唐突な言葉に一瞬だけ停止した思考は、しかし彼女が手早く店員にオーダーを済ませた頃には、もう平生のそれを取り戻していた。
その意味を咀嚼してみると、深い水の中に浸かるように、頭がすっと冷えていく感覚を覚えた。店内にかかる流行りの歌が、耳に強く残る。
「それは、下見みたいなもの?」
「うん!」
あっけなく答えられた。別に期待なんかしちゃいなかったが、その屈託のない表情を見ては、目を逸らす為にグラスを呷って中身を飲み干す。随分と渋いお茶だった。
君の目には僕は見えない。
君の瞳に映っているのは、他の誰かの背中。
その背中に、僕を重ね合わせて。薄っぺらいフィルターを通して君が見るのは、僕がこんなにも焦がれている君自身の隣にいる、他の誰かなのだろう。
飲み干しておいたグラスに目を遣る。中の氷が、カランと空虚な声をあげた。兎に角、彼女と目を合わせるのが辛かった。
「でもさ、僕と二人で出掛けたら変な噂になるかもしれないけどいいの?」
だからこれは、ささやかな抵抗だ。
彼女がここで止まってくれたら、少しでも躊躇してくれたなら、僕はまだ止まることができる。
彼女へのではなく、僕への最後通牒だった。
「そもそもこんな風に会ったりするのも、見られたりしたらマズいんじゃないかな」
畳み掛けるみたいに続け様に言う僕を、彼女はきょとんとした顔で見た。本当に何を言っているか分からないとでも言うように。
そんな彼女は少しの躊躇いもなく、僕のそれを一蹴してしまう。
「大丈夫だよー。だって私とキミだよ? みんな疑わないって!」
……。
「そっか。香澄がそう言うなら付き合うよ」
「本当に!?」
「うん。協力するって言ったしな。役に立てるかはわかんないけどね」
「ありがとう!」
……まぁ。
こうなることなんて、分かりきっていたことだが。
グラスを握る手に、結露した水が伝う。この水と同じだった。止まることなんてできない。然るべき力に従って、滑り落ちて……後はどうなるのだろう。僕にはまだ分からない。
「どういたしまして。て言うか、誰か教えてくれたらもっと詳しくアドバイスできるんだけどなぁ」
「う、それは恥ずかしいから……」
「僕にでも?」
「キミでも。と言うか、キミだから!」
「……そか」
分かっていることは、ただ進み続けなければならない。そんなクソッタレな現実が目の前に広がっていることだけだ。
「下見って言うけどさ、行く場所とかはもう決まってるの?」
「キラキラドキドキする場所!」
「……具体的に決まってないってことだけはよく分かったよ」
「そ、そんなことないよ〜? ちゃんと決めてあるから!」
「へぇ。ま、そこは香澄に任せるよ。じゃないと付き合う意味ないし」
「もっちろん。私に任せて!」
胸を張る彼女の元に、店員がプレートを運んできた。鉄板の上で焼ける肉汁が香ばしい匂いで鼻を擽る。彼女が注文したのはハンバーグだった。
「ガッツリ食べるなぁ。太るよ?」
「だ、大丈夫だよ! 今後のライブで消費するから! ……多分」
「多分って……」
「あー、疑ってる。歌うのって結構カロリー使うんだよ! ほら、カラオケでも消費カロリー出るし……あ! ねぇねぇ、デートの時カラオケ行こうよ!」
「んー、その人が歌うの好きならいいけど。香澄が歌いたいだけだろ」
「う……」
「まぁ、いいんじゃないの? 僕は香澄の歌、好きだし。その彼にも聞かせてやれば」
「本当!? 気に入ってくれるかな?」
「……うん。僕が保証するよ」
こんなあからさまな点数稼ぎなんて、何の意味もない。これはただの自己満足だ。
そいつが香澄の歌を気に入らなければいいと思ってしまうような、クソ野郎の。
それから僕たちは、その日の予定について話した後、暫く雑談をしていた。
最近学校であったこと、バンドの皆の話、バイトの時に来店した常連さんが買うパンの多さ。
下らない日常の話で笑い合って、時折僕が言う冗談に、彼女がむくれたり、やっぱり笑ったり。
何気のないそんな時間が、僕はとても好きだった。
でも、今は。
楽しいとは思っている。けれど弾む彼女の声だとか、笑った時に細められる目だとか。テーブル越しの彼女は、実際はもっと遠い場所にいるのではないかと。錯覚はリアルな像を象って僕の胸に去来する。
その度に、僕はグラスを呷る。苦い感情、辛い感情、そんなものは全て飲み干してしまえ。そうして、いつもの僕を彼女の前で演じるのだ。もう消えてしまった、過去の僕を。
そういった意味では、僕はそこのハンバーグと似ているのかもしれない。
誰だって肉を食べる度に悲鳴をあげて殺されていく牛や豚の姿なんて想像したくはないだろう。
屠殺され、解体され、血抜きされ、切り取られ、整形され……。
その過程は基本、人の目に晒されることはない。当たり前だ。それを目にすることなど、人は望まないからだ。
罪悪感に苛まれるだろうし、見ていて単純に気持ちが悪いと思う人だっているかもしれない。
僕の醜い感情も、彼女へ余計な負担を掛けるだけのもの。だから僕は隠す。隠し通してみせる。
殺して、解体して、血抜きして、切り取って、整形して……。
そうして美味しいハンバーグは、彼女の口へと運ばれるのだ。
その過程は、誰にも見られてはならない。誰にも知られてはいけない。そうすれば、誰も不幸にならない。
……まるで、機械だ。でもそれでいい。彼女の為ならば、僕は機械にだって肉にだってなってみせる。
だってそれが、狂いそうになるの僕の、唯一の指針なのだから。
たとえその指針さえもが狂っていると言うのなら、それでも構わない。
もう僕には、この道しか残っていない。道の先にあるのは、屠畜場。
勿論僕は、運ばれる牛だ。
▽
コツコツ。コンクリートを叩く爪先が硬質な音を立てる。
待ち合わせに指定された駅前を目指して歩く。あれほど痛かった足首は、もうほぼ完治に近い状態に戻っていた。今度市ヶ谷さんに会ったら、お礼をしなければならない。
そんなことを考えながら、腕時計を見る。もう着いてしまったが、待ち合わせにはまだ少し早い時間だ。早めに着いて、気持ちの整理をつけておきたかった。
思い返してみれば、彼女と二人きりで出掛けることなんて初めてかもしれない。
遠出するときなんかはどちらかの両親や、彼女の妹の明日香ちゃんがいた。
幼い頃に公園で遊んでいたことがお出掛けというカテゴリーに入るのなら話は別だけど、こうして何処かで待ち合わせて、というのはしたことがない。
そうしたい願望はあった。遅れてごめんねと言いながら此方に駆けてくる彼女は、いつもより少しだけお洒落をしていて。そんな彼女と手を繋いで寄り添いながら歩く。
とんだ笑い話だ。幼稚な妄想は、その練習台として実現してしまうのだから。
ふっと笑い、空を見上げる。
天気は曇り。僕の初デートに相応しい、鉛色の雲が空を覆っていた。
「おーい!」
彼女の声がした。
振り向くと、前方から走ってくる彼女が視界に映る。
綺麗めなプリーツスカートに、カジュアルなデニムジャケット。春らしい色合いのそれらは、とてもよく彼女に似合っていて。正直、見惚れそうになった。
でも、これは練習。
そう考えると、彼女を前にした瞬間の浮ついた心は、ぴたりと元の位置に納まる。
早めに此処に来たのは正解だった。幾分かは落ち着いた心持ちで対応できそうだと安堵しながら、手を挙げる。
「よっ。意外と早かったね。君のことだから、遅れるかと思ってた」
「私だってそれくらいはちゃんとするよー。だってデートだもん!」
「練習だけどね」
僕が付け加えると、彼女はむっとした表情になる。
「もう、練習だって考えてたらダメなんだよ。練習は本番のように、本番は練習のように、だよ!」
「それ、誰の受け売り?」
「紗夜先輩が言ってた!」
実力派のガールズバンド、Roseliaのギタリストである氷川紗夜先輩。僕らの一つ上の先輩で、会ったら多少話をする程度の仲なのでそれほど彼女を知っている訳ではないが、兎に角真面目な人だという印象が強い。
「あの人らしいね」
「うんっ。じゃあ行こっか!」
言いながら、彼女は僕の手を握る。その感触に跳ねる心臓を抑えて、僕も握り返す。
自分の鼓動の筈なのに、遠く聞こえる残響のようなそれをぐっと噛み締めて、僕は彼女の隣を歩くのだ。
赦されるのならば、遠い日の夢を照らし合わせてと。そんな願いを抱えながら。
▽
こうして始まった僕らのデートは、順調に進んでいった。
ショッピングモールを彷徨いたり、昼ごはんを食べたり、当てもなくぶらつきながら談笑をしたり。彼女の要望だったカラオケにも行った。
破天荒な性格の彼女だから、突拍子のない行動に出ることもあったが、所謂男女のデートという型に概ね当てはまった行程は、僕に意外の念を抱かせた。
でもそれはきっと、彼女も緩やかながら変化をしているということの裏返しなのだろう。
僕が見ていた彼女という人間は、横たえる時が作り上げた固定観念の塊で、それこそ彼女とは別の意味で、僕は彼女のことを見ていなかったのかもしれない。
だとしたら、やっぱり僕が彼女の横に立つ資格なんてないのだろう。
今日はそれが分かっただけでも充分だ。
抱いた夢は、綻びながら消えていく。幻が朧げに霞んでいく。
風が吹き、雨が降り、夢が醒める。全て自然の成り行きだ。
「今日はありがとね」
帰り道。彼女がぽつりと呟く。
「ううん、僕の方も楽しかったから。こっちこそありがとう」
「どういたしまして! で、いいのかな?」
「僕に訊かれても」
「あははっ、そうだよね」
上機嫌な彼女が笑いながら先を歩く。彼女の背中を見つめながら、少し後ろを歩いていた。
暫くの間そうしていると、不意に彼女が振り向く。後ろ姿を見ていた僕は何だかきまりが悪くなって、視線を相変わらずの曇天に向けた。
「楽しかったなら、良かった」
そんな僕の耳に、温かい声がするりと入ってきた。
「最近、キミが落ち込んでるみたいに見えてたから」
「え……」
その内容に、彼女へと視線を向けてしまう。
在ったのは、柔らかく優しい、彼女の微笑み。僕は目を奪われてしまっていた。
「だから、今日はパーって楽しんで欲しかったんだ!」
「練習、だったんじゃないの。これ」
水を差す言葉であると分かっていながら、僕は思わずそう口にした。
大して気にした風にもせず、彼女はうーんと顎に手を当てて考え込む動作をしてから言った。
「確かに練習したいって思ってたけど……。途中から忘れてた。だって、私もすっごく楽しかったから!」
彼女の言葉と、眩い笑みが、僕からあらゆる体の動きを奪ってしまったようだった。
本当のところ、気持ちは重たかった。今こうして立っている彼女の隣という場所は、仮初という足場で築かれた脆さの上に成り立っているものだから。
言わば建設途中のビルに仮設されるそれと同じもので、本命が建立すれば、直ぐに解体されてしまう。
この前も思っていたことだが、詰まる所彼女がこの瞬間に浮かべている笑みは、顔も知らない誰かに向けられているものなのだとして、僕は今日一日を過ごしていた。
けれど彼女は、ずっと僕のことを気にかけてくれていたのだ。一人卑屈になり、勝手な喪失感に浸っていたこんな僕のことを。
正直で真っ直ぐな彼女の瞳は、嘘を吐けるほど器用でなければ、汚くもない。
だからこそ、解ってしまう。
彼女の美しさが。そして、自分の汚さが。
こんな時でさえ思ってしまうのだ。
──だったら、僕でいいじゃないかと。
「だからね、また一緒に遊びにいこ!」
……嗚呼。
やっぱり僕は、君の隣にいるには相応しくないのだろう。
諦めにも似た寂寥が湧き上がり、背骨を突き抜ける。その余韻が、僕に響く。
──もう止めにしよう。彼女の傍にいるには、僕はあまりにも弱すぎる。
……そうだ。そうした方が、きっと良い。
変わろうと励んだ研鑽なんて、何の意味も持っていなかった。僕は何も、何一つ変わってなんかいなかったのだから。
囁きに従い、僕は口を開く。
「香澄。悪いけどもう──」
その矢先、二人の間に水滴が落ちる。
いや、僕らの間だけではない。最初はポツリポツリと、しかしすぐにバケツをひっくり返したような激しさを伴って、水滴は落ち続ける。
予報にはなかった雨だった。
「わっ、雨?! どうしよう?!」
「傘持ってないよー!」と嘆く彼女に構わず、雨は一瞬にしてアスファルトの色を濃くして蹂躙していく。
僕の方も勿論持っていなかったので、抵抗のない布地に水分はどんどん吸収される。このままでは不味い。確か少し離れた場所に、雨を凌げるような軒があった筈だ。
「香澄、こっち!」
「えっ、きゃっ!?」
急いで行こうと彼女の手を掴み走る。
驚きの声をあげる彼女には、後で謝ろう。そんな思いで、僕は雨の路を行った。
程なくして目的の軒にたどり着く。予想通り濡れていなかったそれの下に滑り込んで、二人で息を整えた。
「はぁっ、はぁっ。ごめん、急に走り出して」
「はぁっ、はぁっ、ううん。大丈、夫……!」
「通り雨みたいだから、直ぐに止むってさ」
「良かった〜。うひゃー、全身びしょびしょだよ〜」
携帯で天気について調べると、安心して一息つき、ぶるぶると犬みたいに首を振る。水滴が此方に飛んできた。
「ちょ、水飛んでくるんだけど──、っ!」
「あ、ごめんねー」
抗議するために彼女の方を向く。すると目に映るのは、絞るためかデニムジャケットを脱ぎ、手にする彼女。
当然、その下のシャツもすっかり濡れてしまっている訳で──
僕は息を呑んだ。
「……ッ!」
──貼りついたシャツが、彼女の下着を透けさせていたのだ。
それを見て、少しの間固まる。固まってしまう。女性らしく丸みを帯びた躰のラインを、柔らかそうな肢体を、僕は凝視してしまっていた。
心なしか荒げた息遣いも、今はとても扇情的なモノに聞こえて……。
「ご、ごめんッ」
我に返り、慌てて目を逸らす。流石に失礼が過ぎる。
彼女からの返答はない。怒らせただろうか、失望させただろうか。不安が募り、僕は恐る恐るもう一度彼女の方へ振り向く。
すると……。
「? 引っ張られたことなら気にしてないよ。そんなに謝らなくていいって!」
「……は?」
小さく、息が漏れた。
何故だ?
何故そこまで何も危機感を持たずにいられる?
男に濡れた躰を舐め回すように見られて。何故平然としていられる?
──この状況下で、まだ、君は。
僕を欠片も異性として認識していないというのか。
……何だよ、それ。
ふつふつと沸くのは、焼けるような感情。
僕という人間が最も醜く発露する怒り。どうしようもなく理不尽な、負の塊だった。
「どうしたの?」
その声に、もう一度彼女を見遣る。
表情一つでも、人の性格というのは表れるものだと思う。彼女のそれは、黙る僕を不思議に思う心だけが、ありありと浮かんでいた。
思いのままをさらけ出す、そんな彼女に僕は惹かれたんだ。
……でもね。
「うん。実はちょっと、母さんに頼まれた用事を思い出しちゃって」
嘘を吐くことだけに関しては、僕は彼女よりも、何枚も上手だった。
「今すぐ帰らなきゃいけないんだ」
「え、でも凄い雨だよ?」
「大丈夫。家に着けば着替えられるし……ウチの母さんが怒ると怖いなんて、香澄もよく知ってるだろ?」
「あはは、そうだったね〜……。二人で夜に外出ようとした時とか、すごく怒られた思い出が……」
「そういうこと」
いつも通りに笑ってみせる。そうすると彼女も納得がいったようで「そっか」と笑った。
「じゃ、僕は先に帰るよ。また明日」
「うん、じゃあね!」
兎に角、この場から立ち去りたかった。これ以上、彼女を見たくなかった。
手を振る彼女に振り返し、僕は雨の中に走り出る。後ろは向かない。向いたら、今まさに堪えているものが、全て決壊してしまいそうで。
雨に駆ける。
五月の雨は蒸し暑い。降りしきる雨水は、容赦なく頭から爪先までを覆い尽くした。
頬に伝うのは、雨か汗か、それとも……。そんなことはどうでもいい。
全てを洗い流すように叩きつける雨が、妙に足取りを重くする。
全てに浸透するように染み渡る雨が、妙に優しく包み込む。
気持ち悪くて、気持ち好い。
春の夕立に僕は遮二無二走っていた。泣きながら、笑いながら走っていた。
感想、評価など励みになります。是非。