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2022年9月18日日曜日

自分史3

さすがにこれで最後かな。


⑦大学

大学の建物からは少し離れた山頂の町に住み、地下鉄で通うことにしました。

母がここでいいんじゃないかって言って、私もじゃあここでいいかって言って決まりましたね。

家具や家電は母が勧めるままに買いました。他のことも全部言われるがまま。

私は迷いを断ち切るために思考を止めました。

いつか死ぬために生きる。

かつてのように悲壮感に酔うことはできませんでしたが、その思いは変わらず私を穏やかにさせてくれました。

大学では完全に人との関わりを消しに行きました。

部活にもサークルにも入らず、ただ講義には出席する。

先のことはどうしようと思ってたんでしたっけ?

何も考えてはなかったか。

平日は講義を受け、課題をして、自炊して、スマホをいじって眠る。

休日はカードショップに行って時間を潰す。

あるいは私の理想とはそういうものなのかもしれません。

1年の夏休みは免許を取るために実家で過ごしました。

親元で過ごすことは苦痛だった。

いや苦痛であってほしかったのかもしれません。

父も母も年を取り穏やかになっていきました。

私は小学生時代の父母のイメージを拭えないためそのギャップに心を乱されました。

思えば母に怒られることが無くなってもう6年以上経ちます。

父の怒声も少なくなり、神経を揺さぶりもしなくなりました。

いつまでも私だけが変わらずにいる。

いつまでも私だけがあの頃のまま。

苦しくないことが苦しいという感覚を初めて知りました。

遠くへ行きたい。

どこか遠くの小さな町で、古びた部屋を借りて、単調な仕事に就いて、簡素な暮らしをする。

その想像が私の頭を占めるようになりました。

講義や実験が忙しくなり、自由な時間が減ったのは幸いだったのかもしれません。

私は忙しさを理由に自分のことや今後のことを考えるのを止められました。

冬休みに入り、私はバイト先を探し始めました。

単純に暇だったのと、アルバイトくらいはしておかないと就活で話せることが無いからですね。就職する気なのかって感じですが。

ですが周辺には募集が少なく、なかなか成果を上げられませんでした。

そうこうしてるうちにコロナが流行り始め、私はそれを言い訳に怠惰な暮らしに逃げ込みました。

オンライン授業に移行したこともあり、私はその1年をほとんど人と関わらずに過ごすことができました。

パソコンで動画を流し、スマホをいじって、カードを眺める。

とても楽でした。問題を先送りにして耽る娯楽ほど魅力的なものはありません。

子供の頃の私にとって人生のスキップ機能は読書と睡眠でしたが、文明の利器を存分に使うことで人生の全てをスキップすることができました。

この頃の記憶はほぼありません。

変調を感じたのは秋が終わり、冬が始まろうとしていた頃です。

私は眠れなくなりました。

本来の目的も忘れてのうのうと生き続け、いったい何をしているのかと正気に戻り始めたのでしょう。

まぁあの状態が正気なのかは疑わしい限りですが。

日中はこれまで通り怠惰な暮らしを続けていても、夜になると罪悪感と自罰心に苛まれるようになりました。

夜中はじっと虚空を睨み、明け方に少し眠る。

そんな生活が冬の間は続きました。

二度目の冬休み、私は再びバイト先を探し始めました。

夜の時間を埋める何かが無いとおかしくなると思ったからです。

幸い近所のコンビニに募集があり、そこで働かせてもらえることになりました。

夜勤を希望したのですが、初めての人には任せられないということで夕勤に入ることになりました。

バイトは大変でした。すべてが初めてということもありますし、1年間ロクに喋らなかったツケも回ってきました。

しかし職場の人間関係にも恵まれ、私はちょっとずつ一人前のコンビニ店員になっていきました。と言っても単純な接客清掃品出しといった業務だけですが。

不眠はしばらく続きましたが、春になって暖かくなるにつれてちょっとずつ眠れるようになっていきました。

3年生からは対面授業が再開されました。去年はオンラインで学生実験を行って、まぁ絶対問題があったんだろうなぁって思います。

久々に大学に通わなければいけない上にグループワークが中心となるため、私の気は重かったですね。

でも、思ってたのと違いました。

私はさほど苦労することもなく周囲と溶け込み、時には笑顔を見せるようにもなりました。

私はずっと子供の頃のままのつもりでした。

落ちこぼれでみんなの足を引っ張ってて、まともに口も利けない出来損ないで生きてるだけで迷惑な存在。

ずっとそういうつもりで生きてきたんです。

だから一人でも耐えられた。辛くても頑張れた。それが当たり前だから。

違うんじゃないかなって…

私は正直自分のことを発達障害だと思ってます。素人判断ですが典型的な症状ですからね。

体力も運動神経も並以下で、幼少期の劣等感が人格に悪影響を及ぼしたのも間違いないでしょう。

支配的で過干渉な母親、威圧的で無関心な父親の間で無気力になっていったというのもわかります。

でもそんなの関係ないんじゃないかなって。

そんなのもうとっくに乗り越えちゃってるんじゃないかなって。

それでもまだそういう考えに囚われるのは、そういう過去に縋るのは…

自分の人生を生きることから逃げているから。

精神的な成長がもたらしたのはよりいっそうの惨めさでした。

夏が始まる頃、1つの出会いがありました。

私が動画投稿者になるきっかけですね。

ここでは多くを語りません。前に動画にしちゃいましたからね。

それから数か月の変遷はどうぞYoutubeで。

私は人生の意味を自身のチャンネルに託しました。

私生活には変化は無くとも、ネット上で誰かに認められるようになれば、誰かの心に残るようなことができれば。

私の人生にも何か意味があったんじゃないかと思えたからですね。

7月から院試勉強のため休みに入りました。

ホントはですね、大学院なんてどうでもいいんですよ。勉強も研究も将来も何の関心もない。

ただ変化を嫌っただけです。欲しかったのは後2年の猶予ですよ。

手に入りませんでしたね。

これまで私は無能なゴミクズだから勉強くらいできないといけないという強迫観念を原動力にしてきました。

それがもう無くなっちゃったんですね。

作風の変化に気づいて察している視聴者もいましたが、明らかに私の精神状態は好転してきています。

以前のように、道の真ん中を歩いたり、貰った物を食べたり、人に声をかけたりするだけで罪悪感を抱くような、そういう生き物ではなくなってきています。

人間になっちゃってたんですね。気づいたら。

いい加減私もちゃんと自分の人生を生きますね。

まともな就活はできる気がしません。

自分はこんなことを頑張ってきたとか、自分はこんな良い所があるとか、自分はこんなことをして行きたいとか…

もう嘘でも言えなそうなので。

男一人身一つで生きてく方法なんて幾らでもありますので悲観はしていません。

ただ私が何らかの夢や希望を持って大学に進んだと思ってる父母に何と言うか…

それを思うと気が滅入るだけです。

今書き記すことはここまでです。

まだ終わらせる気はありませんのでご安心を。



2022年9月17日土曜日

自分史2

こんなに長くなるとは思わなかったんだけどなぁ。

まぁここからはほぼ空白期間です。 


⑤中学校

この頃から、いや小学校の終わりくらいからかな。

死のうって思いました。

自分にも環境にも展望が無いし、死んだ方がいいなって。

でもまぁ、死ねませんでしたね。

小2くらいに死んだ方がいいんじゃないかって思ったときは、死への不安や恐れがあって留まりましたがね。

自分が死んだらみんな悲しむんじゃないかなって。

初めてそういう感情を持ちましたね。

家族じゃありませんよ。野球部のみんなです。

本当に良い人たちなんですよ。私には過ぎた友人たちでした。

私は劣等感を感じていましたが、向こうが私を下に見ている感じは全くしませんでした。

見下して然るべきです。

私はさんざん足を引っ張ってるし、性格も最悪です。

私は試合中も仲間がミスするのを願ってるし、何ならさっさと負けて試合数が減るのを願ってます。

自分の落ち度を減らすことしか頭にないんですよ。

それなのに応援されたり励まされたりしたら…

苦しくなっちゃうじゃないですか。

もし私が自殺したら彼らは悲しむ。責任を感じてしまうかもしれない。

彼らほど親しくなくても私には少なくない友人が居る。

クラスメート程度の関係でも自殺者が出たら悲しい気持ちになる人も居るだろう。

私は人のつながりを感じてそれを傷つけたらいけないものだと思って…

人生の目標を立てました。

人との関係を薄めていき、誰も悲しまないようになってから死のう。

その悲壮な決意は魅惑的なものでした。

いつか死ぬために生きていこうと決めたんです。

そうして私の心は穏やかになりました。

変化は緩やかなものでなければなりません。

私は中学でも野球部に進学しました。

中学から別の部活にすることも考えましたが、母にとっては進学後も野球を続けることは既定路線のように見えたのでそれに乗っかりました。

関係性はほとんど小学校から繰り越しでした。

ですが年を経て遊びの趣向が変わったこともあり、私の家に集まることもなくなりました。

私はそれを機に1人で過ごすようになりました。

本を読んだりゲームをしたり、パソコンでアニメを見たり。

アニチューブは当時は違法だと知りませんでした。ごめんなさい。

あの頃は、どんな感じだったかなぁ…

中学はかなり記憶が朧気です。辛かったという認識も無いですが記憶が飛んだということは辛かったんでしょう。

クラスではまぁそれなりに上手くやってた気がします。面子もそんなに変わりませんからね。

特別誰かと仲良くなったりはしませんでしたが、クラスメートにラノベ借りたり、余り物グループで修学旅行回ったり、ちゃんと孤立できてはいませんでしたね。

野球の腕は相変わらずでしたが母に怒られることは無くなった気がします。

兄の方に関心が向いたんでしょうね。

落ちこぼれることへの抵抗もなくなった頃ですが、同期や後輩が活躍している試合をベンチから眺めていた時に一度だけ涙を流した記憶があります。

心が完全に消えてたわけではなかったんですね。

兄について話しますか。

兄とは仲が良く小さい頃から一緒に居たような気もしますが、肝心な部分で何してたか記憶にないですね。

私が叩かれてる時に居たかなぁ…。

年は2個上で経歴は私と同じ、というか私が兄の経歴をなぞりました。

私が中1、兄が中3のとき野球部に同席していたはずですが…まあ覚えてないや。

変化があったのは兄が工業高校に進学してからですね。

少々やんちゃ、て言ってもごく普通の高校生がするようなことですよ。

コンタクトにして、髪をセットして、遊び歩いて帰りが遅くなって怒られてって感じ。

母は過干渉な人ですし父も世間体が悪くなることには怒る人です。

それで兄はその場では萎らしくするものの、シレッと同じことをする人です。

あぁ、兄は普通の人間なんだなって思いました。

私はその頃ほとんど自発的に喋りませんでした。

兄が私のことをどう思っていたのかは知りませんが、一時期古いプレステのゲームで一緒に遊んだのを覚えています。

中学の卒業式の日、私は白紙のアルバムを持って誰よりも早く帰りました。

ですが途中でクラスメートの1人に「じゃあな!」と手を振られました。

私は私が目標通りに生きられたのかよく覚えていません。


⑥高校

高校は地元の進学校に進みました。といっても自称進学校という奴です。

試験もあったはずですが学校の定期テストと同じ要領で超えましたね。

野球部の人も何人かは同じところに進みましたが、クラスも別れ多くは疎遠になりました。

入試時点で上から一桁の順位でしたが、最初の模試で校内1位でした。

中学の頃、テストでは親友が不動の1位で私が2位か3位かと言ったところで

「あいつは天才でお前は秀才。お前クラスなら頑張れば勝てる。」と誰かに言われましたね。

ムッとしましたがやっぱりそうだよなと思いました。

親友は地元から離れもっと上の高校に行ったので自動的に私が一番っていう認識でしたが、附属中からの進学組に勝ってるのでやっぱり凄かった…のかなぁ…?

会話が無かったからあんまりわかりませんね。

中学では自分の心に甘えがあったという自覚があったので、高校では強硬姿勢を取りました。

入学当初から一貫して単独行動。クラスメートが机を合わせて昼食を取っている中で、1人でさっさと食事を終えて勉強してました。

他の人の目にどう映っていたかは知りませんが嘲笑を受けるということは無かったと思います。

1年の間はほぼ1位だったためそういうキャラなのだと認識されてたのかな?

部活は全員強制加入でしたので適当に見繕いました。

といっても野球はもう辞めました。軟式から硬式に変わることもありキリのいいタイミングですしね。

やりたいことは何も思いつきませんでしたが第二体育館にサンドバッグがぶら下がっているのが目に付きました。

空手部の練習スペースにあるため、空手部に入れば自由に使えるそうです。

その高校の空手部ってのが緩い感じでしてね、人数も練習も少なくていい感じだなぁと思って入りました。

その頃私は身長も170を超え、中学から毎日していた筋トレの成果で体格も良くなっていたので苦労することはありませんでした。

毎日サンドバッグを殴ったり蹴ったりして少しだけ胸の痛みが消えた気がしました。

こう書いたら完璧なように見えますね。

綻びも幾つかあったのでそれもちゃんと書きましょう。

まずはクラスでのこと。私は最低限の関わりを志していましたが一切誰とも会話しなかったわけではありませんでした。

まぁ相手から話しかけられたからですね。

どこのクラスにも誰にでも優しい奴ってのはいるもんで私のクラスには男女一人ずつくらいいました。

そういうクラスは全体が明るくなっちゃうので必然的に私もちょっとだけ日なたに出ちゃったわけですね。

孤立を深められないことに嬉しいような苦しいような複雑な感情を抱きました。

後は部活関連。

野球部と比べたら緩すぎて本当に同じ部活動なのかって感じでしたね。

全員揃うことは稀ですしほぼ自主練みたいな日も多かったです。

なんだかんだみんなで仲良くやってましたね。私はサンドバッグと戯れてることが多かったですが。

空手部の練習場所である第二体育館は空手部、剣道部、バドミントン部、卓球部に4分割されてました。あとギャラリーにダンス同好会とテコンドー。

バドミントン部に気になる子ができました。

幼稚園と小学校が一緒で、附属中に進学して高校で再会。ロマンチックですね。

小学校高学年で割と話してたような気がしますが、あの頃私はギリギリでしたのであまり思い出せません。

あの頃と同じショートヘアで肌が綺麗で大きな目が愛らしい…気持ち悪いな私。

今思い返すとショートヘア好き過ぎですね私。そういう性癖だったのか。

少しだけ話して、それから廊下ですれ違うたびお辞儀してくれるようになりました。

私は彼女ともっと仲良くなりたい気持ちと人生の目標を遂行する決意の板挟みに遭い、非常に苦しみましたね。

もっとも彼女は1年で部を辞めちゃって疎遠になりましたがね。

家は荒れてたか、静かだったか、どうだったかな?

私は母に対しては面従腹背、というよりぞんざいな態度を取りました。

とりあえずハイハイ言っとけば勝手に納得するんだろうなぁという気で、それっぽいこと並べてました。ほぼ覚えてないです。

兄は就職が決まり来年から家を出ることになりました。

確かこの頃だったかな?兄がデュエマをまた始めて私も誘ったんですよね。

高校でなぜか小学校の頃やってたカードゲームへの熱が再燃するって現象。

それが兄の高校で起こったようですね。ちなみに私の高校でも後にちょこっと起こりました。

熱はすぐ醒めて兄はカードを置いて働きに行きましたが、私は再びカードを集めるようになりました。

自転車で20分程度でカードショップに行けたので、そこで数時間ストレージを漁って1000円程度の紙束を買って帰る。

これが私の数少ない趣味になりました。

1年目はこんなもんかな。

いや、最後に家族旅行に行きましたね。

確かUSJだかに行ったんでしたかな?

母が家族4人で何かする最後の機会だからと言って強く推し進めたのを覚えています。

父は癇癪持ちだから一緒に旅行するのは気が重かったですが、問題なく行われたんじゃなかったかな?

まぁあまり楽しかったという思い出もないですが…

2年目に移りましょう。

私の心は非常に凪いでいましたね。

大きな喜びも苦しみもないといったところです。

1年目は気を張って平日3時間休日6時間くらい勉強していましたが、だんだん勉強時間は減っていきました。

進学クラスに進んだことでメンバーもちょっと変わり、グループワークの時は協力し、それ以外の時は各自行動の気風がありました。

テストの順位もちょっと落ち、といっても一桁ですが、自分の中でまぁこんなものでいいかという気持ちが生まれました。

平日は授業を受けて、部活して、勉強して、スマホいじって眠る。

休日はカードショップに行って時間を潰す。

満ち足りた日々でした。

変化があったのは6月くらいでしたかね。

空手部の前部長から指名されて、新しい部長になったんですよ。

これが…ちょっと…まぁ面倒くさかった。

私はできればずっと自主練だけしてたい人なので場を仕切るってのは苦手なんですよね。

結果的になんだかんだ理由をつけて休んだり、特に理由も無く居なくなったりしました。

元々緩い部活ではありましたが、もうグダグダでしたね。申し訳ない。

でもその時に気づいたことがありました。

父が怒声を上げるようになったのがいつ頃だったかは覚えていません。小さい頃からそうではなかったと思うんですが…

いつからか些細なことで悪態を吐き、怒声を上げるようになりました。

父の部屋から聞こえてくる怒鳴り声は我が家では聞き流されていましたが、私はかなり神経に効いてました。

毎日何をあんなに苛立ってるんだろうなぁと思ってたんですが、部長をやり始めてわかりました。

私も同じようになったからですね。

ふとした瞬間に父親のような怒声が出たときはびっくりしました。

そうか、やりたくもないことをやってる人間はこうなるのかって…

父のことをちょっとだけわかった気がしました。

思えば父はあれほど苛立っていても私に直接罵声を浴びせたり、まして暴力を振るうことはありませんでした。

それから私は少し将来について考えるようになりました。

目標を達成するにはどこかのタイミングで失踪する必要があります。

その時期について考えるようになりました。

父とは会話したことが無いので実の所何を考えているのかは知らないのですが、どうやら母の言葉で拾えた限りでは進学を望んでいるようでした。

父がやりたくもない仕事とやりたくもない子育てをしているのは、世間体のためであると私は考えました。

恩返しなんて言い出すような恩は受けていないのですが、義理を立てようと思いました。

早い話なるべく良い大学名を取って来てやろうってことです。

1年の時は大学なんか知らないので志望大学は東大とかにしてましたが、自分の学力と相談した結果、東北大を狙いにしました。

志望大学を定めたからと言って猛勉強を始めるわけではありませんが、勉強会に出たりオープンキャンパスに行ったり準備は進めました。

母は…何言ってたか覚えてない、というよりすっかり聞き流す癖がついちゃって覚えられないんですよね。

でも自分の子が他の子より上ってことに喜ぶ人だってのは知ってます。

部長としての仕事はまぁやったりやらなかったりで引退まで乗り切りました。

大会とかの勝敗は…あんまり関心が無くて何とも…て感じですね。

2年はこんなもんか。

あぁ修学旅行もありましたね。

4泊5日は長過ぎだろと進学クラスでは不平が多かったかな?

流れるように余り物グループが結成されそのまま乗り切りましたね。

でも自由行動が許されたUSJではちゃんと一人で回りましたよ。

人生の目標に従って修行するつもりでやりましたが、思いのほか楽しかったですね。

恐るべしアミューズメントパーク。

そっからは受験勉強の日々ですね。

学校に6時くらいまで拘束されて講習を受けてたんだったかな?

カードショップ通いも封印し勉強に励んでましたが、秋が終わる頃には勉強に飽きて解禁しちゃいましたね。

あまり追い込まなくても1年からコツコツやって来た甲斐もあってセンターも8割。

滑り止めも受けずに東北大1本で大学受験を終えましたね。

両親は…たぶん喜んでたと思う。うん。

私はこれからどうしようかと悩んでましたね。後はもういつ飛ぶかだけですので。

3月くらいでしたかな?家を出る前。

私と母、親友とその母の4人で食事をしました。

お互い志望校に受かって良かったねって感じですね。

久々に会うと身長も同じくらいで…

もうあまり劣等感は感じませんでしたが、なぜか少し寂しさを感じました。

合格の報告は学校にも行きましたね。

先生方に挨拶回りして帰る時、あの子に会いました。

幼馴染でショートヘアのあの子です。

進学先を聞かれて東北大だと答えて凄いねと言われて…

あの子は横浜の大学に行くって言ってたかな?

それで終わり連絡先も知らない。

私は何がしたかったんだっけ…

そう思い始めたのはその頃でしたかね。


記憶がまだ鮮明だからか長くなっちゃいました。

一度切ります。


自分史1

自分語りの極みたいなもんですね。

就活で聞かれる所もあるとか…。

ゾッとしますね。馬鹿正直に答えたらお祈り確実ですわ。

就活らしい就活はしないつもりですが一応整理しておきます。


①幼稚園

たぶん記憶が残ってるのはこの頃からかな…。

一番古い記憶は確か給食を残して居残りさせられてた奴ですね。

マヨネーズだかドレッシングだかでひたひたになったサラダ。

あれが苦手でね。食べるまで遊んじゃいけませんて言われたから、昼休み中そいつとにらめっこしてましたね。

結局食べたんだっけか。食べなかったんだっけか。

カレーのニンジンを残して同じようにストライキしてた女の子が居たのを覚えてます。

なぜお互いがお互いの苦手なものを食べるという解決策が浮かばないのか?

子供特有の意固地さと至らなさを感じるエピソードですね。

あの頃はどうだっけか…?

孤立してたような記憶はないような気がします。

遊び回るより絵本を読んだり一人遊びしたりする方が好きな子ではありましたが、それで仲間外れにされたりとかは無かったような…

この頃はまだまともだったんですね。

そっちの方で問題がないなら親の方も問題はありませんでした。

まだ母を負担に感じることもなく、父の怒声を聞くこともなかった頃。

一番良かった頃の記憶が曖昧なのは残念ですね。


②小学校低学年

ここから私が問題を起こし始めました。

コミュニケーション能力の不足による孤立と、それによる母の変調。

何もしなかっただけなんですがね。

学校行って、本読んで、宿題やって、特に焦りも不安も無かったと思います。

でも他の子は休み時間や放課後に友達と遊んだり習い事したりしてるわけで…

私が他の子と違うってことを先に気にし始めたのは母でしたね。

今日は何したの?誰と遊んだの?って感じで…

子供心にああ、この人はそういうのが欲しいんだなって感じたのを覚えています。

それでまあ私も頑張ろうとしたんですが…

いかんせんやり方がわからないしあんまり他人に興味も無いしで上手く行かなかった気がします。

小2くらいだったかな。初めて家に人を呼んで…

母は喜んでた、ていうか安心してたのかな。

何したかもよく覚えてないですがその一回きりでした。

スイミングスクールに入れられたのはいつ頃だったかな?

結構長く入ってた気がしますが、入学当初は入ってなくて野球部に入る前には辞めたはずなんですよね。

じゃあ1年くらいしかやってないのかな?

泳ぐのは好きじゃありませんでしたね。寒いし疲れるし。

顔を水につけて息を止める訓練あるじゃないですか。

あれで顔を離すのが早いってひどくコーチに怒られて…

泣きながら辞めさせてくれって懇願した記憶があります。

ちゃんと嫌なことは嫌だと言えるだけあの頃の方が立派だったんですね。

他には何かあるかな?

兄が1人いるんですが、兄や兄の友達と遊んでもらっていたか…

あまり記憶がありませんね。まだ自我が芽生えてなかったんでしょうね。

でもただ何となく、何となくなんですが…

自分は死んだ方がいいんじゃないかって思いましたね。

自分が今後生きてても普通になることはなくて、生きてても周囲の迷惑になるだけなんじゃないかって…

そう思ったのを覚えてます。

まあでも死ななかったわけですが。

たとえ私が死ぬべき人間であったとしても実際に死ぬ気は無いのなら、そう思い悩むことは無意味である。

思想の起こりって奴ですね。

自分の存在を肯定する最初の理屈でした。


③小学校中学年

野球部への入部、ここがターニングポイントですね。

良い方に変わったのか悪い方に変わったのかは今でも判断がつきません。

新入部員が9人、一チーム組めると盛り上がってたのを覚えてます。

この頃はみんな大きな差も無くて良かったですね。

練習にもそこまで後れを取ってはいなかったと思います。

ですがまあ子供の部活動なんてものは部活自体は二の次、重要なのはそこから形成される人間関係ですよ。

子同士の付き合い、親同士の付き合い、そういうものが発生した時期です。

私も自分がどういうことを求められて入れられたのか自覚してましたから、いろいろ頑張ってた気がします。

その大きな支えの一つがカードゲームですね。

デュエルマスターズを始めた正確な時期は憶えていません。

確か不死鳥編ですからWikiを見ると2007年ってことで小2からカード自体は持ってたのかな?

コミュニケーション能力を必要としないコミュニケーションツール。今思うとこんなに素晴らしい遊びは無いですね。

ジャンクデッキを片手に交友関係を広げた時期でした。顔も知らない友達と遊ぶなんてことは後にも先にも無いことでしたね。

「エンドレスオールデリート」ていう構築済みデッキが発売されたのが2008年の7月。

てことでその辺りから他者との関わりができたのかな?

更なる転機はバトルスピリッツの発売ですね。

パックを剝いた余りを野球部の友達に貰って、それでのめり込みました。

私はキラキラしたものが好きで、カードは眺めるのも好きなんですがね。

バトルスピリッツのカードは宝石をモチーフにした妖しい光り方をしていて、私の心を強くつかみました。

それでデュエマからバトスピに移行しました。

カードゲームの種類が変わることで属する集団が変わるってのは、今思うと不思議なものですね。

野球部の中で新たにバトスピを始めた人たちと私はよく遊ぶようになりました。

彼らは素行が良く成績も優秀で母も鼻高々でしたね。

ここまでが小3、ここからが小4。

ついでなんで初恋についてでも話しときますか。

正確な時期は憶えてないですが小3か小4だったと思います。

ショートヘアーの可愛い子だったのは憶えてるんですが顔を思い出せませんね。

歯ブラシ用のコップを差し出されて「使う?」と言われてドキドキしたことを覚えてます。

どんなシチュエーションだよ…?私の記憶違いかもしれません。

好きだなぁって思った矢先に転校しちゃって泣きましたね。

なんかもう一瞬で終わった感覚で季節も思い出せません。

話を戻しましょう。

小4になってから野球部の同学年に新入部員が来ました。

これで私の学年は10人。チームを作ると1人余りますね。

私はまだその意味には気づいていませんでした。

バトスピ関連の友人で特に仲の良い相手ができたのがその時期ですね。

いわゆる親友という奴です。

母親同士の関係も良好でインフルエンザで休校になった頃、我が家に連日来ていたのを覚えています。ホントは良くないんですけどね。

バトスピとか、スマブラとか…。私の家に友人たちで集まってよく遊んでいました。

あの頃はまだ…私は屈託なく笑っていたんでしたっけ?

悪い部分のインパクトが強過ぎて時系列が不確かですね。

私の自尊心が破壊されたのは高学年になってからでしたかな?

まぁそういうことにしておきましょう。

この頃が黄金期でした。


④小学校高学年

私を追い詰めたのは3つ。

流れを汲んだ物から始めましょう。

一つ目に、単純に能力不足が目立ってきました。

身体能力と運動神経、後はセンス不足です。こういう言い方は今でも嫌いですが。

打ってダメ、走ってダメ、守ってダメという3拍子。

私は1年遅れて入ってきた人や後輩たちとレギュラーを競り合うようになりました。

私は私が日頃仲良くしている友人たちと自分に大きな隔たりがあることを感じずにはいられませんでした。

成績の方も…私も優秀な部類ではあったのですがね。他の人も優秀だったので優越感を得られませんでした。

特に親友は体も大きく頭も良く、おまけに性格も良かったため、私は絶えず劣等感に苛まれるようになりました。

もちろんそれを表には出しませんでしたが…いや出していなかったつもりですが…

私は彼らと少し距離を置くようになりましたね。

といっても部活では離れられませんし、変わらず家で遊んだりもしていたんですが。

ちょっとクラスで浮いてる人たちと絡むようになりました。いや浮いてるというかグレてるというか、いやでも非行に走ってるわけではないというか…

小3の頃カエルやトンボ潰したり、アクションリプレイでDS改造してた人たちですね。

まぁどこか欠けた部分を感じる人たちでした。なんか苗字も途中で変わってたし。

でも一緒にいると少し心が安らぐ気もしました。私も欠けてるんでしょうね。

次に行きましょう。

二つ目は帰りの会のスピーチです。

日直は朝の会でサイコロを振り、スピーチの題材を決める。

そして帰りの会でクラスみんなの前で題材に沿って1分間話す。

私はただこれだけのことができない人間がいることを証明しました。

私は自分がどう思ったのか、どうしたいのかを話せません。

なぜかは知らない、というか脳に障害があるんだと思います。

自分の感情を他者に伝達する、共感や理解を得る、といったものがどういうことなのかわからない。方法や意義を知らない。

みんなが当たり前のようにできることが自分にはできないことを自覚しました。

地獄でしたね。今思い返しても。

教壇の上で立ち尽くす私、苛立つクラスメート、まだ30秒だと告げる女教師。

私はあの時に感じた羞恥と自責の念を生涯忘れることはないでしょう。

私がパターン構文の使い方を習得したのはその頃です。

「私の友人」というテーマであれば「私の友達の~は~をするのが好きです。昨日も一緒に~をしました。~するのは~でとても楽しいです。」のように定型文を作成し、穴埋め式に会話を行う。

人が無意識に行うことができないのであればそれらを繰り返し意識的に行い、いずれ無意識に行えるようにする。

サンプルを集め分析し、モデルケースを出力する。学習型AIみたいな挙動ですね。

最近になってツイッターで同じようなことしてたって人見かけて感心しましたね。

人見知りじゃない方のコミュ障だとみんな通る道なのかな?

これは小学生時代のうちに実を結んだかは覚えてません。私は人間なので負荷がかかり過ぎると記憶が飛ぶんですよね。

ですが今現在はかなりの水準で行えるようになったと自負しています。まあ面接の時くらいしか使いませんが…。

最後です。

まあ、母親ですよね。

私と他の子との差が明らかになるにつれ、母はおかしくなっていきました。

何が始まりだったかな?確かいつも通り全打席三振してきた日だったかな?

母は他の子は素振りとか自主練してるけどあなたはしないの?って聞いて…

私は疲れてたし若干不貞腐れてもいたのでしないと言いました。

叩かれましたね。叩いて、叫んで、狂いました。

子供の私の目には狂ったという表現が適切でしたね。

私は何が何だかよくわからないまま素振りをさせられました。

終わったら特に何事も無くお風呂に入ってご飯食べて寝ました。

母もわかりませんが私もわかりませんね。

この奇妙なやり取りはその後も続きました。

基本的に不定期でしたが試合が終わった後は確定で行われました。

私が試合中下手を打つことで母は恥をかいたんでしょうね。観戦中の保護者の間でどういうやり取りがあったのかは知りませんが。

今振り返って興味深いのが私が母に対して反感を抱かなかった点ですね。

反抗することもないし反論することもない。ただ涙を流して翌日にはケロッとしている。

一度だけ私は家庭のことについて口を滑らせたことがあります。試合があると母に叩かれるから嫌だと。

母が嫌いではなく試合が嫌という感覚なんですね。

客観的に見られる今だと不思議に思います。子供の感性って奴ですね。

母の行動は次第にエスカレートしていきました。

といってもやることはいつも変わりませんが、頻度が増えました。

試合が無くても毎日のように怒られるようになり、その理由も私の生活態度だったり成績だったりと多岐にわたるようになりました。

あの頃は私もかなりキツかったですね。

苦痛から解放される時間が睡眠と読書中だけでした。自分が無くなる瞬間だけが安らぎだという認識を持ったのもその頃ですね。

友達が遊びに来てる間はニコニコしていても二人きりになったら気が狂ったように怒り出す。

乱高下する母の情緒と自分自身の情緒に精神が擦り減っていくのを感じました。

私はそのうち、今の私という人格からは離れた存在になっていきました。

自分でもなぜそうするのかわからない。でもそうしなければならないという意識が芽生え始めました。

私はある日、隣のクラスで起こったいじめについて関わった者は手を上げろと言われたとき、気づいたら挙手していました。別に関わってないのに。

それで家に帰って1人でゲームしてたんですよね。そしたら担任から電話を受けた母親が当たり前ですが怒りだしました。

私は怒られながら自分が何を知りたかったのか気づきました。

母はその子がどれだけ苦しかったかみたいな情に訴えかける言葉を捲し立てるだけで、本来最初に聞かなければならないこと…

それが事実なのか、なぜそんなことをしたのかってのを聞かなかったんですよね。

ああこの人は私に色々言ってくるけど、私に関心は無いんだなって。

そうわかってからは何も感じなくなりました。

母のことはもうこれでいいか。

ついでですし父親のことも話しますか。

といってもほとんど言葉をかけられたこともありません。

「毎日ため息ばっかりつきやがって辛気臭い。」

この一言だけ覚えてます。

私はあまり泣きも笑いもしなくなりました。


長過ぎだな後編に続く!!


2022年6月29日水曜日

フラペチーノ飲んだよ

眠れないので何か書きます。

バイトのピンチヒッターに出たら社員さんにフラペチーノとかをもらった。

コーヒーマシンは日頃清掃するだけで自分では使ったことが無かったので、なんかオドオドしてしまった。カップをセットしてボタンを押すだけだったので簡単だった。

シャーベット状のコーヒーにミルクを注いで、シャーベット状にして吸い上げる飲み物なのかな?これジェラートと何が違うんだ?

フラペチーノが何なのかはよくわからなかったけど、今日は暑かったので美味しく頂けた。お腹が弱いのであまりアイスとかは食べないので新鮮だった。

それはいいんだけどこの時間にコーヒー飲んだらやっぱり眠れなくなった。私はカフェインがよく効く体質なんだ。

バイト中も思ったが、ああバイトは夜の9時から12時までコンビニで働いてるんですが、この時間にコーヒーを飲む人はいったい何時に寝るつもりなのかと思う。

最近私が寝るのは2時とかだけど、この時間に飲んだら寝るのは4時とか5時とかになるよなぁと思う。カフェインがあまり効かない人はもっと早くに眠れるのかな。

うーん何を話したかったんだっけ?

準夜勤って言うんですけどね、この時間帯のバイト。夜勤は12時から朝の7時まで。

この時間帯はまだギリギリ人が来る。終電前に帰ってきた人たちですね。

学生かスーツ姿の人かってとこですね。これから飲むぞって感じで酒とつまみを買ってく人たちと、仕事帰りに酒と夕飯を買ってく人たちに二分されます。どっちも酒は買うけど。

酒ってそんな飲みたくなるもんですかね。稀にある付き合いで飲むことあるけど、美味しいって気もしないし酔っ払うわけでもないしで興味が湧かない。

研究分野的にはもうちょっと知っておかないといけない気もするんですけどね。いや微妙にずれてるか?

脱線してるなぁ。今さらですけど今回の文章ホントにテキトーに書いてるんで何も期待しないでください。ていうか見なくていいですよ。

どうでもいいことを吐き出す場って言うんですかね、そんな感じにこのブログ使うことが多くなると思うんで。

なぜなら収益審査に落ちたから。イェイ!

写真とか見出しとかつけて教育的価値をアピールしないといけないらしいんだけど、う~んって感じですよね。

ブログに小説とか連載して人を集めるってんなら別ですけど、やっぱ動画投稿しながらブログにも何かするってなるとそりゃ時間が足りないですよね。たぶん没ネタ小ネタがメインコンテンツですよ。

UI整えるのも面倒臭いんでチラシの裏程度の使い道で妥協します。

まあこんなでもそれなりに見てくれる人はいるんですよね。毎日20人くらいは来てるしツイッターで呼びかけたら100人くらいは見てくれる。

いやぁありがたいことですよ。こんな殺風景な画面にズラズラ文章並べてるだけで申し訳ない。

まあいいや。

何を話してたんだっけ? 

読み返してきました。そうそうスーツ姿の人たちですよ。準夜勤の仕事にはスーツ姿の人たちが結構来るんですけどね。

怖いこと言いますよ。

いいですか?本当に怖いこと言いますよ?

…スーツ姿の人たち毎日同じ顔触れなんですよ。

これは怖いですねぇ。怖い。

私が夕方勤務からこの時間帯に移って半年。明らかに見慣れた顔が居ます。

私は平日休日祝日問わずまあまあ出勤してますが、彼らが休日だから祝日だから顔を見かけないなぁと感じたことが無い。

もちろん私の感覚的なものですからね。彼らだってちょくちょく来たり来なかったりしてるとは思いますが、だとしてもかなりの高頻度でこの時間帯に来店してます。

まあこの時間まで働いてるってことですよね。ゾッとしますわ。

毎朝出勤して夜中まで働いて、コンビニで酒と弁当買って食って寝てまた出勤。

地獄かな?

でも意外と目が死んでるとかそういう印象は無かったんですよね。なんか普通にそういう生活をしているというか。

意外とイケるもんなんですかね?いやイケてたら過労死も自殺も無いか。

まあそんな感じで私からしたら気が狂いそうな生活してる人たちなんですが、中にはコーヒーを買ってくお客さんもいるわけです。

やっと話が戻ってきた。

この時間まで働いてコーヒー飲んで深夜に何する気なんだろなぁってのが疑問。

私だったらさっさと寝たいですが彼らはいったい何をしているのか。何が彼らを焚きつけているのか。

そういうことに思いを馳せていました。

誰かの短編を思い出しますね。手塚治虫か藤子不二雄のどっちかだったか。

社長としての激務を終え、夜更けに帰宅。細君に出させたコーヒーを片手に小説を書く。

そんな時パラレル同窓会。そうだパラレル同窓会だ。藤子F不二雄の「パラレル同窓会」でした。

パラレル同窓会の知らせが届く。パラレルワールドの自分が一同に会し、歓談を行う。あるいは人生の取り換えを。

そこで小説家になった他の自分と出会う。彼は日頃の満たされない思いは夢を叶えることで解消されると信じた。

人生を取り換え、小説家になった元社長。だけど何か満たされない。そうだ満たされないのは胃袋だ。

って感じの話でしたかね。

あちらを立てればこちらが立たず、どちらを立てども不満はなくならずってもんですかな。そう言うと陳腐ですけど。

深夜にコーヒーを買っていく彼らにも満たされない思いがあるのだろうか。

また、それらを満たすような方向に生き方を変えてもやはり満たされないのだろうか。

そんなことを考えていました。

…バイト中に。

私で言ったら動画投稿、あるいは創作活動でしょうか。

生まれて初めて、人生で唯一意欲的に取り組んでいるものですね。

このまま院まで進んで就職、仕事の傍ら深夜と休日にそれらを行う。

バイトで食い繋ぎながら動画投稿で金を稼ぐ。最終的には作家としての仕事を得る。

どっちか?うーんどっちもまあまあ嫌っちゃ嫌だし難易度高いんですよね。

仕事と夢の問題は人類みな永遠の課題ですね。

コーヒーとミルクのように混ぜ合わせては飲み干せないものです。

無理やり最初のテーマに引っ掛けて今日は終わります。

長文駄文失礼しました。

2022年6月19日日曜日

私たちは絶えず分裂する増殖する

私たちは絶えず分裂する増殖する

タコの幼体は単為生殖を繰り返す

キンギョの舌には眼球が形成される

アオムシは私の肌に潜り込んでいく

闇の中に生まれ、消えていく私たちに

もっと目を向けてほしい

光を向けてほしい


【解説】

夢で見た光景と情感。

水槽の中、目を凝らすと小さなタコの幼体が泳いでいた。未成熟な状態で分裂し増殖を続けるんだ。

水槽の底の方にはキンギョが居る。キンギョはタコの幼体たちを食べて育つ。舌には目玉ができていた。

テレビから目を離すとアオムシが這い上がってきていた。よく見ると既に肌と同化しかかっている個体もいる。私は必死に引き剝がして投げ捨てる。

私は目を覚ます。目を覚ました夢を見る。

そして思うんだ。

闇の中に生まれ、消えていく私たち。タコの幼体やキンギョやアオムシや私。

私たちにもっと目を向けてほしい。光を向けてほしい。

そういう夢を見た。


【ちゃんとした解説】

夢の内容をメモした紙を発見したのでここにも保管しておきます。

私は寝つきが悪く眠りが浅く寝覚めも悪いのですが、それらは時に創作に天啓をもたらします。それが夢です。

実際これまでに動画にした話の中にも、夢で見た内容に調整を加えて出来上がったものもあります。

これは調整不可能ながらも何となく意味がわかるような気がして書き残しておいたものですね。

多少こじつけながら解釈して行きましょう。

私が私たちだと認識しているタコの幼体、キンギョ、アオムシ。

タコの幼体だと書きましたが、あくまでそれは私の認識上の話で、本当はタコの幼体ではないかもしれません。動物性プランクトンの一種であったことは確かなんですがね。

彼らは水槽の中、細胞分裂によって増えていくんです。単細胞生物なんですね。

未成熟な状態での増殖。交配であれば子供のまま親になるというわかりやすい画を描けるんですがね。

分裂となると人格の分裂しか思いつきませんね。バラバラになってもそれぞれが成長して結果的に倍になる。うーんわかりません。

彼らは同じ水槽で暮らすキンギョに食べられます。キンギョに食べられないようにタコが逃げている感覚は無かった気がします。

タコはただ増える。キンギョはただ食べる。それが水槽の中の理だから。そんな気がしましたね。

キンギョの舌から眼球ができていると書きました。これはキンギョの口付近に眼球が見えたとき、ああ舌から目玉が生えているんだなぁと思ったからです。キンギョの通常の目は別にありました。

冷静に考えると舌に眼球ができるという状態は意味不明ですし、そもそも魚に舌はありません。存在しないものから存在しないはずのものが生えているということです。

本来存在しないはずの舌を生やしたのは喋れるようになるため、つまり見せかけの社交性を意味し、その先についた眼球は他者の動向を探るため、つまりこれまた社交性のために後天的に作りだした器官であることを示しているんですね。

おお、それっぽい。

タコとキンギョは水槽の中の住人。その水槽を映したテレビを眺める私。

私の体にはアオムシが這い上がり皮膚の中に潜り込もうとしていました。潜り込むというよりはくっついてそのまま同化するような感じでしたね。

強い焦燥感と恐怖心を抱きました。一匹ずつ引き剥がしてクローゼットの方へ投げました。たしかあそこは実家の子供部屋ですね。私はあの部屋に居ました。

そして目を覚ました夢を見ました。今度は今の私の部屋。アパートの一室ですね。

そこで私たちに光を向けてほしいという悲痛な願いを覚え、本当に目を覚ましました。

何とか説明できそうですね。

まずタコの幼体は私の下位人格。感情や欲望的なものですね。

キンギョは私が社会で生きていくために作り上げた中位人格。タコの幼体を喰い潰し、それらを糧に生物的な活動、いえ人間的な活動を行います。

タコもキンギョも水槽の中に閉じ込められており、水槽の中でしか生きられません。キンギョが社交性を発揮する対象は見当たりません。少なくとも水槽の中にはいません。

そんな彼らを映したテレビを私は眺めています。水槽を眺めるのでなく水槽を映したテレビを眺めていたということは間にもう一つ中位の人格を挟んでいることを暗示しています。

第二中位人格は下位人格と第一中位人格の様子を上位人格たる私に伝えるだけで、個性は見せませんでした。自らを客観視する能力の発露でしかないのでしょう。

私はそれらを画面越しに眺めているだけですが、アオムシが這い上がってきます。アオムシもまた下位人格の一つでしょう。

下位人格は私に統合を求めてきました。私は自身とは切り離したはずのそれらが中に入ることに強い拒否反応を覚えます。

夢から醒めたとき、こんな風にしか生きられないことを嘆き、自分たちに光が向けられることを願った。

こんなとこですかね。

まとめるとタコの幼体とアオムシが下位人格、キンギョが第一中位人格、テレビが第二中位人格、私が上位人格ですね。

普段は自分の感情や欲求を押し殺し、見せかけの社交性をまとった仮面を被って生活していますが、時に自らを客観視する能力によってその様子をまざまざと見せつけられる。そんな時、切り離したはずの感情が湧き上がってきて私を苦しめる。

タコの幼体とアオムシ、私は子供。テレビは無機物。大人なのはキンギョだけですね。

今こうして文字を打ってるのは私ではなくキンギョの方な気がします。

感情や欲求は蔑ろにされ、中位の人格は歪に発達。上位人格は画面を眺めるだけで今も子供部屋。

それが私たちという複合体の構造なのかもしれません。

いやぁそれっぽい解釈ができましたね。思ったよりちゃんとしてる。

もう少し調整すれば詩くらいにはなるかもですね。題名は「私とサカナとムシと」でどうです?

眼球がついた舌が生えたキンギョというのも酷く醜悪で、一回絵にしてみたいものです。最近この界隈の人絵描ける人多いし、私も練習してみましょうかね。

もう夜遅いし終わります。今日も嫌な夢が見れそう。

長文駄文失礼しました。

2022年5月12日木曜日

焦燥

前回のブログではまあまあ怒られた。というより窘められたので、少し日を置いてもう一度振り返ってみます。

言い方が悪し様すぎるというのはごもっともで、文で金を稼ごうとしてる人間が使う言葉ではありませんでした。

まだ見ているかはわかりませんが一応謝っておきます。すいませんでした。

私自身あれほど中傷を受けたのは初めてのことで、かなり冷静さを欠いていました。

ですがまあ内容に関しては譲る気はありません。選民思想についても否定はしません。

チャンネル運営について真剣に考えるなら、視聴者は必ずどこかのタイミングでふるいにかけなければなりません。そのとき測りとなるのはチャンネルへの好感度ではなく、動画内容の理解度、最低限理性的であるかです。

特定の単語や論調に反応して話の流れを見失ったり、話がわからないまま自分の結論を信じ込んだりする人たちはチャンネル運営においては危険因子です。私のように捻った言い方、あるいはひねくれた言い方を強みとするチャンネルにとっては特に。

ファンはチャンネルを応援してくれるし、アンチも時に有用な批判を行います。ですがそれはこちらの主張を理解した上での反応である場合です。

話が通じないまま生じた感情は正負に関わらず危険です。真実を伝える者として信奉されても、陰謀論者として非難されても、こちらとしてはただただリスクです。

本来であれば動画を作成する段階で、サムネやタイトルによってある程度視聴者を選別するべきでした。実際これまでそうしていました。

ですが今回メッセージ性を重視し過ぎた結果、不安や反感を持たれるような動画になってしまったことが反省点だと考えております。

動画を作成する段階でもっと色々な事に気を配るべきでした。功を焦ってるのかもしれません。

いや、焦ってますね。正直かなり焦ってます。

この1、2ヶ月でかなりの数のチャンネルに登録者数や再生数で水をあけられています。大してこちらの伸び率は良く言えば堅実、悪く言えばパッとしません。

今の登録者数は2600人、上位層は1~3万人、中堅層は1000~9000人と言った所です。恐らくこの業界は今後更に拡大します。

まだ発展途上の市場の中核に陣取れているのはかなりのチャンスですが、逆に言えばここで転落したら浮上は困難を極めます。

既に成熟したゆっくり市場に目を向ければわかりますが、上位層10~50万人、中堅層1~9万人でもう動画が飽和してしまっています。登録者数1万人未満のチャンネルの動画が人目に触れるかはほぼ運です。

私もそうですが多くの視聴者は皆が見ている動画を好んで視聴します。そういう動画は当然面白いですし、逆にそうではない動画には多くの地雷が存在します。上位・中堅の動画で視聴者が満足してしまえば、下位の動画はそもそも見られません。

その時指標になるのが再生数、登録者数です。ゆっくりで言えば、どちらも1万以上が足切りラインだと考えています。このラインを超えられなければ勝負の土俵に立てません。

今のボイスロイド界隈。ボイスロイド界隈という呼び方はもう適切ではありませんね。ボイスボックス界隈です。もうYoutubeにおいてはボイスロイド界隈はボイスボックス界隈の一部です。

この界隈の今の足切りラインは1000再生だと思います。登録者数はあまり関係ありません。インプレッション数の増加で急拡大した業界ですので、画面に表示された段階でクリックされるかが勝負です。

ですが今後市場が成長していけば、チャンネル登録者数で足切りが行われる段階が必ず訪れます。それはたぶん1万人規模のチャンネルが10万人規模へ、1000人規模のチャンネルが1万人規模へ成長した時です。その時私のチャンネルも1万人規模へ成長しておく必要があります。

成長の速度が速いです。間違いなく私のチャンネルの成長速度より遥かに。

何か手を打たなければなりません。一気に登録者を獲得するような有効打を。

そんなもの思いつくわけがありません。

解説、実況に手を出そうとしたのは、とりあえず頭数を揃えないといけないと思ったからです。劇場しか見ない層、解説しか見ない層、実況しか見ない層で視聴者が分断されて再生数が不安定になったとしても、登録者数の足切りラインを超えるのが最優先だと思いました。

そうであれば多少誤解を受けたり中傷を受けたりしながらでも、他の人が触れないようなテーマに他の人が真似できないようなやり方で切り込んでいくべきです。

そうなのですが…

私は生来臆病な性格です。急拡大しなければならないという危機感もありますが、急拡大することへの危機感もあります。

解説・考察系の動画はまあまあ荒れています。低評価も劇場をやってた時より多いですし、一線を超えて非表示にしたコメントも存在します。

ここでリスクを背負えない人間が成功できるかという想いもありますが、動画の出来としてどうか以上のことをもっと想定してから行動すべきだったのでないかという後悔が大きいです。

ゆっくり業者問題について語ったことに問題意識からの提言以上の意図はありません。ですが数字を取ろうと思ったときに、私自身冷静でいられないような問題に取り組むべきではなかったと思います。

じゃあどんなことをやればいいのかと言ったら、わかりませんけどね。

視聴者の選定なんか後回しにして再生数が取れそうな動画をつくるか。再生数が取れたからと言ってそれが登録者数に結びつくのか。数字を意識するあまり動画に悪意が入ってないか。その悪意が伝わって視聴者がむしろ離れていくのではないか。

それらの問いに対して何も答えを用意できません。

誰に聞いたって答えがわからないようなこと全部自分で考えて行動していかなければなりません。

それがこんなに苦しいことだってことを初めて知りました。

自分の人生を生きるのってこんなに苦しいことだったんですね。

一度ゆっくり考える時間を取りたいところですが、動画投稿に空白を入れていいような時期でもありませんね。

長文駄文失礼しました。

2022年5月5日木曜日

内容より言い方が気になるか?

あれから「ゆっくり解説業者問題」について解説と考察を投稿。

以下その振り返り。

まず数字の話をする。

解説は非常に伸びが良く、高評価数も多かった。この問題を再燃させるほどの力はないが、チャンネルとしては好手であったと言える。会話形式の解説にしたことへの不満も見えなかった。

考察はアナリティクスが喜んでた。再生数自体の伸びは大したことないが、インプレッションのクリック率が普段の視聴者層、非視聴者層ともに高かったらしく、インプレッション数増やしておきますねって言ってた。こいつこんな相棒みたいな雰囲気でアドバイスしてくるのかって思った。

数字的には好感触。いずれこの問題が再び注目を集めた時への布石に成り得るか。でもこの問題が再燃した時ってたぶん火が燃え広がった時だから、置きボムになる可能性もある。

次に視聴者の話。

解説はまあ概ね良しといったところ。いまいち問題の本質がわかっていない人も散見されたが、高評価数的にたぶん大半はわかっていると思う。というかこの形式の解説ですら内容が伝わらないなら打つ手がない。

あとスパムが増えた。解説とタイトルに入れるだけで湧くというのが発見。全財産くれる人がこんなにいるのは笑う。

考察が問題だった。明らかに動画内容を理解できていない人が長文コメを打ってきたし、普段の視聴者にも「陰謀論かよ…(引)」みたいなコメが見られた。正直視聴者のことを買い被っていたかもしれない。

動画の内容としては「Youtube側からはこういうリスクが考えられるよ」って話であり、それを陰謀論めかして視聴者の不安をあおるようなスタイルにした真意は、「Youtube側からはこういうリスクが考えられ、それを理由にゆっくり解説を規制しようとしてるかもしれないのに、ただゆっくり解説を規制しないでって運営に伝えても意味がないんじゃないか」って問題提起だ。

わざわざ劇場チックに仕立てた真意まで伝わらない可能性は考えたが、そもそも動画内容すら伝わらないのは完全に想定外だった。

私からはどう考えてもYoutube側から見たリスクの話をして、そのリスクが大きすぎるから規制に踏み切ったんだろうって内容にしか見えないが、ゆっくり解説業者がテロ組織なわけがない、テロ組織を規制したいならゆっくり解説だけを規制するわけがないみたいな主張が見られた。

いや私だってYoutubeだってさすがに無いだろうとは思ってるよ。本気で考えてたらこんな悠長にしてるわけないじゃん。でも万一のことを考えたら対策せざるを得ないよねって話だろ。

真意まできちんと伝わっている人も居たから動画自体には問題が無かったんだと思うけど、ぶっちゃけこのレベルの理解力もない人たちをどうすればいいのかわからない。これは業者もゆっくり解説なんてネットの面白情報紹介で十分かって思うわ。

しかしそれはまあ一部の話。コメントの方が投稿者にとってインパクトが大きいから目に付くだけで、多くの視聴者はちゃんとわかってると信じてる。再生数1500で高評価数130くらいついてるしね。

ただやっぱりYoutubeチャンネルの主な支持者って、動画が投稿されたらとりあえず見に来て、たまに高評価押して帰ってく無口な視聴者だし、彼らの反応がわからないのは難しいところだなって思った。

まあ愚痴はこんなところで、まとめると数字を取る手応えは感じた。けど、本当に引き込みたかったゆっくり解説を守りたいって思ってる視聴者がどれほどいるのかって不安も感じる。

赤文字黒背景サムネで業者を叩けばもう少し数字が取れそうだけど、視聴者の下限を引き下げるだけになりそうな恐れもある。いったんこの問題はクールタイムを置く予定。


おまけに一つ気になったトピックを添えておく。

Youtubeが企業や視聴者のクレームを気にしてゆっくり解説を規制した可能性。

何というか、一般感覚的にあり得なくないかって思った。

企業がクレームを入れた場合だけど、いや具体的にどこの企業がどういう経緯でグーグルに意見できるんだって思う。ゆっくり解説で一時期企業叩きが流行ったけど、それで叩かれたのってセブンイレブン、いきなりステーキ、令和納豆とかじゃん。そりゃ日本の視聴者層に訴えかけるんなら日本の庶民向けの企業を叩くわな。

それで彼らにグーグルを動かす程の力があるかってなったら、もちろんある訳ないわけで。ていうかそもそもゆっくり解説で叩かれたくらいで、じゃあやめるかってなる視聴者がどれほど居るか、そんな少数の消費者のためにクレーム入れる企業がどれほど居るかって話になる。

そもそもグーグル側と広告を出す企業だったら、企業の方が立場が弱いじゃん。グーグルに広告出すのやめて代わりにどこに出すんだってことだよ。ていうかアメリカ資本の企業じゃない時点で発言権もないだろ。

まあ他にも企業叩きは顔出しYoutuber勢でも行われていることだし、そもそもYoutubeで叩かれたくらいで企業本体までダメージ行くことがまずないから、クレームがまともに取り扱われるか以前にクレームがあるのかって疑問がある。

次に視聴者がクレームを入れた場合。

これはまあ母数を考えればあり得ないだろって思う。低評価とか通報とかのこと言ってるんだと思うけど、そんなのYoutube全体でとんでもない量あるわけで、それこそ運営が処理しきれるわけがない。

規制された前例、白文字黒背景サムネのスクロール動画。これはさすがに相当数行っただろうし、満場一致でクソ動画だから規制されるのは当然。ゆっくり解説はこれの巻き添えを食っただけって認識を忘れてる人が居る。そうじゃなきゃ再審査は通らない。

何より業者のゆっくり解説が優良コンテンツであるという事実を受け入れてほしい。サムネで釣って不満だけ残してたクソ動画とは違う。投稿数、投稿頻度、再生数、高評価数、登録者数、全て高水準のチャンネルだ。

業者に嫌悪感を持ってるのは古株連中だけだし、その中で低評価や通報などの行動を起こしてる人は更に少ない。そんな少数の意見でグーグルがわざわざ規制に乗り出すわけがない。

論理的に考えたら可能性低いよねって話。

だけど本当に気になったのはそこじゃなくて、グーグルがテロ対策のために不透明な資金の流れを断ったのと、グーグルが企業や視聴者の苦情を受けて広告を外したの。

この二つを比べた時に後者の方が現実的だと考える人が居るんだってことが気になった。

私が持っている一般感覚だと前者の方が妥当だとみなされるんだけど、他の人にとってはそうじゃないのかって思った。

さて一般感覚を欠いた一般人はどっちでしょうね。

てのを後々の話のタネに残して終わりましょう。

長文駄文失礼しました。




2022年5月1日日曜日

解説と考察と感想の境界

先日初めて解説動画を作ってみました。

新たな知見を得て、芸風を広げる目的でしたが…

正直なんか違うなコレってのが感想でした。

テーマは「ネットにはびこる嫌儲思想」について。ネット上で散見される金儲けに対するヘイトについて解説するつもりでした。

私としてはやはりウェブ上の情報をまとめて紹介するだけでなく、自分の知る限りどのような事例があったかを述べ、それに対する考察を論じていこうとしました。

結果として考察動画ないし、感想動画のような出来になってしまいました。

けしてそれが悪いというわけではないと思いますが、解説を期待してきた視聴者に対して満足のいくものであったかと言うと自信がありません。

じゃあ解説に終始すれば良かったのかという話になりますが、嫌儲思想というのはネット用語であり、厳密な定義があるわけではありません。そうしたものに対して嫌儲思想とはつまりこういうことなんだと決めつけて講釈を垂れるのも抵抗がありました。

嫌儲思想が何かと言えば金儲けが嫌いということです。ではなぜ金儲けが嫌いなのかと言えば単に人が儲けるのが気に入らないというものから、金儲けが絡むことによる業界への悪影響を懸念するというものまであります。ではなぜ金儲けによる業界への悪影響を懸念するのかと言えば、既得権益や今後の自分たちの利益を守りたいというものから、自分たちの大事な遊び場を壊されたくないというものまであります。

そうしたことまで考えを進めていくうちに、考察にしては根拠に乏しい、感想のようなものまで長々と語っていました。

私の尊敬するゆっくり解説の方々は、時折ゆっくり考察やゆっくり駄弁といったくくりで動画を上げます。以前はあまり意識していませんでしたが自分で作ってみて、実際の物事についての解説、事実に基づいた考察、投稿者の個人的な意見ないし感想といった要素の比率によって適切な分類を行っていたことがわかりました。

解説動画としてのテーマ選択を誤った。私はそう結論づけました。

解説動画をつくりたいならば明確な答えを用意できるテーマにすべきでした。こうしたテーマを扱い、自分の考えを語りたいならばもっと別の形式をとるべきでした。

私は創作者です。自在に扱えるキャラが複数います。彼女たちが議論を行うという形、あるいはもっと物語形式で言い合いをするという形をとるべきでした。

あの動画にボイスロイド解説というタグをつけておくのはいささか心苦しいものがありますが、外さないことにします。当時の私はこれを解説のつもりで作ったということを残しておくためです。

次の動画は個人的にずっと気になっているテーマ「ゆっくりの今後」について扱う予定です。今度こそ解説動画だと胸を張れるものにするつもりです。ですが多少は考察や根拠に乏しい推測も述べます。不明瞭な部分も多く残っているテーマですから。

いつまでも反省ばかりしていてもしょうがありません。動画投稿はトライアンドエラーの繰り返しですから。

長文駄文失礼しました。


2022年4月29日金曜日

名前の由来

筆慣らしがてら大したことのない話をします。

チャンネル名であり、このブログの名前でもある「吐落」の由来についてです。

皆さんはこの二文字を見てどのようなイメージを持ったでしょうか?

どこか汚いような、暗いような印象を持っていただけたならば、私の期待通りです。

ネットで活動を始めようと思ったとき、活動名は漢字二文字にしようと決めました。分かりにくいのも長ったらしいのも使いづらいし、使われづらいですからね。

ですが誰かと被るのは嫌でした。人と同じなのが気に入らないというのもありますし、今後他の誰かや別の何かと混同されるのは不便です。

初期案は「吐溜」でした。「吐き溜め」の省略形ですね。読むとしたら「トリュウ」でしょうか。

汚く、暗いイメージ。私は人間のそうした感情を描いた物語をつくるつもりでしたので、かなり気に入っていました。

けれども先客が居ました。ネットで検索すると既にゲーム名として使われていました。たぶんエログロゲーですね。

それで何とか「吐溜」をいじろうと思いました。「吐溜」の汚いイメージはほぼ「吐」由来ですので、さて「吐」のつく漢字二文字…。

別に存在しない熟語で良いかと諦めるまでは一瞬でした。

次に考えたのは「吐楽」。吐いて楽になる。人間の暗い感情を描いたその先まで見据えたような、良い呼称だと思いました。「トラク」と読みも悪くありません。

これで行っても良かったのですが、一つ懸念点がありました。私の参入予定だったボイスロイド劇場界隈には当然先人たちが大勢居るのですが、その中の一人、大御所の方に「妙楽」という方がいらっしゃったんですね。

「吐楽」。「妙楽」。似てますよね。

同じ漢字二文字で下は「楽」。落語の世界であればお師匠さんから名を分けてもらったのだろうと勘違いされる所です。

そうです。落語です。

「ラク」の字を変えて「吐落」。これで完成です。

もう少し捻っても良かったのではないかと思いますが、いつまでも呼び名などにこだわり、作品を世に出さないのも本末転倒。この辺りが落とし所でしょう。なんてね。

後づけで意味を加えるならば、「吐」は人間の暗い感情を描くという作風を、「落」は物語としての意外な結末を示すと言ったところですかね。

最後にネットで「吐落」と検索し、先客がいないことを確認してチャンネルを設立しました。まだ1年も経っていないのに随分と昔のことのように感じますね。

今では吐落と検索すると私のチャンネルとこのブログが出てきます。どこか不思議な感慨を覚えることです。

私はすっかり使い慣れた名ですが、コメント欄ではたまに「吐露」さんなどと間違われています。やっぱり存在する熟語の方が良かったかもしれませんね。

落ちの無い話だとお思いでしょう。冒頭にお戻りください。大きく落の字が見えてくるはずです。

一度こういうことをしてみたかったのです。お気に障ったのなら謝ります。

長文駄文失礼しました。

2022年4月28日木曜日

自己紹介

初めまして、吐落と言います。

個人名も吐落、ブログ名も吐落で非常にわかりにくくなってしまっています。何かもっと気の利いたブログ名にしたかったけれど思いつきませんでした。幸先悪いですね。

普段はYoutubeでボイスロイドを用いた劇場動画を投稿しています。

Youtubeから来てくださった方には今更言うまでもないことでしょうから、簡単に申し上げますと、ボイスロイドというのはキャラクターと結びついた音声合成ソフトのことです。いわゆる機械音声のことですね。

ボイスロイドは多くの機械音声とは異なり、キャラクターのボイスとして販売されています。そのため単純な読み上げだけでなく、架空の一個人としてゲーム実況をしたり、解説をしたり、物語の登場人物となったりすることができます。

似たようなものとして「ゆっくり」と呼ばれるものがあります。こっちの方がメジャーですね。ですがこちらは無料の音声合成ソフトに、東方Projectというコンテンツのキャラを勝手に組み合わせたものなので、実は色々と問題を抱えてたりします。詳しく話したら長くなりますので、別の記事にでもしてみます。

既に長くなっているような気がしますが、私の作風は非常にまどろっこしいものとなっておりますので、どうかご容赦ください。

さて、話を戻しまして自己紹介に戻ります。私の経歴ですが、Youtube歴は昨年の8月からで登録者は今年の4月で2000人を超えました。一年経たずに2000人というのはYoutubeにおけるボイスロイド劇場界隈の中ではかなりの幸運に恵まれた部類です。

ですがまあ喜ばしいこともあれば嘆かわしいこともあるのが世の常というもので、いろいろと思うことがあり、こちらのブログでも筆を執ろうという決断に至りました。私が何をそんなに嘆いていたかはぜひYoutubeでご確認ください。

自然な誘導でしたかね?

ほんの冗談です。お許しください。

よくある話で、密かにライバル視していた相手がヒット作を出してブレイク、そのヒット作を模倣した者たちにも追い抜かれたというだけです。自分の中に負けて悔しいなんて感情が残っていたことに驚きましたね。

以前の私であれば勝負に負けた時は、勝者を貶したり勝負自体を蔑ろにしたりして、とにかく精神的勝利を目指しました。ですが創作活動を行う中で気づかぬ間に成長していたのか、それとも自分が思う以上に創作活動に懸けていたのか。精神的勝利を狙うことができませんでした。

であれば実際に勝利するしかありません。

Youtubeの再生数・登録者数が彼らを上回れば私はこの悔しさと、劣等感から解放されることができます。それどころか幼少期に失ったきりの自尊心を取り戻せるかもしれません。

そうした浅ましい考えを以て私はここへ来ました。

ですがこのブログではYoutubeのチャンネルに誘導するような話は極力しないつもりです。どちらかと言えばその逆、Youtubeで私のつくる動画以上に私個人に対して興味を持ってくれた方へ何らかのコンテンツを提供することを目的としています。

動画サイトにおける人の流れは流動的です。継続した再生数・登録者数の増加を願うならば固定視聴者層の獲得が最重要です。以前に登録したきり動画は見てない層がたくさんいるのも印象が悪いですからね。

具体的にどのような内容を書いていくかですが、今回のように私の個人的な思考や行動を述懐したもの、動画投稿サイトや音声合成ソフトの情報についてまとめたもの、またこれまで動画にした話やこれから動画にする話の文章版を予定しております。

ですが予定は予定。閲覧者が来るかどうか、私の精神状態がどうなるかによって全て変わります。

このブログが私自身や見る人にとって何らかの益となることを願うばかりです。

最初ですからこんなところにしておきましょう。

長文駄文失礼しました。


自分史3

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