さくま・だいすけ
1992年7月5日生まれ。東京都出身。O型。身長168cm。
2005年9月25日、ジャニーズ事務所入所。
2020年1月22日、Snow ManとしてCDデビュー。
SixTONES・Snow Man編 第10回 佐久間大介〔Snow Man〕「壁だらけの時代を乗り越えてきたから、9人でめざす遥か先のテッペンが、ハッキリ見えている。」
今年、創刊70周年を迎えるアイドル誌「MYOJO」。それを記念して本誌での好評企画である、10000字ロングインタビュー『僕がJr.だったころ』のテキストをMYOJO公式ホームページにて、8月22日~9月21日まで期間限定公開する。Kis-My-Ft2、A.B.C-Z、Hey! Say! JUMP、中山優馬、ジャニーズWEST、SixTONES 、Snow Man、King & Prince(MYOJO本誌での掲載順)のインタビューを特別に集英社オンラインでも同時公開。キラ星のような珠玉のインタビューたちをどうぞ。
壁だらけの時代を乗り越えてきたから、
9人でめざす遥か先のテッペンが、ハッキリ見えている。
10000字ロングインタビュー『僕がJr.だったころ』
SixTONES・Snow Man編
第10回 佐久間大介〔Snow Man〕
※このインタビューは、MYOJO2021年4月号に掲載されたものです。
引っ込み思案だった少年が、ダンスに出会ってジャニーズへ。
やがて職人集団と呼ばれたが、それは支えどころか、呪いの壁のように重かった。
俺が変わらなきゃ…。
大切なメンバーを笑顔にするために、もっと高く飛ぶために、
デビューするために、ポジティブに生きると決めたんだ。
9人の笑顔の先にこそ、俺たちがめざすテッペンがあるから。
今年は絶対に紅白に出たいです
──長いインタビューになるけど、よろしくお願いします。
「よろしくお願いします! おしゃべり大好きなんで、いっぱいしゃべれてチョーうれしいです!!」
──じゃあ、まずはデビュー2年目の今年、かなえたいことってある?
「ありすぎますね。絶対かなえたいことのひとつが紅白に出ること。去年は出られなかったからさ。復帰した(宮舘)涼太から謝罪的なこともあったけど、メンバー全員から“謝らなくていい。誰も責めてないし、責任を感じる必要もないよ”って伝えた。どれだけ予防してたか知ってるし、それでも感染する可能性は誰にでもあって、それがたまたま涼太だっただけ。俺だったかもしれなかったわけだからね」
──そうだね。
「ただ正直、涼太は責任感が強くて思い詰めることもあったから、療養中はできるだけマメに連絡を取った。それにさ、残念じゃないって言ったらウソになっちゃうけど、逆にポンポンポンっていけないのがSnow Manっぽいんだよ。ネガティブなことが起こっても考え方次第。今年、活躍して紅白に出る。で、初出場アーティストの記者会見にもう一度出られたら最高だよね。だってもし出してもらえたら、人生であの会見に2度出るグループって史上初、俺たちだけになるんだから。そしたら涼太のおかげ。見方さえ変えれば、どんなことだってポジティブなんだよ。だから絶対、今年は紅白に出たいです!」
──そのポジティブな性格って小さいころから?
「小さいころは真逆だった(笑)。人の目を見て話せないし、引っ込み思案で。なんかネガティブで本当に些細なこと、例えばその日の靴下の履き心地だったり、ちょっとしたことが気になって気分が沈んじゃうコだったんです。親に“何がイヤなの?”って聞かれても、うまく答えられなくて。言っても伝わらない、わかってもらえないだろうって、気持ちを表現することもあきらめ、ずっと黙ってるようなコでした。友だちはいたけど、どこか人と関わるのも得意じゃなかったですね。オドオドしちゃうというか」
──小さいころの夢ってなんだった?
「何にもなかったんです。たぶん家業を継ぐことになるんだろうなってどっかで思ってた。だからホント、夢が何もなくて。勉強も嫌い、スポーツも嫌い。テレビゲームとかは好きだったけど、自分でやるんじゃなくて従兄弟がやっているのをとなりで見ているのが好きで。自主性とか自発的ってものが欠片もない幼少期だった」
──性格が変わったきっかけみたいなことってある?
「ダンスを始めたのが大きい。僕は3兄弟の真ん中なんですけど、うちのお母ちゃんが、兄弟のうち誰かひとりくらいはダンスを習ってほしいなって思ってたらしくて。弟はまだ小さかったんで、小2の僕と兄ちゃんが一緒にダンスを習い始めたんです。でも兄ちゃんはソッコーで“向いてない”って辞めて。俺はなぜか“楽しい”って気持ちが生まれて続けたんです。母ちゃん“3兄弟でいちばんやらないと思ってたあなたがやりたいって言い出したのは意外だった”って言ってたな」
──ダンスにハマったんだ。
「そうだね。スクールの先生、すごい厳しい人だったんですけどね。でも、“この人のダンス、カッコいい”って思ったし、“この人に認めてもらいたい”って思ったのも初めてで。俺、ダンスを始めた直後から曲に合わせて、表情でも表現しようとしてたらしくて。そういう部分を先生はほめてくれた。ダンスだけが自分を唯一表現できる気がした。やっぱり、好きなことだからがんばれたというか」
──当時からアニメも好きだったの?
「好きでした! 覚えてるなあ。小5のときかな、『ジャンプフェスタ』ってイベントに誘ってもらって、人生初コスプレしたんです。母ちゃんのお手製の『NARUTO』の我愛羅のコスプレして。赤いヘアスプレーを買ってもらって、髪も赤くしましたね」
──佐久間くんのお母さんって、タレントだったってウワサがあるよね?
「ある! 実際、高校時代だけ芸能活動してたらしいです。別に隠してたわけじゃないけど、2世タレントみたいに思われても、全然そういうんじゃないからと思って言わないでいたんですけどね。そもそもジャニーズのオーディションを受けたのも、母ちゃんがダンスの先生の奥さんに“受けてみたら?”って言われたから履歴書を送ってみたまでで。まさか俺が芸能界に入るとは思ってなかったからね」
──そうだったんだ。
「で、書類審査を通って電話がかかってきて。最初、ばあちゃんが出たんだけど、“なんかジャニーですって言ってるけど、迷惑電話か振込詐欺じゃ!?”って疑ってた(笑)」
──ハハハハ。オーディションを受けること、本人的にはどう思った?
「イヤでしたね。ジャニーズの知識もほとんどなかったし。でもダンスができるならいっかくらいの軽い感じ。で、踊ってたら、ジャニーさんに“YOUはダンスが好きなの?”って聞かれて。そのあと、“特技ある?”って聞かれ、幼稚園のころから体操クラブにも通ってたんで、アクロバットのロンダードをやったんです」
“俺の教科書”宮田くんとの出会い
──Jr.の活動はどうだった?
「初めての仕事が『青春アミーゴ』のPVでした。オーディションで僕も選ばれて、(渡辺)翔太、山ちゃん(山田涼介)、(中島)裕翔くん、二階堂(高嗣)くんたちがいたな。ただ同期はひとりもいなかったから、誰とも話せなくて、ずっとモジモジしてた。Jr.になってからも人と関わるのが苦手で」
──それでも続けられたのは?
「最初は大きな目標や夢があったわけじゃなくて、踊れるコはいろんな先輩のバックにつけてもらえたんで、それが楽しくて。もしダンスが好きじゃなかったら早い段階で辞めてたかもしれない。その後、大倉(忠義)くんと(渋谷)すばるくんが、ふたりでやったライブにも出させてもらった。ふたりがすごくカッコよくて、関ジャニ∞さんの音楽にハマり、ジャニーズのこともドンドン好きになっていった」
──入所したてのころ、“チーム中2”って呼ばれたりしてたよね?
「懐かしい! 涼太や翔太を含む中2の同級生6人くらいで、いつも一緒にいたからね」
──ほかにも仲がいいJr.っていた?
「俺が入った次の年かな。幼馴染だった(京本)大我がJr.に入ってきたんだよね。俺、小さいころ、大我の家で鬼ごっこしたりしてよく遊んで。東京ドームのKAT-TUNのコンサートで、俺は外周にいたんです。そしたら“京本大我です”ってステージで紹介されてるコがいて。だけど、遊んでたころは名前で呼んでたから名字が思い出せない(笑)。“大我って俺の知ってる大我!?”ってなった。コンサート後、偶然、楽屋近くの廊下でそのコがひとりで歩いてたから、俺はちがったらどうしようってビクビクしながら背後から“え、大我!?”って声かけて。振り向いた大我が。“あ、大ちゃん!”ってなって久しぶりの再会だった」
──その後、2009年にMis Snow Manが結成された。
「Kis-My-Ft2とA.B.C-Zの合同コンサートのときに、“今日からYOUたちMis Snow Manだから”ってジャニーさんに突然言われ、けっこう流動的なメンバーだったのに、“グループ名はそれぞれのイニシャルをとったから”って。深澤(辰哉)はちょうどケガでいなくて、戻ってきたときにFがないから“どうする? 困るよね”って話したの覚えてるな」
──このころもまだ人づき合いが苦手だったの?
「ですね。あ、でも唯一、思いきって自分から話しかけた人がいて。それが宮田(俊哉)くん。2010年の舞台『少年たち』でMis Snow Manは看守役で出てたんです。まだ出番じゃないのはチェック済みだったんで、袖にいる“俺の教科書”宮田くんを見つけ、ドキドキしながら。“じつは僕もアニメ好きで”“え、マジで!?”って。この出会いは大きかったです。僕がめざしているのは、誰もが好きなことを胸を張って“好きだ!”って言える世界なんですね。アニメ好きを公言できるのは宮田くんの存在が大きい。その後、Kis-My-Ft2がデビューしたりして、自分もデビューを意識し始めて。メンバーとも、“デビューを目標にしよう”って話したりしたな」
──ただメンバーの離脱や、阿部(亮平)くんが大学受験のために一時活動休止するなどでグループは空中分解してしまう。
「そこらへんいちばんヤバかったっすね。どうしたらいいんだろうって、なんかちょっとグレたかな。阿部ちゃんの受験も、“え!? なんで?”って思ったけど、正直デビューできるかどうかわからないってのが当時の本音で。Jr.っていくつも壁がやってくるんです。高校に入学するときが第1の壁かな。大学進学を見越してJr.の活動より学業を優先してジャニーズから離れていくコも多い。高校卒業するときが第2の壁。大学に進学するか、Jr.の活動に集中するか。僕自身、将来に関してフワフワしてた部分があったしね。最初は消去法だったというか。自分に何ができる? サラリーマン、ダメだろうな。あの職業は? ダメだろうな。ダンサー!? いいかもしれない。でも、ダンサーだったらジャニーズがいいなって。ただ、デビューできないかもしれないから一応大学に入っておこうって。デビューを心のどこかで信じきれなかったから保険をかけたというか。あのころ、不安だったな。だから阿部ちゃんの活動休止も何か言える立場じゃないなって」
──親は進路については?
「両親には、“好きにしていいよ”って言われてた。続けたいときまで続けたらいいって。母ちゃんには“デビューできたら、もちろんうれしい。でも、デビューできてもできなくても、あなたが大切な息子であることは変わらないから”って」
「ま、いっか。しょうがねえな」
──その後、阿部くんが復帰し、2012年の『滝沢歌舞伎』の舞台上で、6人のSnow Manが生まれる。
「そのころ、滝沢(秀明)くんに言われたんですよね。“佐久間は岩本(照)や深澤の後ろにパッと隠れたりすることが多い。俺は佐久間にはこのグループのサブリーダーくらいの位置にいてほしい”って。期待されてるんだってわかってうれしかった。…ただ、そのポジションをめざしても何かしっくりこない。小さいころに感じた言葉にできない違和感みたいなものがあって。俺の中で、これは俺じゃないなって悩んだなあ」
──グループもなかなかブレイクできずに苦しい時期が続いたよね。
「デビューしたい。でも雑誌にも呼ばれない。マイクも持てない。バックでひたすら踊り続ける毎日。何を支えにやっていけばいいのかわからなかった。そのうちSnow Manは“職人集団”って呼ばれるようになって」
──バックで踊るダンスやアクロバット、期待するクオリティーを確実に上回る信頼から生まれた言葉だよね。
「同時に呪いの言葉のようでもあったかな。バックでは活躍できてもメインじゃないって言われてるようで。俺たちは何もメインでやらせてもらえないんだなって。もうバックで踊らないほうがいいんじゃないかって、ふて腐れそうにもなったけど、そのたびにふっか(深澤)が、“ここで俺らが踊らなくなったら、それこそ本当に何もなくなっちゃう。だから踊りだけはちゃんとやろう”って。ただ前に進めなくても年令だけは重ねていく。大学卒業を迎え、それこそ第3の壁がそびえ立ってた。このままJr.を続けてもいいのかって」
──その壁、どう乗り越えたの?
「“ま、いっか。しょうがねえな”って(笑)。だって、俺はこれをやりてえんだもん。気づけば、いくつもの道から消去法で選んだはずの道が、“この道じゃなきゃイヤだ”って一本道になってた」
──その変化は何が大きい?
「メンバーだと思います。俺は人見知りだし、人づき合いがヘタなままで。自分から距離を縮めることも苦手。メンバーと壁を感じたことも何度もあったんです。ネガティブだったから“あいつ、俺のこと嫌いかな”って不安になったり、人の顔色うかがうことばっかしてきた。このグループにいるのがイヤだなって思ったことも何度もあったしね」
──今はメンバーのこと大好きでしょうがないよね?
「はい。気づいたんですよね。結成後、Snow Manは先輩のコンサートのMCでなかなか話せなくて全員静かだった。でも、それじゃグループを知ってもらえないし何も始まらない。俺、思わず一歩前に出て口火を切ってた。メンバーも先輩にはツッコめなくても、俺にはツッコめるから」
──切り込み隊長と呼ばれるようになった所以だね。
「そう。こんな自主性皆無な俺が、何でそれができたか。考えたら、大切な人を守るとか、メンバーのためだったら動けるんですよ。ダンスと同じ。好きなもののためなら、俺はどこまでもがんばれる。だからネガティブなままじゃダメだ。グループのためにも、自分のためにも変わろうって思ったんですよね。ジャニーズでやっていく、このメンバー、このグループでやっていくって決めた。なのに、自分からはメンバーとの距離を詰めない。誰かの顔色や、誰かの評価ばっか気にしてちゃダメだ。もっとポジティブになろうって」
──でも、変わるって難しいよね。
「そうだね。俺も嫌われることが怖くて、“自分は昔から人づき合いが苦手だから”を言い訳にしてメンバーとコミュニケーションをとらなかったし、変わらなかった。だからまずは嫌われる勇気を持とうって思った。嫌われてもいい、失敗してもいい、グループのためになるなら、思ったことは何でも口に出そうって」
──それが2015年、溝があった宮舘くんとの雪解けにつながったりする?
「そうです、そうです。涼太とはずっと一歩距離があって深い仲になれなくて。でも、そんときは滝沢くんが後押ししてくれた。よく滝沢くんと仕事の話とかしてて。“もっとこうしたほうがいいと思うんです”とかって。そしたら言われたんですよね。“宮舘も同じこと言ってるぞ。いつまでも意地張ってないで、マジで一度話したほうがいい”って。実際、思いきってふたりきりで話したら、すごい考えてることが似てて意気投合した。互いに背中合わせだっただけなんです。相手が見えないから、すごい遠い存在のように思えた。でも振り向いたら本当はずっとすぐそばにいた」
──じゃあ、多くのメンバーが「佐久間は2018年くらいから、よりおもしろくなった」って話してたけど、そのときは何があった?
「『ジャニーズJr.チャンネル』が始まったりして、かなり自由にやることができた。でも、もっと自由に、もっと楽しくできるんじゃないかなって思ったんだよね。俺の変化は、いつももっと楽しくしたいから始まってる。で、ようやく自分のグループでの役目がわかったというか。俺がやるべきことは、メンバーを笑わせることだって思い始めたのがそのころ。だって笑ってるメンバーを見たら、それを見たファンの人も笑っちゃうでしょ。そしたらみんながハッピー。カメラが回ってるとか関係ない。俺は、俺ができることをいつでも、なんでもやって、メンバーを笑顔にしようって思ったんだよね」
9人なら、もっと高く飛べる
──2019年、向井康二、目黒蓮、ラウール、3人の加入についてはどう思った?
「ここまで作り上げたものを一度壊す怖さは正直ありました。ファン、メンバー、みんなが心地いい空間ができあがってたから。でも、だからこそ変化を求めてました。6人でいると楽しいし最高かよって思った。同時にここがマックスになるかもしれない怖さみたいなものもあったから。常に進化したいし成長したい。そのためにどうしたらいいか答えが見つけられないタイミングでのメンバー増員の打診だった。もちろんすっげー悩んだけど、これでSnow Manはパワーアップできるって予感もあったんですよね」
──予感が確信に変わったのは?
「初めて9人でやった横アリのライブ。俺、今まで経験した全ライブの中でいちばん気持ちよかったんですよ。3人の加入に関して、会場に足を運んでくれたみんながいろいろなことを思ってた。もちろん6人時代がなかったことにはしないし、いつでもドアは開いてる。誰もおいてかないぞって気持ちももちろんある。それでも俺たちは“最初っから9人だぞ”ってくらいの気持ちでステージに立った。時間とともに、ファンの気持ちが少しずつ変化していくのを感じて、歓声で体がビリビリ震えて最高すぎて泣きそうで。最後に岩本がリハーサルでやってなかったのに、いきなり手をかざして。すぐに残りのメンバーが手を重ねていった。あの瞬間、確信できたな。この9人なら、もっと高くまで飛べるって」
──その後、ジャニーさんの病室でデビューを告げられたときは?
「突然のことで驚いたけど、ジャニーさんが滝沢くんと話してデビューを決めてくれた。ジャニーさんが選んでくれたことが何よりもうれしかったですね。ただ8月8日のデビュー発表は、SnowManとSixTONESで、今回はデビューがかなわなかった仲間もいる。喜びを噛みしめる感情表現がいいかもねって話したんですよね」
──デビューできること、宮田くんにはいつ報告したの?
「事前に言ってはダメだったんですけど、『ジャニーズJr.8・8祭り』のライブが始まる15分前にメールで報告しました。ライブ後、宮田くんが焼き肉に連れてってくれてふたりきりでお祝いして。“イヤーよかった。ずっと心配だったからさあ。本当によかったよ。キスマイ、みんな同じ気持ちだよ”って言ってくれた。ただ、このとき初めて怒られたんですよね」
──何について?
「ライブで喜びすぎないようにしていたって話をしたら、“なんで喜ばないの? デビューだよ。一生に一度の。すげー喜んでいいに決まってんじゃん!”って。宮田くん、Hey! Say! JUMPがデビューしたとき、キスマイとA.B.C.が会場にいて同じような状況で。JUMPが先輩をすごい気づかってライブをやってるのが納得いかなくて“もっと喜べよ!”ってJUMPに言ったんですって。“おまえたちが心から喜んでくれたら、俺たちももっと心から喜べるんだろ!”って。その通りだったなって後悔してる。だから、Jr.の後輩全員に言っておこうと思います。どんな状況、どんなタイミングでも、デビューがかなったら100%で喜んでねって」
──2020年1月に『D.D.』をリリース。デビューを実感した瞬間は?
「むずいんだよね。CDが店頭に並んで見に行ったときかと思ったけど、いまだにふとしたとき、例えば夜道を歩いてて“あ、俺、デビューしてんだ”って急に思ったりするから。今も夢心地というか。なんかデビューの実感というより、自分の内面の変化をすごい感じるかな。感謝をよりちゃんと伝えたり返したいって気持ちが、デビュー前より強くなったんだよね」
──ファンに感謝を伝えるという意味でも、デビューライブとなる『Snow Man ASIA TOUR 2D.2D.』を2020年のうちにできて本当によかったね。
「はい。生配信だったんで、直接感謝を伝えられなかったことだけは残念だったけど、デビューイヤーのうちに応援してくれた人、いつも支えてくれる人たちに感謝を伝えられたのは本当によかったです」
──オーラスのMCで佐久間くんが言った「僕たちを見つけてくれて、愛してくれて、生きててくれてありがとう!」。いい言葉だったよ。
「俺、感情人間なんで感情でしかしゃべれないんです。何を言うか決めるより、ライブ中に浮かんだ言葉を伝えようって思ったら、あのときは“ありがとう”ってフレーズが浮かんで。そしたら、どんどん感謝の言葉があふれてきて、あの言葉になったんですよね」
──そうだったんだ。
「あと、これは言おうか迷うんですけど、ラストの『D.D.』が始まる前にスタッフさんがイヤモニに“がんばれ、ジャニーさんも見てるよ”って言ってくれたんです。きっと、いてくれそうな気はしてたんですけど、“そうだよな。見ててくれるよな”って改めて思って。そしたら涙がこみ上げてきたんですけど、ジャニーさんステージで泣くと怒るから我慢して。涙がこぼれないようずっと上を向いて歌ったな」
自由にボケられるのは、確信があるから
──今、メンバーに伝えたいことを教えて。まずは向井くん。
「尊敬する部分が多い。俺は人を笑いで助けられるようになりたいっていつも思ってる。例えば誰かが失敗したりして傷つきそうなとき、笑いに変えて、その人を救える人が最強だと思うから。それができるのが康二。すごいなっていつも思ってるよ。ただ、笑いやトークの能力が高いから、バラエティー担当みたいなくくりで見られると困る。カメラも演技もうまい。康二の活動、これからどう広がるか楽しみだね」
──目黒くん。
「加入前から、けっこう熱いやりとりをしてるから、めめが疑問に思ってるだろうなってときとか一瞬で気づけるよ。ただなんといってもドラマ『教場Ⅱ』だよね。めっちゃよかったよ。撮影がハードなことは知ってた。でも撮影期間中はどんなに大変でも“楽しみにしてて”しか言わなかったよね。放送直前にメールしてたら“命をかけて挑んだ仕事”って言ったでしょ。見終わったとき、“あ、確かにその言葉が出るよな”って思ったよ。めめと同じグループなことが誇らしくなった」
──ラウールくん。
「常に燃えていて熱いものを感じるよね。その熱量って何より大事だよ。ラウの年令って、俺たちも同じように燃えてたから、その熱さが懐かしくもある。自分の中にブレない正義があって、理不尽や矛盾に正面からぶつかって。ただ自分の中で答えが固まりすぎるときがあって柔軟性に欠けることがある。少しずついろんなことを吸収していけば、ラウはきっとダンディーな大人になる。誤解しないでね。俺たち年上のメンバーが冷めちゃったってことじゃない。熱さの種類が変わっただけ。同じ熱量で今も燃えてるから」
──深澤くん。
「ふっかと本当にわかり合えたのは、じつは一緒に出演した舞台『キャッシュ・オン・デリバリー』のときかな。ずっと仲はよかったけど、初めてふたりだけで腹割って話して。俺はふっかのこういうとこがいいと思ってる。でも、ここはもったいないと思ってるって。仕事のスタンス、ポリシー、深いとこまで理解し合えて、今は何を考えてるかめっちゃわかるよ。だから全体重を預けられる。俺が自由にボケられるのは、絶対にふっかがツッコんでくれる確信があるから。ふっかはメンバーにうれしいことがあったら、本人以上に喜ぶよね。反対にふっかにうれしいことが起こったら、メンバーで俺がいちばん泣ける自信があるよ」
──渡辺くん。
「オーディション、俺の前で先生役で踊ってたの翔太だったね。グループ結成したばっかのころ、翔太は優しいから、あまり本心を口に出さなかった。SixTONESと舞台『少年たち』をやって、あそこで翔太は変わった気がする。グループが成長するためなら耳が痛いことも言ってくれるようになった。俯瞰で物事を見られる翔太の言葉だからこそ、グループにとってホントにありがたいよ」
──阿部くん。
「俺の朝の大声がキツくて、イヤホンのノイズキャンセル機能で聞こえないようにしてるって発覚したから、今度からイヤホンをぶっ壊すくらいもっと大声で話すね(笑)。温泉、ハワイ、阿部ちゃんとはふたりで旅行したり思い出がいっぱいある。2011年の嵐さんのバックについた国立競技場のコンサート覚えてる? 『Believe』のとき、俺と阿部ちゃんがセンターにいちばん近いとこにいて、向き合って大声でラップした。あの日、いつか自分たちの力で国立のステージに立とうって約束したよね。必ずかなえよう」
──岩本くん。
「Snow Manのダンスは、プロのダンサーにもすごいと思ってもらえるものにしたいって意見が一致してて、よく照とはパフォーマンスの話をする。“もっとこうしたい”“もっとこうしたら”って照の向上心にいつも驚かされる。常に努力して以前とは比べものにならないくらい頼もしくなったよね。ただ昔のまんまというか、ここ気づいてほしいってとき、さりげなくアピールするカワイイとことかは変わんないね」
──最後に宮舘くん。
「涼太に今言いたいのは、“今年は誰よりも楽しんでね”ってことだけかな。涼太はSnow Manの大黒柱のような存在で、ほかのメンバーなら尻込みしてしまいそうなことでも、何も言わず引き受けて背負ってきたよね。それを本人が好きでやっていることも知ってる。そんな涼太だからこそ“楽しい!”って感じられる瞬間をもっともっと過ごしてほしい。そうなったらグループとしても最高だって思う」
まず日本のテッペンを取りたい
──これから個人としてかなえたい夢ってある?
「アニメ関連、動物関連の仕事をたくさんすること。このふたつはライフワークにしたいです」
──主役の吹き替えを担当した映画『白蛇:縁起』の公開、楽しみだね。
「デカイ仕事をいただき震えましたね。不安だったんですけど、キャストさんやスタッフさん、特に監督さんに助けてもらいました。“今の君にしか出せない声がある。今の君にしかできない演技があるんだよ”って監督の言葉、これからずっと大切にしようと思います」
──じゃあ、Snow Manの夢は?
「やっぱり絶対に国立に立ちたいです。もちろん東京ドームにも。でも、何より国民的アイドルになりたい。そのために、まず日本のテッペンを取る。そして世界に打って出たい。夢は止まんないっすよね!」
──テッペン、取れるかな?
「取りますよ。Snow Manは雑誌に出られない、歌も歌わせてもらえない。Jr.時代からずっと壁だらけで、それを全部乗り越えてきた。いちばんデッカかったのがデビューという壁で、“たっけーよなー”って思っていた壁を登ったら、さらに高い壁がまだまだあった。きっとテッペンは遥かその先にある。ただ、どうやったらテッペンに立てるかイメージならできてる。僕の中でアイドルの理想形みたいなものがハッキリ見えてるんで」
──それはどんな姿?
「応援したくなっちゃう人。この人たちを応援したいなって心から思ってもらえるアイドルが最強だと思うんです。“Snow Manいいよね、応援したいよね”。そう思ってもらえるよう9人が常に全力を尽くせば、国民的アイドルになれるはず。何かを応援したいって気持ちが生み出すパワーって超絶すごいんで。でも、人の心を動かすって100%じゃ足りない。120%でもようやく少し動かせるかどうか。だから俺は絶対にどんな場面も手を抜きたくない。常に全力。ずっと9人で笑い合えて、それを見ている人たちも思わず笑顔になってしまう。そのためなら、俺はなんだってする。ひとりじゃない。9人なら絶対テッペンまでいけるって信じてるから」
取材・文/水野光博
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