文顯進会長への転換は統一運動の大きな転換になる

統一運動はメシア的、カリスマ的、摂理的運動であり、その運動において第4アダムは不可欠であること、そして、アダム的人物が現れる時は、神様によって選民として準備された人たちが混乱し選民の資格を失う試練を受ける時であることについて、何回か書きました。

まだ、それについて不十分にしか書けていないものの、別の角度から見て、文鮮明師から文顯進会長へのリーダーシップの相続と転換が、何を意味することになるか、ということについて、少し書いてみたいと思います。この内容は、アダム的人物という骨組みの中では、第3アダムから第4アダムへの相続と転換を意味します。

結論から言えば、文顯進会長へのリーダーシップの転換は、統一運動そのものの大きな転換を意味します。

転換というのは、旧統一教会では反発を受ける言葉だろうと思います。なぜなら、旧統一教会の思考と教育は、絶対服従にあり、誰が上で誰が下、誰が誰に従うべきか、ということを中心としているからです。旧統一教会の真の父母宣布文サイトにある、第4アダム批判を見れば、その批判の組みの中心は、誰が誰に絶対服従するべきか、です。それを旧統一教会では一体化という言葉で呼んだりします。

でもその、統一教会の幹部が語る一体化はまやかしです。前回掲載したビデオの中で、文鮮明師が「ルーシェルより悪い」と言っているのは、旧統一教会の幹部のことです。でも彼らは、その言葉は無視して、文鮮明師が文顕進会長を批判した時の言葉だけを強調しています。れは、文鮮明師どの言葉を利用するかというゲームのようなものを、旧統一教会の幹部たちはしていた、ということの一つの例です。

アダム的人物は御旨の主人

原理講論にある本来の人間の姿を一言で言うのなら、神様の御旨の主人となった人です。原理講論の一番大事な部分は創造原理であり、その中で最も大切なのは、創造目的です。その創造目的の中で、第一祝福を完成した人間とはどのような人であるかについて以下のように書いてあります。

神を中心として心と体とが創造本然の四位基台 を完成した人間は、神の宮となって、神と一体となるので、神性をもつようになり、神の心情を体恤することによって神のみ旨を知り、その旨に従って 生活をするようになる。

これが、第一アダムが成し遂げるべきだったことで、その後に続くアダム的人物も、この内容は変わりません。これを一言で言うならば、神様の御旨の主人となった人です。そして、そのアダム的人物神様が願う人間の姿の先例です。宗教団体は、そのアダム的人物を崇拝しがちです、その人物を崇拝するのが神様の目的だ、とは原理講論にありません。

神様の創造の意図に従い人間には霊的意識と自由が与えられており、霊的知情意の能力に呼応して、肉体的な知情意の能力が与えられていますが、同時に個性真理体でもあります。つまり、アダム的人物は全く同じではないということになります。例えば、情的であったり、知的であったり、個性は違います。共通するのは、神様の御旨の主人であるということです。主人とは奴隷でもロボットでもありません。ゆえに、絶対服従という僕に当てはめる枠組みを、主人であるアダム的人物に当てはめるのは、神様の創造の意図に反しますまた、僕の段階から、養子、実子と復帰の道を歩ませた神様の意図にも逆行します。

ちなみに、旧統一教会の幹部が、第4アダムを批判するとき、彼らは文鮮明師の言葉を引用しようとしますが、そのような批判をする時、神様を忘れています。第一アダムは、神様により創造されました第2アダム、第3アダムと決定したのは神様であり、それを各自が認識できるように教えたのも神様です。

第4アダムも例外ではないと考えるべきです神様が第4アダムを任じた後で、文鮮明師は、その任命を認めたのであって、任じたのは神様です。そして、アダム的人物に神様が任じたとしても、そこからの責任分担がまだあります。その責任分担が果たせるように、従うべきは洗礼ヨハネのような役割がある人たちです。

でも、イエス様に対して洗礼ヨハネがつまずいたように、どんなに修行し立派であったとしても、アダム的人物に、人間はつまずいたのが、歴史の繰り返しです。私が、「神様が任じた」と言ったら批判する方もいるでしょうが、批判する前に、アダム的人物の前に謙遜になれずに失敗した歴史を思う必要があります。イエス様は、ユダヤ人には、ユダヤの律法を破る人、悪例の頭に見えたのです。

文顯進会長は文鮮明師のしたことをそのまま繰り返すのではない

さて、文鮮明師から文顯進会長へのリーダーシップの転換のことに戻ります。結論から言って、文顯進会長が父親のしたことをそのまま繰り返すと言えば、そのようなこと考えられません。それは個性の違いだけの問題ではなく、時代的背景が違うからです。考え方も教育も育った国も違います。

繰り返さないことの例1

簡単な例から言って、例えば文鮮明師には、たくさんの詐欺的プロジェクトが次から次に持ち込まれました。私もアフリカのダイヤモンドに関するプロジェクトが回ってきて、調査したことがあります。文鮮明師は認めたとされていましたが、詐欺でした。文鮮明師は、そんな詐欺的なことが続いても、それでも人を信じようとされていました。「自分の実子より他人を愛する」ことを哲学としていました。神山会長のような方が、そのような文鮮明師を守るために、御自分を番犬と呼ばれたこともあるのを聞いたことがあります。

例えば朴普煕氏や朱東文氏のようなリーダーが、「お金が必要だ」と訴えれば、それを文鮮明師は信じました。次から次に、文鮮明師に、旧統一教会のリーダーたちがプロジェクトを持って行き、形だけでも了承をもらえれば、お金を要求できる、詐欺による現金引き出しゲームのようなことが行われていました。

文鮮明師は、何でもわかって間違いをしないと幹部たちは教えていましたから、文鮮明師が形だけでも了承すれば、現金引き出し機のカードをもらったようなことになります。その犠牲が日本の教会員です。私が、「何でもわかって間違いをしない」と思うのは間違いだと言うと、旧統一教会員は反発することが多いのでしょう。でも、教会員自身が、その幹部の教えの犠牲になったのは、冷静に考えればわかることです

旧統一教会員が幹部の言うままに霊感商法をしたのも、文鮮明師は「何でもわかって間違いをしない」と思っていたからでしょう?文顯進会長を幹部が言うままに批判したもの、文鮮明師は「何でもわかって間違いをしない」と思っていたからでしょう?

では、文顯進会長は、詐欺を受け入れるでしょうか?この30年、文顯進会長の下で働いてきましたからはっきり言えますが、受け入れません。それが旧統一教会リーダーの方達には、「水清ければ魚棲まず」かのように感じられることもあったはずです文顯進会長は、父である文鮮明師を愛し守ろうとし、旧統一教会のリーダーたちの問題を知っているが故に、文鮮明師と同じことはしない、としたら、それは歓迎するべきでしょうか、反対するべきでしょうか?

文顯進会長が文鮮明師と同じことをしないのは、文鮮明師も暗示していています。1998年の就任式の時に、文顯進会長がハーバードM B Aや神学学位を持っていることを語りながら、千倍万倍優れることを願うと励ましています。

繰り返さないことの例2

もう少し例をあげてみます。文鮮明師は霊的能力があるのを見せることが多かったが故に、教会員は「何でもわかって間違いをしない」と信じたはずです。それに対して、文顯進会長は、そのような能力があるのを見せない人です。その能力が無いのではありません。私は、文顯進会長が霊的な世界のことを見ながら語りかけられた体験があるので、霊的能力があるのがわかるのですが、普通はそんな姿は、ほとんどの人は見ていないでしょう。

米国の幹部には、文顯進会長は霊界がわからないビジネスマンだと言った人もいます。これはアダム的人物に対して「何でもわかって間違いをしない」の逆の側の極端な見方です。文顯進会長は、教会員が文鮮明師を「何でもわかって間違いをしない」と信じたことから来た弊害の数々を知ってますし、同じ間違いを繰り返すことをしないのは当然でしょう。「メシアとは人間だ」と強調することは、皆さんもご存知でしょう。

霊感商法や清平を旧統一教会内で指導者が広げることができたのは、教会員が幹部から、文鮮明師は「何でもわかって間違いをしない」と教えられていた土台があったからです。この間違いを正さなければ、同じ過ちをする可能性があります。旧統一教会員にとっては、これは大きな転換です。

文顯進会長が強調するのはどんな事かと言えば、人間に与えられた自由と責任分担の大切さであり自らの意思で良心の声を聞き、真理と善と義を体現する人間としての土台であり、その土台の上に家庭を形成する事です。故に、基本的人権と自由が保障される世界のビジョンを語り、実践しています。最近、韓国での大会で文顯進会長がスピーチをした時、文顯進会長を全く知らなかった人が、「誰だこの人は?オバマのような人だ」と評していたのを、通りすがりに聞いたと友人が言いました。

文顯進会長はアメリカの有名なリーダーのように見えますし、その英語のスピーチには、米国人も舌を巻きます。同時にキリスト教などの宗教指導者には、霊的感銘を与えることができる霊性を持ち、宗教指導者は、「あなたは神から祝福された人だ」と評します。

旧統一教会で、基本的人権と自由などということが語られたのを聞いたことはありませんし、良心は、人情的と呼ばれて退けられていました。旧統一教会で信じられていたのは、祝福や献金などを通して、自分が天国に行けると信じる、天国へのチケットのような信仰でした。これを更に助長したのが、清平でした。初期において、清平で霊的現象があったのは否定しませんが、そこに頼るようになると、まるで旧約以前の、御言の無い供物時代のようになります。

繰り返さないことの例3

もう一つの例を挙げてみましょう。日本では旧統一教会が政治家に選挙支援などを通して取り入ったことが大問題となっています。その手法は、旧統一教会が億単位のお金を払ってでも、V I Pを大会に参加してもらったり、ビデオを送ってもらったのと似ています。賄賂とはならなかったとしても、応援やお金という便宜を図ることによって、教団の益のために著名人を動員しています。だから、旧統一教会にとって、大会などは大金がかかる行事です。

文顯進会長は、このような取引のようなことをしないのです。「近道は無い」と語ります。例えば、文顯進会長のN G Oでは、著名人が参加しても、謝礼は払わない方針があります。つまり、文顯進会長の大会に参加した方達は、お金や選挙援助などの便宜で参加を決めたのではなく、文顯進会長の語るビジョンによって動かされたのです。旧統一教会の人には、文顯進会長の行事も、旧統一教会も同じに見えることでしょう。でも、質がまるで違うのです。

私は6、7年、文顯進会長と全く会えなかった時期があります。2008年、世界で文顯進会長が活躍されていた頃も、一度も会えませんでした。でも、2009年から2010年、文顯進会長が行事をした発展途上国を訪問して、さまざまな宗教と人種の人に会った時に、文顯進会長が社会に与えたインパクトがどれほど大きかったか、ビジョンにより人を動かしたことの価値が、よくわかりました。

大きな転換になる

統一運動は、メシア的カリスマ的摂理的運動なので、アダム的人物が、別の人に変われば、統一運動全体が大きく変わるのは当然です。文鮮明師と同じことをしないから相続者ではないのか、というとそうではありません。アダム的人物は、神様の御旨の主人です。その主人としての表現がどのようにされるのかは、人によって違って当然であるはずです。

文顯進会長へのリーダーシップの転換は、統一運動そのものの大きな転換を意味します。


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