東京・亀戸天神の目の前に本店を構える創業213年の老舗和菓子店、船橋屋。諸国から集まる参拝客のお土産として江戸時代から庶民の味として親しまれてきたのが、同社が販売するくず餅である。小麦でんぷんを乳酸菌発酵させる伝統製法にこだわりつつ、新たな事業分野へも果敢に挑戦する8代目の渡辺雅司社長に、後継者としての思いや今後の事業戦略を聞いた。
- プロフィール
- わたなべ・まさし●1964年、東京都生まれ。立教大学経済学部卒業後、1986年に旧三和銀行(現三菱UFJ銀行)に入社。企業融資や債券トレーダーなどの業務を経て退職し、1993年に船橋屋に入社。2008年、8代目として代表取締役に就任。座右の銘は、6代目の祖父がよく口にしていた「われ以外皆わが師」
渡辺雅司 氏
8月上旬、社長の耳にうれしい知らせが届いた。JR東日本が主催する「JR東日本おみやげグランプリ」で、同社がエントリーした「元祖くず餅 カップくず餅」が総合グランプリに選ばれたのである。選考対象は1都16県からエントリーした124品。一般消費者によるウェブ投票で最も多くの票を獲得したのが同社のくず餅だった。特設サイトでは「15カ月間乳酸菌発酵精製し、ひとつひとつ丁寧に蒸し上げ、秘伝の黒糖蜜と香ばしいきな粉を加えて生まれる味わいは、亀戸天神のみならず、東京の名物として親しまれる逸品」と紹介されている。
当社のメイン商品であるくず餅は、もともと東京から千葉にかけての「下総」の国の農家のおやつとして親しまれていました。このあたりは原料となる良質な小麦が豊富にあったそうです。このくず餅を亀戸天神に訪れる参拝客向けに売り出して商売をはじめたのが初代の勘助です。伝統的な製法を守り続けているこのくず餅が、一般消費者が投票するいわば『総選挙』でトップを獲得したと聞いて、私が一番びっくりしました。それはうれしかったですね。
このくず餅の最大の特徴は、とことん無添加にこだわっていること。小麦粉を練って水洗いし、くず餅に必要なでんぷん質だけを沈殿させる。そのでんぷん質をヒノキの貯蔵槽に入れて450日間じっくりと熟成。ヒノキに付着した乳酸菌による発酵によって独特な歯ごたえと風味が生まれるが、製造工程で防腐剤やpH調整剤などの添加剤を一切使用していないのである。風味を損なうため、真空パックや脱酸素剤も使わない徹底ぶりだ。この愚直な製品作りに対する姿勢が、1日2万食を売り上げるロングセラー商品を支えているのである。
自然のものを自然のまま提供するというのが当社の経営理念です。従って、和菓子で唯一の発酵食品と言われているくず餅を無添加で提供することにこだわっています。完成するまでに450日かかるのに対し、賞味期限はたったの2日という非効率なやり方ですが、今後も変えていくつもりはありません。
銀行勤務で経営の本質学ぶ
まさに「くず餅一筋真っすぐに」という同社の経営理念を体現する言葉だが、20代のころは後を継ぐことは真剣に考えたことはなかった。渡辺社長には妹が1人いる。のれんの継承を何より大切にしてきた船橋屋は、経営者としての資質を最優先して養子に家督を継がせることも多かった。渡辺社長も「妹の結婚相手が8代目になるかもしれない」と考えていたのである。
大学を卒業したのは1985年。プラザ合意で世界経済が大きく転換点を迎えた年である。ヒト・モノ・カネのうちカネの分野に興味を見いだす。
規制ばかりだった金融業界が大きく国際化、自由化の方向にかじを切っていった時代でした。そこに魅力を感じ旧三和銀行に入行。最初の2年は融資、次の3年はディーリング、最後は銀座支店に2年勤務しました。仕事はとても面白く、経営者としてのあり方を学ぶ良い機会になりました。
銀行で勤務したのは86年から93年。バブルの絶頂期からその後の崩壊を金融機関の中から目の当たりにしたのである。世相に踊らされず堅実な経営を続け生き残った企業もあれば、目先の利益にとらわれて業績が大きく傾く企業もあった。企業経営者は何を一番大切にしているのか、そもそも会社は誰のためにあるのか――銀行でがむしゃらに働いた8年間で、渡辺社長は企業経営の本質を考えるようになる。
なぜお客さまは当社のくず餅を買っていくのか、私たちは社内でこうした質問を『本質的な問い』と呼んでいます。この問いがあるかないかで会社のあり方は全く違うものになる。なぜ当社は手間ひまかけてつくったくず餅を賞味期限2日で販売するような非効率なことをしているのか。保存料を使って多くの在庫を持てば売り上げを数倍に伸ばすことも可能でしょう。でもそれはあえてしない。食はあくまで自然の恵みであり、われわれ人間はそれを食べさせてもらっているという考えが連綿と受け継がれているからです。だから私たちは、できる範囲内で自然の恵みを自然のままでお客さまに届けることを経営理念として大切にしています。これが渡辺家に代々伝わる家訓『売るよりつくれ』の意味するところだと思っています。
銀行員時代は、経営の目的は利益を追求することだけだとずっと信じていました。しかし今は、それは違うと思います。経営の目的は社会貢献です。社会は個人の総和、つまりお客さまの集合体が社会ですから、お客さま一人一人に何らかの幸せを得てもらうことが社会貢献につながることになる。自然の恵みを健康的においしく味わってもらうことを真っすぐに追求すること――この経営理念は今後もずっと貫いていかなければいけません。
「鬼の形相」で社内改革
はやりの言葉で形容すれば「エシカルな」といってもいいかもしれない。しかしこうした語り口で経営理念を公にできるようになったのも、8代目として確固たる実績を残してきた今だからこそ。後継者になることを決意して同社に入社した当時は、とてもそんなことを考えられる余裕はなかった。
私は6代目の祖父(故渡辺達三氏)にかわいがられていたおじいちゃん子でした。その祖父が、亡くなる間際の病床でうなされながら、長男に対し説教をはじめたのです。長男は後継者には向いていないと判断され、当社とは関係のないところで働いており、しかもそのときすでに病気で亡くなっていました。誰が7代目か分からなくなるほど意識がもうろうとしながらも、会社の経営を最後まで気にかける祖父のそんな姿を見て、血より重いのれんを守り続けなければならない後継者としての覚悟が決まった気がします。29歳で入社した後は、会社をよくするためにとにかくいろんな改革を行いました。
製造部門や販売部門などの業務に就き、現場の仕事をまずは覚えた。いわゆる修行期間である。バブル崩壊後にもかかわらず業績は堅調だったが、山高ければ谷深し。元銀行員の勘から、当分不況は続くと感じていた。社内を見渡すと、危機ばかりが目に付いた。
工場では職人の力が強く、「新人は直接工場長と口を開いてはいけない」などといった暗黙のルールもある風通しが悪い状況でした。「仕事は盗んで覚えろ」と研修・教育の場も不十分。百貨店の店頭に行ってみればスタッフが居眠りをしています。お客さまセンターでは対応の悪さからお客さまを怒らせてしまうこともしばしばでした。今では信じられませんが、日曜出勤日の夕方に自然発生的に酒盛りが始まってしまうこともありました。「老舗の看板にあぐらをかいている。このままではだめだ」と強い危機感を抱きました。
一通り社内の状況を把握した入社2年目以降、当時専務だった渡辺社長の大なたがついに振るわれた。まずは融資を受けていた金融機関との取引をゼロベースで見直した。不当に借入金利を高止まりにしていたり、過度な抵当権を設定させていたりした銀行との関係を解消し、資金繰りの改善を図った。さらに「長い付き合いだから」と惰性により取引を続けてきた仕入れ先とも厳しい交渉を実施。実勢価格より高い値段を提示していた仕入れ先には値下げを迫り、合意できない場合は新たな仕入れ先に変更した。
仕入れ先や金融機関だけでなく、改革の波は社内にも容赦なく押し寄せた。渡辺社長がISO9001認証取得の大号令をかけたのである。作業工程の全面的な見直しと研修を義務付けられ、「学生時代以来机に向かったことがない」(渡辺社長)現場の職人たちからは、反発の声があがった。方針についていけず会社を去っていった社員も少なくなかった。ドライかつ合理的な取り組みは確かに社内の風紀を一新したが、「パワハラ以外の何物でもない」(渡辺社長)姿勢に社員たちは萎縮し、知らず知らずのうちに指示を下す社長の精神をむしばんでいった。
ある日ふと社員たちの顔を見ていたとき、社員の顔が幸せそうではないことに気づいたのです。若い社員は想像もできないでしょうが、当時の私の顔つきは、まるで戦場に出る武士のような、鬼の形相だったのではないでしょうか。その時、私自身が変わらなければ、社員を幸せにすることはできないと考えを改めました。読書や各種研修、セミナーに参加し答えを見つけようと必死になりました。
乳酸菌サプリメントも販売
名経営者と呼ばれる偉人の書物や経営書を読みあさった。哲学や精神世界の研究もした。参考になりそうな研修会やセミナーにも片っ端から参加した。禅や瞑想(めいそう)に救いを求めた時期もあった。精神が迷いさまよううちにたどり着いたのが、「くず餅一筋まっすぐに」の経営理念であり、「自然のものを自然のまま提供する」企業としての軸であり、「利益はあくまで後からついてくる。企業の目的は社会貢献」という経営哲学だった。内側から変わっていく渡辺社長に柔和さが戻ってきたのに気づいたのか、次第に社員の顔に笑顔が浮かぶ時間が多くなる。この時期に開始した新卒採用も社内の雰囲気が好転する大きな要因となった。
10年ほど前から、大手サイトを通じて新卒採用を開始しました。物事を斜に構えて見る人ではなく、まっすぐに見る若い人と一緒に働くことで、古参の社員も変わらざるを得なくなると考えたからです。会社説明会を採用の場というよりも就活セミナーに近いような学生目線の内容にしたのが好評だったのか、最初から100人を超える学生からの応募がありました。現在に至るまで、若い社員の声を経営に取り入れる仕組みを積極的につくった結果、口コミやSNSで当社のことが知られるようになり、ピーク時には5人の採用枠に1万7000人の応募を集めるまでになっています。
若手社員の活躍の場を広げるため、品質管理、衛生管理、社内活性化、イノベーションなどをテーマにした部門横断的なプロジェクト活動を推進。通算発行数が100号を超えた社内報『船橋屋』では、毎号特定の社員にスポットを当てたインタビュー記事を企画し、「社員ひとりひとりが主役」という意識付けを行っているという。若手がはつらつと働く職場環境が整備されれば、おのずと革新へ挑戦する機運が高まってくる。
発酵のベースとなる乳酸菌を抽出して培養したところ、くず餅特有の乳酸菌の存在が発見されました。それを当社は「くず餅乳酸菌」として商標登録。すでにサプリメントとしてクリニック向けに販売しており、来年をめどに一般販売も開始する予定です。
さらに2年後をめどに機械化を進めた新工場を立ち上げる予定です。本社から車で5分ほどの場所に360坪の土地を確保しました。生産能力は現在の3倍くらいになりますが、あくまで販売先は無添加で出せる範囲。目指すは「広げない」経営です。
(本誌・植松啓介)
1805年 | 初代勘助、亀戸天神参道に創業。出身地の地名をとり、屋号を「船橋屋」とする。 以降五代目まで個人経営。 |
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1952年10月 | 有限会社船橋屋設立 |
1953年4月 | 亀戸天神前本店完成 |
1968年6月 | 株式会社へ改組 |
1978年4月 | 本社工場ビル完成 |
1979年5月 | 岐阜県羽島市に澱粉発酵精製所完成 |
名称 | 株式会社船橋屋 |
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創業 | 1805(文化2)年 |
所在地 | 東京都江東区亀戸3-2-14(亀戸天神前本店) |
売上高 | 約18億円 |
社員数 | 約180名 |
URL | http://www.funabashiya.co.jp/ |