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ことば談話室

平清盛(たいらのきよもり)と豊臣秀吉(とよとみひでよし)~“の”はどこへ消えた?

 菅原道真、藤原道長、平清盛、源頼朝。日本史で習ったり、ドラマで見たりした有名人たち。彼らの名前には共通点があります。「すがわら“の”みちざね」「ふじわら“の”みちなが」「たいら“の”きよもり」「みなもと“の”よりとも」。そう、姓名の間に「の」が入っているのですね。
 ほかにも、小野妹子(おののいもこ)、蘇我入鹿(そがのいるか)、阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)、吉備真備(きびのまきび)、和気清麻呂(わけのきよまろ)、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)、紀貫之(きのつらゆき)、平将門(たいらのまさかど)、藤原純友(ふじわらのすみとも)……。教科書に出てくる飛鳥時代や奈良時代、平安時代の人の名前には“の”が付いている例が多くあります。しかし、時代が下るとどうでしょう?

◇鎌倉時代あたりから“の”が消えた?

拡大東京都千代田区の皇居近くにある和気清麻呂像。清麻呂は備前の豪族・和気氏を出自に持つ8世紀の貴族。氏姓は磐梨別公(いわなしのわけのきみ)、藤野別真人(ふじのわけのまひと)、和気公(わけのきみ)、和気宿禰(わけのすくね)などと変わり、774年に和気朝臣(わけのあそん)となる。769年に弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を皇位にたてるべきとした宇佐八幡宮の神託を偽りと報告したため大隅国へ配流。770年に称徳天皇が死去した後に召還され復権した
 日本史を勉強しているとき、いつのまにか、この“の”がなくなっていると思ったことはありませんか? 鎌倉時代あたりから北条時宗(ほうじょうときむね)など、“の”がない人が出てくるようになったことに気づいた人もいるでしょう。鎌倉幕府を開いた源頼朝の周囲にいた人と言えば、源義経、梶原景時、北条政子(頼朝の妻)……。頼朝の弟である源義経は「みなもとのよしつね」、頼朝と同じように“の”があります。頼朝に義経の悪口をいう敵役のイメージがついている梶原景時は「かじわらかげとき」。この人は“の”が消えています。北条政子は「ほうじょうまさこ」。この人にも“の”がありません。どうやら平安時代の終わり頃から鎌倉時代の始めの頃に“の”がどこかに消えたようです。

◇姓を与える? 氏を与える?

 天皇の子どもや孫のうち、源氏や平氏という氏(うじ)をもらった人の子孫にあたるのが平清盛や源頼朝。平氏や源氏はともに複数の天皇から分かれています。源氏には嵯峨天皇系統の嵯峨源氏、清和天皇系統の清和源氏(一説には清和天皇の子である陽成天皇から分かれたとも言われています)など多くの系統があります。また、平氏にも桓武天皇系統の桓武平氏、仁明天皇系統の仁明平氏など4系統があります。源頼朝は清和源氏、平清盛は桓武平氏です。また、藤原氏は道長の先祖にあたる中臣鎌足(なかとみのかまたり。蘇我氏本流を倒した乙巳<いっし>の変、それに続く大化の改新の功労者)が、死去の際に天智天皇からもらいました(なので、鎌足本人が藤原鎌足と名乗ったことはなかったと思われます)。
 では、源氏や平氏、藤原氏のように天皇からもらった氏の名に“の”がついてくるのでしょうか? それだけでもありません。紀貫之の紀氏や吉備真備の吉備氏など、天皇と同じくらい古い歴史を持っている古代豪族の系譜に連なる一族の氏の名にも“の”が付いています。
 氏には朝廷での格を示すものが付随しています。それを姓(かばね)と言います。臣(おみ)、連(むらじ)などです。これらが天武天皇の時代に「八色(やくさ)の姓」という制度に編成され、真人(まひと)、朝臣(あそん)など8種類の格式に整えられました。現在、姓や氏、名字といったことばは同じものを指すように使われていますが、元々は別のものを指していました。例えば、藤原道長は正式には藤原朝臣道長(ふじわらのあそんみちなが)、源頼朝は源朝臣頼朝(みなもとのあそんよりとも)となります。氏・姓・名前がそろってワンセットというところでしょうか。
 天皇が氏を与えることを賜姓(しせい)と言いました。氏を与えるのに「賜姓=姓を賜る」? これは、天皇が氏を与えるときは一緒に姓(かばね)を与えたことからきているようです。このため、氏と姓が同じように使われるようになり、藤原氏を藤原姓、源氏を源姓と言い表すようになりました。

◇「~殿」の始まり

 平安時代に朝廷が数えた氏の数は千以上。しかし、朝廷には藤原氏や歴代天皇から分かれた源氏のように権力を持つ氏(すべての源氏が権力を持てたわけではありませんが)のほか、大江氏、菅原氏、清原氏、中原氏のように実務をがっちりと抱え込んだ氏ばかりが朝廷に残り、上級貴族は右を向いても左を向いても藤原氏や源氏というありさまになりました。
 頼朝の属した清和源氏は、他の天皇系統の源氏に比べて羽振りが悪かったためか、地方で力を蓄えつつ、権力を握っていた藤原氏の本流である摂関家に仕え、浮き沈みを重ねながら、武士の棟梁(とうりょう)に成り上がりました。
 みんなが藤原氏、源氏では区別しにくいので、住んでいる家の名前で区別することがあります。これが「~殿」。この当時は屋敷などの財産は女系、つまり娘に引き継がれるので、男系の親、子、孫は「~殿」と呼ばれる場合、別々の呼ばれ方になりました。これが平安時代の末頃から鎌倉時代にかけて、男の家に嫁を取る嫁取り婚になり、男系の親、子、孫が同じ「~殿」と呼ばれるようになりました。藤原氏で言えば、近衛に住んだ系統が近衛、九条に住んだ系統が九条と呼ばれ、近衛家、九条家という家になったわけです。公家ではこれを称号と言ったようで、今の名字にあたります。

◇親子兄弟で異なる名字

 頼朝の妻である北条政子にも“の”がついた呼び方がありました。それが平政子(たいらのまさこ)です。父である北条時政は平時政(たいらのときまさ)。桓武天皇系統の平氏、その中の平高望(たいらのたかもち)系統と言われています。では「北条」は何か? 伊豆で時政が住んだ場所、支配した場所です。
 平安時代後期から室町時代にかけては、親子兄弟でも支配した領地が違えば、呼び方が異なることは普通でした。領地を分与されたり、別に領地を手に入れたりすれば、その地名を名乗りました。領地に対する権利主張とでもいうべきもので、固定した「~家」という感じではありません。鎌倉時代から室町時代あたりで、財産(領地)を分割して相続するのではなく、単独で相続することが多くなり、家という形が固まっていったようです。

◇氏と名字は何が異なる?

 “の”が付く氏と“の”が付かない名字は何が異なるのでしょうか? 氏姓は天皇が与える公的な制度ですが、名字は私称であり、家が確立する過程で自然発生的に出来たものという違いがあります。また、氏は父系血縁集団全体の名前ですが、名字は特定の家の名前で、極端に言えば血縁とは別。藤原氏の家に源氏が養子に入った場合、養子は源氏のまま、家の名字はついでも、氏はつがないというのが原則でした。養子になった場合に氏も変わるようになったのは、中世の後半あたりからのようです。
 使い方も違います。室町幕府を作った足利尊氏を例に取れば、朝廷で正式に呼ばれる場合は源朝臣尊氏(みなもとのあそんたかうじ)。普段の生活なら足利又太郎と呼ばれたでしょうか。又太郎は通称です。朝廷の官職に就いてからは、官職名で呼ばれることが多かったでしょう(現代でも部長、社長と呼びますね)。
 名字は苗字(みょうじ)とも書き表されます。江戸幕府の法令では苗字が用いられ、それが一般化しました。

◇秀吉の名字は?

 さて、戦国時代の終幕に現れた豊臣秀吉。秀吉は羽柴から豊臣に名字を変えたと思われていますが、秀吉は木下から羽柴に名字を変えて以降、一度も名字を変えたことはありません。では、豊臣とは何か? これは秀吉に天皇が与えた氏。正確に言うならば、秀吉は豊臣朝臣(とよとみのあそん)を賜姓されたということになります。
 秀吉はそれまで平氏や藤原氏を称していました。名字は木下から羽柴、氏は平氏から藤原氏、さらに豊臣氏と変わったことになります。当時の大名は系図を細工するなどして、朝廷で通用する氏を名乗っていたようです。秀吉は藤原氏近衛家に養子に入っていますし、織田信長は藤原氏→平氏と氏を変えています。徳川家康は藤原氏、源氏などを使い分けて、最終的に源氏に変えています。
 現代では豊臣秀吉を「とよとみひでよし」と呼んでいますが、当時の正式な呼び方では豊臣朝臣秀吉(とよとみのあそんひでよし)ということになります。ただ、実際にそう呼ぶことは朝廷の正式な場以外ではそれほど無かったと思われます。徳川家康なら源朝臣家康(みなもとのあそんいえやす)、織田信長なら平朝臣信長(たいらのあそんのぶなが)となります。
 なお、秀吉は多くの大名に豊臣氏及び名字の羽柴を称するよう命じ、それを大名統制に用いています。豊臣政権のもとでは、家康も豊臣氏、羽柴の名字を称しています。家康は1600年の関ケ原の戦いに勝利した後、源氏に戻りました。

◇“の”の行方は

 “の”がなくなったのはいつか。法的には明治時代初期に“の”がなくなり、それとともに現在の名前の形が定まりました。
 明治政府では「藤原朝臣(ふじわらのあそん)実美三条」「越智宿禰(おちのすくね)博文伊藤」「大江朝臣(おおえのあそん)孝允木戸」のような形の署名がされていました。
 それぞれ三条実美、伊藤博文、木戸孝允のことです。これらを見ると、正式な名は「越智宿禰博文」や「大江朝臣孝允」で、伊藤や木戸のような名字は符号のように小さく付けられています。ただ、普段から越智宿禰博文などと名乗っていたわけではありません。
 また、木戸なら準一郎・孝允、大久保なら一蔵・利通という名前を使っていました。準一郎や一蔵はふだん使う通称。孝允や利通は実名(現在の戸籍上の名前とは異なります)。当時、実名は実生活ではあまり使われていませんでした。

 井戸田博史氏の「『家』に探る苗字となまえ」(雄山閣出版)によれば
・1870(明治3)年12月 官員名、公式文書、在官者は苗字・実名の使用
・71(明治4)年10月 公用文書などに氏と姓は使用せず苗字・実名の使用
・72(明治5)年5月 全国民を対象として通称、実名のうち本人が希望する方を名とする
・72(明治5)年8月 苗字・名・屋号の改称禁止(同苗同名で差し支えがあるときは改名できる)
という変遷をたどっています。
 71(明治4)年10月、公文書などでは氏・姓及び通称の使用を差し止め、名字と実名を使用することになりました、木戸孝允や大久保利通などは、この形です。72(明治5)年5月には全国民を対象に通称、実名のどちらを届け出てもよいことになり、板垣退助や後藤象二郎などは通称のほうを使うことにしました。また、戸籍に登録した名字と名前を変えることも、簡単にはできなくなりました。

◇伝統の強さ

拡大鶴岡八幡宮の流鏑馬神事。源頼朝が鶴岡八幡宮で放生会(ほうじょうえ)の折に催したのが始まりといわれる=2014年9月16日、神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮、菅尾保撮影
 法的には明治のはじめに“の”がなくなりました。今でも名字が藤原、大江、菅原という人はたくさんいますが、これらを「ふじわらの」「おおえの」「すがわらの」とは呼びません。しかし伝統とは強いもので、前掲の「『家』に探る苗字となまえ」によれば、1940(昭和15)年9月に行われた鎌倉の鶴岡八幡宮の流鏑馬(やぶさめ)神事の奉納額に村井五郎藤原安義、一寸木太郎橘美一、斉藤二郎藤原直成、斉藤一郎藤原直芳といった名前が書かれていました。これは名字+通称+氏+実名の形でひとりの人物を表しています。「村井五郎藤原安義」であれば「村井(名字)+五郎(通称)+藤原(氏)+安義(実名)」。これなどは”の“を意識した名前の表記ということもできるでしょう。
 細川元首相も源護熙と書くことがあったそうです。自分とは何者かと考えるとき、氏や家を考えることが少なくなった現代ですが、思わぬところにそういうものが残っているのかもしれません。

(水本学)

 中央大学文学部・坂田聡教授の話
 かつて日本各地で家制度が一般的だった頃、名字は先祖代々受け継がれる家という組織の象徴(家名)としての役割をはたしていました。しかし、家制度が終焉(しゅうえん)を迎えつつある今日、名字は個人名の一部(上半分)とみなされるようになり、一方、中世には社会組織の内部における地位や身分の違いを示していた下の名前(通称)も、今では単なる個人名となってきました。つまり、現代日本においては、人名の個人名化が進行しているのです。

 

※次は1月15日に更新します。また、来年からは隔週更新になります。ご了承ください。