Myojo

10000字ロングインタビュー

イジリに愛があるから、ずっと笑っていられる。

10000字ロングインタビュー

『僕がJr.だったころ』

Kis-My-Ft2編

第4回

宮田俊哉

みやた・としや
1988年9月14日生まれ。神奈川出身。A型。身長173cm。
2001年2月4日、ジャニーズ事務所入所。
2011年8月10日、Kis-My-Ft2としてCDデビュー。

※このインタビューは、MYOJO2013年3月号に掲載されたものに、加筆・訂正したものです。

メンバーからの厳しいツッコミに、
冷や汗まじりの笑顔で切り返すイジられキャラ。
今までのアイドルのイメージをくつがえしたオンリーワンの男は、
ワーストワンのがけっぷちから這い上がった男だった。

夢だけじゃなくて特技もない、趣味もない

──小さいころ、どんなコだった?
「あんまりおぼえてないんすけど、今と変わらずアホだったんじゃないですかねえ(笑)。よくケガしたり骨折したりした記憶があります」
──どんなことしてケガしたの?
「お父さんとプロレスごっこしてて、網戸をロープ代わりにして反動をつけようとしたら、網戸が開いてて、そのまま外のアスファルトに落ちて泣くとか、自転車で両手離しができたんで、“ブランコでもできる!”って、実際やって指を骨折とか」
──ア、アホすぎる……。
「そういうのが、しょっちゅうでした。何考えてたんですかねえ? なんか、思いついたことはやらないとがまんできなかったんですよね」
──きょうだいは姉と弟だよね?
「はい。小さいころは、よくお姉ちゃんにくっついてって遊んでもらって。昔の写真、ゴムで髪を結んでたり、スカートをはかされたりしてるのが多いんです。お姉ちゃんがピアノ習ってたから、“やりたい!”って言って習ったり。結局、なんにもできないままやめましたけど」
──ほかに習いごとはした?
「今でも全然泳げないんですけど、水泳も。あとから弟もスイミングに入ってきて。俺がビート板でバチャバチャやってるのに、弟はドンドンうまくなっちゃって大会に出たり。いづらくてやめましたね」
──たしかに、居心地悪いよね。
「そういうこと多いんです。小学生のときサッカーをやってたけど、ずっと補欠で。弟は野球を始めて、すぐにエースで4番みたいな。“コイツ、なんなの?”って。“スポーツなんて、二度とやんねー”って思った(笑)」
──じゃあ、小学生のころって、何になりたかった?
「夢ってホントなくて。“将来、何になりたい?”って学校で聞かれたりすると、いっつもテキトーなこと言ってましたね。“公務員!”とか“サラリーマン!”とか。そのとき、そのときで、おもしろいだろと思うことを。将来の夢って質問は、もはや大喜利だと思ってましたから。そのころが原因なのかな〜、まっすぐ育たなかったのは(笑)」
──ハハハハハ。
「夢だけじゃなくて、特技もない、趣味もない。成績表、ずーっとオール3だったんです。1回もブレたことがない。学校の先生って、“短所を補い、長所を伸ばしなさい”って言いますよね。僕は、長所もなければ、短所もないってコでした」

ジャニーズに入ったら、人気者になれるんだよ

──昔の写真を見ると、雰囲気がタッキー(滝沢秀明)に似てるよね?
「よく言われるんですよ。キタミツ(北山宏光)がJr.に入って来たときも“タッキーに似てない?”って言われたり。“え、マジかな”って思ってたら、“昔のタッキーを太らせた感じ”って。肥満児だったんですよ。ジャニーズに入って踊るようになって、やせてったんです」
──自分では似てると思った?
「ないっすねえ。全然、モテなかったし。カッコよくなるかなと思って、滝沢くんの写真を切り抜いて美容室に持って行って、“こうしてください”って言ったこともあって。だけど、全然似合わないみたいな」
──小さいころから、理髪店じゃなくて美容室に行ってたんだ。
「お母さんがジャニーズ好きだったんで、美容室でしたね。うちのお母さん、中学生のころから“私の子ども、ジャニーズに入れる!”って言ってたらしくって。そう考えると、すごいですよね。夢をかなえて」
──じゃあ、ジャニーズのオーディションを受けたのは、母親の意向?
「小6の終わりくらいに、お母さんに、“原宿行くよ”って言われて。よく、ジャニーズショップに連れてかれることがあったんです。アイドルといっしょに映るみたいなフォトシールあるじゃないですか。俺は、お母さんが(堂本)光一くんと撮ってる間、外で待たされて」
──光一くんファンだったんだ。
「だから、またジャニーズショップかと。“ヤだよ”って言ったら、“ちがう、今日はオーディション”って。俺、“もっとヤだよ!!”って言ったんです。でも、そそのかしてくるんですよ。“ジャニーズに入ったら、すっごい人気者になれるんだよ。大金持ちにもなれるんだよ”みたいに(笑)。最終的に丸め込まれて」
──オーディションはどうだった?
「ダンスやったりしましたね。でも、俺は全然、踊れない。特技ってもんがまったくなくて、何をアピールするわけでもなくサーッと終わって。帰ろっかなってなったら、何人か呼ばれたんです。知らない人がラーメンおごってくれて。内心、いいのかな〜。学校で知らない人についていっちゃダメって言われたよな。教えに反してるな〜って思いました。それが社長だったんですけどね」
──そんなこと考えてたんだ(笑)。
「その後、スタジオに連れてかれて。二階堂(高嗣)、横尾(渉)さんもいたな。で、雑誌用の写真を撮って。帰って、お母さんに、その話をしたら、“あら、もう載っちゃうの!?”ってウキウキしてて。でも、雑誌を発売日に買ってきたら、俺だけ載ってない(笑)。二階堂とか横尾さんは載ってるのに。俺、うっそーって思って。でもまあ、こんなもんかなって。続いた習いごともないんで、そのうちやめるだろくらいの感覚でしたね」

やっぱ根性なしなんです。ハンパなく勇気がないんです

──その後の活動は?
「ときどき日曜日にNHKでレッスンがあって。でも、中1くらいって、友だちと遊びたいじゃないですか。友だちと遊ぶのを断ってまでやることかなって考え始めて。“やめたい”って言ったら、お母さんが“あと1回行って、本当にイヤだったらやめていいよ”って。で、最後かもと思って行ったら友だちができたんです。レッスンの帰りに、渋谷でごはんを食べようよってなって。友だちだけでごはん食べることってなかったから、テンション上がりましたね」
──それで続けたんだ?
「あ、でも事件があって。渋谷でみんな帰ったんですけど、俺だけ使ってる駅が代々木八幡だったんですよ。で、俺は道に迷うわけです。人に道を聞いて、もう半泣きで駅をめざして。どうにか家に帰れて、もうすっかり最後かもってことなんか忘れて、お母さんに“ケータイほしいよ”って(笑)。ケータイがあれば、渋谷駅から帰れたから。あの日、友だちができなかったら、ジャニーズにいる楽しさをわからないまま、やめてたかもしれないです」
──でも、レッスンは相当きつかったんだよね?
「めっちゃきつくて。そもそもダンスとかアクロバットどうこうの前に、俺、ストレッチができなかったんですよ。体が硬くて。一生懸命やってたら、事務所の人に“ふざけてんなら帰っていいよ”って言われて。これ全力なんですよって。ホント、心が弱かったらやめてることだらけ」
──得意なことってなかった?
「唯一、ジャンプ力はあるんです。立ち幅跳びは陸上部にも負けたことない。ただ、何にもいかせてない。マジ、ムダなジャンプ力です。アクロバットできるわけでもないし。神様、意地悪なんすよね」
──同期の横尾くん、二階堂くんの印象はどうだった?
「初めて出たコンサートもいっしょでしたね。でもそのとき、横尾さんは、小山(慶一郎)くんとかと同じグループで出てて。二階堂は、ちっちゃくて滝沢くんにおんぶされたりして。ふたりとも、もう注目を浴びるようなポジションにいた。俺だけ長いメドレーの中で1回だけ出るみたいな。だから、うーん、最初は同期ってわかんなくて。絶対俺より前からいたんだろうなって思ってた」
──いつか自分も、もっと前に出たいって思った?
「入ってしばらくして、Ya-Ya-yahってグループができて。そこに同じぐらいにJr.になったコが入ったんです。そのとき初めて“いいなあ”って思ったんですよね。悔しいじゃなくて、うらやましかった。だから、俺もがんばろうって」
──サッカーで補欠だったときは、レギュラーになりたいって思った?
「なかったですね。言われてみれば。人をいいなあって思ったのは、あのときが初めてだったかもしれない」
──2002年には、田組のメンバーになったよね。
「“YOUたち、田組だから”って突然言われ、名字に田がつくJr.が集められたんです。これねえ、社長の悪ふざけかと思いました(笑)。だって最初、中村って名字のヤツがいたんですよ。“え!?”ってなりますよ。俺、最初に出た雑誌がMYOJOで。おにぎり持って撮影したんです。その撮影の前に社長が気づいたのか、中村はメンバーからいなくなってましたけど」
──2003年には千賀(健永)くんがJr.に入ったよね。最初、宮田くんが親切だったって言ってたよ。
「千賀は、名古屋から出てきて右も左もわからなかったから」
──やさしいね。
「いや、なんなんすかねえ。やさしくしたきっかけは先輩面したかったんじゃないですか(笑)。俺、やさしくないんですよ。偽善者でしかない。でも千賀、おもしろいじゃないですか。だからだんだん仲よくなって」
──決して後輩の面倒見がいいわけじゃないんだ(笑)。
「なんか俺、年下と話すの今でも苦手なんですよ。年上もなんですけど。『私立バカレア学園』の収録のときも、Jr.のコとか、すっごい話しかけてくれたんです」
──後輩に「話しかけてくれた」って…。
「いや、話しかけてきやがるんですけどね(笑)。なんか、どう対応していいかわかんなくて。千賀と仲よくなったのは奇跡っすね」
──じゃあ、Jr.時代、あこがれた先輩とかっていた?
「亀梨(和也)くんのメッシュにあこがれましたね。マジでカッコよく見えて。だけど自分がやってみる勇気はなくて。田組がKAT-TUNのマネしたらダメだって自制心が働いて。ずっと真っ黒でした」
──ハハハハハ。
「その後も田組として嵐のバックでずっと踊って。タマ(玉森裕太)とか千賀、二階堂、キタミツ、ガヤ(藤ヶ谷太輔)さんも出てて。みんな、『ザ少年倶楽部』とかにもめっちゃ出るようになってくんです。俺だけ、そんな出てなかったんですよ。なんか、みんな少しずつステップアップしてく。俺、このままずっと後ろで踊ってくんだなって思ったんですよね。じゃあもう、真ん中に行かないんなら、このへんでジャニーズはいいかなって。高校進学とか、いろいろ考える時期だったから」
──でも、辞めなかった。
「やっぱ根性なしなんです。ハンパじゃなく勇気がないんです。辞める勇気もなかった。辞めてくヤツ、けっこういて。でも俺は、辞めた人がダメだったから辞めたって思わないんですよね。ちがう道を見つけたから辞めたんだなって。今、考えれば、辞める勇気より、続ける勇気のほうが大事ですよね。だけど、当時の俺は、そんなふうには思ってなかった」

俺だけバック転できなくて、めっちゃ悔しいです!

──でも、2005年7月には、キスマイのメンバーに選ばれたよね。
「最初は劣等感しかなかったです。運がいいだけだって。だって、メンバーが発表されたとき、ホワイトボードにメンバーの名前が書いてあって。K北山、S千賀とかって。Mのとこだけ、Jr.の名前がいくつか書いて消した跡があって、俺の名前が残ってて。本当になんか運いいなって。年上の3人はもちろん、二階堂も千賀もちっちゃいころから前で踊ってた。タマだってJ.J.Expressにいた。俺だけ、何者でもない。すっげー劣等感があったんですよ。俺がいちばんダメだなって」
──その劣等感、どうしたの?
「もう、がむしゃらに練習するしかなくて。結成した年かな。俺だけバック転できなくて、残って練習してたんです。3、4時間。もう少しでできそうで。“いけっ!”と思って跳んだら、気づくとまわりに人が集まって、俺をめっちゃ見てた。脳震とう起こしたんですよね。で、腕を見たら脱臼してた。振りつけ師さんが、水道で冷やしてくれて。俺、そんなキャラじゃないから、今もなんでかわかんないんですけど、“どうだ?”って聞かれて、“めっちゃ悔しいです。みんなできるのに、俺だけバック転できなくて”って泣いたんです。なんか熱血ドラマみたいに」
──その後、しばらく、活動できなかったんだよね。
「3カ月くらい。医者から電車に乗って人と接触するだけでも危ないって言われて、レッスンを見学にも行けなくて。めっちゃあせりましたね。ちょうど『DREAM BOYS』が始まったんですけど、やっと治って、“もう大丈夫です”ってマネージャーさんに連絡したのに、全然、呼ばれないわけです。“まさか俺、逝ったか? クビになったか?”って思って。だけど、振りつけ師さんが、俺の位置を空けてくれてて」
──それ、いい話だね。
「でもまあ、その後も怒られんのは、俺かタマだったんですけどね。ホントに、あのときは、俺ら嫌われてんだろうなとしか思えなかった。今なら、“がんばれよ”ってことで怒られてたんだってわかるんですけど。俺とタマ以上に怒られたJr.って、あんまいないような気がする」
──怒られ役ってつらいよね。
「そのころの目標、怒られないことでしたからね。あのときの気持ちって、俺とタマにしかわかんない。わかってくれる人が、たったひとりでもいてくれるのはうれしかったですけどね。ひとりじゃ、乗り越えられなかったと思うから」

キモイ男子は美しいんですよ!!

──玉森くんがいて、よかったね。
「うん。でも、ずっといっしょに怒られてたタマが『ごくせん』に出ることが決まって。マジかと。あのときは、精神的にマジでいちばんきつかったですね。自分がいちばんわかってる。でも、まわりからは、“おまえ、置いてかれるぞ”って言われて。わかってるけどさあって」
──自分がいちばんよくわかるよね。
「俺、ホント、不器用で。ローラースケートもうまくなるのいちばん遅くて。キスマイで出るみたいな企画も、俺とタマだけ出してもらえないとかあったりもして。そこでちょうど、『PLAYZONE』が始まって。それまでの仕事は、タマとキタミツとガヤさんが中心でも、キスマイってくくりだったんです。それが、2009年の『PLAYZONE』は、その3人が主演って、はっきり決まってて。あ、ついにきたか。ついにここまで差がついたのかって」
──がけっぷちだ。
「がけっぷちに立たされ、初めて“怒られないようにしてるだけじゃダメなんだ”って気づくんです」
──なるほど。
「本当に大切なこと、本当のカッコよさって何かなって。無難に怒られないようにしてるより、怒られてもいいから、何かに挑戦するほうがいい。いつまでも怒られてていいから、いろんなことに挑戦する人間になりたいなって。本当に追い込まれて生まれた発想ですけどね」
──それで生まれたのが、ピンクのTシャツでオタ芸をするという…。
「“宮ゲー”です!! 俺、マジで未来を捨てたかと思いましたけどね。クビになっておかしくないと(笑)」
──具体的に、どういう経緯で宮ゲーは生まれたの?
「ファーストコンサートが決まって、ひとりずつ、自分で好きなことやれることになって。これはもう、俺のソロが目玉になるくらいの、すっげーことやっておどろかせてやろうと思って。ずっと考えてたんですよ。何やろう、何やろうって。そこで、元々アニメ好きだったし、友だちとふざけて“オイッ! オイッ!”ってオタ芸とかやってたんで、これをやったらどうなるんだろうと思って。メンバーとスタッフでやったコンサートの打ち合わせで、“オタ芸やりたい!”って提案したんです」
──みんなの反応は?
「キタミツだけは、“おもしろいじゃん”って言ってくれたけど、“バカ言うんじゃないよ!”ってスタッフ全員の声がそろいましたね」
──当然といえば、当然な気もする。
「俺も、そうなると思ってたから、反対された場合のこと考えてあって。“いいですか、キモイ男子は美しいんですよ!!”って言い切ったんです。そのフレーズで全員が爆笑して。じゃあやってみようってなったんです。俺、“キターーーッ”って(笑)」
──実際、やることになってビビらなかった?
「本番直前まで不安でしたよ。“大丈夫かな?”って。でも、袖で待機して、いよいよってときに、ジャニーズのコンサートに長年携わってるスタッフの人に、“思いっきりやってくればいいから”って言われて、腹くくりました。で、思いっきりやったら、お客さんもすげーやってくれて。誰もがビックリしたと思います。メンバーもスタッフも。いちばんおどろいたのは俺だけど(笑)」
──たしかに、誰もがおどろいた。
「でも、調子に乗る俺の悪い癖が出て。地方公演のとき、“フィギュアを持ってステージに立つ”って言ったら、マネージャーに“やめろ!”って、めっちゃ怒られました」
──前回のカウントダウン(2011-2012)でも、オタ芸を披露してたよね?
「年男で、俺と井ノ原(快彦)さんとマッチ(近藤真彦)さんでいっしょにステージに立つことになって。リハで俺、めっちゃビビってるわけです。そしたら井ノ原さんに、“宮田、おまえ、ほんとクソだなあ”って言われて。特番のころの『濱キス』を見てくださってたんです。それも俺が、10メートルの飛び込みができなかった回を」
──自分は飛び込めず、しかも飛ぼうとした北山くんをじゃましたという伝説を残した回だよね(笑)。
「そうです、そうです。井ノ原さんに“そうなんですよね。すげーみんなに、ダメだ、ダメだって言われるんです”って返事して」
──ハハハハハ。
「でも、そしたら、“すごく、いいことだ”って。どういうことって思ったら、“たとえ、その放送を見てムカついた人がいたとしても、印象に残った。それは、勝ちなんだよ”って。俺、その言葉だけは、絶対忘れられないですね」
──支えになる言葉だね。
「で、また悪い癖が出るんです。“井ノ原さん、今日も萌え萌えキュン!ってやろうと思うんです”って調子に乗って。そしたら、“やれよ、やれよ! マッチさん、やさしいから大丈夫”って。だから、やったんですけど…。あとで映像を見たら、俺の後ろで岡田(准一)くんが、苦虫を噛み潰したような顔してて。井ノ原さんのグループの人がいちばん冷たいですやん!って(笑)」
──ハハハハハ。でも、そのハートの強さって、どっから来てるの?
「いやいや、俺、いっつも後悔ばっかしてますよ。ヤベーって。基本、これやってオイシイって思ったことないですもん。計算してやんのもヤダなと思ってるし。昔、タマを見てて思ったんですよね。昔から、タマってカッコつけるタイプじゃなかったんですよ。クールに見えるけど、アイツにとっては、それが自然体。だから、作ってないほうがいいなって。俺も俺のまんま。そしたらなんか運命的に、俺にはイジられる素質があったみたいで。タマにはタマの、俺には俺の才能っていうか(笑)」

冷蔵庫にいつもあったお母さんのポテトサラダ

──Jr.時代、デビューについては、どう思ってた?
「してーなって、本気で思ったのは、やっぱHey! Say! JUMPがデビューしたときですね。“マジかよ!”って。Ya-Ya-yahができたときみたいに、うらやましいじゃなくて、もう、“悔しい!”って思いましたね」
──別の仕事や道に進むこと、考えたことってなかった?
「考えなかったですね。ほかにもっとやりたいことができたら、やめるだろうとは思いましたけど。でもね、今やめたら絶対戻ってきたくてしょうがなくなるって確信してました」
──じゃあ、実際にデビューが決まったときどうだった?
「正直、泣きそうでしたね。でも、泣いてたまるかって。デビューが決まったライブの映像を見た人に“泣いてた”って言われるんですけど、マジ泣いてないんすよ。俺、うつむき加減で汗拭くんです。そこが映像で、たまたま使われてるんで、角度的に泣いてるって思われるだけで」
──じつは泣いてないんだ。
「みんなでそういう話はしてたんです。“デビューは夢。でも、もしデビューが決まっても泣かないようにしよう。泣くのはドームでコンサートができたとき”って。で、実際ドームでできたら、今度は、“泣くのはドームじゃなくて――”って、新しい夢や目標ができてく」
──デビューまで、がんばったね。
「俺も少しはがんばったかな。高校のころとか、家が遠かったんで、仕事場から家に帰ったら、12時過ぎちゃうこととかもよくあって。もう家族はみんな寝てる。なんでか、いっつも冷蔵庫に、お母さんが作ったポテトサラダが入ってて。よく、それ食べてましたね。ポテトサラダ、なんで、いっつもあったんだろ?」
──それってさ…。
「……。えっ、もしかして、俺のためにいっつも作っといてくれたってことですか!?」
──気づくの遅すぎでしょ。Jr.時代、お母さんに励まされたことだってあったんじゃない?
「なんも言ってなかったですよ。あ、でも、“デビュー決まったよ”って報告したら、“おめでとう。ずっと申し訳ないと思ってた”みたいなこと話されました。俺はつらいとき家族に“もうヤダ”って言ってたりしたから。お母さん、自分の夢を背負わせて悪いなって思ってたらしくて」
──そんなことないよね。
「うん。たしかに最初はお母さんの夢だったかもしれない。でも、途中からは俺の夢でもあった。だから、同じ夢を見てたっていうか」
──それにしても、デビューまで長かったよね。
「よく言われますけど、長かったって思わないんですよね。A.B.C-Zもいたし。青春時代をいっしょに、2つのグループでがんばってきたから、あっという間だったというか。俺、キスマイ以外で、いちばん好きなグループ、A.B.C-Zです。仲間って感じがするんですよね。もちろんライバルですけど」
──A.B.C-Zがデビューしたとき、どう思った?
「うれしかったですよ。俺たちも、もっとがんばんなきゃって思ったけど。A.B.C-ZのDVD買ったんです。塚ちゃん(塚田僚一)に“買ったぜ”って言ったら“ありがとう”って。“塚ちゃんは、『Everybody Go』買ってくれた?”って聞いたら、“買ってない!”って(笑)」

ラブじゃなくていい、ライクでいいから

──今後は、どうなっていきたい?
「俺が芸能界でホント、カッコいいなって思ったの、ウド(鈴木)さんなんです。カメラの前でも裏でも全然変わらない。あの人のキャラクターって、ほかにいないじゃないですか。絶対に誰ともかぶらない。そういう人、オンリーワンになりたいです」
──自分だけの道の見つけ方、ヒントってあると思う?
「あったら教えてほしい(笑)。でも、人って追い込まれたり、ヤバイってときに、とんでもないアイデアが出てきたりする。俺みたいに(笑)。だから、必死で探したら、絶対に自分だけの何かって見つかると思う」
──じゃあ、Jr.の後輩に、「宮田くんみたいになりたいです」って相談されたらどうする?
「“マジでやめたほうがいいよ”って言うと思います。マネしてもいいもんじゃないし。ホントに悩んでんなら、俺は答えてあげられるような人間じゃないから、“キタミツに聞いて”って言うかな(笑)」
──改めて聞くけど、宮ゲーを初めてやったとき、ファンの反応って不安じゃなかった?
「たしかに。でも、なんて言うのかな。大好きってファンがたくさんいると、同時に大嫌いってアンチもいると思うんです。俺、そういうんじゃなくていいんです。特別に好きじゃなくていい。なんか、ラブじゃなくていい、ライクでいいから全員に好かれたいなって」
──だから、いつも笑ってるんだ。
「だって笑ってる人見たら、見た人も笑うでしょ?」
──怒ったとこ見たことないよ。メンバーにイジられても、ずっと笑ってるよね。
「メンバーにイジられて、ヤダなって思ったことないですからね」
──ただ、イジリとイジメのラインって、微妙な気もするけど。
「それ、ファンレターにも書いてあったりするんです。“あれはイジメじゃないですか?”とかって。俺、イジメとイジリのちがいって、愛があるかないかじゃないかって思ってるんです。それが、好きだからしてる行為なのか、嫌いだからしてるのか。それって、イジられてる側は、すげーわかるんです。正直、俺は学生時代を含めれば両方経験してる。誰かが境界線を決めるんじゃなくて、自分で引けばいいと思う。イヤだなって思ったらイジメで、そうは思わないならイジリなんだって」
──なるほど。最後に、夢も、特技も、趣味もなかった、オール3の少年は、月日が流れた今、何か抱いてる夢ってある?
「今は、ずっと笑ってたいなってのが夢ですね。極端な話、棺桶に入る日が来て、僕の顔をのぞいた人が、“なんか、笑ってない?”“あれ、半笑いじゃん?”って言って笑ってほしい。そんな顔で死ねるような人生を送るのが夢です。“そうだね、コイツ最期まで笑ってるね”って」

取材・文/水野光博