どっちの世界観がフィクションなのか | 思うこと

どっちの世界観がフィクションなのか

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前の記事で、安倍さんの国葬について触れたんですが、その時に漏れていた論点がありました。

 

それは、名宰相安倍晋三という物語が、かなりの程度フィクションなんじゃないか、ということです。

 

僕の考えでは、民族主義者や国家主義者が思う理想のリーダーが現れてほしい、理想のリーダーを抱く理想の国家があってほしい、という願望があって、安倍さんがその中のリーダー役をやってもいいよと言ってくれたので、人々から歓迎されているのではないか、ということなんです。

 

つまり本当は歴史上の偉人のような見た目も中身も傑出したリーダーが欲しいけれども、今それを言ってもそんな人は見当たらないし、そもそも民族を率いるリーダーの役をやってくれる人がいなくて、民主主義国の単なる代理人をやりたがる人が多いので、やってもいいよと言ってくれる安倍さんが、そしてすぐに追い落とされないでしぶとく生き残る能力を持っている安倍さんが、非常に貴重なのであり、もっと高い理想を持っている人でも、安倍さんで妥協しよう、ということになっているんじゃないか、と思うのです。

 

しかし実際には、(ビジネス右翼のように、自分の生計を立てるために保守論壇に入り込むことが得策だと考えている人や、ネット右翼のように、憂さ晴らしのために左翼を攻撃している人は別として)本当に心底安倍さんを敬愛している人も少なくないように思えます。

 

それで、僕が見ている世界の方がフィクションなのか、とつい疑いたくなったり、いやいや彼らが見ているのは幻影か、それとも安倍さんが見せている、テレビを中心に展開される、虚構のショーを真に受けているだけだろう、と思い直したりします。

 

基本的に、僕は僕から見えている世界を(いくらか修正の余地があるとしても)真実だと思う他ありませんので、他の人の言うことの方がきっと正しいのだからそれをそのまま受け入れようとは思わないようにしているのですが、この違いは何だろうと思うところはあります。

 

僕から見ると、安倍さんは名宰相というイメージの展開は、権力を長く維持することがゲームの勝利条件だと考えた安倍さんが、ハイ・スコアを狙うために、手段として使っていたイメージ・コントロールや大衆誘導の手法であり、安倍さんはそう見えるように演じることに多くの力を割いていて、実際に名宰相であることにはあまり力を割いていなかったように、僕からは見えました。

 

当時からそういうふうに見えていたので、安倍さんが役者のように見えてきて、役者としてはあまりうまくないんじゃないか、というふうにも見えていたのです。しかしそれを演技としてではなく、政治家の率直な自己表現として見ていた人からは、なかなか良いことをしているように見えたかもしれません。

 

この、現実の世界で一人だけ演技をしている人が出てくるといったシュールな構造は、単純なことで明らかにできたと思います。単純に、継続的にウォッチしていると、途中で演技の方針が変わるので、前と違うことを言い始め、前のことを記憶しているだけで、破綻していることがわかるからです。

 

逆に、長く見ているのに、矛盾に気が付かない人は、物語や演技に心酔するあまり、少々の矛盾が気にならないくらい、むしろ見えていても無意識に無視して、いいところだけを見るようになっていたのかもしれません。

 

左派の方で、安倍さんのやったことに最低の評価を与える人でも、大衆誘導の技術や、嘘や詭弁の使い方ということを、技術論として見たら、高評価してくれるかもしれません。道徳的な観点から、仮にそんな能力があっても、使ってはならないという考えがあるので、一般的には評価できないですが、自分が同じ立場に置かれて同じことができるかと問えば、自分には無理だ、安倍さんにしかできない、安倍さんだからこそできた、ということは言わざるを得ず、その意味では、高評価ができるんじゃないでしょうか。

 

仮に、ほとんどが嘘と詭弁で、合意形成をやらずに、人を煙に巻くことで、物事を実行していった人であったとしても、果たそうとした本当の目的が何かしっかりしたものであったなら、手段も肯定されるところがあるんですが(革命家で評価されている人は理想や実現したことが評価されているのであり、手段は暴力なのであまり評価されない)、安倍さんの場合は、果たそうとした目的が何であったかはっきりしない、というところが問題なんだと思います。

 

正しい理想かどうかを度外視して、彼はこの理想のために働いたということを言っている人がいて、それは白井聡さんで、(僕なりの解釈になってしまいますが)終わってしまった冷戦という時代を、ポスト冷戦という時代にも、しつこくとどめようとした、ということです。

 

それは、具体的には、利権政治を諦めないとか、自民党の一党独裁を改めないとか、地主の家系が議会の議席を世襲することをこれからも続けるとか、そういうことになるんでしょう。

 

その目的のために、安倍さんが身を粉にして働いたと考えると、それは嘘じゃなく真実だ、という気がしますが、それはあまり褒められたことじゃない、ということになるので、結局、評価は低くなってしまいます。

 

技術論で、僕は安倍さんのイメージを一番低いイメージにしていますが、もう少し高いイメージにすることはできるかもしれません。人々の期待や好意を一身に集めることに成功している、ということは言えるかもしれません。国家主義的な感覚を持っている人は、共同体の指導者、共同体の親のような立場の人を誰にするかという問題において、誰でもいいと思っているわけではなく、この人なら任せられるという選択をするわけで、安倍さんは人々の眼鏡にかなったということで、それは誰でもできることではない、ということなんでしょう。

 

左派に言わせれば、共同体の親なんて言うのではなく、みんなが主権者でその中で代表者を決めるだけだと考えてほしいと思うでしょうが、国家主義的な感覚ではおそらくそうなるので、むしろ左派のリーダーも、人々から親のように慕われることを目指すべきかもしれません。