第1話 帰還
人類華やかなりし二十一世紀後半。技術的特異点を迎える十年ほど前に起きた事件を経て、文明水準は
吹き出す蒸気、煌めく粒子、剥き出しの配管、軋む歯車と往復運動機器。気嚢に充填されているのは幻獣から採取される生体由来のガス素材だ。これによって事故のリスクを減らし、大型化した飛行船の安定運用が可能となっている。
大小様々な飛行船は旅客船はもちろん、広告船などもあった。従業員は制服を着て身分をわかりやすく示し、客に案内をしたり船内販売を促している。
「焼き団子をひとつ。みたらしで」
「ありがとうございます」
保温器に入れられていた紙パックを受け取って、中に三本入っていた焼き団子をひとつ取り出してかじった。柔らかく甘みがある団子に、焦げの風味が効いている甘醤油の味が混じる。
和装、洋装、あるいはその折衷。一人の少年は着流しの上から
白銀の髪が揺れ動いて、藍色の目は真っ直ぐ前を見据えている。
左腕には手土産がしこたま入った紙袋の取手を通して紙パックを握り、背中には引っ越すにあたって自分で持っていくことになった最低限の荷物を入れた
第六プラットフォームまで歩いて行き、少年——
忙しくて朝食を食べておらず、昼前の今になってやっと焼き団子を一つ食べられた。当然食欲はまだ満たされない。
もう一つ食べようか。そう思っていると隣に誰かが座った。
誰なのかはすぐにわかった。呆れがちに燈真は声をかける。
「出迎えにしては早いと思う。家で待ってるって言ってたじゃないか」
「七年ぶりに愛しの恋人が来てその態度? 全く、つまんない男」
その妖は白い妖狐だった。
見目麗しい月白の毛髪。狐耳と尻尾の先端は薄紫——竜胆色のグラデーションで染まり、瞳も同じ高貴な紫。
勝ち気でハキハキしている性格が如実に浮かんでいる顔立ちには喜びが、五本の尻尾は邪魔にならぬよう、術で小さく縮めてあるが嬉しそうにそわそわ揺れていた。
「嬉しいさ。……本当に。ただいま、
「おかえり。でもまだ家じゃないわよ、バーカ」
七年ぶりに聞くちょっと生意気な言葉遣い。強がっているような声音に隠れた嬉しそうな声。
半妖の燈真と純粋な妖怪である椿姫にとっての七年など人間のそれとは感覚が違うが、それでも将来を誓った男女である。そうなれば人間も妖怪も関係なく、あまりに長い時間の別れだった。
今すぐにでも抱きしめたいが、そこに準備を待っていた飛行船がメンテナンスを終えた汽笛を鳴らす。
「
「うん。二人とも早く燈真に会いたいってうるさくって……。
「二人とももう生まれて二十年くらい経つのか? ……人間で言えば小学生くらいか。俺もそれくらいの時は甘えん坊だったけど」
「うん。ああそうだ、その、人間の学校はどうだったの?」
飛行船のタラップが架けられ、燈真たちはそこへ乗り込んでいく。
ごうん、ごうん……と重たい機械音がして霊光エンジンが稼働しており、剥き出しの機械が複雑に絡み合って素人目には何が何だかわからない風にして、奇妙な機動を繰り返していた。
霊光エンジン——生命力と紐付けされる妖怪の力・妖力と魂の粒子が結びついた霊光素、それが結晶した霊光晶という鉱石から得られるエネルギーによって動く機関が回転運動と往復運動を繰り返し、現代文明の機械技術を支えている。
行き過ぎた科学技術によって、一度危機的な状況に陥った社会。現在では世界を支配している——そのように語ったある組織によって作られた国際機構によって法規制がなされ、一定以上の技術を持つことが禁じられていた。
その中で特異な方法と技術によって社会を継続させているのが、八洲皇国内にある独立自治州——
地上四〇〇メートル地点にある凍北飛行船空中ステーション——そこは凍北地方の山岳部から連なる形で作られたものである。
裡辺と友好的な関係にある——分裂した八洲皇国のいくつかの地域は、覇権を巡って群雄割拠しているのだ——そこにも妖怪が進出しているのため、霊光技術の一部が持ち込まれていた。
このステーションから裡辺へ向かう船が出ており、ここを中継して他地方は裡辺と交流を持っているのだ。
中には反妖怪思想を持つ者もいるが、誰も彼もが円満に過ごすことなどできないことは、有史以来数えきれないほど証明されてきていることだった。
乗客名簿を手にしていた乗組員が船内放送で機関室と連絡を取って、すぐさま発進を知らせるアナウンスが響く。
ゴンドラ内に設られた各席に座っていた客は指示通りシートベルトをして準備を終え、しばらくしてアンカーが巻き取られた飛行船がステーションから離れ、大空へ向かって進み始めた。
燈真は強化ガラス越しに外を見て、それから椿姫を見て、さっきの質問を思い出す。
「人間の学校は……まあ、規律と規範をいかに都合よく解釈して、カーストの上に立つか、それに尽きる。一匹狼の俺にはあんまり関係なかったけど」
「他人とコミュニケーションを取らないといけないんじゃないの? 人間社会って。一匹狼なんて淘汰されるって聞いたけど」
「それは妖怪も同じだけど……ただ、本質というか雰囲気というか、それは大きく違ってた。
いびつで絡み合った蜘蛛の巣みたいな縄の上で激しく上下して揺らしながら、誰かを振り落として笑う感じ……そう言えばいいかな。綱渡りっていうよりは、蹴落としあって笑うデスマッチをしてた」
「綱渡りのゴールが見えなくなったから、娯楽として蹴落とす……ってこと?」
「そう。偉い人たちを喜ばすためにな。そのうち電流を流したりするんじゃないかな」
悪し様に言いたいように言うが、妖怪社会で長年過ごしてきた燈真にとっての人間社会での七年間は、そう思えた。
中学三年生から高校を三年間、累計四年の学生生活と、その後三年の就職期間——尊重とは名ばかりの、袋叩きをして傷つけ心を折り合う蹴落とし合い。燈真のひねくれた目には、そう見えるのだ。
けれども確かに安全に安定した暮らしはできる。リスクをおかさない、変化をしないのっぺりとした日々を過ごせば平和に暮らせる。それだけは事実だった。
それゆえに新たなチャレンジをする者を殊更に馬鹿にしたり見下したり、夢を語る若者を嘲笑う風潮が出来上がり、——停滞しているのも事実だが。
その閉塞的な日々の反動で短期間の革命と技術革新をするのだろうが、その果てが危機的状況に陥る事件なのだから目も当てられない。彼らは半世紀前に自ら進化の袋小路なる生物であると証明したも同然なのだから。
それゆえに常に変化し、次を求め、あるいは野心的に暮らす妖怪の血が入っている燈真には退屈すぎて悲鳴を上げたくなる七年だった。
急速すぎる変化——劇薬めいた技術革新を手にするか、染み出す猛毒に犯されるような日々を過ごすかの二択。進化と見せかけた死滅を突きつけられる日々。被害妄想的な危機感に追い立てられる毎日。それが、七年間の暮らしで感じたことだ。
もちろん妖怪は人間以上に優れていると断言できるわけではない。これはあくまで『生物種としての違い、文化の違い』からくる認識の齟齬だ。
けれど、だからこそ燈真は人間としての暮らしは無理だと自覚して、裡辺へ帰ることを望んだ。まあ、長い墓参りだったとそう思えばいいと己に言い聞かせている。それに、持ちかけられていたある話との兼ね合いもあって都合が良かった。
「楽しいかどうかで言うと?」
白黒はっきりさせたい椿姫としては内訳がどうこうではなく、単純化したそこが気になるのだろう。
なので燈真もはっきり答えた。
「楽しくなかった」
回転するプロペラが、安定した気流が裡辺への道を開く。
船内で売られていた食べ物で朝昼兼用の食事をした燈真と昼は軽食で済ませた椿姫の眼下には、すでに裡辺の土地が見えていた。
燈真の妖怪としての一生がここで始まり、他ならないここで彼の生涯は閉じることになるだろう場所だ。生まれた揺籠で、棺桶。妖怪にとっての理想郷で、楽園。
ここへ帰ってきた理由はなにも人間として暮らせないと悟ったから、ただそれだけではない。
多発している……そう噂されている奇妙な怪異事件。
その調査と解決を、現役引退の身である九尾——かつて裡辺を守った