独り相撲   作:魚澄蒼空

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第2話

 体が重い。全身の筋肉は軋むような痛みを訴えて。僕の思考を鈍色の箱に押し込めてくる。

 起き上がるのが億劫で、手を伸ばしてスマートフォンを起動させ、現在の時刻を確認した。

 七時半。普段ならばこの一時間以上前には起床しているのだが、今日はどうにも動く気が起きなかった。

 

 ……まあ、原因は分かりきっているのだが。

 

 一言で言うのなら、過労だ。

 昨日の放課後、僕は直ぐにやまぶきベーカリーへ駆けつけた。それから閉店まで殆どの仕事を、いや、閉店後の片付けまで進んで引き受けたのだ。

 

 兎に角、働きたかった。休む間もない激流の中で、ひたすらに作業に没頭したかった。そうすれば何も考えずに済むと、そう思ったから。

 

 結果として残ったのは、無理をした代償だと言わんばかりの筋肉痛だけ。暗鬱な気色に、僕は気怠い鈍痛まで引っ提げて帰路に就くハメになった。

 パン屋の仕事は、意外にも力仕事が多いのだ。昨日は新しい機材の搬入もあったので、それに拍車がかかったことは否めない。山吹夫妻の制止も振り切って押し通したのは、自業自得としか言いようがなかった。

 

 学校、休もうかな。

 

 そんな考えが浮かぶと、ズブズブと泥の中に埋まっていくような錯覚を覚えた。安物の硬いベッドでも、その布団に沈み込んで、一体化していく感覚。

 スプリングがギシリと軋んだ。階下から起きろと告げる母に生返事を返して、僕は毛布を被った。

 

 あ、でも……今日休んだら山吹さんが無理をさせたと思ってしまうかも。そうなったら、申し訳ないな。

 段々と落ちてくる瞼の裏側で、ふと山吹さんの顔を思い浮かべて。

 

 

 

 ──まぁ、どうでもいいや。今はただ、眠りたい。

 

 

 

 瞼が落ちた。でも、決して寝苦しくない春の丁度良い気温の中で、僕は何故だか寝返りを打つ。

 そんな緩慢な動作では振り払えない霧を纏いつつ、何度も、何度も。

 

 

 

 真っ暗な視界には、ある像が結びつく。

 

 

 

 今でもはっきりと思い出せる。僕が知らない、彼女の女の子としての顔。

 

 

 

 それはどうしようもなく愛おしくて、どうしようもなく憎らしかった。

 

 だって、その表情で君が見るのは、他の誰かなのだから。

 可笑しいじゃないか。僕は君の隣にいるために、この数年間を費やしてきた。

 分かっていたんだ。前までは隣にいたなんて思っていたけど、実はそんなことはなくて。君は僕のずっと前を進んでいるのだと。

 

 だからこそ、いつも僕の前で笑う君の、後ろじゃなくて隣で。一緒に笑い合いたかったから僕は頑張ってきた。

 だと言うのにまだ顔も見たことのないそいつは、血の滲むような研鑽を嘲笑って彼女の心に居座っている。

 

 

 

 ──そこは僕の居場所だ。

 

 

 

 ぽっと出の人間が、好き勝手に踏み荒らす場所であっていい筈がないんだ! 

 

 

 

 ……。

 

 

 

 ……いや、解っているさ。本当は。

 

 僕の言い分は全部自分のことしか考えていない。どこまでも利己的な屑。

 こんな男に、一体誰が惹かれると言うのだろう。

 

 昔の僕を知る知人は、誰もが変わったねと肯定的な風にもてはやす。

 だけど、進歩したものなんて何もなくて。装った外面の内側では、歪んだ欲望が膿になって心を蝕んでいる。

 

 変わったという彼らの言葉は、確かに正しいのかもしれない。

 

 自分がいつか辿り着くと信じて疑わず、一方的な期待をぶくぶくと膨れ上がらせた醜悪な感情は、もう戻れないところまで来てしまった。

 

 何がいけなかったのだろう。何時からこうなってしまったのだろう。

 

 僕は何の為に、誰の所為で……。

 

 お願いだ。

 

 

 

 誰か、僕を見つけてくれ──

 

 

 

「おっはよー!」

 

 

 

 その時、部屋の扉が開いた。

 顔を覗かせる何も知らない彼女は、変わらない眩い笑顔で、僕を見つめていた。

 

 

 

 ▽

 

 

 

 無垢な笑みを向けられた僕は、暫くの間茫然と固まっていた。突拍子もなく開け放たれた扉の音と彼女の明るい声が、心の中の囁きをかき消してしまったようだった。

 そんな僕を見て、彼女はきょとんと首を傾げる。

 

「あれ? もしかしてまだ寝惚けてる?」

「……あ、あぁ。今起きたとこなんだ!」

 

 咄嗟に返事をする。数瞬遅れたのを寝起きの所為だと解釈したらしく、彼女は「そっか」と納得したようだった。

 

「おばさんにね、キミのこと起こしてきてって頼まれたんだ! ついでに朝ごはんも食べていきなさいって!」

 

 どうやら彼女は僕の母に朝食で買収されていたらしい。朝食がそんなに嬉しいのか、笑顔のまま僕の手を握るとぐいっと引っ張った。

 

 柔らかさと、熱心にギターの練習をしていることを実感させられる、でこぼことした固さを持つ小さくて温かい手。

 そしてそんな手とは不釣り合いなくらいに、引っ張る力は強かった。筋肉痛を引きずっていた身分としては有り難い。その力を借りて少し呻きながら起き上がると、彼女の姿が視界いっぱいにうつった。

 

 カーテンの隙間から差す朝日に照らされる綺麗な鳶色の髪は、一本一本が職人の紡ぐ極上の絹糸のようで。制服越しの身体は、女性的な柔らかさを感じさせる曲線をゆったりと描いていた。

 見惚れていた。いつもと変わらない筈の彼女に、僕の視線は杭を打たれたかのように貼り付いていた。

 

 それは、多分……。

 

「ぷっ、あはははっ! キミ、寝癖凄いよ〜! ライオンみたい!」

「うわっ、ちょ、やめろよ!」

 

 突然の彼女の行動に、頭が真っ白になった。

 僕の頭を見て吹き出したかと思えば、わしゃわしゃと髪を弄り回してきた。

 

「キミの髪って触り心地いいんだよね。さらさらでふわーっみたいな!」

「君の擬音表現はよく分からない……」

 

「そうかなー?」と宣う彼女。ひとしきり弄ったからか、満足気に僕の頭から手を離した。

 

「そういや、朝に来るなんて珍しいじゃん。何か用事?」

「うん。これ、昨日借りた体操服!」

「あ、ありがとう」

 

 そう言って、彼女は袋を差し出してきた。なるほど、それを返しに来たつもりが、僕を起こす役目を押し付けられてしまったと。

 

「昨日は本当に助かったよ〜。なんでか有咲には怒られちゃったけど」

「あー……。まぁそれが普通の反応だね」

 

 有咲というのは、香澄のバンドでキーボードを担当している市ヶ谷さんのことだ。

 いつも香澄の奇行に頭を悩ませているらしい市ヶ谷さんは、きっと昨日も異性で衣服の貸し借りをすることの異常性について彼女に語って聞かせたに違いない。

 この様子だと、全く理解していないようだけど。

 

 そりゃあ、彼女からしてみれば理解不能なのだろう。

 

 

 

 家族ならばそれくらい当然だと思っている、彼女からしてみれば。

 

 

 

 ジクリと、傷口が広がるような痛みが走る。一人勝手に自爆した僕は、苦笑いしながら市ヶ谷さんの対応に不満を漏らす香澄を諫める演技をしていた。

 思いの外、僕という人間は単純だったらしい。いつもと変わらない、いつも通りの彼女がそこにいて、それに安堵している自分がいた。

 

 だからさっきのも、見惚れていたというよりはそんな彼女の姿を確認していただけに過ぎなかったのかもしれない。

 でもそれは詰まるところ、裏を返せば停滞しているというだけのことであった。いや、停滞という言葉は相応しくないだろう。

 

 そもそもが、彼女の中での僕という存在は違っていて。

 

 家族という関係で打ち止めになっているのだから。

 

 階下から再び母の呼ぶ声がした。朝食ができたらしい。

 

「あ、ご飯できたんだね。行こっ」

「……あぁ」

「あれ、まだ反応が微妙だ。ひょっとしてまだ眠い?」

「……うん、そうかもしれない」

「キミこそ、そう言うなんて珍しいね。あ、もしかして夜更かししてたとか?」

「ううん。そんなんじゃないんだ。ただ……」

「?」

 

 この貼り付けた笑みも、きっといつかは根を張って、本当の笑みと取って代わるのだろう。

 それが何時かは分からない。

 

 けれど、それは。

 

 

 

「……ただもう少し、夢を見ていたかったなって。それだけだよ」

 

 

 

 夢が醒めて、完全に消えて無くなってしまう頃なのだろう。

 確信めいた予感が、頭の中で渦巻いていた。

 

 目の前で首を傾げている彼女に向かって、にっこりと微笑む。

 

「先に行ってていいよ。僕は着替えてから行くから」

「あ、うん。じゃあ先に行ってるね!」

 

 踵を返した彼女は、階段をとてとてと降りていく音がして次第に小さくなっていく。

 受け取った袋を覗くと、急いで持ってきたのか、僕の体操服は少し不格好な形に畳まれていた。

 

 袋から取り出して、それをゆっくりと顔に近づける。

 鼻に押し当てて、深く息を吸った。

 

 そこに在るのは、仄かに香る柔軟剤の芳香だけで、昨日まで確かに在った筈の彼女の匂いなんてものは、もう何処にもなかった。

 

 全ては過去のことだと、そう告げるかのように。

 

 

 

 ▽

 

 

 

 朝食を終えると、僕と彼女は連れ立って家を出た。いつもよりも豪勢なそれに舌鼓を打った彼女は、ご満悦に鼻唄まで歌っている。

 母は彼女を気に入っているのだ。だからいつも彼女が朝食にご同伴する時には、その内容は格段に上質なものになる。

 

 今日も少し高い食パンを使っていたし、サラダにはベーコンがたっぷり入っていて、目玉焼きは卵二つ分になっていた。おまけにスープとデザートが付くとなると、もはや喫茶店で朝のセットメニューとして出しても問題はないだろう。母の料理の腕は、主に彼女のために振るわれるのだ。

 

 朝が低血圧気味の僕としては、有り難い反面、少し胃のもたれるくらいのボリュームだったが。その分は彼女が食べてしまったので大丈夫だ。

 

「いやー、有咲のお婆ちゃんが作る和食もいいけど、おばさんの洋食も美味しいんだよね!」

「あれは君が来たから張り切ってるだけ。いつもはもっと質素だよ。夕べ残った米と納豆とか、そんな感じ」

「う、納豆……。あ! じゃあじゃあ、私が毎日来てあげよっか?」

「多分、その分弁当とか夕飯が質素になるだけじゃないかな。……主に僕と父さんの」

「それもそっかぁ」

 

 自分の家で食べる選択肢はないのかと訊くのは、この際野暮なのだろうか。

 信号待ちで止まっていると、数台の車が前を通り過ぎて、整えた髪がまた跳ねやしないかと頭を気にした。

 

「て言うか、また市ヶ谷さんのとこでも食べてたんだ」

「うん。有咲のお婆ちゃんの卵焼きってね、すっごく美味しいんだよ! 甘くてふわふわなの!」

「あ、それいいね。僕のとこは少ししょっぱいんだ」

「じゃあ今度一緒に有咲の家に行こうよ。有咲も歓迎してくれるから!」

「や、遠慮しとく。市ヶ谷さん、多分僕のこと嫌いだろうし」

 

 会う度に僕が揶揄うのだから、そうなっても仕方ないのだが。

 

 市ヶ谷さんは、俗に言うツンデレという人種だ。本当はバンドやそのメンバーのことをとても大切に思っている癖して、本心とは裏腹な言動をとることが多い。

 それが皆にはバレているから、微笑ましい話で済むのだが。

 

 今まで意識したことはなかったけど、もしかしたら、僕が市ヶ谷さんを揶揄う理由はその姿がどうしようもなくもどかしかったからなのかもしれない。

 

 ──一歩前に進めば、君はそれで終わりじゃないか。

 

 ──素直に気持ちを打ち明けて、そうすれば、皆に……香澄に、受け止めてもらえるだけじゃないか。

 

 僕は違う。この十年近い恋慕は、決して明かしてはならないものだ。そういうものに、なってしまった。

 

「そんなことないよ。だって有咲……あ、信号青になった」

 

 だって打ち明けてしまったら、この関係はどうなる? 

 困ったように彼女は笑って、そうしてごめんと謝るのだろう。

 

 そして、今の関係は崩れていく。

 

 もしそうなってしまったら、僕は……。

 

 ……なんて。女々しい自分が、本当に嫌になる──

 

「ねぇ! 信号、青になったよ!!」

「っ。あ、ごめん」

 

 大きな声で呼び掛けてきた彼女は、不思議そうに僕の目を見ていた。

 何だかそのままだと、僕の気持ちが見透かされてしまいそうで、足早に横断歩道を渡った。足腰の筋肉は、それだけで軽く悲鳴をあげている。

 

 逸った気とそれの所為で少しよろめきながらも渡り切ると、後ろから走ってきた彼女は、もう一度僕の前へと出てきた。

 

「えっと、どうしたの」

「……なんか今日のキミ、変だなって。ぼーっとしてたし、よろよろした歩き方してるし」

 

 その言葉を聞いて、僕は身構えた。

 不味い。彼女には、彼女だけには、この胸の内を悟られてはならない。

 

「あぁ、少し疲れてるのかも。ほら、最近──」

「──ちょっとじっとしてて」

 

 そんな危機感を抱き、言い訳を並べようとした僕は、しかし次の瞬間その口を固まらせられてしまった。

 

 

 

 ──他でもない、彼女の行動に。

 

 

 

「ッ」

 

 

 

 僕の前髪をかきあげて顕になった額に、彼女自身の額を押し当ててきたのだ。

 

 

 

 長く綺麗な睫毛に縁取られた、アメシストの瞳。健康的な色の肌に備わる、整った鼻梁。小さくて、艶のある唇。はっきりと感じられる息遣い。そして、心地好い温かさと、仄かな甘い香り。

 

 それが今、この世で一番僕の近くに在った。

 

 心臓が早鐘を打つ。伴って巡る血流が、体を熱くさせた。手先が一瞬だけ少し震えて、口は半開きのまま化石していた。

 

「うーん、熱はないみたいだけど……」

 

 そう言って眉根を寄せて離れた彼女を見て、漸く僕の口は活動を再開することができた。

 

「な、何やってんだよ」

「え? 何って、熱ないか計ってただけだよ? 私のこれ、結構正確なんだ!」

 

 えっへんと胸を張る彼女に、僕は溜め息を吐く。それでも、まだ鼓動は収まりそうにない。

 

「いや、普通こんなことしないって」

 

 それを誤魔化したかったから、僕は説教でもするみたいに強めの口調で言った。

 

 外で、しかも同年代の異性に。

 

 流石に分かるものかと思っていたが、やはり彼女は要領を得ていないようだった。

 

 

 

 そして、また無意識の刃を口にする。

 

 

 

「ダメかな? あ、でもあっちゃんにも『もうそんなことする年じゃない』って怒られちゃったっけ」

 

 

 

 先程とは別の意味で、僕は固まった。

 

 

 

 彼女の言う「あっちゃん」とは、彼女の妹のことだ。ここで、彼女が妹の話をしてくるということは、つまりそういうことだった。

 

 

 

 ──あぁ、成る程。

 

 

 

 どこまでいっても、君は僕のことを家族としてしか見ていないんだね。

 

 

 

 改めて知らされるまでもない、たった一つの事実。

 

 

 

 それでも、自分で反芻するよりも、彼女から言われるのはやはり痛い。

 早くなれなければいけないのに。どうにも、こればっかりは上手くいかないらしい。

 

 だったら──

 

 口元を歪めて、自嘲気味な感情を内包した、外面だけが綺麗な笑みで、僕は彼女に向き直る。

 

「話は変わるんだけどさ」

「ん? 何々?」

 

 気取られないように、少しだけ息を吸って。

 

 

 

「君が好きな人とは、あれから進展あったの?」

 

 

 

 ──慣れるまで、この痛みに浸り続けるだけだ。

 

 

 

 そうして、僕は彼女に肉薄した。

 

 


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