白崎友梨の試練の一日はいつも通りに始まった。
目覚まし時計のアラームで起床。時計の針は7時ぴったりを指し示している。特に早くも遅くもない。
ベッドから降りた素足がフローリングに接する。特に震え上がるほどに冷たいということもなく、ヤケドしそうなほど熱いということもない。
朝ご飯も平常通り。食べるのはトースト、飲み物は炭酸入りの清涼飲料水。朝はお茶よりも、甘くてすっきりとした飲み物を摂るのが友梨の日課だった。
変化があったのは、朝ご飯を食べた後。トイレの扉に手をかけた時だった。ドアノブを引いた右手に予期しない抵抗があった。見ると、内鍵がかかっていた。お父さんが中に入っていて、腹痛だという。順番を待っている時間はない。仕方なく、友梨は一晩のうちに抽出された水分を膀胱に抱えたまま、登校することにした。
多量の水分を膀胱に抱えたまま歩くと、たぷん、たぷん、とお腹の中で水袋が揺れている感覚があった。道中、友梨は自然と早足になる。
バス通学の友梨は、バス停に着いた段階で腕時計を確認した。平常通りの時間のバスに乗ろうと思っていたが、まだもう少し時間に余裕がある。いつもより五分も早い。膀胱の中の水分が、友梨を急がせたせいだった。その水分は、今でも一滴も減ることなく少しずつ嵩を増しながら、友梨のお腹の中に収まっている。
バスに乗る前に、公園のトイレで済ませておいた方が良いかもしれない。友梨はバス停近くの公園にある公衆トイレを、バス停から眺めて確認する。普段は使わないどころか、ほとんど意識して見たこともなかったトイレは、友梨の想像よりも薄暗く、ずっと汚らしく見えた。もしかしたら、和式しかないかもしれない。汚いトイレは使いたくないし、そもそも和式には苦手意識がある。やめておこう、という結論が自然と出た。学校に着くまでの間ぐらい我慢できるだろう。
ほどなくして、バスはやってきた。五分早くバス停のバス待ちの列に並んだため、バス内では席にありつけた。普段はあまりないことだ。友梨は幸運だと思った。バスに乗る時間は三十分ほど。座席に座ってバスに揺られるうちに、友梨はいつの間にか微睡んでいた。微睡みの中、友梨は小規模な夢を見た。友達と一緒にバスに乗っている時、突然トイレに行きたくなってもじもじとしてしまい、友達に馬鹿にされる夢だった。高校生にもなっておもらししないでよー、と友達は冗談めかして言った。どうしてさっきの公園で行かなかったのよー、と別の友達もからかうように注意した。
そこはかとない屈辱感と共に目を覚ますと、バスは停車していた。窓からは見たことのある景色。いつも降りるバス停。あ、私、降りないと。そう思って腰を浮かせた瞬間、バスはすでに出発している。止めてもらおうにも、バスの中はいっぱいで、通路にも人がたくさん立っている。瞬時にそこをかきわけて、運転手さんのところに行くことはできそうにない。友梨は尻込みして、それを試すことなく諦めてしまった。
どうしよう、降りそびれてしまった。このままだと遅刻してしまうかもしれない。困ったなあ、などと湿っぽい物思いに沈みながら、友梨はひとまず次の停留所で降りようと決める。今の高校に入って、このようなことになるのは初めてだった。そのため、次の停留所が、学校からどの程度の距離にあるのかもわからない。でも、次の停留所で降りて、そこから走ったら間に合うかもしれない。そう考えるうちに、背筋にぞわりと寒気が走った。友梨は夢の中同様にもじもじしながら、思い出した。そうだ。トイレ、行きたかったんだった。でも、どちらにしても、次の停留所まで待つしかない。
バスは不規則に揺れながら十分以上も走る。友梨はその間に理解する。今日はいつもと同じ朝ではない。『試練の日』である、と。
バスが止まった。友梨は迷わず降りる。バスは友梨を見覚えのない停留所に送り届けて去っていった。想像よりも学校から離れてしまっている気がする。急がなきゃ。できれば、遅刻なんてしたくない。それに、トイレも早くしないと!
学校があると思われる方角に向けて、友梨は小走りに駆け出した。途中、視界の端をコンビニが過ぎていった。トイレ、とせがむように膀胱がきゅぅ、と収縮する。友梨はダメダメ、と片手で制服のスカートの端を握った。遅刻しちゃうから、学校に着いてからね。
友梨が走れなくなったのは、約五分後だった。友梨は特段スポーツができるわけでもない、自他共に認めるどこにでもいそうな平凡な女子高生だったが、しかし、息が上がってしまったのではない。原因は、自分の膀胱の訴えを無視して走り続け、無闇に膀胱に刺激を与えてしまったことにあった。
友梨は走りながら、ぶるっ、と特殊な震えを味わった。膀胱がこれまでになく強く収縮するのがわかった。あ、まずい、と気付いた。友梨は立ち止まった。でも、遅刻しちゃうから、ちょっと休憩したら学校まで走ろう――と無理強いしようすると、身体に寒気が走った。たまらない寒気に身をよじらせながら、友梨は理解した。ああ、もう、走るのは危ないんだ。歩いていくしかない。でも、そうなると、遅刻は免れられない。
友梨は周囲を見渡して、五分前、コンビニの横を通り過ぎたことを後悔した。周辺には、トイレを借りられそうな施設は見当たらなかった。意味もなく腕時計を確認する。時計の針は、いつもなら、もう教室に到着している時刻を指している。いつもの朝なら、これから教室の自席を立って、いくらでもトイレにも行ける。でも、今朝は行けない。いつもと同じ朝だと思ったのに。家でトイレに行けてさえいたら、こんなことにはならなかったのに。
『試練の日』。毎日毎日、昨日と今日の区別もつかないような日々が続く中、たまにやってくる大変な日のことを友梨はそう呼んでいた。それはどうしてもやらなくちゃいけない課題がある日だったり、みんなの前での緊張してしまう発表の日だったり、はたまた、今日みたいに突然のトラブルが連続する日だったりする。『試練の日』はいつもと違う日だ。でも、友梨が一番嫌なのは、今日みたいに何の予告もなく、普通の日だったはずの日が突然『試練の日』に化けることだ。
私は今日も明日も明後日も、普通の日を普通に過ごしたかったのに――。
友梨は恨みがましいような想いを引きずりながら、歩き続ける。歩みは焦る気持ちに反比例して、どんどんと遅くなる。一晩のうちに抽出された水分に加え、今朝摂取した清涼飲料水の分も追加されて膀胱は刻々と重みを増している。その多量の水分が尿道口を刺激する。もじもじと身体を揺らして、かすかに内股になりながら、友梨はゆっくりと歩いていく。手はスカートの腰回りを気にする風を装いながら、その奥にある下着をきゅ、きゅ、と引っ張り上げている。友梨は今までの経験から、この方法は手でスカートの前を押さえるよりも、ずっと周囲にバレにくい方法であると理解していた。幼少時から友梨は、この方法で危機を何度も回避してきたのだ。それに引っ張り上げられた下着がおしっこの穴を押さえてくれる時、あそこがこすれてちょっと気持ち良いことも友梨は知っていた。
友梨は追い詰められながらも、でも、どこか楽観的な気持ちでいた。自分に言い聞かせるように、『だって』と友梨は思う。だって、私は物心ついた時から、そんな失敗、一度だってしたことがない。危ない時は何度もあったけど、その類の『試練の日』もいつも潜り抜けてきた。だから、大丈夫。そうだ。元を辿れば、朝、トイレに行き損ねただけなんだから。そんなちょっとしたことで、これ以上、ひどい目に遭ってたまるもんか。――ほら、学校が見えてきた。門もまだ開いている。門を通り過ぎて、校舎に入って、昇降口で上履きに履き替えれば、トイレはすぐそこ。
友梨は門を通り過ぎて、校舎に入って、昇降口で上履きに履き替える。上履きに足を収めようとするのに気ばかりが焦ってしまい、踵がなかなか入らない。しゃがみこんで、指を踵のところに入れれば、簡単に履けるのはわかっていた。でも、しゃがむのはまずいということも、また、わかっていた。そんなおしっこをするような体勢を取ったら、弾みで『出て』しまうかもしれない。
片脚ずつ後ろ向きに曲げ、上体を起こしたままの姿勢で踵のところに指を差し入れようとする。脚を上げた途端、波がやってきた。焦りのあまり、踵のところに勢いよく指を差し入れようとしていた手が空振り、指が引っかかることを見越していた脚も制御を失って上がりすぎる形となる。友梨はたまらずバランスを崩し、片膝をつく。弾みで下着の中に、しょわわ、と暖かさが広がる。わあっ、と友梨は声なき声を上げた。膝をついたままの姿勢で固まってしまった友梨は、その姿勢のまま、『おちびり』独特の情けない温もりを味わう。脚をつつー、と一滴の生暖かい液体が伝うのを感じる。
――やってしまった。高校生にもなっておしっこをちびってしまった。
そのことに、友梨は自分の自尊心が深く傷つくのを感じた。しかし、ここでゆっくりしているわけにいかない。もう、上履きの踵なんて、どうでもいい。早くトイレに行かないと。また、ちびってしまうかもしれない。
小さな失敗を冒してしまったことで、友梨は容易に心の余裕を失った。収まり切っていない上履きの踵をぱたぱたと鳴らしながら、友梨は最後の力を振り絞って廊下の先のトイレへと走る。誰もいない廊下を一歩行くごとに、暴力的な振動が膀胱を揺らす。でも、もう、すぐだから。急いで、急いで。L字型の廊下の、垂直線と水平線の交わる所。そこにトイレがある。友梨の視界に、いよいよトイレの表示が現れる。友梨は『試練』に勝った、と思う。しかし、トイレ前には小さな洗面所があって、廊下はわずかに濡れている。友梨の踏み下ろした足は、その表面でつるり、と目標を失う。トイレに駆け込もうとしたあげく、廊下で滑って転ぶという滑稽極まる自分の運命を理解した友梨は、奇妙に空っぽな気持ちになる。
奇妙に空っぽな気持ちで、『試練の日』、と思う。
――じゅわ。
友梨は、自分はどこにでもいそうな平凡な女子高生だ、という自負を持っている。平均よりちょっとだけかわいい平凡な女子高生、という自負を持っている。その平均・平凡よりちょっと上としての自負は、高校生になってまで幼児的な失敗をするのを非凡な意志力で拒否した。
片足を持って行かれながらも、体勢を低くして、なんとかしゃがみ込んだような姿勢で踏ん張る。しかし、不可避の運命であるかのように、その拍子に友梨は股間に暖かさを味わう。
――じゅわわわわあ。
勢いが、強くなってくる。友梨は全ての神経を尿道口に集中し、決壊しつつある防波堤に力を込める。ちた、ちた、と廊下に水が滴っている。スカートの中に両手を突っ込み、下着を満身の力を込めて引っ張り上げ、そして――。
無理だ、と友梨は理解する。これ以上、下着の奥の孔から噴き出そうとする水を止める力は、もうない。でも、でも――。おもらしだけは、いや!
友梨は震える足を床に着ける。スカートの脇に両手を入れて下着を引っ張り上げた状態のまま、新たなおしっこをぱたぱたと音を立てて垂らしながら。生まれたての子鹿のように頼りなくぷるぷると震えつつも、友梨は立ち上がった。そして、トイレの区域への入り口に向き直る。トイレの入り口を目の前にした途端、友梨の中で何かが壊れた。ちょびちょびと続いていた下着の中の水流が一際強くなる。
構わず、友梨はそのままの姿勢で駆け出した。これまでの小走りとは違う、ほとんど全力疾走に近い速度。膀胱への刺激やら、水流がより強くなってしまうことやらは全て無視した速度だった。
トイレに行きたい。おもらしだけはいや。その二つの巨大な願いに衝き動かされて、友梨は走った。ついに本流となりつつあるおしっこを下着の中に溢れさせながら、トイレの区画を縦断し、ついに個室の扉の前へとたどり着く。床にはおもらしへの軌跡とも呼ぶべき小規模な水たまりが、友梨の進んできた道を示す足跡のように残されている。もう負けているも同然なのに、友梨は『試練』に勝った、と思う。
そして、扉を開けようとする。開けようとして、扉の表面に貼られている紙に目が留まる。動きがぴたり、と止まる。目線だけを動かして、他の個室の扉も確認してみる。同様の紙が貼り付けられている。
全ての個室の扉を確認した後、友梨は『試練の日』、と思う。真っ白の頭で、そう思う。
全ての個室の扉の前には、『故障中』という貼り紙が貼り付けられていた。このトイレで共通的に使用している箇所の下水管が、故障でもしているのかもしれない。
扉は開かない。押しても引いてもびくともしない。固定されている。その間にも、勢いを増した熱い感触が下着の中で渦を巻く。脚を伝う。ぽたぽたと床にこぼれる。涙で、視界が滲む。『故障中』の貼り紙が、厳格な太字で、友梨に告げる。
どこにでもいそうな平凡な女子高生なら、この試練を見事突破してみせよ。失敗した場合、おもらし女子高生に格下げとする。
「こんな、こんなの……」友梨は泣き言を言った。「無理、だよぉ。ひどい、よぉ……」
友梨の脳裏に、今朝、ここに至るまでの記憶が蘇る。分岐点が、たくさん、あった。ここじゃない場所にたどり着いて、気持ち良くトイレでおしっこを済ませることができた可能性がたくさんあった。それなのに、友梨は昨晩からずっと溜め込み続けてきた水を膀胱に満載して、ここにいる。
「おじ、おじっごぉ……もれ、ちゃ、う……」
決して開かない『故障中』の貼り紙のある扉に身を預ける。友梨は自分の身体から、ふっ、と力が抜けるのを感じる。それを合図にしたように、水門がひとりでに開く。
――じゅ、じゅううううう。じゅわああああああああ。
昨日の夜からどこにも出すことができていない、濃く熱い液体が激流となって、小さな排泄孔に殺到する。大量の水が排泄孔から飛び出し、友梨の桃色の下着を激しく叩く。友梨の完全敗北を示す液体は、そのまま下着の中から溢れ、足下の床に盛大な音を立てて滝のように降り注いだ。我慢を諦めた友梨の脚は、おしっこによる被害を減らすためか、よりおしっこをしやすい姿勢を選んでいるためか、徐々にみっともないがに股になっていった。制服のスカートも靴下も上履きも、すでに取り返しがつかないほど濡れそぼっている。被害を減らすためだとすれば、すでに時期を逸していた。不慣れな下着内への排尿にも関わらず、勢いは凄まじく、たった数秒の間に足下に大きな水たまりが出来上がっていく。
友梨の中で何種類もの強烈な感覚がごちゃ混ぜになり、嵐となって渦巻いていた。嵐は刻々と情勢を変えていった。最初の一瞬は、恐怖と、もうどうしようもないという絶望感が大勢を占めた。次の数秒間は溜めに溜めた膀胱内の液体を、下着の中でのおもらしという形とは言え一挙に解放している快感が主流となった。膀胱内の液体が減少するにつれて、快感が薄れ、次に表に出てきたのは女子高生にはあるまじき失態を演じてしまっている、情けなさと恥ずかしさ。そして、最後に誰かに見つかったらと思う不安と恐怖が主役となって――そこから先は、変わらなかった。おもらしが、終わったためだった。
静かだった。全ての音が失われたかのような静謐な空間で、友梨は自分の呼吸音と心臓の鼓動だけを聞いていた。激しい放出の余韻が、そこには色濃く残っている。呼吸は荒く、心臓の鼓動は今までに覚えがないほどに自分の存在を強烈に主張している。どくん、どくん、と胸の中心で大きく脈を打っている。はああああ、と放出の余韻に満ちた深い息を吐く。
やっちゃった、と友梨は思う。どうしよう、と友梨は思う。自分の状況を確認し、どうしようもない、という結論に達する。スカートはびしょ濡れ、脚には何らかの汚れた水の伝った跡。靴もぐしょぐしょで、足元には水たまり。大変だ。本当に、どうしたらいいのか、全然、わからない。友梨は先ほどとは違う意味合いで、深いため息を吐く。
その時、遠いどこかで音が聞こえる。キーンコーンカーンコーン、という特徴的な聞き慣れた音。ショックから抜け切っていない朦朧とした意識のまま、後を引きながら響くその音をしばしの間、友梨は聞く。そして、ある瞬間、それが何を示すかを突如として理解する。
チャイムの音! 友梨は慌てて周囲を見回した。一時間目が終わる。授業が終わったら、生徒の多くはトイレにやってくる。ここは故障中の区画だけれども、まだそのことを知らない人はやってくるに違いない。とにかく、こんな現場を見られるわけにはいかない。逃げないと。
一瞬、トイレの床が気になった。タイル地の床には、友梨が高校生にもなってまき散らした尿の跡が散乱し、いかにもおしっこくさいにおいを発している。しかし、痕跡を消している時間はない。
逃げる決心を固めたその時。トイレの区画と廊下を繋ぐ扉ががちゃ、と音を立てる。何の音、と思う。ドアノブが回る音。さあっ、と血の気が引いていく。ドアノブを回したなら? 次の動作は決まっている。
全てがゆっくりと動いているような錯覚を味わいながら、友梨は目の前で、扉がゆっくりと開いていくのを見つめる。
友梨は『試練の日』、と思う。今までの人生で最大の、『試練の日』。それはまだ、始まったばかりなのかもしれない――。
(了)
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