Myojo

10000字ロングインタビュー

好きだから、ずっと7人で歩き続けられる。

10000字ロングインタビュー

『僕がJr.だったころ』

Kis-My-Ft2編

第7回

藤ヶ谷太輔

ふじがや・たいすけ
1987年6月25日生まれ。神奈川県出身。AB型。身長175cm。
1998年11月8日、ジャニーズ事務所入所。
2011年8月10日、Kis-My-Ft2としてCDデビュー。

※このインタビューは、MYOJO2013年6月号に掲載されたものに、加筆・訂正したものです。

別々の道を歩んでいた人間が集められ、ひとつの道を進むことになった。
7人だったから生まれる衝突や嫉妬に、ときに傷ついた。
でも7人だからつかめたものが無数にある。
だから、これからも7人で歩き続ける…。

“僕に話しかけるなんてすごいね。YOU、残って”

──小さいころ何になりたかった?
「ヒーローです。なんとかレンジャーとかが大好きで。後楽園ゆうえんちとかに、ヒーローショーをよく見に行ってました。握手してもらって感動して、本気で大人になったらヒーローになろうと思ってましたね」
──何色が好きだったの?
「目立つから、絶対に赤がよかったです。でも、物語が進むと、5色のヒーローじゃ勝てない敵が出てくるんですよ。そうすると、シルバーとかゴールドが出てきて。“あ、こっちもいいな”って。みんなが、本当のピンチのときに登場するヒーローになりたかったんですよね」
──3人兄弟の長男だよね?
「はい。長男って、おやつとかオモチャとか、自分がほしくても譲らなきゃいけないことってあって。最初、ガチで“絶対あげない!”とか言ってたんですけど、泣きながら“あげる”って言ったのおぼえてます」
──いいお兄ちゃんだったんだ。
「親父、昔、誕生日とかに必ずビデオを撮ってたんです。それ見ると、何才くらいからかな!? 俺、口グセが“僕、お兄ちゃんだから”だったんですよね。なんでもやってあげたくて。たとえばクリスマスプレゼントを兄弟でもらったら、自分のだけじゃなく弟のラッピングも開けちゃう。親切心なんだけど、弟は自分で開けたかったから泣いちゃったりして」
──NHKの『パジャマでおじゃま』に出たのって、そのころ?
「そうです。スタッフさんが着替えのシーンを録りに家に来たんですけど、俺、すごく人見知りで、“いい”って断って。そしたら真ん中の弟がやることになって。それが悔しくて泣いて、“やっぱり僕がやる”って。後日、スタジオに呼ばれて、オレンジの風船を持って、キャラクターのまわりを回ったのおぼえてます」
──人見知りだったんだ。
「誰とでも、すぐ仲よくなれる印象があるかもしれないですけど、じつは今でも人見知りなんですよね」
──小学生時代はどんなコだった?
「ヤンチャでした。授業中、席に座ってない時間が長いみたいな」
──小5でオーディションを受けてるよね。履歴書を送った経緯って?
「誰が送ったかわかんないんですよね。いまだに謎です」
──じゃあ突然、一次審査合格の通知が来て驚いたんじゃない?
「ビックリしました。母親に、“知らない人から手紙が来たよ”って言われて。俺、そのころ、学区外に遊びに行ったり、ヤンチャに拍車がかかってて。小5の知識ながら、“指紋かなんかでバレて、少年院から手紙が来た。ヤッベー!!”って思って(笑)。今考えたら、捕まるようなことじゃないんですけどね。で、よく見たら、ジャニーズからみたいな。あんまよくわかんなくて、“行かない”って言ったんですけど、母親が、どうせ受かんないし、社会勉強のために行きなさいって」
──オーディションはどうだった?
「確か俺は34番だったのかな? 番号札つけて踊れって言われて。見よう見まねで踊りましたね。でも、とにかく早く帰りたかったんですよ」
──なんで?
「その日、学芸会だったんです。転校した友だちも見に来ることになってて。会のあと、みんなでごはんを食べようって俺が計画してたんで」
──だから、早く帰りたかったんだ。
「ギリ間に合うかもみたいなタイミングでオーディションが終わって、ホワイトボードに番号が書かれた人は残ってってなって。1番から順番に書き始めて、40番台まで書き出したんで、“俺はない。よかったー”って帰ろうと思って、番号を書いてる人に“札ってどこに返せばいいですか?”って聞いたら、“初日に僕に話しかけるなんてすごいね。YOU、残って”って。ボードの右下に34番って書かれ“うわ、終わった”って」
──まさか、自分が芸能界に入るなんて考えたことあった?
「全然。だけど、あとあと気づいたんですけど、俺の誕生日、1987年6月25日って、光GENJIが結成された日なんですよ。今、こうやって同じようなスタイルでパフォーマンスさせていただいている。運命というか、なんか、グッと来るものがありますね」

自分から辞めるって言えってことなんだろうな

──Jr.の活動はどうだった?
「仕事やレッスンがあると電話があるんですけど、最初は毎日のように呼ばれて。母親に“中学どうすんの?”とかムダに心配されて」
──お父さんの反応は?
「親父に“おまえ、将来どうすんだ?”って言われて、俺は“この仕事やる”とか軽く返事して。両親は、俺が本当にやりたいなら、東京に家を買う。そうじゃないなら父親の母がいる静岡に引っ越そうって考えてて。そんなことも知らず、俺、“がんばるー”とかのん気に答えて。結果、今、東京に住んでるんですけど。Jr.に入ったばっか、将来なんて何ひとつ約束されてないし、俺がどんくらい真剣なのかすら不透明。なのに、親父の俺にかけてくれた想いとか、年を重ねて、すっごい感じて。両親ってすげーって思いますね」
──そうだね。
「なんか、昔から“おまえの人生は、おまえのものだから”ってよく言われたんです。おまえが選んだんなら、人に迷惑をかけないかぎり何やってもいいって。その言葉の重みがわかるの、ずっとあとなんですけどね」
──その後も、Jr.の活動は順調?
「それが、ある日を境に電話が来なくなって。最初は、“あ、今日は休みだ”って思ってたら、次の日も、その次の日も来なくて。空白の期間が2年間くらい続きましたね」
──何があったの?
「特に何も。でも、呼ばれなくても苦痛じゃなくて。まだJr.の活動が、好きでも嫌いでもなかったんで。なんかこう、フラットな状態というか。来いって言われたら行く。踊れって言われたら踊るっていう」
──じゃあ、久しぶりにかかってきた電話は、どう思った?
「“え、まだ続いてたんだ?”って。すぐ、中丸(雄一)くんとかがいるグループに入れてもらえて。でも、中学生って夜8時以降活動できない。なんかのテレビ番組の収録のとき社長に、“YOU、年令いってないの? 出られないじゃん”って言われ、俺は外れて。そのグループがのちに、KAT-TUNになったんですよね」
──悔しかったんじゃない?
「そう考えた時期もあったけど、そうじゃないなって。あったかもしれない未来を悔しがるより、大事なのは今だろって。俺、今がいちばんベストだと思ってるから」
──そう考えられるって、すごいね。
「じょじょに、そう考えられるようになったんですけどね。俺、この仕事、本気で好きになったの、もう少しあとなんで」
──好きになったタイミングって?
「2003年ですね。またしばらく呼ばれない期間があって。次に呼ばれたのが、嵐のコンサートのバック。呼ばれたJr.の人数が、すっごい少なかったんですよね。それまでは、ステップまちがっても、バレないくらい大勢だったのに。ミスしたのもわかんないし、逆にがんばっても映んない。でも、そのときは、やることがいっきに増えて、嵐の着替えを手伝ったりもして。タイミングをまちがったら大変なことになる。俺のポジションは誰でもできたんです。だけど、そこに自分が抜擢されてる責任感を感じたというか。厳しかったけど、(松本)潤くんとか、個別にJr.の振りを見てくれたりもして」
──大変だったろうね。
「でも、嵐が初めて名前で呼んでくれたりしたのが、うれしくて。それに、ライブの最後に、ファンの人がJr.に“ありがとう”って、涙を流しながら言ってくれたんです。これってすごいなって。人の気持ちを動かすって大変だけど、自分が何かやって誰かがよろこんでくれたり、それこそ誰かの人生が変わる可能性があるってすごいなって。そっからですね、俺が真剣にやりだしたの。コンサートのオーラスで、俺、気持ちがたかぶって泣いちゃったんですよ」
──そのシーン、知ってるよ。
「(櫻井)翔くんが、泣いてるの見て抱きしめてくれて。“おまえ、よくがんばったな”って。そんとき、俺は“そろそろ辞めようかな”って考えてたから、救っていただいたというか。翔くんや嵐は、やっぱ特別な存在なんです。自分にとって。ずーっと心の中にある感じですね」
──2004年にはKis-My-Ft.が結成されたよね。
「グループを組ませてもらったけど、デビューなんて、まだ全然、頭になかったから、ただがむしゃらにやってました。でも、本気になったからこそ、ぶつかると痛いんですよ」
──どういうこと?
「ケータイのCMのオーディションに北山(宏光)、(横尾)渉たち、4人で行って。そのオーディション、俺だけ落ちたんです」
──ひとりだけ…。
「気持ちのコントロールができなくて、ひとりでずっと悩んで、“あー、これ事務所は絶対、自分からやめるって言えってことなんだろうな”って。そのCM流れたらチャンネル変えてましたね」

暗闇から現われる伝説のローラースケーター

──2005年にはKis-My-Ft2が結成されたよね。
「当時、グループができてはなくなってってのが、よくあったんで、“あ、いつかなくなるだろ”って思ってましたね。あとキスマイは基本、いろんなグループからはずれたヤツの集まりなんで、“大丈夫か?”って」
──そうだったんだ。
「でも、今思うと、だからこそ、強みになったんだなって。それぞれ苦しみや悔しさを経験した。それが個々の基盤にあったというか」
──結成当初、兄組と弟組で確執はなかったの?
「ありましたよ。やっぱ、うちら3人は年上だから、下にいろいろ教えなきゃなんない。でも、下からしたら“この人たち、なんもできてないのに…”って思って当然ですよね。最初は、ホントなんにもできない7人で。とりあえず試されたんでしょうけど、北山とふたりで歌やMCをやって。はたから見たら、なんであのふたりだけってあったろうなって思う。でも、出てる分の苦しみはありましたね。それをわかってほしいってことじゃなくて。北山とは、おたがいがすごいこう、なんだろう、それこそ並行に保ってた時期というか、片方のバランスが崩れると、もう一方も崩れるみたいな経験もしたし。どっちかが出るとギクシャクしたりってのもあったし」
──そうなんだ。
「上の3人にしたって、そんな単純じゃなくて。ジャニーズに入ったのは俺が最初。北山と渉はあとから入ってきたけど年上。俺はジャニーズの伝統を、長く見てきたってプライドがある。向こうは、年上ってプライドがある」
──プライドがぶつかった?
「ですね。嵐コンのときとか。ライブでは、“Jr.は出番が終わってもシャワーに入れるのは、アンコールを終えた嵐がシャワーを浴びたあとに、時間があったときだけ”っていう暗黙のルールというか、伝統があって。知らない北山とかは、“シャワー行ってくるわ!”って嵐より先にバーって入ったり。それが潤くんの耳に入って、俺、謝って。でも、萎縮しちゃうだろうから、潤くんに怒られたことは北山に言わない。“先に入るな”ってだけ伝えて。北山からすれば、“なんで年下に、そんなこと”って思うでしょ」
──損な立場だね。
「俺は嵐コンけっこう出していただいてたんで、嵐のメンバーが俺には言いやすかったんだと思うんです。“Jr.にこれ伝えといて”とか“あそこの振り固めしておいて”とか言われるのも、俺が多かったんで」
──横尾くんはどんな感じだった?
「渉なんか、いちばん嫌いでしたね(笑)。よくケンカしましたもん。“話しかけんな!”とか言われて、“ぜってー話さねー”とか思ってたら、ほんの数時間後に、“いっしょに帰ろー”とか話しかけてくるんですよ。もう記憶喪失なんじゃねーのくらい思ってました。でも、イライラしたけど渉なりに仲直りのきっかけ作りしてくれてたんですよね。渉、まっすぐすぎて愛想よくできないし、媚なんて絶対売れない。すっげー不器用だけど、なんか似てんなーって。だから、好きなんですよね。それに、俺は千賀(健永)と仲よかったりしたから、宮田(俊哉)や二階堂(高嗣)、下の不満が集まるのも俺で」
──板ばさみだったんだ。
「でも、個人個人は好きだったんですよ。仕事場行ったら仲いいヤツがいて、わちゃわちゃしてるのが楽しくて。ツアー中とか寝てないですもん。今考えると、絶対できない、ふざけたことやってたなと」
──どんなことしてたの?
「ホテルの廊下で、“裸で走って驚かせようぜ!”みたいな(笑)。ノリがすべてみたいな感じで。“俺はいい”とかって言うのがサブかったんですよ。今考えたら、よくやるなと思うんですけど。それこそ、キスマイで全裸になってないヤツなんていないと思いますよ。タマ(玉森裕太)でさえ。一時期、伝説のローラースケーターってのがいたんです(笑)」
──伝説のローラースケーター?
「部屋の明かり暗くして音楽流して。10秒して明かりパッてつけたら、裸でローラースケート履いてる。そういう時代、みんなあったんですよね」

メンバーは“運命的に出会った赤の他人”だと思ってる

──じゃあ、キスマイの絆って、どうやって強くなっていったの?
「正直、最初は立ち位置とか関係なしに、“絶対に俺がいちばん”みたいなこと、それぞれが思ってたんですよ。気持ちとしてはいいんですけどね。絶対、誰かをほめたりしなかったですから。不安だったんです」
──不安?
「デビューしたい。でも、誰もどうしたらいいかわかんない。だから誰かが茶髪でロン毛にしたら、便乗して金髪にするヤツがいたり、誰かが髪切ったら、俺も切るってなってみたり。“俺ら、7人だよな”みたいな、なんか弱い仲間意識で結ばれていたというか。やっぱ個々でグループと別で仕事したり、外からメンバー見るようになって、あらためて認め合っていった流れを感じますね」
──メンバーで最初にドラマに出たのは、藤ヶ谷くんだったよね。
「ジャニーズの外に出て、自分が立ってる場所に気づかされて」
──立っている場所?
「メンバー全員勘ちがいというか、視野がすごく狭くなってた。もちろん自分も。ドラマの現場に行ったら、スタッフの誰も俺のこと知らない。それこそ、“あ、上戸彩さん、こちらです。キミ、誰?”的な扱いを受けるわけです。“あ、これが現在地だ”って。そっから意識を変えたんです。まだまだなんだって」
──そのこと、メンバーに伝えた?
「言葉じゃない、態度で示そうって。俺はもう、思ったように突っ走りました。でも、しばらくして千賀が、よそよそしくなったんですよね。“なんなの?”って話をしたら、“なんなのじゃなくて、ひとりで突っ走りすぎてんじゃない”って言われて。あ、自分もどっかちがったのかなって。何が正しいか、何がまちがってるか、みんなわかんなかった。もう、ごちゃごちゃ。ただ、それぞれが迷ったり、とまどったりしながら、それぞれの方法で、このグループを前に進めようと思ってた」
──なるほど。
「でも、千賀に“ひとりで突っ走りすぎ”って言われたの、なんかうれしかったんですよね。コイツも、大人になったんだ。グループのこと、いろいろ考えてんだって」
──Hey! Say! JUMPがデビューしたのは、そのころだよね?
「きつかったですね。JUMPの前座でステージに立たなければいけない。“俺ら客寄せパンダじゃん”って。でも、JUMPのせいじゃない。やり場のない思いというか、振り上げた拳のおろしどころがわかんなくて。7人で、“明日、リハだけど行かないっしょ”とか言い合って」
──来ないメンバーもいた?
「みんな、散々言うけど、ちゃんと来る。自分も含め、“コイツら、なんかちっちぇーなー”って(笑)」
──ハハハハ。でも、投げ出さないって大事だよね。
「グループじゃなくて個人でやってたら、来ないヤツいたと思うんです。でも、俺らは7人でグループ。7人、それぞれの人生があるし、俺たちを好きだって言ってくれるファンがいる。自分のことだけじゃない。それぞれが、7人分の未来を背負ってた。だから、続けられたんだと思う」
──いつか、デビューできると思った?
「思ってました。いつかデビューしたいってハンパな想いじゃなくて、“デビューできる”って自分を奮い立たせてやってました。最初は、是が非でもこのメンバーでデビューしたいなんて思ってませんでしたけど。でも、ずーっといっしょにやってきて、おたがいが、おたがいのこと、わかってくる。だから、“この7人でデビューできる”って。俺、メンバーって、“運命的に出会った赤の他人”だと思ってるんです」
──運命的に出会った赤の他人?
「生きてくうえで大事なことって、出会いと、経験だと思ってて。それこそ俺は、誰が履歴書を送ったかすらわからないのにジャニーズに入った。ほかの6人も、それぞれの道を歩んでジャニーズに入った。そしてグループになって、いろんな時間をともに過ごし、気づけばハプニングのときとか、自然にカバーし合うようになって。もちろん“ゴメンなサンキュー”ってコミュニケーション取るときもあれば、言わなくても、おたがいそれが普通でしょってときもある。他人同士が出会ったのは偶然かもしれない。だとしても、素敵な偶然だなって。履歴書送ってくれた誰かに、感謝してます。メンバーに出会わせてくれたんだから」
──この7人でデビューできるって確信があったんだ。
「ありましたね。でも、それは俺の感覚だから、“大丈夫だよ!”みたいに熱くメンバーに語ったことはないです。だから、なんも考えてない感じに、メンバーやファンには見えてたかもしんないんですけどね」

アイツは絶対に乗り越えますから

──コンサート中、デビュー決定を知らされた瞬間、何を思った?
「あんまよくわかんない感情というか。“きたね、俺たち”っていうか。なんか。うん。思いましたね。今までの、記憶がフラッシュバックしたんですよ。バーッて。でも出てきた記憶、全部、誰かの背中が見えてた。バックでついてた2列目の景色で。こっからは最前線に立って、俺らで新しい時代を作ってくんだって」
──家族もよろこんだでしょ?
「はい。親父は反応薄かったですけど(笑)。仕事の話、ほとんどしたことなかったし」
──そうだったんだ。
「だから、ドームコンに、親父を誘ったんです。今まで、誘っても“予定がある”って、ずっと来なかったんで。俺が選んで、俺が今やってる世界を一度、親父に見てもらいたかったから。でも、親父は当日になっても、“本当に行きたい人に席を譲ったほうがいい”って母親とケンカして。最後は、しぶしぶ来たんですけど。コンサートが終わり、俺が家に帰って、“どうだった?”って聞いても、“すごい人だった”とか“セットがすごい”とかしか言わないし」
──見てほしかったの、そこじゃないのにね。
「まあ、親父らしくていいかなと思って。で、俺が風呂に入ってたら入ってきて。“初めて見たけど、あんな大勢の人を笑顔にして、すごく感動した。見てよかったよ。おまえが本当にめざすなら、ナンバーワンになってほしい”って言って風呂の扉を閉めるっていう。なんか、うん、うれしかったですね。素直に。母親のふだんの応援も、うれしいですけど」
──デビュー前に、脱退しようとする横尾くんを引き止めてるよね。
「今思えば、やめたければやめればよかったんですけどね(笑)。でも、簡単に“やめないほうがいいよ”とは言えませんでしたね。渉の人生にとって、何がいいことか誰にもわからない。すげー真剣に考えて、もうなんか、わけわかんなくなって。それでも、渉にいてほしいって想いが、いちばん強かったから引き止めて」
──なぜ、引き止めたんだろう?
「Kis-My-Ft2っていうグループは、やっぱり7人なんですよね。誰がセンターにこようが、仕事の量がどうだろうが、今でいえば衣装のこととか。正直、俺らでもコントロールできない世界もある。でも、やっぱ7なんですよ。7人でKis-My-Ft2ってのは、俺はずっと思ってる。ファンにも思っていただきたいというか」
──横尾くんは、「自分はがんばってこなかった。デビューできたのは6人のおかげ」って言ってたよ。
「がんばってなかったら、この世界にい続けられるわけないでしょ! 数時間で何十曲も振り覚えて、同時に舞台のセリフ覚えて役作りして。それが渉の本心だと思うなら、なんにも見えてないんだと思う。だって、好きじゃなかったら、ファンの前で、あんなふうに笑えないでしょ? がんばってるなんて言わないし、見せない。アイツ、不器用だから。でも、今こうしていられてんのは、7人でいたからって確信してる。俺は、渉やほかのメンバーに助けてもらったし、俺も自然に誰かを助けただろうし」
──玉森くん、ドラマ『美男イケメンですね』で、助けてもらったって言ってたよ。
「そこは、なんもしてないですね。俺がしたのは空気作りくらい。タマは初主演で、ホント苦しんでたから」
──そういうのって、わかるの?
「わかりますね。言っていいのかわかんないですけど、“藤ヶ谷くんが廉役のほうがよかったんじゃない”とか、そういう雰囲気があるのを現場でも感じて。スタッフさんにも、相談されたんですよ」
──なんて?
「タマ自身、どう演技していいかわかんなくなってる。迷わず演技させるため、リハーサルやらずに本番やったほうがいいのか。それとも徹底的に指導したほうがいいか。でも、そうするとよけい悩んでしまうかもしれない。だから“いちばん、玉森くんを知ってるの藤ヶ谷くんだよね。どうしたらいいと思う?”って」
──なんて答えたの?
「“アイツは、逃げません”って。どんだけ追い込まれても、絶対に乗り越えます。だから、アドバイスがあれば、どんなことでも言ってあげてください。追い込まれてから、そっからが勝負だと思いますって」
──そんなことがあったんだ。
「それ以降、タマだけ残って特訓したりしてました。タマ、変わりましたね。自信がついたというか。だから、俺は何もしてないし、タマはいろんな人に支えられながら、自分で壁を乗り越えたんです」
──乗り越えられるって信じてた?
「一瞬も疑ったことないです」

20年、30年たって、7人そろって笑ってたいんです

──キスマイの未来。なにかイメージしてることってある?
「ひとつ思ったのは、『シニカレ』をやらせていただいたときなんですけど、すっごいスケジュールがハードで。俺、初めてマネージャーさんに、“寝る時間いらないんで、セリフをおぼえる時間ください”って言ったんです。でも、すぐ『ビギナーズ』の収録に入るから、“正直、時間は作れない”って言われて。『シニカレ』、10ページの台本でも2カットだったりしたんです。どっかでまちがったら、また頭から。6時間押しとか当たり前だったんですね。スタッフさんとかも疲れてる。“チッ”とか聞こえたりするんですよ。俺自身、疲労もプレッシャーもすごくて」
──極限状態だね。
「そのとき“なんで、こんなことやってんだろう”って思ったんです」
──つらいのにね。なんでだった?
「すっげーシンプルなんですけど、やっぱり好きだからなんですよね。この仕事が好きだから。応援してくれるファンが好きだから。そしてキスマイの一員だから。それがやっぱ自分の芯というか、そこがブレたらもう続けてられない。7人ともそうだって、自信を持って言える。好きだから続けてるんです」
──なるほど。
「だから、今はもちろん大事。だけど、20年、30年先に7人でいることのほうが大事というか」
──7人でいること、か。
「ただ馴れ合いはホント、イヤなんですよね。デビューの前に7人でメシに行ったんですけど、これからどうなりたいか、バーッて言い合ったんです。俺が言ったのは、“今日の食事会、楽しかったねで終わるなら意味ない。だったら、次に7人での食事会があっても、悪いけど俺は参加しない”って。タマも渉も同じこと言ってました。仲がいいに越したことない。でも、馴れ合いとか、傷のなめ合いとはちがう。夢って語るだけなら意味ない。一歩でも、近づくためのことをしなきゃいけない」
──夢に向かって、走り続けるってことだね。
「“今”の積み重ねが人生なのかなって思うんですよね。この先、20年、30年たって、7人そろって笑ってたいんで」
──なんか、本当に7人組のヒーローみたいだね。
「これからだって、7人にいろんなことがあると思うんです。何十年後かに、7人で歩いてきた道を振り返るときが来たら、横一列で7人並んで、笑って振り返りたいんです。笑ってる俺らを見て、どんだけ多くの人がいっしょに笑ってくれてるかってことが、いちばん大切だから」

取材・文/水野光博