優勝できるとは限らないから、少なくとも補強に応える実績は上げたといえる。王の同期で親友だった張本勲は、ダイエーの優勝に際して出演番組で「批判していた奴は皆頭を丸めてワンちゃん(王)に謝れ!」と言い放っている。
*20 2003年オフにFAでオリックスに移籍したが、2008年オフに大村直之とのトレードで出戻りしている。
*21 この日の試合で中日がリーグ連覇を達成し、横浜ファンは本拠地最終戦にも拘らず眼前で胴上げを見せられる形となった。