Myojo

10000字ロングインタビュー

全部、自分で背負うってのは、やりがいがある。
責任もプレッシャーもあるけど、ソロ活動は、
ファンの方ひとりひとりをより大事にできてるなって、
そんな実感があるんです。

10000字ロングインタビュー

『僕がJr.だったころ』

中山優馬

なかやま・ゆうま
1994年1月13日生まれ。大阪府出身。A型。身長173cm。
2004年9月、『Jスポーツ2004 EAST VS WEST 野球大会』のオーディションに合格し、出場。
2006年10月8日、2度目のオーディションに合格し、ジャニーズ事務所入所。
2009年7月15日、中山優馬 w/B.I.Shadow、NYC boysとしてシングル『悪魔な恋/NYC』をリリース。
2012年10月31日、初のソロシングル『Missing Piece』をリリース。

※このインタビューは、MYOJO2014年9月号に掲載されたものに、加筆・訂正したものです。

周囲はもちろん、 優馬自身にとっても、 衝撃的なデビュー。
常に格上の扱いをされることに「そのままでよかったのに…」と悩み、
去っていこうとする仲間へ、 声をかけることをためらった。
「エリート」であることを背負おうと決めた
今だから話せる、「全力」の誓い。

お母さんと離れるのがイヤやった

──孤独を感じることってない?
「うーん、今は特にはないですね」
──じゃあ、小さいころのことから聞いていくけど、どんなコだった?
「泣き虫でした。めっちゃ。お母さんと少しの時間でも離れるのがイヤやったんですよ。不安になっちゃって」
──寂しがり屋だったんだ。
「ですね。人見知りでしたし。アウェーな状況とか、すっごく苦手で。従兄弟の家に泊まりにいくのもイヤでしたから。幼稚園でもずっと、お姉ちゃんの教室にいて。おやつの時間だけ、自分の教室に戻る(笑)」
──ハハハハハ。
「あと、めっちゃ寝るコでした。幼稚園でもほとんど寝てて。お弁当の時間、食べながら寝ちゃったり。遠足でも歩きながら眠っちゃうんで、僕だけ先生に手を引かれながら歩いたっていう」
──野球を始めたのは小1だよね?
「泣き虫だったんで、鍛え直そうと親にやらされたんです。最初に体験教室があって、“一度やってから、やるかやめるか決めていい”って参加させられて。やってみて、“やらない”って言ったら、“もう入ったから”って(笑)」
──最初はイヤイヤだったんだ。
「練習も厳しいし、やめたかったんですけど、やってるうちに好きになりましたね。けっこう強くて、大阪府で1位になったりもして」
──やっぱり、プロ野球選手になるのが夢だった?
「それは、考えてなかったです」
──じゃあ、当時から芸能界にあこがれがあったの?
「全然。関ジャニ∞、KAT-TUN、嵐は知ってましたけど。学校で流行ってたんで。でも、まさか自分がですよね。僕、漁師になりたかったんで」
──漁師?
「6才のとき、おじいちゃんに釣りを教えてもらって、一発でハマって。“沖に出れば、もっといろんな魚が釣れる!”って」
──釣り好きで有名だよね。クラスではどんなコだった?
「フツーでしたね。目立つことも全然なかったです。足が速いわけでもなく、自分発信で何かするようなコでもなかったし。空気を読むっていうか、流されるっていうか」
──でも、モテたでしょ?
「モテなかったわけじゃないですけど、めっちゃモテたわけじゃなくて」
──そうなんだ?
「小5のバレンタインに、好きだったコに呼び出されたんですよ。“よっしゃ!”って行ってみたら、僕以外も何人か呼ばれてて。でも、チョコに手紙がついてたんで、僕が本命かと思ったら“義理”って書いてあって(笑)」

YOUは、なんで2回もオーディション受けてるの?

──じゃあ、オーディションを受けた経緯って?
「最初に履歴書を送ったのは、5年生のときで。姉に“送っていい?”って聞かれて、よくわかんなくて返事に困ったら、お母さんに“500円あげるから”って言われて」
──釣られたんだ(笑)
「はい。そのときのオーディション、野球審査だったんです。キャッチボールして、ノックしてって感じで。ジャニーズの野球大会用にJr.が必要だったんだと思うんです。僕は経験者だったんで、オーディションに受かって」
──大会にも出た?
「出してもらったんですけど、たいして見せ場もなくて。そのあと、何も連絡なく2年たって。もう、完全に忘れてたんですけど、中1の10月に連絡が来たんです。“オーディションがあるから大阪城ホールに来て”って」
──もう1回、オーディションを受けたんだ。
「でも、中学でも野球部に入ってたんで、その日は試合だったんです。だから、行かないつもりで。朝、試合会場に行ったら、急にすごい雨が降って中止になって。家に帰ったら、お姉ちゃんがいて、“雨降ったから行けるやん”って」
──運命の雨だったんだ。
「今考えると、そうですね」
──2度目のオーディションは、どうだった?
「このときは、ダンス審査でした。でも、踊るのが恥ずかしい年ごろで、うしろのほうで踊ってたら、ジャニーさんに、“YOUは、なんで2回もオーディション受けてるの?”って言われて。僕のことおぼえててくれて、“もういいよ”って。そのあと写真を撮って。その写真が雑誌に載ったんです」
──急展開だ。
「ビックリでしたね。“プロフィールを書いて”って言われて書いてたら、となりにいたのが、今はジャニーズWESTの藤井流星だったんです。背が高かったんで、“何才やろ?”って思ってプロフィールをのぞいたら同い年で。“同い年なん!”って言ったらガン無視されたんですけどね(笑)」

中2の夏休み、辞めようと思ってました

──そして、Jr.の活動が始まったんだ。
「オーディションの1週間後くらいですね。連絡が来て、“明日、朝6時に集合”って言われて。何をするかもわからず行ったらバスに乗せられ、連れてかれたのが神戸のホールで。そこで関ジャニ∞のコンサートがあって。“見せてもらえるんだ”って思ってたら、出されました(笑)。右も左もわかんなかったんですけど、神山(智洋)が衣装の着方とか、全部教えてくれて」
──驚いたでしょ?
「はい。でも、MCのときに、僕と流星と神山の3人でステージに呼ばれて、“この3人がTOP3!”って紹介されて、もっと驚いて(笑)。それが始まりでしたね。それから、関ジャニ∞のコンサートや武道館のコンサートに呼んでいただいたりして。武道館のとき、山田(涼介)くんと初めて会ったんです。“かわいい顔したコだな”って思って。山田くんは、もう何年かやってたんで、先輩って感じでしたけど」
──この世界でやっていく決心ってできてたの?
「全然できてなかったです(笑)。呼ばれたら行くけど、辞めたくなったら辞めようくらいの感じで」
──そうだったんだ。
「でも、村上(信五)くん、安田(章大)くん、丸山(隆平)くんのソロコンが大阪の松竹座であったんです。僕はバックで出てて。あおる曲で、はしゃいだだけなんですけど、そのとき初めて楽しいと思ったんです。来てくれた人との一体感っていうか、なんか楽しいなって」
──2回目のオーディションに受かった直後、Hey! Say! 7 WESTのメンバーに選ばれたよね。
「それも急に決まって。何が起こってるかわかんなかったですね」
──Hey! Say! 7と比べられるプレッシャーはなかった?
「全然なかったです。向こうは本家で、こっちはニセモンみたいな感じで(笑)」
──大抜擢が続き、翌年にはドラマ『バッテリー』にも出演してる。
「ジャニーさんから電話がかかってきて、“野球のドラマがあるから、YOU、オーディション行っちゃいなよ”みたいな感じで。オーディションに行ったら、選んでいただいて。でも、初演技で何もわからなかったんで、今思うと、もったいないことをしたなって」
──もったいない?
「わかんなさすぎて、“なんでこんなに(収録に)時間がかかるんだろう”とかしか思えなかったですよね。全部の撮影が終わって帰りの新幹線で、すごく後悔したんです。“もう、あのチームで撮ることはないんだ”って。もっとやれることが、あったんじゃないかって」
──なるほど。「辞めたくなったら辞めようと思ってた」って言ってたけど、本当にそう思ったことってなかった?
「ありますね。中2の夏休みに、お台場であった『SUMMARY 2008』に出たんです。そのとき、事務所を辞めようと思いました」
──なぜ?
「やってて楽しいなって思えなくて。やりがいを感じられなかったっていうか。だから、朝、みんながまだ寝ているうちに起きて、こっそり新幹線に乗って大阪に帰ろうと思ったんです。そしたら……寝坊しました(笑)。今思えば、やりがいどうこうじゃなくて、単に東京に来て友だちがいない、話し相手もいない状況で、アウェーな感じが寂しかったんでしょうね」

自分のコピーロボットが、がんばってるみたいな感覚

──その後、中山優馬 w/Hey! Say! 7 WESTなど、名前が前面に出る活動が増えていったよね。
「うまく言えないですけど、最初はよくは思えなかったというか。“そのままでよかったのに”って感じがありましたね。ひとりだけ名前が出て、センターに立って、衣装もちがって……。みんな、口にはしないけど、絶対よく思わないはずで。せっかく活動が楽しくなってきてたのに、“なんで?”って」
──うれしさより、戸惑ったんだ。
「関西の仲間といっしょに活動していくうちに、ダンスも曲もいっぱい覚えて。“次はこの曲歌ってみたい。みんなでがんばろう!”みたいに思った矢先だったんで」
──そんなタイミングでのグループ名変更だったんだ。
「断れないですし、仲間に相談もできないんで。イヤミに聞こえますから」
──中山優馬 w/B.I.Shadowのときは、どうだった?
「(中島)健人と(菊池)風磨は、紹介されたことがあって知ってたんです。そのころ風磨は静かなコで、健人はおちょうし者で。でも、やっぱりアウェーでしたね。東京のJr.からは、“誰、キミ?”って感じで見られて、最初は」
──そのころって、土日のたびに大阪から東京に来てたんだよね?
「そうですね。早く大阪に帰りたいって、いつも思ってましたね。B.I.Shadowのファンの人たちからも、“なんだよ”って思われてるんだろうなって。でも、僕にはどうしようもできない。何を思われても、やるしかないんだって。この年、『PLAYZONE』にも出させていただいてるんですけど、土日しか来れなかったんで、リハ時間が足りなくて。先輩たちに囲まれ、足を引っ張らないように、とにかく必死でした」
──NYC boysとして、バレーボールのスペシャルサポーターもしたよね。
「山田くんと知念(侑李)くんは、Hey! Say! JUMPでデビューもしてる。なんか、寂しいっていうか、いろいろ思いましたね。でも、考えすぎてもしょうがない。それに、ふたりには、すごく引っ張ってもらって感謝してて。“衣装は、こっちより、こっちがいいです”とか“髪型はこうしたい”って言ってるのを見て、“僕も、こうしないとあかんな”って」
──NYC boysで紅白にも出場。
「まわりを見てもすごい人ばっかりなんで、現実感がなくて逆に緊張しなかったというか。ただ、JUMPのファンや、JUMPのメンバーへの申しわけなさは、ずっとあって。でも、そういう世界なんだって思い込んで。自分のコピーロボットがステージでがんばってるみたいな感覚があったっていうか。なんかホント、パーマンな気分でした」

上京前夜、背中越しの“東京、行かんとって”

──上京したのは、高校を卒業した2012年だよね。
「最初は地元の大阪の大学に行く予定で。事務所にもそう話してたんです。でも、“ここで東京に行かなかったら、どうなんのやろ?”って考えて。4年間、大阪にいたら……。22才で東京に出るのは遅いなって。でも地元が好きだし、東京は苦手だったんで迷いました。それでも、行かないとあかんのやろなって」
──決断できたのは?
「迷って迷って、結局、自分じゃ答えを出せなくて母親に相談したんです。意見を聞いて最終的に決めようって。もし、“行きなさい”って言われたら行こうって。でも、“迷ってんねんけど”って珍しく真剣に聞いたのに、あっけなく“行っといで!”って即答で(笑)。そんな簡単に言われると思ってなかったんで、深刻に考えてたのがバカみたいになっちゃって。“じゃ、行ってくる”って」
──背中を押してほしいこと、わかったんだろうね。
「母親は、やりたいことを尊重してくれる人で、明るくて、やさしいんです。僕の性格も知ってるから、重い話こそ、軽く話してくれる。東京に毎週末通ってたときも、顔に出てたんでしょうね。ちょっと憂鬱な感じが。すっごい軽いテンションで、“じゃあ稼いできてください!”って送り出してくれて(笑)。それで、すっごい気が楽になって。“がんばってね”って真顔で言われたら、重く感じちゃったと思うんです。ホント、両親には感謝してます」
──親孝行しなくちゃね。
「それはありますね。うん。少しは、してるかな。親父が病気になって、今の仕事は、やめたほうがいいって医者に言われたことがあって。お母さん、喫茶店で働いてたんですけど、いつか自分の喫茶店を持つのが夢で。このタイミングだと思って、小さな喫茶店を建てたんです。今、ふたりでやってますね」
──じゃあ、今、考えると、上京は正解だった?
「はい。出てこなかったらって考えたらゾッとします。東京に出て来たからこそ、今、自分がやりたいことに少しずつ近づいているんで」
──そうだね。
「でも、上京の前日、忘れられないことがあって。妹は8コ下なんで10才とかだったのかな。“最後の夜だから、お兄ちゃんといっしょに寝たい”って言い出して。寝言なのか、起きてたのか、今でもわかんないですけど、“東京、行かんとって”って背中越しに言われたんです。何も答えられなくて。あの瞬間は……泣いちゃいましたね」
──上京と同時にひとり暮らしを始めたんだよね?
「寂しかったんで、実家の自分の部屋の家具の配置とほとんどいっしょ、カーテンも同じにして(笑)」
──ホームシックになった?
「そこまではなんなかったです。でも、仕事がない日は、最初は友だちもまったくいなくて、1日誰とも話さない日もあったりして。当然、遊ぶ人もいない。精神的にきつかったのか、最初のほうは、ごはんを食べても、よく吐いたりしてましたね」
──大変だったね。
「じょじょに慣れていきましたけどね。3カ月くらいかな。大阪から、上京してる地元の友だちがいて。そのコと、よくごはんを食べに行ったり、友だちを紹介してもらったりして」
──じゃあ、忙しい時期に、がんばって大学に入ったのに、あっさり1年でやめたのは、なぜだったの?
「ぶっちゃけ、友だちを作る場所がほしいなくらいの気持ちで入ったんです。芸能界の友だちもいなかったし、できなかったんで。でも、大学でもあんまりできなくて(笑)。気づいたんですよね。そういうつもりで行ってたら、できないなって。友だちって作るもんじゃなくて、自然とできるもんなんだって。だから今は、仕事に集中しようって、きっぱりやめたんです」

自信は持ったほうがいい。だけど、過信はするなよ

──芸能界の友だちって、今もそんなに多くはいない?
「今はいます。特に仲がいいのは、山田くんかな。先輩方にも、ホントよくしてもらってます」
──今まで、舞台やドラマ、いろいろ接点があったよね。
「(今井)翼くんは、『PLAYZONE』で、初めてごいっしょさせていただいて。それ以来、兄貴みたいな感じですね。初対面のとき、“がんばります”ってあいさつしたら、“気負わずやればいいから”って。タッキー(滝沢秀明)は共演した舞台の初日が終わったとき、“疲れた?”って聞いてくれて。“疲れてないです”って答えたら、“なんで疲れてないんだよ。疲れるまでやれ!”って冗談っぽくですけど言われて。たぶん、“疲れました”って答えてたら、“このくらいで?”って言われたんだと思います。僕の緊張感を保たせるために。タッキーは今も、唯一、相談できる人っていうか」
──たとえば、どんな相談をした?
「『ANOTHER』のとき、僕、“このシーンはやりたくない”って、社長に言ったことがあるんです。役の感情で理解できない部分があったんで。そのとき、タッキーに相談したんです。そしたら、“おかしいと思うことは、絶対にまちがいじゃない。ただ、自分がちがうと思っても、ほかの人は正しいと思ってることもあるんだよ”って。何より大切なのは、お客さんに楽しんでもらうこと。それはエンターテインメント性だったり、キラキラしてる姿だったり。そこに、ズレが生まれるのはしょうがない。1年目から完璧にこなそうと思ってる、おまえがまちがってるって。“俺も同じ舞台を何年もやって、少しずつ試行錯誤しながら変えていってんだよ”って」
──なるほど。
「それ以来、お客さんが何を求めているのか、僕らジャニーズのよさって、どこなのかって、もっと深く考えるようになりましたね」
──『SMOKING GUN』では、香取(慎吾)くんとも共演したよね?
「すっごい気さくに話しかけてくださって。『High Five』の曲やPVの感想も言ってくれました」
──それは、うれしいね。
「マッチ(近藤真彦)さんに焼き肉をごちそうになったこともあって。マッチさんと、黒柳徹子さんが舞台を見に来てくださって、翼くんと僕が連れて行ってもらったんです」
──すごい面子だね。
「もう一生懸命、肉を焼きましたね(笑)。こがしたらあかんし。でも、焼き上がっても、みんな楽しく話してはるから、遮って“できましたよ”とは言えなくて。内心、“ヤバイ、こげる!”ってあせったり。マッチさんには、『恋して悪魔』の劇中で使ってた指輪をいただいたりもしてます。“あげるよ。がんばれな”って」
──いろんな先輩に愛される理由って、何だと思う?
「わかんないですけど、心がけてることはあって。それは、調子に乗らないってことで。安田くんが『カゴツルベ』って舞台をやったとき、見に行かせてもらって。楽屋にあいさつに行ったら、僕がドラマに出ることを知ってて、“これから撮るんでしょ。自信は持ったほうがいい。だけど、過信はするなよ”って。この言葉、ずっと忘れないでいようって」

ふたりとの日々が、糧であり、誇り

──去年は『ぴんとこな』に出演。『PLAYZONE』に出演しながら収録をして、ドラマが終わって4日後には『ANOTHER』の舞台初日。大忙しだったね。
「大変でしたね。『ぴんとこな』は、“歌舞伎は10年やって初めてできるもの”って、指導してくださった方に言われてたんです。でも準備期間は3カ月しかない」
──そのころ、玉森(裕太)くんを取材したけど、手の皮は全部むけて、全身筋肉痛で痛々しいくらいだったよ。
「たった3カ月じゃ、本職の人には認めてもらえない。でも、“やったろっか”って、ふたりでなって。3カ月で10年分生きる。無理は承知だけど、限りなく本物に近づきたいって。大変なほうが燃えるんです」
──『ジャニーズ銀座』にも、去年、今年と2年連続で出てるよね。
「自分から、“出たいです”ってジャニーさんに言ったんです。僕、コンサートをやってなかったんで。NYCでもライブをしたいなって思ってたんですけど、まだ実現できてないですし。生のステージ、いっしょにお客さんとステージを作りたいなって思ってて。ライブでしかできないことってあるんで、楽しかったですね」
──ソロ活動、充実してる?
「はい! 全部、自分で背負うってのは、やりがいがありますね」
──逆に、言いわけできないって一面もあるよね。
「そうですね。そういう意味ではNYCのほうが楽だったかな。ふたりに頼ってたから。でも、責任もあるし、プレッシャーもあるけど、よりファンの方を、ひとりひとり大事にできてるなって、そんな実感があるんです」
──なるほど。じゃあ、これから、やってみたいことってある?
「まずは、可能な限り、地方でいっぱいライブをしたいです」
──NYCでの経験が糧になってたりもするのかな?
「はい。いい経験をさせてもらったなって。あのふたりは、本当に能力もポテンシャルも高いですから。いっしょにできたことが糧になってますし、誇りです」
──目標としてる人っている?
「誰を目標ってのはないんですね。ジャニーズでも、僕みたいな道を歩いてる人ってなかなかいないんで。自分で切り開かなきゃなって思ってます。最終的には俳優とアーティスト、両方やりたくて。アーティストとしては、今までのジャニーズではいないような人になりたい。僕、運動神経、格段にいいわけじゃないし、ダンスだってセンスはないほうだと思う。でも、努力で埋められるはず。だから振りつけは、屋良(朝幸)くんに協力してもらってます。屋良くん、ストイックなんで最後まで面倒を見てくれるんで」
──俳優としては?
「ジム・キャリーみたいになりたいですね。コメディー大好きなんで。コメディーをやりたいです」
──カッコいいよりも、おもしろいがいい?
「カッコつけるのが、いまだに恥ずかしいんですよ。“キュンとくるセリフを言ってください”とか、今でも苦手で。どうにか笑いの方向でごまかしたい。恥ずかしくて逃げ道を探してたら、コメディーにたどり着いたのかもしれないですね(笑)」

踏みとどまったのが、ジャニーズWESTだから

──聞きにくい質問なんだけど、エリートって呼ばれたり、思われることってどう思ってる?
「以前は、言われて、いい気はしなかったですね。大阪のコたちと、いっしょにやりたいなって思ってたときは特に。“俺はエリートじゃない。特別扱いしないで”って、ずっと思ってて。全員と同じ立ち位置で勝負したいって」
──その想い、どう変化していったの?
「東京でグループ組み始めて、B.I.Shadowとだったり、NYC boysだったりしてるときは、大阪のコたちとやりたいってずっと思ってました。言えなかったですけどね。当事者である大阪のコに言うのはちがうから。“やりたい”なんて言ったって“おまえはいいよな”って話やから」
──そうだね。
「でも、入った当時いっしょだったコたちが、将来に迷って、やめてくコもいて。それを止められなかったことに対して、寂しさというか、悔しさのようなものが今もあって。だけど、当時、“やめんなよ”とは言えなくて。感情的に、“あきらめんなよ。がんばろうよ!”ってことはいくらでも言える。でも、それが正解かどうかわからない。未来の保証なんてない。同じ場所で、同じグループでいっしょにやってるんだったら話は別かもしれないですけど。僕は東京で活動してる。想いを伝えるわけにもいかない。もっと俺に力があればって悔しかったです」
──苦しかったね。
「だから、どっかで僕を支えてたもののひとつは、大阪のコたちのためにってことだったというか。もし僕が仕事を取って、うまい具合に関西に回っていくようなことになれば、少しでも貢献できるかもしれないって」
──やっぱり関西には、思い入れがあるんだ。
「僕のホームなんで」
──でも、もう今はいっしょにやりたいとは思わない?
「うん。何年か前かな、もう大阪のコといっしょにやるべきじゃないってことも考えたんですよ。おごりや慢心に聞こえるかもしれないですけど、もし僕がいっしょにやったら、当時の状況を考えると、僕がセンターに立つことになったと思うんです。みんなと衣装もちがって。それじゃ、みんなが1コ下に見える。それは、よくないよ。だから、もう戻るべきじゃないなって。正直、事務所から“大阪のコと……”って話が、あったこともあるんです。でも、“それはやらない”って。もしかしたら彼らにとって残酷な判断だったかもしれない。でも、あんながんばってる人たちを、下の存在にしてまで、いっしょになんかできない。そのときかな、背負っていこうと思ったのは。“エリートだよね”って言われたら、“はい、エリートです”って答えようって」
──そんな想いがあったんだ。
「はい。だから、ジャニーズWESTのデビューって心からうれしくて。おめでとうって。みんな、“辞めるかも”って悩んでたから。僕は、高校卒業のタイミングで大阪を離れたけど、やっぱりそのタイミングって、みんなすごく迷ってて。“このままやってても……”って。実際、去っていった人もいる。それでも踏みとどまったのが、今のジャニーズWESTのメンバーだから」

“もし”なんてことはないから

──もし、過去の自分に会えるなら、何か伝えたいことってある?
「“もっと真剣にやれよ”かな(笑)。『バッテリー』のころの自分に言ってやりたいですね。でも、“もし……”なんてことはない。後悔とかを抱えて生きてくから、もう二度と同じ後悔しないってがんばれるんだと思います。だから、何も言わないかな」
──なるほど。
「あ、でも、“つながってるよ”ってことは伝えたい。関西のときのこと、B.I.Shadowとのこと、NYCのこと、その全部があって、今のソロがある。全部がつながってる。僕、“演技が好きだ”って思えたのが、『恋して悪魔』で。そのときのチーフ監督が『SMOKING GUN』の監督で。過去のできごとも、人との出会いもつながってく。過去の積み重ねが今だから。だから、今をがんばるしかなくて。歩いて来た道も、出会いもムダにしたくないんで」
──厳しい道を歩まされたって、事務所を恨んだことはない?
「まったくないです。全然。感謝しかないです」
──話を聞くまで、もっと孤独だったりするのかなって思ってたんだ。
「野球のデッドボールみたいなもんだと思います。観客には痛そうに見えたりもするけど、当の本人はそれほど痛くないみたいな。だって、仲間も、支えになってくれる人も、ファンの人たちもいる。僕はひとりじゃない」
──これからも、前を向いて進んでいくんだ。エリートという言葉をも背負って。
「はい。そう呼ばれることも、まだ実力が伴ってないってことも常に思ってて。だから歌もダンスも、芝居も、もっと上に。そのときにいただいた仕事を全力でやる。まだまだです。満足したらダメになっちゃうから。エリートと呼ばれる中山優馬っていう虚像を追いかけて、いつか追い越そうとしてる最中なんです」

取材・文/水野光博