心身平安
 
                    精神科医・八雲学園高校長 近 藤  章 久(あきひさ)
一九一一年、山口県生まれ。東大法学部卒業、さらに慈恵医大を卒業し、アメリカに留学、ニューヨークのアメリカ精神分析研究所に入所して、カレン・ホーナイの指導を受ける。一九五八年、精神科近藤クリニックを開設。医学博士、八雲学園理事長・校長。著書「子どもの生命に呼びかける」「その道はひらけていた」「歎異抄英訳」ほか。
                    き   き   て        井筒屋 勝 己
 
井筒屋:  今日は、「心身平安」というテーマで、精神科医師で、八雲学園高校校長の近藤章久さんにお話を伺ってまいります。一年の初めですとか、学校の新学期の初めには新たな決意で臨むという方も多いことと思います。近藤さんは、校長先生としては、新しい生徒を迎える入学式の時、これはどんな方針でお話をされるんでしょう。
 
近藤:  新しい気持で入って来ますからね。感受性が一番高い時ですよね。年齢的にもそうですね。例によって、どこの学校でも校長の訓話というのはあるんですけど、私はいつも思うんですけど、こういう時に、「ほんとに大事なことを、ただ言葉だけでなくて、自分の身体でもって感じて貰いたい」というふううな気持で、新入生たち全部に、自分の右手を左にある心臓の上に置いて、目を瞑って、しばらくこの鼓動を―トットットッという鼓動を感じて貰う、ということをやるんですよ。ですから、新入生に、「あなた方の手を自分の胸の上に置いてご覧なさい」と、こういって、「そこに音が聞こえるでしょう。それは何の音でしょう? それはね、あなた方の若いいのちの音ですよ」というんですよ。「この音をね、あなた方は大事にして下さい。よく覚えて下さい。これを鼓動というんだけど、しかし、この鼓動を今早くしたり、遅くしたり、あなた方が自分でもって考えただけで、あなたの力でもってできますか? さあ、すぐやってご覧なさい。鼓動を早めて下さい。鼓動をゆっくりして下さい。やってみてごらん!」こういうんですね。「すると、できないですよね。できないから、そのいのちというものはたしかに大事なものだけど、このいのちは自分が自由にできるいのちでなくて、それはほんとに与えられて、そしていつも支えられて生かされていることなんだよ」というんですよ。それ面白いことにわかってくれるんですね。
 
井筒屋:  新入生でもわかりますか?
 
近藤:  わかりますね。実際に自分でやってみて。それ以外のことも話するんですけどね。「あなたのいまそこに腸も動いているだろうけど、その腸がね、やっぱりあなた方がね、その腸の動いているのを早くしたり止めたりできないですよ」というんですよ。それはほんとにわかるらしいですね。後になって、「どう、わかった?」というと、「わかりました」と言いますよ。
 
井筒屋:  そうですか。
 
近藤:  だけど、大抵ビックリしちゃうんですよ。初めにそういうことをいわれちゃうと。けれども、それが後まで残るようですよ。
 
井筒屋:  そうですか。
 
近藤:  自分の生命ということを考える。自分のいのちを考える上において、非常に大事なことになってくるんですね。思い出になるんですね。そして自分ばかりじゃなくて、「君の傍、あなたの傍、友だちにやっぱり同じようないのちがあるんだよ」というように、そうやって「今、あなたの傍でこうやって聞いているでしょう。同じようにいのちの音を聞いているんだよ。そうすると、あなたはあなたのいのちの尊さがわかれば、また友だちのあなた以外の人々のいのちの尊さもわかるでしょう」というんです。「そうすると、どういうことかというと、これから大事なことなんだ。この学校では、挨拶ということをやるけれども、それはどういうことかというと、お互いがお互いのいのちを尊敬しあって、尊び合って、大変大事にしましょうね、という気持で、お互いにお互いのいのちに対して礼拝する」とこういうんです。しかも礼拝するという時にこうやって身体を前に屈める時は、息が吐く時なんです。呼吸でいうと「呼」ということですね。それからまた屈めた身体をこうあげる時には吸うんですね。
 
井筒屋:  自然にいくような感じですね。
 
近藤:  そうですね。そうやっておやりになると―NHKで放送していますけれども、これで聞いていらっしゃる方々も実際におやりになって頂くとわかると思うんですけれども、なんか気持が落ち着いて生き生きとしてくると思うんです。つまり正しい息の仕方をする、「正しい息をすることが正しく生きる」ことになります。息をすることによって、生きているわけですね。息が絶えた時には、我々は死んじゃうんですよ。いのちがなくなる。やっぱり「生きるということは息をする」ということで、非常に大事なことなんですね。
 
井筒屋:  そうやって心臓が動いていることとか、呼吸のこととか、身体の大事なことを教えていらっしゃる。
 
近藤:  まず、それからですね。そうしますと、心の問題に自ずからくるわけですね。
 
井筒屋:  そうやって身体のことを、先生がお教えになっているほかに、毎朝生徒たちに唱和させている言葉があるそうですね。それをご紹介頂けますか。
 
近藤:  それは今いった根本的ないのちなんですが、せっかく我々が生まれて、この生涯一回のいのちを大事にしなければいけないですね。そのために「どうしたらいったい大事にできるだろうか」ということを考えますと、「このいのちをいつも生き生きと喜びを持って充たす」ということが素晴らしいじゃないですか、心をね。それとともに強い身体にすることによって、人間としていのちを頂いた時に、その人間それぞれの一生において、しなくちゃならない、「与えられた一つの使命がある」と思うんですね。それを本当に「自覚して生かしていく」ということが、一生できたら素晴らしいと思うんです。それで、私は毎朝生徒たちに、「三つの誓い」と言いますが、リーダーが上がりまして、
 
     一番目に、「心に喜びを持ちましょう」
     二番目に、「強い身体になりましょう」
     三番目に、「立派な生活をいたしましょう」
 
というんです。で、それに対して、全生徒が、
 
     「心に喜びを持ちます」
     「強い身体になります」
     「立派な生活をいたします」
 
と、こういってはっきり自分の誓いをするわけです。これを毎朝行います。新年もそうですが、常にフレッシュな朝にそれをやります。そしてあとズーッと瞑想します。それからまた帰る時に各クラスでそういうことをやって帰ります。だから、そのことを三年間、休みを除いたらほとんどどこでもやりますし、修学旅行でもやりますから、しょっちゅうやります。
 
井筒屋:  そうですか。ほんとに毎日なんですね。
 
近藤:  そうです。
 
井筒屋:  生徒さんたちの脳裏に刻まれますね。
 
近藤:  そうですね。これを何年もやっていますからね。私の教えた子どもがもう今、六十三とか四ぐらいになっているんですよ。この前も会があったんですけども、その時に、「先生、私はこの三つの言葉をいつも心の糧にして、いろんな時に遇った時に生きてきたんですよ」というんですよ。
 
井筒屋:  当然良い時ばかりじゃありませんよね。
 
近藤:  ええ。決して「心に喜びを持つ」ということは、そう易しいことではないですよ。いろんな苦しみの中にあって、「心に喜びを持つ」といっても持てないことが多いですよね。でも、その中でやはり生きるということ、自分のいのちをほんとに尊重して、その意味をほんとに果たすためには、ここで喜びを持って生きていかなければいけない、というふうな一つの示唆になるんでしょうね。呼び覚ましてくれるんですよ。そういうことが新しく生きていく力になるんですね。そういう意味だと思いますね。そういっちゃあ可笑しいですけれども、私は、薬もやっぱり何年か使った後で、ちゃんと効果がある薬を使いますけど、この三つのことはほんとにいま卒業生たちの経験を通しまして、ハッキリ実証した、と言っていいと思うんです。
 
井筒屋:  なるほどね。生徒にとってみると、最初言葉だけ聞いても、この意味が十分にわかるものではないんでしょうけどね。
 
近藤:  その意味がわかるのは人生だと思うんです。ほんとに意味がわかるのは、人生の現実というものを生きて初めてわかると思いますね。
 
井筒屋:  特に、新入生の子どもにとっては、「立派な生活をいたしましょう」と言われても、ピンとこない?
 
近藤:  わからない。それですから、「立派な生活は何だろう?」と一番わからなくて、私に聞きにくる生徒がいますよ。そういう生徒に私は説明するんです。「それはわかるよ。君はそれじゃ、どういうことが立派な生活だと思う?」と聞くんですよ。向こうとしてはわからないので、私に答えを聞きに来たんでしょうけどね、だけどやっぱりこれは自分が考えて、自分が発見すべきものだ、と思うんです。答えを与えることは易しいし、時に私は、「それは人間として生きる意味をほんとに果たした時に、それが立派な生活なんだ」といいますけどね。それはいっても、そこのところで、「立派な生活というものはどんな意味か。自分の生きた意味をほんとに充実させて生きたかどうか」ということを考えていく、ということが大事だと思うんですね。どうしたらいいか。そこにその人のほんとに授けられた一つの意味、或いは使命、そうしたものをほんとに果たした時に、充実感を覚えるでしょう。ほんとに心に喜びを持つことができたと思うんですね。だから、そのもとになる身体をしょっちゅう考えていなくちゃいけないですね。
 
井筒屋:  「一人ひとりが生かされている」と言っても、それは自動的に生かされているのではなくて、やはり個々の自分自身で考えながら、身体で感じながら、自分の生きる道というのを考えていかなければいけない。
 
近藤:  そうです。そういう時に、私はよくいうんですけども、静かにやりますと、落ち着きますね。そうすると、その後で自分の中から声が聞こえてくる。いろんなことがあった場合に、自分の中から、「こうなんだ」「こういうことなんだ」「こういうことをしたいんだ」という一つの「内部の声」―これを「内部感覚」と言います―そういうものがあるんですよ。そういうものを感じていきますと、ほんとにこれが私たちを導いてくれるんですね。その内部感覚は人間のすべての人にあるんですよ。だけど宗教的にいえば、これは大きな意味で、「仏の声」であるし、「神の声」であると言えるでしょうね。心の一番深いところ、身体の一番深いところから、―心というか、身体というか、ほんとにわからないですね―自分の一番深いところから聞こえてくる声に従って生きるということが、私は大事なことじゃないかと思うんです。それがほんとに自分にとって素直な無理のない道なんです。それに背いて生きると、心の大きなしこりとなって残るんじゃないか、と思うんです。或いは、自分の身体に対して、病気となって出てくるんじゃないか、と思います。
 
井筒屋:  なるほど。そういう内からの声というのは、勿論一人ひとりによって違うんでしょうね。
 
近藤:  その時々によっても違いますね。人生のいろんな時に出てくるわけですね。しかし、そういうものが、自分の内にあり、感じられる、それに敏感であるということは、その人が非常に混乱の中にあっても、なんか一つの清水のように、ズーッと自分の心の中に溢れ出てきて、自分を導いてくれると思いますね。
 
井筒屋:  そうすると、心はあくまで平安でありながら、自分の道を実現していくという能動的のようで、でも積極的な道ということなんですね。
 
近藤:  たしかに平安ということは必要なんです。静かなことも必要なんです。しかし静かなことは、その静かであればあるほど深い活動力というか、外へ出ていく力を蔵しているものです。ですから、人間は深くなくちゃいけないと思うんですよ。それが外に出ますと素晴らしい「気」として外へ出ると思うんですね。そして、その「気」がほんとに人へのいのちに対する愛情と尊敬という形ででる時に、それは素晴らしい温かな、お互いにすごく楽しい喜びを持った一つの世界が出てくるんじゃないか、と思うんです。私は人間の一番深いところに、そういうものがあると思いまして、この前の講演でこういうことを申し上げたんですよ。いわゆる冷戦時代ですけど、核を中心にしてひょっとすると人類が全部撲滅されるかもしれないという不安をもったことがありますね。だけど、私は人間の頭で作ったああいう核で絶対に人間は全滅されないと思ったんですよ。人間の中にはもっともっと深い「内部感覚」が人間全体の中にある。もっと深いところに我々が本気になった時に、自他を超えた、大きな包んでいく愛情に触れる、そういう力が必ず動いていく、と思ったんですよ。それは素晴らしいもので、それがみんなの心にあるから、みんなの心を通じて動いていくと思うんです。ただ問題は、日本でも今まで非常に経済的に繁栄しまして、何かそういった深いものに、我々のいのちに対する尊厳というものが薄れてしまった。人間のいのちばかりでなくて、あらゆるもののいのち―石にもいのちがあると思うんですよ。そういうものにも、一つの一つの大きな意味があるんですね。そういうものを生かしてくれる大きな力があると思うんですね。そういうものを全然わからないで、考えないで、お金を儲けることだとか、地所を買うとかいうことばっかりに一所懸命なった時代があるんですね。それをバブルと名付けた人は誰か知りませんけれども、凄く真実を言い当てていると思うんですね。まさに泡ですよ。しかし、それが日本人に与えた教訓というものを、私は考えるんですよ。そういうものだけで、人間が生きていたら、とんでもないことなんだ、ということを考えさせたと思うんですね。ただ損したとか、残念だというばかりでなくて、そういうものだけに頼って生きているあり方というものが反省させられたんじゃないか、と思うんですね。もっと人間が立派な生活にするためには、ほんとの意味で、自分の中にある内部の声を聞いて―それには一つの瞑想も必要でしょうし、静かな平安な気持が必要でしょう―だけども、そういうものを聞いて、そしてダイナミック(動的)に活動していくというこということが大事じゃないかと思うんですね。
 
井筒屋:  そういった「内部の声に耳を傾けないと、しいこりが残ったり、病気になったりする」とおっしゃいましたけれども、精神科医としての近藤先生が診ていらっしゃる患者さんにも、そういう声に耳を傾けなかった、という方が多いわけですか。
 
近藤:  結局、そういうことについて、全然誰も教えてくれないし、誰も言わないでしょう。本来そういうものがあるから自然に感じたらいいんじゃないか、といわれるけれどもね。ところが、我々はオギャと生まれた時から、本当はそうしたものが与えられているんですけれども、遺憾ながら、そこで育てる両親のいろんな価値観で教えるわけです。これは親の愛情というわけなんですけれども、その時に子どもに自分の私情とか自分の狭い人生観というものをどうしても押し付けちゃうところがあるんですね。或いはまた世俗的な、例えばバブル景気の時代には、「金なんてものは、お前はそんなことでは人に騙されちゃうぞ。人というものはしょっちゅうお前の足下を狙っているんだ。敵だと思え」というふうな人もいますよね。それは人生の中で闘争してきたお父さんにとっては大事でしょうけどね。お母さんはお母さんで、「お前は誰にも負けないような頭のいい男になれ」というでしょうからね。要するに、何か親がいろんな価値観を入れあげちゃうんですね、外から。そうすると、子どもは無抵抗ですからね、初めは。
 
井筒屋:  ちっちゃい子どもはそうですね。
 
近藤:  ほんとに受けたら、それはそうだなあと受けて、いい子になろうと思ったら、そういうことを聞くのがいい子でしょう。
井筒屋:  自分の内の声じゃなくて、そういう他の人の言うことを、
 
近藤:  他人の声を聞いてしまう。つまりいい子は親にとっていい子だし、他の人にとっていい子、その人たちにとっていい子なんで、その子どもにとってはどうかわかりませんね。
 
井筒屋:  なるほど。
 
近藤:  その子どものいのちをスポイルしているかも知れない、ダメにしているかも知れませんね。で、実はそういった結果で、ダメにされた人たちが、何か悩んで苦しんでいらっしゃる姿が、私はノイローゼとか、そういったことで私のところへいらっしゃる方だと思うんですね。だから結局、「どういうことで、あなたは悩んでいるでしょうか?」ということを次第にハッキリさせていくわけですよね。それはどういうことかというと、結局、いい子になるために、お父さん、お母さんから押し付けられたものを、中には反逆的になったり、それに対して不満に思いながらも、その通りやってきている。
 
井筒屋:  そういう葛藤があるわけですか。
 
近藤:  そうです。葛藤があるわけです。それで苦しんでいるわけです。ですから、「押し付けられたことが、あなたのいのちにとってほんとに大事なものは取ってもいいでしょうけど、どうでしょうね、そういうあなたは、どんなことを押し付けられたでしょうね? どんなことを教えられたでしょうね?」と私は訊くんですよ。だんだんといろんなことがハッキリしますね。そうすると、自分で、「ああ、そうか。そういうふうに自分がなってきたか」と気付かれますよ。その時、「あなたは、そうやって私のところまでいらっしゃったのは、あなたが気が付かないけれども、何かこれはおかしいから、自分の生き方が変だから、或いは苦しいから、そういうものを縁にして、そして私のところへ行かせしめたものがあるんじゃないですか」と私はいうんですよ。「そういうものが、あなたの気がつかなかったけれども、あなたの深いところの内部にある〝内部の声〟なんですよ」というんですよ。そういうことから、次第に自分の中の、いわゆる変なバブルみたいな価値観が全部消えていけば、自分の中に溌剌とした自分の声、自分の内からほんとに聞こえてくるものに対する耳を育てるようにしているわけです、私は。
 
井筒屋:  結局、「自分は本当はこんなふうに生きたい」という声に気づかせるお手伝いをされていることなんですね。
 
近藤:  そうなんです。人間は、自分自身の生命に責任を持たなければいけませんからね。さっきもいったように、一つの意味を果たす時はほんとに喜びを感じるんですから、そこでその人がそういうことをほんとに感じ始めたら、これはご自分で開拓していくものですよね。そこに本当の自分があるわけですね。それが本当の自分なんですね。本当の自分になった時に、生き生きとなるし、溌剌と生きられるし、そしてそういうことを果たして、何年か経って、そして人のために、或いはとにかくすべてのもの、自分だけでなくて、他の人とともに、他の人のためにも尽くしながら、生きて生きて正しい呼吸して、そしてその使命を終わった時に、自ずからこの世から去っていってもいいんじゃないですかね。
 
井筒屋:  しかし、なかなかそこまで自分の声に忠実に生かされている自分を大事にしながら生きてきたと、なかなか言えない方も多いんじゃないかと思います。
 
近藤:  そうですね。ですから、私は大事なことは、「我々を動かしている力の存在」というものを「ほんとに信じて、それによって生きていく」ということが大事だ、と思うんですよ。私はよく言うんですけども、よく患者の人に、歩くことを勧めるんです。私自身の経験からも、自分が歩いてみて、そう思うんです。自分で歩いて、後ろから自分を支えてくれるものがあって、それによって柔らかく押さえられて、ズーッと押されて歩いている、という気持になりますと、凄く軽くていい気持ですよ。それを勧めるんですよ。腰のところからちょっと軽く腰が浮きますよ。
 
井筒屋:  学校で新入生に説明される時には、「実際に自分で心臓の鼓動を身体で感じる」ということをおっしゃいましたけれども、先生のノイローゼの治療の分野でもはやり身体で感じるということはけっこう大事なんですか? 
 
近藤:  そうなんですよ。私はノイローゼの人は、頭で考えている。頭でいろんなことをでっち上げていると思うんです。お金にしても、名誉にしても、みなこれ抽象的なことでしょう。
 
井筒屋:  先ほどの例ですと、他の人の期待に応えよう、と。「応えよう、応えよう」として頑張っている方が、
 
近藤:  自分のそういった観念でしょう。
 
井筒屋:  他の人の期待に応えなければいけないという。そうすると、例えばノイローゼの方でもやはりお金は貯めなければいけないとか。
 
近藤:  そうそう。現在の世の中でなければ、そういう人はノイローゼと言わないですね。お金貯めた人は、「偉い人」と言いますね。偉いですね。私の故郷で「偉い」というのは、「草臥(くたび)れる」ということなんです。
 
井筒屋:  どちらですか?
 
近藤:  山口県です。
 
井筒屋:  そうですか。そちらでは「草臥れる」という。
 
近藤:  だから、「草臥れる」ことでしょうね。
 
井筒屋:  先生のところにも、それに拘り過ぎて、草臥れて、いらっしゃる方もおられる?
 
近藤:  よく社長さんとか重役さんとかいらっしゃいますけどね。金銭的にも名声的にも成し遂げた立派な方ですよ。事業も成功させているんだけども、何か足らないものがあるというような感じがある。なんか人生に空虚感がある。成功したんですけれども、なんかちょっとした虚しい感じがする。それがどういうことに現れるかというと、何となしに漠然とした不安とか、不眠ね。なんかしょっちゅう浅い眠りで、よく眠れないで夜中何遍も起きるんですよ。
 
井筒屋:  辛いですね。本人にとっては。
 
近藤:  そうです。ですから直接にはそういうことが問題ですけれど、その奥にはそういった空虚感があるんですよ。だからその空虚感が何故起きるのか? つまり自分の人生ここまで一生懸命これだけやったのだから、ほんとは充実感を感じなくちゃいけない筈ですよね。だけども、充実感がなくて、逆にそういうことになってしまう。私はこういう人は、偉い人だと思うんです―両方の意味で言っているんです―それだけ自分のことをやったんですから、偉い(尊敬の意味で)ですけれども、だけども偉い(草臥れるの意味で)ですね。結局、何が一つ足りないかというと、「本当の自分を生かしていない」ということですね。それ、プラス、何故自分はそれだけの地位を得ることができたのだろうか? どうして自分はそういうふうな金を得たのだろうか、ということに対して、もう一遍考えてみる必要がありますね。いろんな悪いことなんかした場合もあるでしょうね、人には言えないこともあるでしょう。けれども、それは自分の力でなくして、いろいろな運だとか、いろいろな人に恵まれてやったこともあるんじゃないですか。
 
井筒屋:  そうですよね。人間いろんな人間の中で生きているということは、まったく一人で富を蓄積することもないでしょうからね。
 
近藤:  そうですよね。だからそこからみると、すごく自分がやってきた、と。しかし、その自分が今や歳をとってきて、もうすべてのものが充足したにも関わらず、ほんと虚しいという感じがするんですね。
 
井筒屋:  そうしますと、「ノイローゼというのは、さまざまな観念にとらわれた状態」とおっしゃいましたが、そういう病気ということにならなくても、普通の私たちにとっても、「とらわれ」というのはけっこうありそうですね。
 
近藤:  そうなんですよ。それをノイローゼと思わないで、とにかく我慢していらっしゃる。しかし、そんなことを我慢してやっていますと、身体に現れるんですね。
 
井筒屋:  先生のおっしゃった眠れないとか、
 
近藤:  それ以外に、例えば、いろんなことを心配するでしょう。胃潰瘍になったりね。
 
井筒屋:  ありますね、たしかに。
 
近藤:  それから高血圧になったりね。それは身体の病気としてみられますけれどもね。しかし、そういった慢性病みたいなものは、今までの「心的態度」と言いますか、「自分の本当の生命を生かしていない生き方からくるんだ」と、私は思うんです。
 
井筒屋:  そうすると、今、単純に忙しいからストレスで胃潰瘍になった、ということではなくて、やっぱり「生き方に問題があった」と。
 
近藤:  そうです。ストレスに何故なるか、ということですよね。例えば、仕事が自分を生かしているものであるならば、そこに喜びがあり、充実感がある筈ですね。そうすると、ストレスと感じないでしょうね。
 
井筒屋:  なるほど。やっぱり自分がどう生きるか。何が自分にとってほんとに必要なのか、常に考えていないといけないわけですね。考えてみましたら、昔から宗教というのは、この分野では、随分といろんな発言をしていますよね。
 
近藤:  そうなんですね。ですから、このバブル景気はほんとに泡ですよね。人間中心の考え方―それを「私欲」「自己中心主義」と言いますね―こういうものを反省する一番いい時です。それは宗教が前から力説しているところです。そういうものはほんとに「幻である。泡のようなものである」と。まさにバブルというわけですね。私は、私の学校なんかの場合、宗教というのはほんとの意味で考えたら大事なんですけどね、今宗教というと、明治以来というか、とにかく「封建的だ、古くさい」というふうなことを考えてしまってね。
 
井筒屋:  個人の自由を束縛するようなとか、
 
近藤:  そういうふうな、いろんなものがくっついちゃうでしょう。
 
井筒屋:  本来はそうではない。
 
近藤:  宗教というものは、自分が自分の力の傲慢さということに本当に気がつき、自分の力の弱さ、本当の無力さ、というものに目覚めたときに、はじめてそこに自分をこえる何ものか、自分を活かす何ものか、自分を超えて自分を活かす何ものかにふれたときに、はじめて感じられるものではなかろうか、と思うんです。だから人間に関するもっとも根本的な教えなんです。俗的には、非常にいろんな垢がくっついちゃってね。それ見られているんですね。しかし、宗教というものは、「人間がほんとにどうやって生きるか」ということを教えている根本なものですからね。少なくともバブル景気である程度そういったものの私利私欲とか、権威とか―権勢といったって、政治家の権力の元にはリクルート事件みたいにいろいろな汚いお金が動いているでしょう。だから、政治と権力と金なんてものはまったくその意味ではバブルなんですよね。典型的なものだけど、それがもの凄い力として、権威として、今みているのが今の人間の考え方で、こんなものは一見力と見えますけども、こういうものだけに頼っていたら、私はあれほど力を頼み、あれほど過去を擁したソ連があんなふうに壊れるでしょう。
 
井筒屋:  人間は本来の自分に気付かないといけない。宗教はその点、言葉だけでなくて、「どうやったらその気づきに至か」ということを、いろんなことを考えてきていますよね。
 
近藤:  そうなんですね。
 
井筒屋:  先生はその中でどんなところに関心されていらっしゃいますか。
 
近藤:  私はいろんなのがありますけれども、「人間は人間をお互いに敵である」というふうな考え方じゃなくて、私の場合は、宗教というものは、どの宗教も、「人間というものは、人間を超えた大きな力によって、いつも支えられて生かされている。我々全体がほんとに大きな宇宙的な力によって支えられている」ということを、私は教えていると思うんですね。そうすると、お互いが敵ではないですよ。お互いが同じ力のもとにおいて、この世に生を受け、その生は一つの生きる意味で、生命を与えられて、そしてその使命を果たすために生まれているわけですよ。お互いが、それぞれの分野において、それぞれの力を尽くして生きていく、ということを根本的に宗教は教えていると思うんですよ。
 
井筒屋:  そういう人間の本来の声に気付かせるために、修行ですとか、いろんなことございますよね。
 
近藤:  私は、「修行ということはどういうことか」といえば、いわば我々をよく間違った方向へ行かすのは我々の観念なんですよ。ですから、私はこのいろいろな頭の中のはからいとか、考えをなくしていく。それを少なくしていく。それによってあんまりそれの奴隷にならない。それにとらわれないような方向へやるために、何かものをする時に、いつも一心になっていく。「一事一心(いちじいっしん)」と言いますが、ただ一事に集中していく。一つの事に集中していく。一心になってする。一心にやりますと、そこに自ずから没頭しますから、無心という状態が生まれるんです。その無心な状態になった時に、少なくとも、我々をミスリードして、間違った方向へ導いていくところの観念によって支配されないですよね。そういう経験を何遍もしますと、自分の心が自ずから晴れやかになてきますよ。そして、何かカラッと晴れた空のように、いつも一つのことをやる時は、ズーッと一心になるし、それを終わるとスーッとした気持になる。
 
井筒屋:  考えてみると、仏教の修行も、そういったことを目ざしている部分もあるわけですね。
 
近藤:  そうですね。例えば禅の場合、坐禅をしますね。その時には無念無想、いわゆるほんとにそういう形になって、精神の、そういったものから一切離れた自分というものに生きるわけですよね。そういうことを、ただ修行していますと、自ずからそこに、いまいった一事一心の気持になれるわけですね。そういう集中した状態というものがあるわけですよ。それからまた念仏にしても、ほんとに心によって救われると信じて、そして念仏しますでしょう。そうすると、一心に、ただ、ただ念仏している。その時にその他に何もない、とこういう時に、無心ということになりますね。だから、そういう形で、人間のしょっちゅうそういうことをやるようにしますと、少なくとも、間違った道から行かないで、ずーっと晴れ晴れとした道に、悔いのない、後味のいい生き方にいけると思うんです。
 
井筒屋:  そういったところから学べるところも大きいわけですね。
 
近藤:  そうですね。そういうことをやる。つまり「体験」というでしょう。「経験」と「体験」というのはちょっと違うんですね。「経験」は単なるパッと過ごしたようなこと。「体験」は身に沁みるんですよ。身に沁みることは、心に沁みるわけですね。だから、体験をしないといけない。坐禅にせよ、声明念仏にせよ、すべて純粋な気持で、例えば念仏の場合、感謝の念仏。こうやって生かされている喜び、ほんとに一心に、「ただ有り難うございます」という気持でやる礼拝ですね。そういうふうなことが正しく息をすることなんですよ。そうすると、いろんなものが正しく自分を生きる助けになってくるわけですね。まず、心の集中あり、一心があり、で無心になる。そして、いろんな観念による奴隷にならない。いろんな野心や私欲の奴隷にならないで生きていけるということになりますね。私はやっぱり自分の死が近付いて、終わりになった時に、何か清々とした気持で終わるということが、私は一番幸せなことではないかと思いますよ。皆さんがちょうどバブル景気がダメになった時に、またああいうソ連が崩壊した実情をご覧になって、力による政治、力による外交、力による戦略というものを、モットーとしていたソ連のそういう姿というものが壊れていく。そして東西の対立がドイツではなくなっていく。それを見てもハッキリわかるんじゃないかと思うんです。それだったら、余計自分自身のたった一回しかないこのいのちですから、どうかこの生命を大事にして、自他ともに生かされて、これを喜びながら生きていきたい、と思うんですね。
 
井筒屋:  そうなるに至る気づき、体験するために、方法についてアドバイス頂ければ幸いですが。
 
近藤:  私はまず何事をやるにも、自分のなすべきことは、ほんとの内部の声に聞いて、そういうことをスパッとやることですね。そういうことを練習する。それをやる時に「一時一心」でする。生きているということはこの時以外にないですからね。息をしている瞬間が一つの時間です。生きている時間。私は息を吐いちゃってそれっきりだったらもう死んじゃうんですよ。息を入れた時に生きているわけですね。呼吸の一瞬が生きている時です。それを「一時」というんです。「いっとき」です。その時にやる仕事に、ただ一心にぶち込んでいく。遊ぶことでも、遊戯でも何でもいいです。スポーツでも何でもそういうことにすべて打ち込んでいくことが、自分の内部の一番深いところから出るその声に耳をよく傾けて、素直になって、本当に純粋に素直な気持ちで、それにほんとに従っていく。
 
井筒屋:  それは欲望の赴くままにしてしまう、ということとはまた違うわけですね。
 
近藤:  ご自分で、そういう気持になっておやりになったら、自然にわかることですけど、自分の単なる欲望でないということがわかります。欲望を超えた声です。何かある欲望があっても、「それ変だよ」というふうにいってくる。
 
井筒屋:  そうすると、自分の本当の声でない欲望に身を任せていると、
 
近藤:  そうすると、自分をとんでもない変な生活、自己破壊になっちゃうんですね。そしてノイローゼになるというふうなことになってしまうんですね。
 
井筒屋:  それは誰でもそういうことに気付くものですか。
 
近藤:  バブル景気で今まで金を信仰してきたのが、バブルが弾けてガッカリした瞬間だっていいチャンスだと思うんですよ。必ず人間にはむしろ自分の欲望がドンドコいっている時には気が付かない。つまりそこでうまくいかなくなって挫折感を感じて、心の痛みを感じた時に、案外、そういうことに気が付いちゃうことがあるんですよ。「痛感する」というんです。ですから、「痛み有り難し」「挫折有り難し」ということですね。ノイローゼになって、私のところへいらっしゃる方もその時チャンスがあるわけですね。
 
井筒屋:  「あ、病気になった」ということも、ある意味では人生の大きなチャンスである?
 
近藤:  そうです。それは「今まで気が付かなかったことを、気が付かしてくれる大きな縁」ですよね、「力」ですよ。
 
井筒屋:  なるほど。
 
近藤:  そんなふうに、「病気にまでさせて気が付かして貰える」という、こういう有り難いことはどうでしょうかね。
 
井筒屋:  「気づき」というのは、本人が意識しない、いろんな瞬間にも出てくるようですね。
 
近藤:  そうですね。
 
井筒屋:  そういったチャンスというのは大事にしていかないと、せっかくの与えられた気づきのチャンスが生かされないこともあるわけですね。
 
近藤:  そうです。あらゆることがチャンスだと思うんです。その人によりまして、非常にうまくいった時も、「あ、うまくいったのは何故だろう」というふうに考えますと、すぐに自分を超えたものに気付かさせるものもありますね。「あ、こんなふうに健康なのは何故だろう」というところに、「支えられている自分はなんだ」というようなことに気付くんですね。
 
井筒屋:  なるほど。
 
近藤:  「挫折も縁、成功も縁」ですね。あらゆるものがそういうセンシビリティー(sensibility:感受性・感性)と言いますか、自分の中へ深い感じる気持がありますから、それはいろんなものに―春、夏、秋、冬のそれぞれのシーズンの変わり方もいろいろな変わり方ありますね。そういうものにまず敏感であることも大事ですね。
 
井筒屋:  自然の変化にも敏感である。
 
近藤:  これは大きいですね。自然は実にウソ言わないですね。そして、美しい景観を見せてくれるでしょう。感動させますね。そういうものは、ただ物見遊山でなくて、なんか自然の姿に意味を感じたりし始めますと、そこでパッと何かを得られると思いますよ。時々、自然の中に入って、自然のみに肌を接する時に、人間はなんか違った素晴らしい世界と感じるんじゃないかと思いますよ。
 
井筒屋:  それは「自然は自然、人間は人間」という、まったく別れたものではなくて。
 
近藤:  そうです。「自然の中の人間。全部とともに生かされているもの」。いわゆる対象じゃないんですよ。「自然とともにある自分。自然とともに生かされている自分」ということ。一枚一枚の葉っぱの中に宿る生命力。そんなものを感じていったら素晴らしいです。
 
井筒屋:  気づきのチャンスと、それに気付く心というものは大事にしたいですね。どうも今日は有り難うございました。
 
近藤:  どうも有り難うございました。
 
 
     これは、平成四年一月五日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである