めぐろ・れん
1997年2月16日生まれ。東京都出身。B型。身長184cm。
2010年10月30日、ジャニーズ事務所入所。
2020年1月22日、Snow ManとしてCDデビュー。
SixTONES・Snow Man編 第9回 目黒 蓮〔Snow Man〕「“目黒はいらない”と言われたあのころの自分へ。上を向け。“目黒ならいける”って言われる日が来るから。」
今年、創刊70周年を迎えるアイドル誌「MYOJO」。それを記念して本誌での好評企画である、10000字ロングインタビュー『僕がJr.だったころ』のテキストをMYOJO公式ホームページにて、8月22日~9月21日まで期間限定公開する。Kis-My-Ft2、A.B.C-Z、Hey! Say! JUMP、中山優馬、ジャニーズWEST、SixTONES 、Snow Man、King & Prince(MYOJO本誌での掲載順)のインタビューを特別に集英社オンラインでも同時公開。キラ星のような珠玉のインタビューたちをどうぞ。
「目黒はいらない」と言われたあのころの自分へ。
上を向け。「目黒ならいける」って言われる日が来るから。
10000字ロングインタビュー『僕がJr.だったころ』
SixTONES・Snow Man編
第9回 目黒 蓮〔Snow Man〕
※このインタビューは、MYOJO2021年3月号に掲載されたものです。
マイクもない、グループもない、「いらない」とまで言われた不遇の時代を経て、
2019年、Snow Manのメンバーに大抜擢。
辞めたいと思っていたあのころの自分に教えてあげたい。
あの日どれだけ願ってもかなわなかった夢の中に、今、俺は生きてるって。
2021年、本当の実力が問われる
──このインタビューが掲載されるMYOJOの発売日はデビュー記念日だね。
「ありがとうございます。いよいよ真価が問われる1年が始まるというか。2020年はデビューという話題があったので、いろんな番組やイベントに呼んでいただけた部分があったと思うんです。2021年は本当の実力が問われる。もっともっと人気を取りに行く貪欲さを持たないといけない。同時にひとつひとつの仕事に感謝しながら、あの日どれだけ願ってもできなかった仕事を、今やらせていただいていることを胸に刻みながら日々を過ごしたいです」
──大人気のSnow Manだけど、もっともっとという気持ちが強い?
「たまに“Snow Man売れてるね!”って言っていただける機会があるんですけど、自分の中でそれがすごく気まずくて。売れてるってSMAPさんや嵐さん、もっともっと上の次元の人たちのことで。だから売れてるって言われると、申しわけないなって気持ちになります。気をつかわせちゃってるなって」
──じゃあ、デビューまでの日々を振り返っていこう。小さいころ、どんなコだった?
「あんま家の中にいなかったですね。外で体を動かすタイプ。両親にはよく、“やられたらやり返せ!”って言われて育てられました」
──宮舘(涼太)くんも、同じことを両親から言われて育ったって。
「そうなんですか! なんかうれしいですね。あとは弟がいることもあって、“弟や弱い人は守ってやれ”ってのが両親の教えでした」
──小さいころの夢はなんだった?
「サッカーでプロになりたかったです。小学生のときに遊び感覚で始めたんですけど、少しずつのめり込んで。中学からは学校の部活ではなくセレクションを受けてクラブチームにも入ったんで」
──お父さんの指導が厳しかったんでしょ?
「はい。お父さんは、もともと野球をやってたんでサッカーの知識はなかったんですけど、めちゃめちゃ勉強して、あっという間に僕よりくわしくなって。“おまえがやるって決めたなら、アドバイスするから俺もくわしくないと”って。ただ、アドバイスってレベルじゃないんですよ。試合中とか地獄で。怒鳴りまくるんで、僕は試合よりお父さんの機嫌が気になって。ダメだった試合の日は、家に帰るのが本当にイヤでした。家に着いても玄関を開けられず、10分くらいかけて覚悟を決めて、ようやく家に入ってもめちゃめちゃ怒られるという」
──ジャニーズに履歴書を送ったのは中学2年のときだったよね。
「はい。親戚の集まりがあって、子どもは僕と弟以外みんな女のコだったんです。従姉妹の部屋にNEWSやKAT-TUNのポスターがめっちゃ貼られてて。ずっとジャニーズの映像が流れてたんですけど、『滝沢演舞城』の殺陣のシーンがカッコよくて印象に残って。で、“受けてみなよ!”みたいなノリになり、まず兄の僕から履歴書を送ることになって。受かると思ってないし、完全に勢いで履歴書を送りました」
──でも、書類審査を無事パスした。
「ファックスが送られてきて、オーディション会場が六本木で。当時は地元からほとんど出たことないんで、“六本木ってどこ?”みたいな感じでした。オーディション当日、両親が共働きだったこともあって、ジャニーズなんて全然知らないおばあちゃんが僕を会場まで電車で連れて行ってくれたんです。スタジオの前まで送ってくれて“いってらっしゃい”って」
──佐藤勝利、神宮寺勇太などなど、錚々たるメンツが入所することになるオーディションだったよね。
「圧倒されましたね。ただ直前にお父さんからメールが来て、少しだけ冷静になれて。“受かんなくてもいいし、受かってもいい。どっちでもいい。親は、つねにおまえの味方だから。思う存分やってこい”って内容でした」
──そのメールのおかげで落ち着けたんだ。
「はい。お父さんは、家庭があまり裕福じゃなかったみたいで、野球をやってたときのユニホームや用具は、お下がりが多かったらしくて。そういうのもあって、息子には好きなことを思う存分やってほしい。親として万全なサポートをしてあげたいって思ってたんだと思います。僕ら兄弟によく言ってました。“おまえたちの可能性をつぶしたくない”って」
──オーディションはどうだった?
「ダンスもやったことなかったですし、目の前で踊っている振りつけ師さんのマネをして踊るんですけど、小さいコが多かったから、背が高い僕は最後列で踊って。見えないコがいたら悪いなって。ダンスのレベルも、誰かを押しのけてでもって強さもない。受かったのは運がよかったんだと思います」
──それでも晴れてJr.になった。
「ただ僕は頻繁に呼ばれたわけじゃなくて、それこそ何カ月に1回声がかかるかどうか。レッスンの日程を知らせるファックスが届くたびに、“あ、また行けるんだ!”みたいな感じでした。もう同期との差はどんどん開いていくし、いつも何をするにもすっごい後ろ。悔しいから、集合1時間前にスタジオに着くようにして、鏡の前でずっとひとりで練習したんです。それまでやってたサッカーって、いっぱい練習したら努力の分だけ上達するし、結果が出る。同じことが起こるって信じてたんだと思います。でも、1時間前からがんばっても、5分前に来た人に抜かれちゃうのがこの世界。レッスンが終わって帰るとき、六本木駅の改札を入って階段を降りたとこに自動販売機があったんです。そこでミルクティーを買って、車内で“このミルクティーを飲むのもこれが最後かな”って、いつも思ってました」
「目黒どうですか?」「いいや。いらない」
──最初は落ちこぼれといってもいいポジションだったんだね。
「ですね。『SUMMARY』のジャニーズマンション、1階のセンターのJr.は強いんです、最強です。僕は最上階の端。最弱です。踊りながら“ステージってどんな感触なんだろう”ってすごい気になってましたね」
──入所翌年、同期の勝利くんはSexy Zoneでデビューを飾ってる。
「同期なんですけど、次元がちがいすぎて、悔しさを感じられる距離感じゃない。“もしかしたら俺が”とか思えるような状況じゃなかったんで。ただただ、すげーなっていう。今になれば、僕みたいなパターンの悔しさだけじゃなく、Jr.になってすぐマイクを渡されて歌う苦しみがあるのもわかる。どっちがツラいとかないって」
──その後も、なかなかチャンスは訪れない。
「初めて訪れたチャンスが、2012年の『SUMMARY』のA.B.C-Z公演。バックの一員に選ばれて、カウボーイの投げ縄ってわかります? ああいう感じで先が円になっている縄を回す役を僕と同期の原(嘉孝)がもらった。Jr.になって個人として初めてもらった役目だったんではりきって。ただ、難易度が高くて普通は2年くらいかけて習得する技術らしいんです。本番まで3週間しかない。俺と原は、“この縄、持って帰らせてください”ってスタッフさんにお願いして、俺の家で合宿して。夜な夜な、俺んちの前の道路で、ひたすらふたりで縄を振ったんです。で、どうにか形になったと思ったら、直前のリハーサルでその部分がカットになって。“ああー”って全身の力が抜けた。もう死ぬほどツラくて。今ならおもしろエピソードだなって思いますけどね(笑)」
──当時は笑えないよね。
「はい。俺と原は、言われたことをとにかく一生懸命やって。舞台の袖で軍手をして演出のお手伝いをしたり、何でもやった。そしたら、そのスキルが買われて、“紅白歌合戦でも助手をやってくれ”って頼まれて、Sexy Zoneの演出のお手伝いをしたんです。華やかなステージの袖でロープを握って待機して、逆の袖には原がいて。ふたりでタイミングを合わせていろいろやって。うまくいって“よっしゃー!!”って喜び合ったけど、当然テレビには一瞬も映らない」
──辞めたいと思ったことは?
「何度もありますよ。『少クラ』にも全然出られなくて。たまに出られたときもJr.のバックの列の一番後ろの端っこ。ダンスでアピールしたいけど、後ろのお客さんに当たっちゃうから大きく踊ることもできない。でも、本当に少しだけテレビに映った俺を見て、オーディションに連れてってくれたおばあちゃんが、“ダンス、うまくなったねえ”って喜んでくれて。それが支えでしたね。ただ、もう辞めようって本気で思ったことがあって」
──それはいつ?
「Kis-My-Ft2のMVにJr.が大勢出られることになって。特に選ばれた4人は、かなり大きく映るシーンがあった。MV用のダンスレッスン中、その4人を誰にするか振りつけ師さんたちが話し合ってて。“誰々どうですか?”“いいね。入れよっか”って、同期がポンポンって呼ばれて原もその中にいて。俺も入れたらいいなって思いながら踊ってたら。“目黒どうですか?”って声がたまたま聞こえて。そしたら聞こえちゃったんですよね。“目黒はいいや。いらない”って。プロの世界なんで当然といえば当然で。当時の僕は選ばれるに値しなかったってだけの話なんですけど、そのひと言で心が折れた。“目黒はいらない”って言葉がすごいショックで、もうズタボロで。家に帰ってそのまま両親にボロボロ泣きながら“辞める”って伝えて。そしたら即答で、“辞めな”って言われた。“そんなになるほどがんばったんだ。辞めればいいよ”って。少しは引き止められるかなって思ったのに1ミリもそんなことなくて、逆に冷静になったというか。悔しいまま終わったら、いつか今一緒に活動しているJr.がテレビに出るのを見たら、そのたびにこの悔しい気持ちを思い出すんだろうなって。なんか妙に冷静になって、自分で辞めたいって切り出したくせに、“もう少しだけやってみる”って」
──ギリギリで踏みとどまったんだ。
「でも、そんなカッコいい話じゃなくて、それからはレッスンに行くのも毎回憂鬱で。特に4人に選ばれなかったMV撮影の日なんか足が重くて。途中の駅で何度も降りそうになった。だから、あのころは電車の中で目を閉じてひたすらSMAPさんの『この瞬間、きっと夢じゃない』を何度も何度もリピートして、どうにか自分を奮い立たせてスタジオにたどり着くってことを繰り返してました」
──その先の未来で何が待っているか、当時の目黒くんに教えてあげたいね。
「“上を向け”って言ってやりたい。あの日、あんなに支えてもらった曲を歌っていた本人、木村(拓哉)さんとドラマで共演する日が来るぞ。顔を上げろ。木村さんに直接お礼を言える日が来るんだぞって。でも、あのころの俺に言ってもきっと信じてもらえないと思う(笑)」
目黒だけ宇宙Sixのバックみたい
──そのころの夢ってなんだった?
「正直、デビューはムリだろうなってずっと思ってました。ひたすら目の前のことをガムシャラにこなすだけ。そのころの自分のいけないところだなと思うんですけど、何を目指そう、どうなりたいって明確なものがない。言われたことをひたすらマジメにこなすだけ。マジメはいいことなんですけど、少しずつ個性が削がれていくというか。言われたことを忠実にやるだけで、それ以上のことができず無個性になってた」
──なるほど。
「このままじゃダメだってことに19才くらいで気づくんです。そんなタイミングでできたプライベートの友だちに“やりたいことがあるのに、なぜ声に出さないの? もったいないよ”って言われたんです。彼にとっては何気ないひと言が僕には衝撃で。自分なんかが大人に意見を言うなんてもってのほかだと思ってたから。でもね、1回きりの人生なんです。やりたいことはやらなきゃ。やるだけやってダメなら納得もできるから。それから考え方を変えたり、いろいろ決めたりしたんです」
──例えば、どんなこと?
「まず2年後、その時点で光が見えてなかったら辞めようってリミットを決めました。その代わり絶対に悔いを残さないよう、やりたいことはやりたいと口に出す。失礼かもしれないとか思わないで、まずは意思表示する。それでダメでも恥をかいてもいい。だって2年後には辞めるんだからって」
──なるほど。
「夢ノートも書き始めて。タイムリミットまでにかなえたいこと全部書き出そうって。絶対にムリなことでもいい。夢見るのは自由だから。その日まで、一度も口に出したことがなかった“デビューしたい”って震える字で書いたんです。モデルをしたいってことやムリそうなことも全部書いて。当時、8個の夢を書き出したんですけど、全部かなえられました」
──そのころ、宇宙Sixに加入してるよね。
「僕はそれまで、ちゃんとグループに入ったこともなかったんで、話をもらったときは驚きましたけど、“お願いします”って返事をさせていただきました。その後、宇宙Sixでクリエに出させてもらえることになったんですけど、初めてマイクを持てることになったそのステージを見たある先輩に、“目黒だけ宇宙Sixのバックみたいな見え方しちゃってる”って言われたんです。自分でも、うっすら気づいてたことだったし、言い当てられた感じがしてすげー悔しくて」
──それってちょうど、考え方を変えようとしてた時期なんだよね?
「そう。もう変わりたいとか思ってるだけじゃダメだ。本当に変わらなきゃって。じゃあ何を変えるか。ファンの人に一発で“目黒、変わったな”って思ってもらえるものはなんだろうって考えて、髪型をテクノカットに変えたんです。前髪をバンって上げるのも自分で決めて。それまで髪を上げるなんて似合わないだろうなって思ってた。長い髪で表情とか弱い自分を隠してたんだと思います。そんな自分を変えたいって、まずは髪型を変えて」
──アドバイスしてくれた先輩って誰?
「まだ言いたくないんです。自分がもっと結果を残せて一人前になったとき、“あのひと言をきっかけに変われました”って感謝の気持ちを伝えたいんで」
──2016年には『滝沢歌舞伎』で黒子役を演じてるよね。
「大抜擢でしたし、何より滝沢(秀明)さんの近くでいろんなことを学べた。千秋楽にあいさつに行ったとき、一生懸命やっていた舞台が今日で終わるって思ったら、滝沢くんの顔を見た瞬間に涙が出て止まんなくて。しばらく泣き続けたら、滝沢くんに、“もう泣くな。男が泣いていいのは親が死んだときだけだよ”って言われて。僕、次の年もどうしても『滝沢歌舞伎』に出たくて。でも、選んでもらえるかどうかはわからない。だから、もし声がかかったらすぐ行けるように新橋演舞場の近所に引っ越したんですよね」
──そして翌年、深夜に運命の電話がかかってくる。
「ボーッと“明日から『滝沢歌舞伎』が始まるんだ。今年は呼んでもらえなかったな”って考えてたら、夜11時に電話が鳴って。『滝沢歌舞伎』に出演するJr.のひとりがケガしちゃったから代役を探してる。おまえの名前が上がってて、滝沢くんが“目黒ならいける”って言ってくれてるけど、どう?って内容で。もう僕の中で、“やる”“やらない”の二択じゃないんです。“いけます!”の一択。“お願いします!”って即答しました」
──即答ってすごいよ。
「そのあと、役を覚えるために動画をケータイに送ってもらったんですけど、データが重すぎてなかなかダウンロードできなくて。ただでさえ時間がない中、2時間くらいかかって焦りましたね(笑)。その映像を見て夜通し、振りつけ、立ち位置、動線を覚えて。気づいたら朝でした。そのまま現場に向かって。Snow Manに加入してしばらくして、滝沢くんにお会いする機会があったんですけど。“代役のことがあったから、僕をSnow Manに入れてくれたんですか?”って聞いたら、少し笑いながら“そうかもしれないね”って。答えは今もわかりません。でも、チャンスっていつ巡ってくるかわからない。それがチャンスであることすら、その瞬間はわからないんだなって」
僕らは家族。9人でSnow Manだから
──Snow Manへの加入を打診されたときは、どんなことを思った?
「僕は今までずっとマイクを持てず、グループも持てず、“目黒はいらない”とまで言われてきた。自分を必要としてくれる場所があることが、どれだけすごいことなのかわかる。必要としてくれる場所があるのであれば、全力で応えたい。だから断るという選択肢はありませんでした。話をいただいたときも、兼任になってからも、“両方で結果を残すんだ”って、それだけです。どっちかじゃない、どっちも本気だって。ただ、宇宙Sixのメンバーに、“おまえのがんばりで宇宙の名前がもっと広がる”って言ってもらえて、その言葉には救われましたね」
──それでも、目黒くん、向井(康二)くん、ラウールくん3人の加入は大きな波紋を呼んだ。
「もちろん6人は優しく迎えてくれました。ただやっぱ3人への風当たり、特にラウールはセンターだから、もっとも風当たりが強くて。加入直後の『滝沢歌舞伎ZERO』のときなんか特に。本番中、あいつはいろいろ思い詰めて何回も泣いて。俺はそばで慰めたりしたけど、かけられる言葉なんかたかが知れてて。最後は“おまえはいるだけでいい。深く考えんな。もし何かあったら絶対に守るから!”って舞台の袖で泣きじゃくるラウールを抱き寄せて泣きやませて、ステージへ送り出して。そんなことが2、3回あったかな。劇中、俺とラウールは黒影組の一員で、ステージ上でそばにいることも多かったから、もしこのままラウールの嗚咽が止まらなくてセリフが全部飛んだとしても、俺は近くにいるからカバーしようって決めて。ただ、守るなんて言いながら、心のどこかで俺も怖かったんだろうね。舞台から客席の通路に降りて走っていくシーンがあって。お客さんは応援してくれる味方なのに、どこかに見えない敵が潜んでて、足を出して転ばせてくるんじゃないかって内心ビクビクしてたんですよね。プライベートでも泣いているラウールを泣きやませたこと何回もあったな。当時、ラウールは15才。どうしても守ってあげたくて」
──そんなことがあったんだね。
「すっごいうれしかったのが、舞台『少年たち』で手紙を読む場面があって、しょっぴー(渡辺翔太)が、“康二、目黒、ラウール。改めてSnow Manに入ってくれてありがとう。もう僕らは家族なんだから。9人でSnow Manだから”って言ってくれたことで。“9人でSnow Man”って言葉をステージで言ってくれたのが本当にうれしかった」
──6月末、ジャニーさんの病室でデビューを知らされたときは?
「ゾワゾワってして。最初は実感がわかないというか放心状態でした。病室を出て家に帰って、風呂に入ったら、いきなり涙が出てきて。Jr.人生がフラッシュバックしました。いろんなことがありましたからね」
──デビュー発表の日となった『ジャニーズJr. 8・8祭り』は、宇宙Sixとのお別れの日でもあったよね。
「当日、もちろんメンバーは5人での最後のステージになることを知っていて。それでも朝、“ISLAND TV撮ろうぜ!”って笑顔で俺に声をかけてくれた。“がんばれな! 俺がおまえでも、絶対同じ道を選んでる!”って。メンバーは思うことがいろいろあって当然。それでも“おめでとう!”って送り出してくれた。本当にいいグループにいさせてもらったんだなって改めて思いました。本当に宇宙Sixが俺にすべてと言っていいくらい、いろんなことを教えてくれた」
──宇宙Six最後のステージはどうだった?
「曲の最後に4人で俺のところに集まろうって、内緒で計画を立ててたらしくて。気づいたら、まわりにみんないたんで、“え!?”って俺は驚いて。メンバーの笑顔を見たら、思わず“最高!”って叫んでた。その後、グループはなくなってしまったけど、メンバーとは今もいい関係でいられてます。それは彼らのおかげでもあるんで感謝してますね」
ラウールをいちばん叱るのは俺なんです
──今、メンバーに伝えたいことは? まずは深澤(辰哉)くん。
「ふっかさんには、いつも本当に助けられてるなって実感してます。Snow Manというグループにいい感じにまとまりを与えてるのがふっかさん。雰囲気というか、包み込んで安心させてくれる空気感に助けられてます」
──佐久間(大介)くん。
「加入前から、本当よくしていただいて。僕がまだSnow Manに入る前の『滝沢歌舞伎』の楽屋で、“俺とおまえは風呂友だ!”っていつも一緒に入ってくれた。あるとき僕がお風呂に入ろうとしたら、佐久間くんがお風呂から上がってボディークリームを入念に全身に塗って保湿してて。僕が少し寂しそうな顔をしたら気づいて、“風呂友だろ!”って、もう1回湯船に浸かってくれた(笑)。もうずっとお世話になりっぱなし。僕、大学も佐久間くんがいなかったら入れてないと思います。面接が散々だったのに、佐久間くんが教授に、“うちの後輩よろしくお願いします”って頭を下げてくれて」
──渡辺くん。
「しょっぴーもSnow Manに入る前から、すごく仲よくさせてもらってて。夜中にしょっぴーの部屋で仕事の話とか、たくさんした。加入後、僕は言いたいことを言っちゃうタイプで周囲に迷惑かけることもあったんで、少し抑えるべきかなって悩んでたら、しょっぴーが“スタイル変えなくていいんじゃない。言いたいこと言うのは悪いことじゃない、いいことだよ”ってアドバイスしてくれた。すごい自分の芯がある人。すごいシビアな考え方も持ってるし、賢いなって思います」
──宮舘くん。
「舘さんにも加入前からメシとかよく連れて行ってもらってましたね。まさに頼りになる先輩というか。言葉よりも背中で教えてくれる人。同じグループになった今、もちろん仲はいいんですけど、先輩と後輩という壁を破ろうと、お互いがジリジリ関係を縮めている最中かな。そろそろ、もう一歩踏み込むぞって企んでます(笑)」
──岩本(照)くん。
「岩本くんは、やっぱり締まりますよね。存在感がある人。6人時代のSnow Manのセンターとして立ち続けた存在感がしっかりある。何より振りつけが天才だと思うんです。こんな天才がグループにいるって大きな武器です」
──阿部(亮平)くん。
「阿部ちゃん、すごいですね。Jr.時代から、しっかり自分の武器が何なのか見極めてた。それだけじゃなく、その武器を磨く時間をしっかり自分で確保してる。Jr.時代にそれができるってすごい。結果、今ダントツで武器が多い。阿部ちゃんは卒論のアドバイスをしてくれたりもして。だから僕は佐久間くんがいたから大学に入れて、阿部ちゃんがいたから卒業できた(笑)」
──向井くん。
「もうすごいです。最近さらに進化したなと思います。Snow Manってマジメな人が多いから、バラエティー番組に出たときとか、大ベテランのMCの方を前にすると失礼にならないかなって縮こまってしまう傾向がある。MCの方は、もっと来いって思ってるのに。マジメすぎて誰も鋭い切り返しやツッコミができないんですね。でも康二だけはひるまない。最近さらに度胸がついて自ら斬り込んで笑いを取ってくる。あれは康二にしかできない。いつも心の中で拍手してます。シンプルに男としてカッコいいです」
──最後にラウールくん。
「普段、ラウールとは好きな女のコのタイプの話をしたり、チューの練習をしたりしてる(笑)。ラウールについてはなんすかねえ、ガチな話をすると、たぶん、ファンの皆さんは年令的にもメンバーがラウールをかわいがるのはいいけど、ちゃんと教えることは教えてねって思ってると思うんです。そこに関して、SnowManって本当すごいなって思うんですけど、メンバーそれぞれのラウールに対する向き合い方が自然と決まってる。例えば、ふっかさんだったら底なしに優しく接するとか。全員が全員厳しかったら、ラウール的にはキツイからね。それぞれの絶妙な役割があって、じつはいちばん厳しく叱るのが俺なんです。ガチギレしたことも何回もあります。今、ひとつずつ教えてる最中。ラウールのいいところは、純粋で教えたら必ずちゃんと直すとこ。俺が注意したことで直さなかったこと、ひとつもないからね」
──厳しく注意しても仲がいいんだね。
「だからこそ仲いいんだと思います。上辺じゃない。ワチャワチャしてれば仲がいいってことじゃない。甘やかすだけじゃなく、本当に大切なことを厳しく指摘し合えるからこその仲のよさ、信頼関係だと思います。ただ、仲がよすぎて本物の弟がラウールにやきもち焼いて、“俺が真の弟だ!”って拗ねたことがありましたけどね(笑)」
僕じゃない。ファンの人がすごい
──落ちこぼれがデビューをつかむ。ドラマチックなJr.人生だったね。
「大げさじゃなく、入所から5年間くらいの僕を知っている人は、“こいつはデビューできないだろうな”ってまちがいなく思ってたと思うんです。本当にいろんな人に支えられて今があるんで。例えば、宇宙Sixのころから嵐さんのバックについてて、何かあるたびに櫻井(翔)さんや二宮(和也)さんが、僕のことを名前でイジってくれて周囲に印象づけてくれた。愛がこもったイジリ。先輩の偉大さ、心の広さ、カッコいいなって思いましたし、自分もいつか同じことを後輩にできるようになりたいって思います。あとはジェシーくんも大切な存在。高校生くらいのときに知り合って仲よくなって。出会ったころ、ジェシーくんはすでにJr.のトップを走ってた。当時の僕はただのおイモちゃん。でも、そのときから今もジェシーくんだけは、僕への接し方がまったく変わってない。すごく感謝してます」
──じゃあ今、ファンに伝えたいことはある?
「僕じゃない。すごいのはファンだよってこと。例えば『FINEBOYS』で表紙を飾らせてもらったときとか、ファンの人たちが“問い合わせが殺到して何秒でサーバーがダウンしたんだって”ってSNSなどで呟いてくれることで、わかりやすいコピーが生まれた。すごいのは僕じゃないよ、ファンの人たち。2020年はCDをリリースするたびに盛り上げてもらったり、改めてファンの人の力を感じた年だった。なのに会えないから、何を返してあげられるか、何を返せるのかもわからなくて。きっと見てくれているんだって信じて配信をやってきました。Snow Manを盛り上げてくれるファンがいることが心強いです。昔から応援してくれる人は、もう一度惚れ直してもらえるようキュンとさせたい。最近ファンになってくれた人は、よそ見ができなくなるようにキュンとさせたいですね」
──いよいよ、勝負の年が始まるね。
「はい。今年出会うどの仕事も、きっとJr.時代に絶対にやってみたいと夢見ていた仕事です。夢だった世界を今、僕は生きてる。とことん楽しもうと思います。もしも何かに悩んでいる人が、僕たちを見て、こんな楽しそうにしてる人たちがいるなら、私も変わってみたい、何か新しいことにチャレンジしてみたいって思ってもらえたら、アイドルとしてそんなに素敵なことってないなって思う。ファンの方に僕が伝えたいことのひとつが、“僕だって変われた。だから、人はいつだって変われるよ!”ってことなので」
取材・文/水野光博
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