やおとめ・ひかる
1990年12月2日生まれ。宮城県出身。O型。身長175cm。
2002年12月1日、ジャニーズ事務所入所。
2007年11月14日、Hey! Say! JUMPとしてCDデビュー。
Hey! Say! JUMP編 第8回 八乙女 光「“争うのがイヤだった”少年は、自ら憎まれ役を買って出るほどの強さを身につけた。」
今年、創刊70周年を迎えるアイドル誌「MYOJO」。それを記念して本誌での好評企画である、10000字ロングインタビュー『僕がJr.だったころ』のテキストをMYOJO公式ホームページにて、8月22日~9月21日まで期間限定公開する。Kis-My-Ft2、A.B.C-Z、Hey! Say! JUMP、中山優馬、ジャニーズWEST、SixTONES 、Snow Man、King & Prince(MYOJO本誌での掲載順)のインタビューを特別に集英社オンラインでも同時公開。キラ星のような珠玉のインタビューたちをどうぞ。
やっとたどり着いたデビューのステージ。
「争うのがイヤだった」少年は、
自ら憎まれ役を買って出るほどの強さを身につけた。
大好きなJUMPがもっと輝くために。
10000字ロングインタビュー『僕がJr.だったころ』
Hey! Say! JUMP編
第8回 八乙女 光
※このインタビューは、MYOJO2014年7月号に掲載されたものに、加筆・訂正したものです。
2007年、彗星のごとくデビューし、
華々しいスタートを切ったHey! Say! JUMP。
育った環境も、Jr.としてのキャリアもバラバラなメンバーたちにとって、
グループとして、心をひとつにするまで、さまざまな葛藤とドラマがあった。
JUMP編の第8章は、 八乙女光がグループを見つめた日々を語る。
チョーカッコいい! 俺もグループになりたい!
──八乙女光。キレイな名前だよね。
「ありがとうございます。あ、でも親は最初、武蔵って名前をつけようとしたらしいんですよ。宮本武蔵から取って。お姉ちゃんが、“それは絶対にない!”って大反対したらしくて(笑)。で、男兄弟はみんな漢字1文字なんで、“光”になって」
──4人きょうだいなんだよね?
「はい。俺は末っ子なんですけど、上とはだいぶ年が離れてて。甘えん坊だったって言われるんですよね。自分的には、物心ついたころには、お兄ちゃんが“ひとり暮らししたい”とか話してたりしたから、子どもながらに大人の世界を垣間見てた感じで」
──小学生のころ、どんなコだった?
「みんなの前だとふざけてたかな。給食の時間に、“見て!”って、猛スピードでごはんもおかずもかき込んで、“うまい!”とか言って笑わせたり」
──ハハハハ。目立ちたがりだった?
「うーん、そういうわけでもなくて。ベースは、こぢんまりとしたのが好きで、ふたりきりで遊ぶとか」
──宮城県に住んでたころから、ダンスを習ってたんだよね?
「小3からですね。最初はお母さんに入れられたのかな。でも、ノリノリで習ってました」
──ダンス、好きだったんだ。
「できなかったことができるようになるのが楽しかったというか。結果が、すぐにわかるというか。たった4カウントの振りつけでも、できるようになったらうれしくて。“次は8カウントだ”って。よく親に自分が踊ってるのをビデオで撮ってもらって。ナルシストだったのかな(笑)。“イエーイ!”みたいな感じでしたね。その中の1本を、オーディションのときに送ったんです」
──芸能界に興味があったんだ?
「最初はなくて。ニューヨークでダンス体験をしつつ観光もできるみたいな懸賞が当たったんですよ。それに行ったら楽しくて。で、帰りの空港でイン・シンクってアメリカのグループのミュージックビデオを買ったんです。家で見たら、“チョーカッコいい! 俺もグループになりたい!”って」
──ボーカルのジャスティン・ティンバーレイクに憧れた?
「いや、センターで歌ってる人じゃなくて端で踊ってる人がよくて。なんか、昔からそうっすねえ。戦隊モノでも真ん中の赤にはなりたくないっていう。緑とか黄色が好きで。赤をサポートする役割のほうが好き。ずっとそうなんですよね」
──そうなんだ。
「で、その流れでKinKi Kidsが『Mステ』で『情熱』を歌ってるのを見たんです。(堂本)光一くんの後ろで踊ってた、亀梨(和也)くんが目に入って。“カッコいい! このポジションになりたい!”って。親に“ジャニーズって宮城の人でもなれるのかな?”って聞いて、小6のときに自分で応募して。そしたら、すぐ社長から電話が来たんです」
──急展開だね。
「“オーディションも受けてもらうけど、そのあとにJr.の番組があるから、そこで歌ってもらう”って。一気に話がポポポンと進んで」
期待を下回ってる。俺、期待はずれだ
──Ya-Ya-yahの新メンバーオーディションに参加したんだよね?
「はい。手越(祐也)や玉森(裕太)たちが同期ですね」
──オーディション、緊張した?
「右も左もわかんないんで、わかんなさすぎて、そんなに緊張はしなくて。でも、オーディションのあとの歌の収録は緊張しましたね。ポジションが前って知らされて、“え!? こんな前で歌うの”って。俺はバックダンサーをやりたくて応募したのに。今思えばほかのJr.に、すごく失礼ですけどね」
──当時、シンデレラボーイな感じで、いきなり注目を浴びたよね。
「亀梨くんに、“1週間もたたずにマイク持てるなんて、すごいんだぞ。がんばれよ”って言われましたね。先輩とかに会うと“あ、ウワサの八乙女くんだ”って、よく言われたりもして。なんか、ハリーポッターみたいな感じでした」
──亀梨くんに、オーディションを受けようと思った理由、伝えた?
「ソッコー伝えたんですよ。“亀梨くんが踊ってた『情熱』を見てジャニーズに入りたいと思ったんです”って。そしたら、“バックでがんばってるのも、意味あるんだな”って言ってもらえたのおぼえてます」
──ただ、いきなりいいポジションに立って天狗にはならなかった?
「なんか、チヤホヤから始まったから、そこで、“調子に乗っちゃいけない”ってのがベースにできたんですよ。このままじゃマズイって。歌もダンスも、これくらいできるんでしょってまわりは思ってるのに、それを下回ってるのがわかったし。俺、期待はずれだって」
東京のヤツってチョーやなヤツじゃん
──薮(宏太)くん、「第一印象は、よくなかった」って言ってたよ。
「俺もです(笑)。オーディションの日、『少クラ』(『ザ少年倶楽部』)のリハをするってなって、薮が歌ってるのを、後ろで見てたんです。薮、歌い終わって、遠いとこから、こっちをジローって見るんですね。薮的には、“新しいコ、来たんだな”ってだけなんでしょうけど、なんかにらんでるように見えて。“東京のヤツって態度悪いな、チョーやなヤツじゃん”みたいな(笑)」
──ハハハハハハ。
「そのあと、俺は『勇気100%』の練習をしたんですけど、緊張しちゃって全然歌えなくて。で、“いっしょに歌ってあげて”って薮が呼ばれて。俺とは一瞬も目を合わさないで、こんなのできて当たり前だろ、みたいな感じで歌うんですよ。“やっぱコイツ、やなヤツ!”って思った(笑)。でも、身長も同じくらいだったから、いっしょにやることが多くなってって。レッスンも、リハーサルも、休憩時間もずっといっしょで」
──印象が変わったのは?
「『Ya-Ya-yah』の歌収録を本格的に毎週やるようになって。俺はまだ宮城に住んでたから、土日しか来れなくてリハに出られない。だから、本番当日に薮に教えてもらうしかなくて。一生懸命、教えてくれるんですよ。だんだん、“あ、悪い人じゃない”って」
──最初は、週末のたびに上京してたんだよね?
「そうですね」
──伊野尾(慧)くんが、いつもでっかいリュックで、中にダンベルが入っててビックリしたって(笑)。
「入れてた(笑)。常に筋トレみたいな。俺、土日しか来れないから、みんなから遅れてるなって意識がチョーあったんですよ。だから、なんでもいいから、なんかしなくちゃって。効果があるかわかんないけど、とりあえず休む暇を作らないって決めて、リュックにダンベル入れてた」
──トレーニングだったんだ。
「まわりは、平日もレッスンを受けてたんで、俺が知らないことをどんどん知ってくみたいなのがイヤで、めっちゃ。同期が、すごく前で歌ってるのを、宮城にいてテレビで見たりすると、“えっ”って思ったりもしたし」
──その状況、キツイね。
「社長から、“YOU、今どこ?”って電話がかかってくることが、何度もあったんですよ。“家です”って答えると、“家って宮城? じゃあ、ムリかー”って。1回泣いたな。同期が『Mステ』に出てて。かっけーって思っちゃったんです。構成も曲順も。“俺もこういうのやりたいのに”って。お母さんが何気なく、“悔しいんじゃない?”って言ったんですね。そしたら、ボロッて涙がこぼれちゃって」
──そんなこともあったんだ。
「“ここにいたら前に進めない。全然前に進めない”って。1年間、我慢して、中1の終わりにこっち(東京)に出て来て。親は急には引っ越せないんで、最初は埼玉に住んでたお姉ちゃんのとこに居候させてもらったんです。平日もレッスンに通えるようになって、“よっしゃ! これで、みんなと同じことできる”みたいな」
“ただいま!”って大ちゃん家に行ってました
──その後、2004年には『3年B組金八先生』に出たよね。
「決まったとき、もう、うれしくてうれしくて、大ちゃん(有岡大貴)は、“くっそー、俺も出たかった!”って悔しがってんのに、浮かれて、何度も何度も、“俺は出るよ!”って自慢しまくってましたね」
──初めてのドラマはどうだった?
「声の出し方から何から、ホント基礎から教えられて。でも、自分じゃできてるかどうかも、まだわかんなくて。家に帰りたくなかったな」
──なんで帰りたくなかったの?
「現場でいろいろ指導を受けて家に帰ると、今度はオンエアを見た親がいろいろ言ってくるんです。現場でも家でも言われると、どこでスイッチをオフにすればいいんだよみたいな。それがイヤで、撮影終わりに大ちゃん家に毎日のように遊びに行って。もう、“ただいま!”って(笑)。俺、大ちゃんに、あんだけ“金八だ!”って自慢しまくったのに、大ちゃん、大変なんだなって気づかってくれて。ドラマのことには触れないで“今日は何して遊ぶ?”って。心広いよ。JUMPの中でいちばん広いかもしれない」
──そのころ、デビューについてはどう思ってた?
「早い段階でしたいなとは思ってたかな。うん。思ってた。争うのがイヤだったんですよね。Jr.時代って、みんな仲はいいですけど、やっぱどっかバチバチしてるんですよ。目立つとやっかまれ…みたいな。だから、デビューしたいって思ったのも、デビューしたら、個々の争いじゃなくて、グループでいっしょにがんばる感じになるんじゃないかなって。それがキラキラしてる感じがして、デビューしたいなって」
──なるほど。
「俺、Ya-Ya-yahでも、なんていうか、誰も刺激しないようにしてたっていうか。先に上達しちゃったらまわりはピリッとするし、でも、できなかったら足を引っ張っちゃう。みんなと歩幅を合わせる感じにしてて」
──じゃあ、Kitty GYMに選ばれたのは、どう思った?
「ぶっちゃけ、イヤだった。Ya-Ya-yahが大事だったから。“なんだあいつ”とか“山Pと近づいちゃって”とか思われるんじゃないかなって。推されてる感じがするのもイヤで。争いの原因になる気がして。でも、“結果を残すんだよ”って周囲には言われたし、選んでもらったんだから、しっかりやらなきゃとも思って」
──争うことが本当に嫌いだったんだね。
「たぶん、小さいころ、俺のまわりでよくケンカがあったんですよ。それを見てたから。争いってヤだなって、すっごいあったっていうか」
──そうだったんだ。やっぱり、デビューするならYa-Ya-yahでっていう想いはあった?
「そうですね。ただ、手越がひとりでNEWSに入ったのを見てたから、Jr.のグループが、そのままデビューすることってないのかもしれないのかなって思ってもいたかな。Ya-Ya-yahとほかのグループと合体するのかなとか、そんなイメージがあって」
バレーの中継見たよ。がんばれよ!
──2007年、Hey! Say! 7が結成されたときは、どう思った?
「焦った。宮城で『Mステ』を見た衝撃がフラッシュバックして。“俺、置いてかれた”って。大ちゃんとかに、よくダンスを教えてたんですよ。本番でも袖で見てて、“あそこはできてたよ。でも、あそこは”とか。教える側の人間が先に行くのかなって漠然と思ってたから、“うわ!”って。でも、誰にも“俺に何が足りなかったんですか?”なんて聞けないし」
──直後にHey! Say! JUMPが結成され、メンバーに選ばれたよね。
「Jr.の友だちと遊んでるとき、社長から電話が来て、“明日、バレーボールのポスター撮りがあるから”って。俺、ピンとこなくて。友だちに、“明日バレーボールの何かあるみたい”って言ったら、“それ、デビューじゃねえの! 俺、呼ばれてないよ”みたいなヘンな空気になって。“まさかー”みたいに俺は思ってたんです」
──いつ、デビューだって気づいた?
「どうだろう。ポスター撮りのときもKitty GYMの経験があったから、期間限定だなって思ってましたね。集められたメンバーを見て正直、“バランス悪い”って思ったし(笑)。年令も身長もバラバラだったから」
──そんなこと思ったんだ。
「だって(岡本)圭人はキャリアがないし、特別しゃべれるコもいないし。“どうすんのこれ?”っていろいろ疑問で。社長からは、“しっかりね”ってことしか言われなかったけど、“この面子、できないことたくさんあるんですけど、どうするんですか?”って思ってました」
──期間限定じゃないと思ったのは?
「2枚目のシングルを出すって決まったときかな。このグループで続けてくんだって。みんなも、そうだったんじゃないかな。だから、最初のころは、正直まだグループって感じじゃなくて。ダメ出し合いとかもなかったし、個人がカッコよく見えたらいいみたいな空気もあったし」
──デビューはうれしかったよね?
「もちろん。でも、やっぱりYa-Ya-yahに対する気まずさもあって。ただ、JUMPのことで考えなきゃいけない、やらなきゃいけないことがいっぱいで頭はパンパンで。うん。でも、デビューしてから、Jr.の友だちが、カラオケで『Ultra Music Power』を歌ってくれて、“バレーの中継見たよ。がんばれよ!”って笑顔で言ってくれて。それでやっと、決心できましたね」
別々のルートから同じ山を登ってる
──JUMPになってポジションが変わったことは、どう思ったの?
「薮や俺はJr.でセンターで歌うことに慣れちゃってたけど、“立ち位置が端になったりするけど、グループのためになるから”って言われて。そこはきちっとスイッチを切り替えて。うん」
──さっき、「このメンバーではできないことがたくさんあるって思った」って言ってたよね。
「そうっすね。ダンスも歌もトークも、できないこと、いろいろありましたね」
──岡本くんを、よく怒ったりもしたんだよね。
「やっぱりダンスに関してはね。絶対的に経験がないのはわかる。がんばってるのもわかる。だけど、俺たちは、できるのは当たり前。そこからカッコよく見せるってとこまで磨かなくちゃいけない。踊れる、その先。そこからが、本当のがんばるってことなんだよってことを伝えたくて」
──圭人くん、見捨てないでいてくれたこと感謝してたよ。
「デビューするって、いろんなJr.の想いも背負ってる。踊れてなかったら、“なんであいつらがデビューしたんだよ”って絶対に言われる。きちんとしたとこを見せて“こいつらがデビューしたのはわかる”って思ってほしい。そういう気持ちで、よく怒りましたね。特に俺と薮は、よく怒ったかな」
──ふたりが怒り役だったんだ。
「そうだね、やっぱ“なんかヘンだな”って思ったとき、パッて薮の顔を見ると、同じような顔してたりするんですよ。いっしょのこと思ってんだなって。そもそも、俺らふたりが呼び出されて怒られてばっかだったんですけどね。“おまえら!”って。“MCのとき、なんで薮がコメント拾わなかった。なんで光は話を広げなかった!”とか」
──ふたりでグチり合ったりもした?
「グチ言える人って、ある意味、自信があるんだと思うんですよ。正当に評価されてないと思うからグチを言うわけでしょ? 俺らは、自分たちはできてないって自覚があったから。でも、まわりはもっとできてない。俺らが引っ張ってくしかないよねって」
──なるほど。
「ただ、ほかのメンバーとはキャリアがちがう。“できてる”ってラインがやっぱちがって。“俺ら、できてるよね!”みたいな感じで、楽しそうにやってるメンバーを見ると、複雑でした。楽しく仕事をするのはいいこと。そこを否定したくない。でも、言わなきゃいけないことは言わなきゃいけない」
──そんなとき、どうしたの?
「全員にダメ出ししていくと、空気が悪くなるでしょ? だから、ひとりを思いっきり叱って、“あ、俺も言われないようにしないと”って雰囲気にして。これは、みんなに言ってんだぞって遠回しに伝えてった感じかな。圭人とか、伊野尾ちゃんとかを怒りつつ、ほかのメンバーにも言ってんだぞって」
──気を配ってたんだ。
「今さらだろうけど、圭人には感謝だよね。怒られ役になってもらった一面ってあるから。なのに、あいついつも言い訳もなんもせず“わかった。ごめん”って。だから、まわりも素直に、“俺もやんないと”ってなったから」
──そのころ、プライベートでは岡本くんとよく遊んでたって聞いたよ。
「そうそう、最初のころ特にいっしょにいた。コミュニケーション取りたいってのもあったし。圭人が“僕、ビリヤードできる”って言うから、“よっしゃー、接点あった!”って。何回も何回もビリヤード行って。同じくらいの強さだったから、勝ったり負けたりで楽しかったな。あのころ、ダンスや歌じゃ、圭人は絶対、俺に勝てなかった。今なら勝てるものもいっぱいあるけど。だから、ビリヤードでがんばったら俺に勝てたって達成感とか、快感とかが、うまく仕事につながったらいいなって」
──『ごくせん』のときは、髙木(雄也)くんが、グループから浮いてたりもしたんでしょ?
「あー、ありましたね。なんかもう、燃えていい素材がいっぱいあるのに、燃えつきた気分でいるんだろうなって」
──疲れてる髙木くんに、黙ってビタミン剤をあげたりしたんだよね。
「俺も宮城で『Mステ』見て、やりきれない気持ちになったことあるし、Kitty GYMのときには、“俺じゃなくてちがう人でよかったんじゃ”って思ったこともあったし。雄也は『ごくせん』に出られるうれしい気持ちもあるだろうし、その何倍もためらう気持ちがあるのもわかったから。なんか、昔の自分を見てるような気がして。これで終わりじゃない。ここを飛び越えたら、何かが待ってるよって伝えたくて」
──燃えつきてる感じなことに対しては怒らなかったの?
「元気があるのにやる気がないなら怒ってた。でも雄也は芯から疲れて悩んじゃってたから。そこで怒っても、ボロボロって崩れるだけだなって」
──同じころ薮くんは、髙木くんしか知り合いがいないのに、『ごくせん』のメンバーに混ざってボウリングしたりしてたらしいね。ちがう支え方をしてたんだ。
「薮と俺は全然タイプがちがう。だからファンの人に、“やぶひか”って言われると、“何が?”って感じが最初はしてて。俺ら全然ちがうしって。タイプがちがうから、薮とうまくやってけるってのもあると思うし」
──最初はおたがい、印象が悪かったしね(笑)。
「だよね(笑)。でも、タイプはちがうけど、ずっとこのグループをどうにかしないとって、おたがい考えてきた。なんて言うか、最終目標が同じ。同じ山を別々のルートから登ってるけど、目指してるとこはいっしょなんだって気がする。そんな俺らの関係を感じ取って、ファンの人は“やぶひか”って呼んでくれてるのかなって。うん。ファンのほうが、俺らのことよく見えてるってことだと思うな」
──ふたりの存在があって、JUMPの絆は強くなっていったんだね。
「俺なんかより大ちゃんの存在がすごくでかくて。みんな友だちとしては仲よかったけど、グループとしてがんばっていこうって感じは薄くて。『ごくせん』の年かな。髙木の誕生日に、大ちゃんが、BESTのメンバーをひとりひとり誘ったんだよね。“髙木、誕生日なんだけど、メシ食い行こうよ”って。食べに行ったら“ん!? BEST、全員いる”みたいな。その会が楽しくて。だから、そうだね。そこから、もっと協力し合おうぜみたいになって。リハでも、“もっとこうしようよ”“あれできるんじゃない?”とか、言い合うようになって。つられてセブンも、その流れに飲み込まれたっていうか、グループとしてひとつになれた」
俺自身が、いちばんのファンなのかもしれない
──最近だと、『陰陽屋へようこそ』に知念(侑李)くんが出るとき、事前に錦戸(亮)くんに「よろしくね」って頼んだりしてるよね?
「うん。俺が『金八』やったとき、演技に集中できたのって、現場の雰囲気がよかったからなんですよね。知念が人見知りなの知ってるから、現場でいちばん緊張するのは錦戸くんといるときだろうなと思って、“知念、よろしくね”って」
──知念くん、人見知りなんだ。
「みんな、知念のこと、天才で何でもできるって言うけど、やっぱり苦手なこともあるだろうし。空中ブランコのときとかも、“余裕だよ”って態度を取ってるけど、直前に鉄棒で肩を温めたり努力してんの知ってるからね。天才だけど、努力だってしてる」
──じゃあ、八乙女くんから見て、山田(涼介)くんって、どう映ってた?
「山田はねえ、Jr.のとき、立ち位置的にはまだ全然後ろだったころから、完全にまちがいなく前に出てくるなって。チョー一生懸命踊ってたし。薮と“いいよね”って言ってて。でもなんか、山田には教えられたことも多いかな」
──教えられた?
「最初、キラキラしてる感じがよかったんですけど、やっぱりカッコつけるときって、みんなあるんです。ウインクし出したり、黒い服しか着ないとか。そういう感じに一時期、山田がなったとき、“ちょっとちがうんじゃないかな”って思ったりもしたけど、ファンのコは、そういうのも好きなんだってわかって。勉強になったっていうか、それぞれできることってちがうんだって、教えてもらった気がする」
──すごくメンバーのこと見てるし、考えてるよね。
「メンバーのことばっか見ちゃう(笑)。見すぎちゃうから、いまだに怒ったりもするけど、“光くん、あのときの振りつけ微妙だったよ”みたいなことあとから言われて、“あ、ごめんなさい”ってなるのが、だいたいのパターン。やっぱ赤じゃなくて緑なんだよね。どっか、ちょっとダサイ感じが(笑)」
──ハハハハハ。そのあふれるメンバー愛って、どっからきてるの?
「いや、フツーにメンバーと仕事すんのが楽しいんですよ。楽しいから、“ずっとここにいたい!”って気分だから、みんなもそうだといいなっていうか。俺自身が、JUMPのいちばんのファンなのかもしれない(笑)」
──素敵なことだね。
「そうかなあ!? 最初に俺の名前の話したじゃないですか。親に聞いたことがあるんです。“なんで光なの?”って。そしたら、“まわりを照らすための灯りになってほしいから”って。いい名前だなって。自分が輝くためじゃない、まわりを照らすための光なんだって」
──なるほど。八乙女くんが、「この世界で生きていく」って決めたのって、どのタイミングなの?
「どこかな。中1でお姉ちゃんとこに居候したでしょ。ねーちゃん、結婚して子どもが生まれたばっかりのタイミングだったんですよ。ただでさえ大変なのに、もうひとり子どもが来たっていう。夜中パッて目覚めたとき、夫婦の日常を見ちゃったことがあって」
──どんな日常?
「ねーちゃんが、赤ちゃんの世話をして、旦那さんも家事を手伝ってた。それ見た瞬間、“絶対、恩返ししなきゃ”って。あの日、俺がここにいてよかったって、絶対思ってもらえるようにならなきゃって」
──そんなことがあったから、昔から考え方が大人だったんだろうね。
「どっかで、ねーちゃんが、ごはん作ってくれたり、仕事のとき駅まで送り迎えしてくれることとかも、大人なんだから当たり前でしょくらいに思ってたんでしょうね。でも、ひとつひとつ考えたら、当たり前じゃないよなって。身を削って俺を支えてくれたんだって。今だって周囲を見たら、俺は、多くの人に支えられてる。メンバーにも、スタッフにも、何よりファンの方たちに。だから、ちゃんと恩返ししたいなって」
あの日夢見た、キラキラした世界へ
──八乙女くんにも、JUMPにも、いろんなことがあったんだね。
「ここじゃ語りきれないくらい、俺らはいろいろありましたからね。やっぱ、キスマイがデビューしたときとか、みんなあせったし。踊ってもカッコいいし、おもしろいし、ローラーもできる。人数も、それほど変わらないでしょ。なんか、俺らが持ってたものに、さらにプラスなものを持ってデビューしたなって気がして。フレッシュさとか、大人数であることとか、俺たちだけの武器がいろいろあると思ってたら、じつは何もなかったことに気づかされたっていうか」
──それで、あせったんだ。
「うん。だから、ひとつだけでいい、誰にも負けない武器を持とうって、みんなで考えて。すっごいシンプルな答えが出て。“ダンスをそろえよう”って」
──なるほど。
「ひとつの武器をチョー磨こうみたいな。ダンスをそろえるっていうテーマだけを、ここ2年くらい、みっちりやってきたかな。最近、いろんな人からダンスのことを言われるようになって。やっとひとつ武器を手に入れたかなって。もちろん、ダンスをそろえると、個人個人が埋もれるのかなって不安もあって。でもね、俺らは以前、バラバラに個人を磨くって時期もあったから。今思えば、それってどうなのって思うけど。でも、そんな時期があったから、今ダンスをそろえても、ひとりひとりがきちんと見えるし、埋もれない。ありきたりの言葉になっちゃうけど、人生にムダなんてないんだなって」
──今、グループの目標ってある?
「そこは本当に、SMAPじゃないけど、ひとりひとりがどんな舞台でもちゃんとして、集まったときに“すごいグループだ”って思われたいってのは、結成したときからの目標で。今も変わらないかな」
──個人的な目標もある?
「俺はねえ、いつかJUMPをプロデュースしたいなって思ってて。自分はステージにいてもいいし、いなくてもいい。ステージを構成したり、メンバーがやりたいことをブラッシュアップしたり、そういう役回りに立ちたいかな。JUMPのこと、誰よりもわかると思ってるから」
──JUMPを輝かせる光になりたいんだ。
「うん。JUMPは今もすごい成長してるし、伸びてる、伸ばしてるって感じる。それは、たしかな感覚で。俺はグループを組むことに憧れて、今、本当にグループ組めてる。それも、Jr.のときに思い描いた、みんなで夢に向かって走ってるようなグループに。JUMPなら、もっともっとキラキラできるって思えるんですよね」
取材・文/水野光博
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