Myojo

10000字ロングインタビュー

長い道のりの途中で、たくさんの涙に胸を痛めた。
「絶対に笑顔にさせるから」と心に誓っても、
何度もくじけそうになった。
そんなとき、いつも誰かが支えてくれて、
仲間を支える今がある。

10000字ロングインタビュー

『僕がJr.だったころ』

ジャニーズWEST編

第7回

中間淳太

なかま・じゅんた
1987年10月21日生まれ。兵庫県出身。O型。身長175cm。
2003年2月10日、ジャニーズ事務所入所。
2014年4月23日、ジャニーズWESTとしてCDデビュー。

※このインタビューは、MYOJO2015年4月号に掲載されたものに、加筆・訂正したものです。

2014年大晦日の『ジャニーズ・カウントダウン』。
1年前、衝撃が走った東京ドームに、ジャニーズWESTが立っていた。
あの日、デビュー発表を行った、
桐山照史、重岡大毅、小瀧望、中間淳太の4人と、
舞台に立つことを許されなかった
濵田崇裕、神山智洋、藤井流星の3人。
バラバラになりかけた危機を乗り越え、今7人でいられる理由とは? 
ジャニーズWEST編・最終章。中間淳太がすべてを語る!

俺らがデビューして、笑顔にさせるから

──2013年大晦日のカウントダウン。ステージでどんなこと考えてた?
「ここにいない3人のこと。ステージに立ってるんだから、笑わなきゃいけないのに、笑えなくて」
──たしかに笑えてなかったね。
「そして、ファンのこと思ってました」
──ファンのこと?
「また泣かせちゃったなって。それも、ドでかい泣かし方したなって。ホンマはうれし泣きしてもらうための舞台で、真逆の涙を流させちゃった……」
──そんなこと考えてたんだ。
「関西Jr.のファンって、どんなグループのファンより、たくさん泣いてると思うんです。基本、仕事は夏と冬のコンサートだけ。夏にファンになったJr.が、冬もいるもんやと思って来たら、ステージにそのコがいないなんてしょっちゅうで。“あれ!?”って戸惑って、涙をこらえてるファンの顔、僕らは何度も何度も見てきてる。それは、どんなことよりもつらいことで。“ごめん、アイツ辞めたんだ。でも、次の夢に向かって歩き出してるよ”って伝えたい。でも、言えない。誰か辞めても、それを発表する場すらない。関西Jr.を去った人、それを知って涙したコ、いろんな人の、いろんな想いを背負って、“俺らがいつかデビューして、その涙の何倍も笑顔にさせるから”って思いながらやってきたはずなのに……。笑ってもらうためのデビュー発表が、なんで、こんな悲しいステージになっちゃったんだって」

なんでも話しますよ。包み隠せないタイプなんで

──じゃあ、小さいころの話から順にしていこう。
「なんでも話しますよ。包み隠せないタイプなんで(笑)」
──父方の祖母が台湾の人で、中間くんは、クォーターなんだよね?
「それねえ、2、3年前に知って衝撃やったんですけど、父方の祖父も台湾人だったってことがわかって。つまり父は台湾人で、僕はハーフなんです」
──そうなの!? じつはセレブでもなかったとか言い出さないよね?
「そこは大丈夫です。母方のおじいちゃんが会社経営してます(笑)」
──弟がいるんでしょ?
「3つ下の弟がいますね。全然、覚えてないんですけど、弟ができたことがうれしかったらしくて、母親の荷物を急に持ってあげるようになったり、ベビーカーを押したりしたらしいです」
──やさしいコだったんだ。
「どうですかねえ。でも基本、今と変わんないんですよね。汚れるのがイヤで、外で遊ぶのが好きじゃなかったし、当時から虫も嫌いだったし。なんも変わってないんです」
──運動神経が悪いのも?
「ですね(笑)。でも、運動神経悪いんだって気づいたの、ジャニーズ入ってからですからね。野球大会で、バットを振ったらドームが揺れるくらい笑いが起こって(笑)。“え!? 普通に振っただけやけど?”って。まあ、イヤでも気づきますよ。俺は運動できへんコなんやって」
──小学校は中華学校に通ったんだよね。
「そうです。父親は僕を国際派にしたかったんだと思います。幼稚園から英語も習ってましたし」
──中国語って話せたの?
「まったく。自己紹介だけどうにか覚えて面接を受けて。その学校に小3までいたんで、しゃべれるようになって。算数の授業も中国語だったんで、僕、九九を日本語でできないんです。中国語で覚えたんで」
──小4で台湾に引っ越したんだよね。海外生活、大変じゃなかった?
「向こうの日本人学校に通ったんですけど、楽しかったです。楽しすぎて勉強しなくなって、めっちゃ成績悪くなって。小6のときとか、テストの平均、5点くらいでしたから(笑)」
──そうなの!? そのころって、将来の夢ってなんだった?
「特には。このまま成長して、おじいちゃんの会社に入ってって感じかなって。芸能界にも興味なくて、ジャニーズも知らなかったし」

おまえ、ビジネス淳太くんやないか

──でも、台湾Jr.のオーディションを受けたんだよね?
「小6やったと思うんですけど、KinKi Kidsさんの台湾でのコンサートが決まって。たまたま母親が買った雑誌に、“台湾Jr.募集”って記事があったらしいんです。僕、成績も悪いし、特技もない、ホンマ取柄のないアホのコで。両親が、“なんかやらせな!”ってなったんでしょうね。友だちといっしょに受けることになって」
──オーディションはどうだった?
「かなりの人数が応募してたんです。僕と友だちだけが日本人だったんで、珍しかったのか、ジャニーさんに“YOUたち日本人なんだ”って声をかけてもらって。それと“日本に帰ったら連絡して”って」
──そして、コンサートに出たんだ。
「1曲だけ出番があって。それが初ステージだったんですけど、すっごいおもしろかったんです。それから、日本にいる親戚に、ジャニーズのビデオを送ってもらったりするようになって。ビデオを見て、ひとりでダンス練習して。『Secret Agent Man』とか完コピしました」
──高校に入学するタイミングで帰国したんだよね?
「はい」
──受験、大変だったんじゃない?
「平均5点でしたからね(笑)。中3の担任に行きたい高校を言ったら“おまえじゃムリ。レベルを落とせ”って言われて。それがめっちゃムカついて、そっから猛勉強したんです。で、受験のために帰国したとき、ジャニーさんに電話して、関西の高校を受けるって伝えたら、“じゃあ関西Jr.だね”って言われて。雑誌にも出してもらったんです。手越(祐也)くんたちといっしょに撮影して。どうにか志望校に受かって。ちょうど雑誌の発売が合格発表と同じくらいやったんで、受かるはずないって言った担任に“受かりました。あ、あと、これに僕、載ってます”って雑誌を渡して。ヤなヤツでしょ(笑)」
──じゃあ、高校入学と同時に、関西Jr.での活動も始まったんだ。
「最初、なじめなかったんですけどね。ジャニーさんから“みんなと仲よくね。タメ語でいいから”って言われて。誰にも敬語を使わずしゃべってたら嫌われて。ブンちゃん(浜中文一)に、めっちゃ怒られましたもん。“先輩やぞ、なんやねんおまえ!”って。俺アホやから、“同い年やんけ!”って言い返して(笑)」
──ハハハハハハ。
「関西ノリも合わなくて。台湾のクラスメイト、東京出身のコばっかりやったから慣れてないんで。普通にしゃべってんのに、“ボケへんのかい!”とかってのがイヤやったんですよ。どうにか少しずつ、仲いいJr.のコができて。濵ちゃん(濵田崇裕)は帰る方向が同じで、よくいっしょにいましたね」
──B.A.D.が結成されたのが、2004年の12月。桐山(照史)くんは、ザ関西ノリな人だよね?
「正直、いちばん苦手なタイプでした(笑)。そのころ照史、すっごいガツガツしてたし。しかも、ふだんほとんどしゃべりかけてこんくせに、ステージ上だけ“淳太くん、淳太くん”って。“おまえ、ビジネス淳太くんやないか!”って」
──仲よくなったのは、どのくらい?
「ホントのこと言っていいですか? 徐々に仲よくなりましたけど、ホンマにおたがい腹を割って話して、“こういうとこが嫌いやねん”って言い合ったのは、『ごくせん』のときですね」
──おそっ! じゃあ、ほかのメンバーは最初、どう見えたの?
「神ちゃん(神山智洋)は、俺の1年後くらいに入ってきて。生意気でしたよ。入ってすぐタメ語やったし。俺に似てた。プライドが高い感じも。“俺もこんなんやったんやろうな”って(笑)」
──その2年後に、重岡(大毅)くん、(藤井)流星くん、(中山)優馬くんが入ってくる。
「流星と優馬は、いきなりエースで。急に来て、急にいい衣装着て、急に俺らより前に出てって感じで。すごいの出てきたなって。しげ(重岡)は最初、あんまり印象なかった(笑)。そのあと入ってきた小瀧(望)は、“なんか、かわいいコが入ってきたな”って感じで」

デビューを決めるのは、僕。見てる人は見てるよ

──関ジャニ∞はどんな存在だった?
「最初、怖いんだろうなって思ってたんです。でも、『Magical Summer』って舞台で、内(博貴)くんの代役で急遽、僕が出させてもらって。そっから、みんなとしゃべるようになったんです。その舞台で、僕を知ってくれる人がいっきに増えて」
──出られてよかったね。
「でも、関西Jr.の中で孤立したんですよね。“オイシイ役もらいやがって”とか“関ジャニ∞さんと仲よくして生意気だ”って。事務所には、“中間が調子に乗ってる”みたいに伝わったらしくて、仕事に僕ひとりだけ呼ばれんくなったりとかして。“ちがうねん”って弁解する機会すらなかった」
──それはキツイね。
「こんなんやったら、楽しないし、もうやりたないわ。辞めたるって思ったんです。そしたら突然、夜中に横山(裕)くんから電話が来て。誰にも辞めたいなんて言ってないのに、“やめるのは簡単。でも、逃げるより続けることが大切なんちゃうか”って。いろんなこと朝まで話してくれて。見ててくれたんだってうれしくて、めっちゃ泣きましたね」
──その電話で踏み止まったんだ。
「はい。横山くんに、“おまえも悪いやろ”って言われたんですよね。たしかに僕も悪いとこいっぱいあった。“コイツらとはちがうんや”って気持ち、どっかにあったし。すごく反省して」
──じゃあ、2008年、『ごくせん』に出たときは?
「悔やみきれないというか、本当に申しわけなかったですね。悩んでた時期で、すごく中途半端な気持ちで撮影に臨んじゃったんで」
──何を悩んでたの?
「大学3年で、まわりはドンドン就職先が決まって。俺は就職活動すらしてない。“このままでいいのか? 辞めるなら今なんじゃないか?”って」
──たしかに人生を決める大きなタイミングのひとつだよね。
「しかもある人と大ゲンカして。“おまえなんか、絶対デビューできない!”って言われたんですよ。なんか、もう全部がイヤになっちゃって。“デビューできない? 知るか! 自分から辞めてやる!!”ってジャニーさんに電話して、“辞めます”って言ったんです」
──言っちゃったんだ。
「はい。そしたら、すごく引き止めてくれて。“デビューできない”って言われた話もしたら、“デビューを決めるのは僕だからね。見てる人は見てるよ”って。それが俺のことを見ててくれてるってことなのかわからなかったんですけど、うれしかったんですよね」
──社長の言葉にも救われたんだね。
「あと、ファンにも支えられました。同じころ、“悩んでますか?”ってファンレターをいただいて。“私は淳太くんのことを人として好きです。だから、どんな道を進んでも応援します。辞めないでとは言わないです”って。これを書いてくれた人のために、こう思ってくれる人のために、もう二度と辞めたいなんて思わないって」

ここで逃げたら、次も逃げるようになる

──でも、デビューまではまだまだ長かったよね?
「長かったですね」
──Jr.を続けること、両親はなんて?
「父親は反対してたし、おじいちゃんは会社を継がせたいと思ってたらしいんですけど、僕に任せてくれてたんです。“好きなようにやり”って。ホンマ、感謝してもしきれないです」
──でも、望みさえすれば手に入る確実な未来がいくつもあったのに、最も未来が不透明な道を選んだのはなぜ?
「楽しかったから。がんばればがんばったぶんだけ、応援してくれる人が増えてく。僕の夢が、いつのまにかみんなの夢にもなってくっていうか。こんなやりがいがあることって、ほかにないと思って」
──たしかにそうだね。
「それと、やっぱり意地もあったかな。関西Jr.はみんな、悔しい思いをしてるんですよね。東京Jr.より露出はかなり少ない。まれに東京に呼ばれても、入ったばっかりの東京Jr.の後ろで踊らされ、楽屋も俺らだけリハ室みたいな場所だったり。ステージで急に“つないで”ってマイク渡されたりもして。当時、東京に俺らのファンなんておらんから、その瞬間、お客さんがトイレ行くんです。そういうの、めっちゃ悔しくて。生意気ですけど、俺らより上にいるJr.も、デビューしてる先輩も、余裕ブッコいてんなら、全員抜かしたるって思ってました」
──ずっと、悔しかったんだ。
「そういう悔しい瞬間を、関西Jr.、特に照史とは、ずっといっしょに過ごしてきたんです。だから意地もあったんですよね、辞めなかったのは。それに、もしここで逃げたら、これから何をやっても、また苦しくなったり、不安になったら逃げちゃいそうで。だから、辞めるんやったら、ホンマにボロボロに砕けてから辞めようって」
──でも、辞めていく仲間もいたね。
「悲しかったですよ。引き止めたいけど、引き止められない。だって、その人の人生やから。B.A.D.、BOYS、Veteranで、B.B.Vって10人グループになったとき、パワーを感じたんです。“この10人で、デビューまで上り詰めたろ!”って。でも、少しずつ目指すベクトルがズレたり、先が見えなくてちがう道を選ぶ人が出てきたり……。相談もされたりしたんです。そんなときは、“もし、辞めてすぐ僕らがデビューしたとして、残っとけばよかったって思うんやったら残ったほうがいい。そう思わないんやったら、新しく見つけた夢を追いかけるべきや”って言って。でも、そう言いながら、やっぱり仲間が減っていくのは寂しかったな」
──じゃあ、後輩の7WESTはどんな存在だった?
「あいつらがB.A.D.を意識して、“抜いてやる!”ってメラメラしてんの、すごく伝わってました」
──じゃあ、憎たらしかった?
「全然(笑)。可能性を信じきれず、辞めてった仲間をいっぱい見てるわけで。でもあいつらは、“絶対デビューしてやる!”ってがむしゃらに上を目指してて。もちろんライバルでもある。だけど、切磋琢磨するのは関西Jr.全体のためにもなる。だから、頼もしかったし、かわいい弟みたいでした。優馬や7WEST全員を、メシに連れてったことがあるんです。鍋と魚の、ちょっといい店で。コースなら足りるだろうなって思ったら、あいつら単品で好きなもんばっか頼みよって。遠慮って言葉を知らない(笑)。優馬なんて、時価って書いてある魚ばっか頼んでましたからね」
──ハハハハハ。
「“おごったる!”って連れてった以上、“もう頼まないで”とかカッコ悪くて言えないじゃないですか。だから、こっそりトイレに行くふりして、店員さんに、“お金これしか持ってないんで、ヤバそうやったらストップって言ってください”ってお願いして(笑)」
──このエピソード、セレブキャラが崩壊しない?
「まあぶっちゃけ、お金持ちなんは、おじいちゃんだけやから(笑)」

“おまえは、俺の彼女か!”って

──関西Jr.の結束が強いのはなぜか、ちょっとわかった気がするよ。
「でもやっぱり、いちばん大きかったのは、初めて西日本ツアーが決まったときだと思うんです」
──2011年の、あけおめコンで発表されたんだよね。
「そう。発表された瞬間、みんなうれしくて泣いたもん。それまで、“デビューしたい!”って言っても、可能性は1㎜もなかった。それが、1㎝だったかもしれないけど、初めて前に進めた。関西Jr.の未来に光が差し込んだ初めての瞬間で。あのとき、漠然としたデビューって夢が目標に変わって、関西Jr.がひとつになれたんだと思う。ツアー決定を聞いて、照史と俺、ステージの端と端にいたのに、無意識でおたがいが駆け寄って抱き合ったんですよ。なんか“俺はコイツと、これからもずっとずっといっしょにおるんや”って、確信した瞬間だった」
──いいエピソードだね。串カツ事件も、いい話なんでしょ?
「誰に聞いたんですか?」
──濵ちゃんから触りだけ(笑)。
「アイツ(笑)。あれはねえ、2012年の12月ですね。濵ちゃんと何気なく“串カツでも食べて帰ろっか”ってなって。照史はダイエット中だったんで、揚げ物は食べられないだろうから、かわいそうなんで誘わなかったんです。たまたま室(龍太)とブンちゃんがいたんで、いっしょに行こうってなって。そしたら食事中に照史からメールが来て。“俺だけ呼んでくれないなんて、俺なんかしましたか?”って。もう“えっ!? すねてんの?”って思って。“おまえは、俺の彼女か!”って(笑)」
──ハハハハハ。
「次の日、関西Jr.コンだったんですけど、照史、まだちょっと不機嫌で。ムカついたから、ステージ上で“こんなことがあって”って話したんです。そしたら照史が、“昨日は濵ちゃんの誕生日やったし、B.A.D.の結成8年目の最後の日やったから、淳太くんとお祝いするのかなって思ってたから、ハブられたと思って……”ってえぐえぐ泣くんですよ。で、“辞めてしまった仲間もいっぱいおるけど、その人たちの夢や想いも背負ってやってきた仲間だと思ってたから……”って。何を言い出してんだコイツって思ってたはずやのに、アイツの涙見たら、なんか俺も泣けてきちゃって。濵ちゃんに、“今日から9年目やな!”って言われて、照史と俺が泣きじゃくってハグして(笑)。それをメンバー全員、苦笑いしながら見守るというホンマにしょうもない事件です」
──いや、素敵なエピソードだよ。
「アイツ、今もメンバーの誕生日とか、いちばん気合入れるんです。“プレゼント、何買う? 何買う?”って。あのガタイと見た目なのに、内面は完全に少女ですからね。誰よりもメンバー想いで、誰よりも関西Jr.のこと考えて、誰よりも繊細で傷つきやすくて。そのくせ悩んでるときとか、平静を装えてると思ってる。“大丈夫か?”って声かけると、“なんでわかるん!”とか真顔で言うんですよ。わかるに決まってるやろ! すぐわかる。どんだけいっしょにおったと思ってんのって話ですよ(笑)」

正直、デビューとかどうでもええ

──そしていよいよ2013年、長年夢見たデビューに向け動き始めたよね。
「みんなのインタビュー読んでると、ちょっとボカシてるけど、9月の『ANOTHER』の時点で、“7人でデビュー”って事務所から告げられてたんですよ。デビュー曲はどうするかって話もしたし、ジャニーズWESTの名前も候補の中にあって。だから、俺らは、“7人でデビューできる!!”ってよろこんで。カウントダウンでデビュー発表するかもしれないってウワサもあったし」
──そうだったんだ。
「最初、カウントダウンは関西Jr.として出るって言われて。それが直前で、出演がなくなったって言われて。その数日後に、“やっぱり出る。舞台の打ち合わせもするから東京に来て”って連絡が来て。新幹線に乗ったら、なぜか4人しかいない。二転三転してるし、なんかイヤな予感がするじゃないですか。で、東京に着いて打ち合わせが始まっても、誰も何も説明してくれない。らちあかんと思って、僕がスタッフさんに“なんで4人だけなんですか?”って聞いたら、“4人でデビューすることになった”って言われて。もう頭真っ白で」
──そんなふうに伝えられたんだ。
「はい。もちろん、みんな7人がいいに決まってるけど、状況がわからない。頑なに“7人がいい”って言い張ったら、デビュー自体がなくなる可能性もある。それでも、しげは最初から7人がいいって主張し続けたんですけど」
──中間くんは、どう思った?
「デビューは全員の夢だし、いっしょに目指してくれたファンの夢でもある。だから、デビューがなくなる最悪の事態は避けたくて、うかつなこと言えない。事務所の話をまず聞こうと思って」
──なるほど。
「事務所は、4人のほうが早く世間に顔を知ってもらえるって言うんです。それでも、“7の可能性は、もうないんですか?”っ聞いたら、もし7人にするなら、4人の後ろにくっつける形になるって」
──4+3的な形になると。
「俺、それはホンマにイヤやったんです。濵ちゃん、神ちゃん、流星、俺にできなくて、3人にできることがいっぱいある。なのに、そんな3人を後ろにするのはイヤやった。それじゃあ売れる気もしないし。俺らの魅力って、7人横並びじゃないと発揮できないって俺は思うんです。だから、それには反対したんです」
──7人がいいけど、4+3に見えるなら4人のデビューのほうがいいと?
「はい。事務所から、“3人には俳優をしながら、グループとして活動させるビジョンがある”って言われたんで。僕が言うのは本当に生意気ですよ、でも、3人が努力したぶんだけ、がんばったぶんだけ役者として評価してもらえる環境を与えていただけるなら、そして、おたがい、大きくなったタイミングで7人グループになれるなら。……衣装に格差ついたり、立ち位置や、歌割に差がつく……そんなんやったら4がいいって。結局、しげみたいに最初からずっと7にこだわる意見と、俺みたいに条件次第で4でもって意見で、グループ内でも意見がまとまんなかったんです。でも、デビューの話をなくさないためには、カウントダウンで発表するしかないよってなって」
──そして、あの発表になったんだ。
「はい。カウントダウンが終わっても、4人で話して。しげとはホテルの部屋が同じやったんで、ふたりでずっと朝まで話して」
──その後、あけおめコンのリハのために関西に戻ったんだよね。
「リハ、最悪の雰囲気で。地獄でした。3人とはひと言も話せなくて……。家に帰って、4人でのデビューが、3人のためにも正しい選択だって自分に言い聞かせたけど、なぜか胸のモヤモヤは消えなくて。そしたら、濵ちゃんから電話が来たんです」
──なんて?
「“いつもみたいにしゃべってよ”って。俺は、“ごめん。どうしていいかわからんかった”って謝って。そしたら、濵ちゃんが言ったんです。“俺は、みんなとおるのが楽しい。今まで通りの関係でみんなとおれるなら、俺は、それだけでええ。正直、デビューとかどうでもええ”って」
──そんなこと言ったんだ?
「それを聞いた瞬間、モヤモヤが全部吹っ飛んだんです。“俺もそうや”って。4+3に見えるくらいなら4でって思ってた。それがおたがいのためだって。でも、ちがう。そんな理屈じゃない。俺も7人でいっしょにいたいんやって。濵ちゃんのひと言で本当の気持ちに気づけて。そっから僕は、“7人でお願いします”って事務所に伝えて」
──それを伝えるのは、デビュー自体がなくなるリスクもあったんだよね?
「怖かったけど、楽しくないデビューなんて、誰かの涙や犠牲でできたデビューなんて意味ないから」
──そして2月5日、本当に7人でのデビューにたどり着いたんだ。
「『なにわ侍』のリハを7人で始めた時点で、“7人でデビューだ”って気づいて。だから舞台の初日までが、めっちゃ長く感じて、待ち遠しくて。ファンに言葉にはできないけど、“いいから信じろ。絶対、笑顔にさすから信じてくれ”って、ずっと胸の中で叫んでました」
──2月5日、舞台から見えたのは、どんな光景だった?
「待たしちゃったし、いろいろあったし、なのにみんな祝ってくれて。ファンが泣いてくれたのがうれしくて。絶対、忘れられない最高の景色でした」
──ファンの人にとっても、忘れられないだろうね。
「デビューしてからラジオで僕らのファンの呼び方を募集して、“ジャスミン”に決まったんですね。ジャスミンって、花もかわいいし、語感もキレイじゃないですか。しかも、花言葉のひとつが“あなたについていく”なんです。こんなに待たせて、こんなに泣かせて……。それでもついてきてくれたファンの呼び方がジャスミンって、奇跡みたいにピッタリだなって、本当にうれしくて」

あの日のことを話すのは、これで最後

──メンバーだけじゃない、ファンも含めた全員があきらめなかったから、7人のデビューにつながったんだろうね。
「でも俺は、しげとか照史みたいに、“7人で”って最初からは動かんかったから、7に決まった瞬間から、今度は誰よりも動こう、貢献せなと思って」
──決まってから?
「はい。もう、事務所の人に嫌われるくらい、“7人は横並びでお願いします”って、いろんな人に頭を下げにいって。いろんな人と話して。仕事のジャンルも増やしたいから、村上(信五)くんにいろいろ相談したりもして。それでも最初のころの歌割は、4人のほうが多かったかもしれないけど、最近はほとんどなくなってきて」
──そんなことしてたんだ。
「最初、衣装も3人だけ装飾がなかったり、流星だけ金色が少なめとかあったんです。衣装さんに頭を下げて、“少なめにするなら、もう真っ黒にして、まったく別物にして目立たせてください”って。ほかにも、神ちゃんが“衣装に帽子をつけたい”って言ったけど、それはナシでって事務所に言われたんですけど、神ちゃんが望むなら絶対にかぶらせたいって思って。俺、帽子似合わんけど、“僕、かぶります”って言って。そしたら、神ちゃんの帽子もオッケーになるんで」
──そんな意図を持って行動してたこと、メンバーは知ってるの?
「みんなには言ってないです。言いたくもないし、知られなくていいし」
──じゃあ最後に、これからの目標を教えてよ。
「7人、それぞれちがうから、それぞれが適した場所で活躍していきたい。そしたら、人の目に触れる機会も増えるし、グループとしても成長できる。でも、なんて言えばいいんだろう。それぞれが楽しむことがいちばん大事かなって。楽しめば楽しむほど、いろんなものが生まれるグループだと思うんで。だから、このままでいい、このままを続けていけばいいと思う。そのかわり絶対、初心を忘れちゃいけない。ブレそうになったり、サボったり、まちがった道を進みそうになったメンバーがいたら、俺が怒る。でもホンマ、楽しめば、この7人には明るい未来が待ってるって信じてる」
──そうだね。これで終わるけど、ぶっちゃけすぎちゃったんじゃない?
「包み隠せないって最初に言ったじゃないですか(笑)。それに、みんな、知りたいでしょ!? まだモヤモヤが残ってるコもおるでしょ? “ホントのとこ、どうだったの?”って。俺ら7人は、もうとっくに前を向いて走り出してる。だからファンにも、なんなら、もともと7だったって気持ちでいてほしい。あの日のこと、簡単には忘れられへんかもしれないけど、ずっと胸のつかえにはしてほしくない。僕ら7人も、もう忘れたっていうか、そんなんもあったなくらいの気持ちだから。だから、今日全部しゃべって、あの日々のことを話すのは、最後にしようって。昔話は終わり。これからは、新しい物語を紡ぐんです、7人みんなで。ジャスミンとみんなで」

取材・文/水野光博