Myojo

10000字ロングインタビュー

Jr.に入ってすぐに与えられた特別なポジション。
「普通じゃない」と、失ってから気づいた。
「メンバー内で浮いてんな」と感じたことも、今なら話せる。
自分でつかんだポジションからは、大切な仲間たちがいつも見える。

10000字ロングインタビュー

『僕がJr.だったころ』

Hey! Say! JUMP編

第5回

中島裕翔

なかじま・ゆうと
1993年8月10日生まれ。東京都出身。A型。身長180cm。
2004年3月28日、ジャニーズ事務所入所。
2007年11月14日、Hey! Say! JUMPとしてCDデビュー。

※このインタビューは、MYOJO2014年4月号に掲載されたものに、加筆・訂正したものです。

2007年に彗星のごとくデビューしたHey! Say! JUMP。
順風満帆なJr.時代を送ったように思える彼らだが、
そのぶんデビューしてから大きな壁にぶつかった者が多い。
JUMP編の第5章は、中島裕翔が語るターニングポイント。

「弟より育てるのが大変だった」って言われました

──小さいころ、どんなコだった?
「赤ちゃんのときから、繊細っていうか、けっこう神経質だったらしいんですよ(笑)。ちょっと、おなかがすいただけで泣いちゃうとか。母親に、“弟より育てるのが大変だった”って言われましたね」
──弟は、いくつ年下?
「6コ下です。親が撮りためてくれたホームビデオがあるんですけど、弟が生まれたころの映像もあって。けっこう面倒見がいいんですよ、僕。弟が立つのを一生懸命手伝ってあげたりしてて。だけど、おせっかいすぎるというか、画用紙に弟がグワーって絵を描き殴ってると“その色じゃなくて、こっちの色だよ”って、別の色のクレヨンを持たせたりしてるんですよね」
──たしかにおせっかいかもしれないけど、いいお兄ちゃんだね。
「親の注目が弟だけに集まって、ちょっとヤキモチやいたりとかもしましたけどね。強がるけど、じつはすごくかまってほしいみたいな。かまってちゃんなところがあるんでしょうね」
──ホームビデオで、何か印象に残った映像ってほかにあった?
「保育園のクリスマスパーティーで、演奏会をやってて。僕のとなりがシンバルだったんです。バッシャーンって大きい音がするじゃないですか。僕、明らかに鳴るのがわかってるのに、シンバルが鳴るたびに、大げさな表情で驚いてて(笑)。それを見て、みんなが笑ってるんです。そのころから、人を笑わすのが好きだったんだなって」
──じゃあ、ちいさいころって、何になりたかった?
「戦隊モノに憧れてましたね。でも現実主義だったんで、“背中にチャックがあるんでしょ”みたいなこと思ってました(笑)。小学校のころの夢は、消防士かレスキュー隊。人を助ける仕事がしたくて。よく通信簿に、正義感が強いって書かれてたんですよね」

オーディションで歌った『世界に一つだけの花』

──オーディションを受けた経緯は?
「母親が、滝沢(秀明)くんがすごく好きで。“受けてみる?”みたいな感じで聞いてきたの、うっすら記憶があって。小4の終わりくらいに、知らないうちに履歴書を母親が送ったらしくて。しばらくして、“渋谷に行こう”って突然、連れてかれたんです」
──Jr.のオーディションとわからず会場に行ったんだ?
「はい。でも、会場に男のコがいっぱいいたんで、なんかのオーディションだろうなとは思ったんですよね」
──受かりたいと思った?
「それより、レッスン着に会場で着替えたんですけど、人前で着替えるの恥ずかしいなって思って(笑)」
──ハハハハハ。
「ちょっとしたら集合させられて、知らない人が自己紹介したんです。“僕がジャニーさんだから”って。僕、“この人が社長なんだ”ってことより、自分にさんづけしてるってことが気になっちゃって、気になっちゃって」
──そっちに注目したんだ(笑)。
「そっちなんですよ(笑)。なんか、昔から人と感じるポイントがずれてるんですよね」
──オーディションはどうだった?
「地元のスクールでかじってたんで、ダンスは踊れたんです。そのころ僕、すっごい声がハスキーだったんで目立ったのか、途中で呼ばれ、“なんか歌って”って言われて。学校でよく歌ってたSMAPさんの『世界に一つだけの花』を歌ったらほめられて。そのあと、“ローラースケートできる?”って聞かれ、ローラーブレードならって答えたんですけど、ジャニーさんに、“YOUも来ちゃいなよ”って連れてかれたんです。そこで初めて会ったのが、増田(貴久)くんや北山(宏光)くん、藤ヶ谷(太輔)くんたちで」
──ローラースケートは滑れた?
「全然、できなかった(笑)。そのくせ、“疲れた”とか“帰りたい”って駄々こねたんです。ジャニーさん、“もう帰りな”って逆にやさしくしてくれて。それから、レッスンや取材に呼ばれるようになって」

撮影では、自分からセンターに立っていた

──MYOJO初登場で、いきなり表紙だったことっておぼえてる?
「そうでしたね。でも、それがすごいかどうかすらわからなくて。怖いものなしの性格だったんで、大人にも物怖じしないし。平気で女性のスタッフさんのヒザの上に座ったりしてましたから。今じゃ考えられないですよね(笑)」
──Jr.になってすぐJ.J.Expressが結成され、センターに選ばれてるよね。
「ホントすぐでしたね。だから、目まぐるしかったです。いきなり、いいポジションに立たせてもらうことも多くて。撮影とかで“じゃあ並んで”って言われると、“ここだろうな”って、自分から真ん中に立ったりしてましたね。今思えば、ヤなヤツですね」
──入ったばっかでわからないから、それが普通だと思ったんだろうね。
「普通じゃないんだって、あとになって気づかされるんですけどね」
──先輩たちには、すごくかわいがられたんじゃない?
「ですね。Jr.になってすぐTOKIOの松岡(昌宏)くんが監督した『自分のために』のPVにも出させてもらって。松岡くんが、モニターを見て、“くー、カッコいい!”って言ってくれたのが、うれしくて。長瀬(智也)くんには、ずっと下ネタを吹き込まれてましたけどね(笑)」
──ハハハハハ。そして早くも2005年には、ドラマ『エンジン』や『野ブタ。をプロデュース』に出てるよね。
「小学生なのに、すっごいスケジュールで。学校終わりに収録現場に向かうってのが当たり前でしたね」
──『エンジン』の思い出ってある?
「収録現場に木村(拓哉)さんがいて。“えー、本当に木村拓哉さんなの?”みたいな。僕、初めてで右も左もわからないくせに、ほかの出演者のマネして、演技が終わったら毎回モニターを見に行ってたんです。そしたら木村さんに、“いいんだよ。大人がチェックしてくれるから”って言われたのが忘れられないですね」
──じゃあ、『野ブタ。』のことでおぼえてることは?
「亀梨(和也)くんが、“弟役は裕翔がいい”って言ってくれたんで、役をいただけたらしいんですよね。亀梨くんには、事務所に入ったころから、すごく面倒見てもらってて」
──何かきっかけってあったの?
「最初にあいさつをしたら、“小さいのにえらいじゃん”って。そっからですね。『少クラ』(『ザ少年倶楽部』)とか出始めたころ、収録後、親に迎えに来てもらってたんですけど、亀梨くん、僕の親が着くまでいっしょに待っててくれて。ホント、お兄ちゃんって存在だったんで、『野ブタ。』の兄弟役は、現実がそのまま役になったって感じでした」
──主題歌の『青春アミーゴ』では、バックで、山田(涼介)くんとシンメだったよね?
「やってましたね。はい」
──山田くんとはどんな関係だった?
「山ちゃんは『Ya-Ya-yah』の公開オーディションで合格したんですよね。僕は半年くらい早いだけなんですけど、“あ、後輩ができたんだ!”って感覚がすごくて。僕からオーディションの日に、声をかけたんです」
──何人もオーディション生がいて、山田くんに声をかけたのはなんで?
「なんでだろう? 帰る方向がいっしょだったからかな? うーん、でも、なんかちがったんですよね、まわりのコと。すぐ仲よくなって、映画をよく見に行ったりしましたね。電車も同じ路線だったんで、レッスン後、いっしょに帰って。となりに座って、どっちかの肩に頭を乗せて、寝ながら帰ったりしてました」
──寝過ごしたことってなかった?
「ないですね。山ちゃんがしっかりしてるんで、ちゃんと起こしてくれたんですよ。“裕翔くん、着くよ”って」

僕がみんなを引っ張っていかなくちゃ

──ホント、Jr.になった直後から大活躍だったんだね。
「自分じゃ、調子に乗ったりしてる感覚はなかったんですけど、今思えば、気づかないうちに、どっかおかしくなってたと思うんです。幼かったな。すごく後悔してることがあって」
──後悔?
「山ちゃんが入って、1年くらいかな。“辞めようと思ってる”って相談されたことがあって。ずっと、言ってるんですね。ホームで電車を待ってるときも、乗ってるときも。“俺、辞めよっかな”って。山ちゃん、踊りうまいって、みんなに言われてたんです。なのになんで、辞めようと思うんだろうって思って。鈍感だったな。みんな、少しでもいいポジションに立ちたいって努力してるけど、なかなか報われないから悩むわけで。なのに、なんで辞めたいと思うのか、なんで僕に相談してくるのかさえ、わからなくて」
──そっか。
「今、思い出しても胸が痛いです。なんでもっと真剣に話を聞いてあげなかったんだろう。“大丈夫だよ。いっしょにがんばろう!”って背中を押してあげなかったんだろうって」
──それまで中島くんは、挫折を感じたことってなかった?
「変な話、なかったですね。テレビにも出させてもらってたし、Jr.のコンサートがあるとYa-Ya-yah、Kis-My-Ft2、A.B.C.ってグループ名があって、僕は中島裕翔って個人名で載ってたりしましたからね」
──そんな中、2007年にはHey! Say! 7が結成されたよね。
「その直前で、J.J.Expressに山ちゃんが入るとか、知念(侑李)が静岡から東京に来たからメンバーに入るとかウワサがあって。『少クラ』でいっしょに歌ったり、コラボしたりってことが多くなったんで、“もしかしていっしょになるのかな?”って思ったんですよね」
──予感はあったんだ?
「ありましたね。ただ、新たに5人でグループになるとは思わなかったです。“J.J.Expressはどうなっちゃうんだ?”って」
──Hey! Say! 7のメンバーを見たとき、どんなことを思った?
「大ちゃん(有岡大貴)がいたんで安心だなって。僕が入りたてのころから仲よくしてもらったし、『エンジン』にもいっしょに出てたから。でも、僕はグループのセンターだったんで、大ちゃんは年上だったけど、僕がみんなを引っ張っていかなくちゃって、少なからず考えてたと思います。だから、MCとかでも、がんばってよくしゃべるようにして」
──その直後に、Hey! Say! JUMPが結成されたんだよね。
「ビックリしました。“え!?”みたいな。結成前に、ジャニーさんに、“ちょっと話がある”って呼び出されたことがあって。“もしかしたら、人数を増やすかもしれない”って。そのとき、グループ名も聞かされ、僕、人数やデビューどうこうってことより、“グループ名がJUMP!? なんか意味があるのかな?”ってことのほうが気になっちゃったんですよね(笑)」

限界までいったんです。ひがみや嫉妬が

──デビューしたことはどう思った?
「すごい、うれしかったです。でも、デビューはしたけど、僕は立ち位置とか、メンバーとの関係性に悩み始めちゃって」
──悩み始めた?
「山田くんが、デビューの前の年に『探偵学園Q』に出たんですよね。そこで、尋常じゃないくらい人気が出て。中学のクラスメイトも、生徒手帳に山ちゃんの写真を貼ってる人、いっぱいいました。母親も“山ちゃん、カッコいい!”って言い始めて(笑)。なんか、びっくりしちゃって。“マジか!?”って」
──戸惑ったんだ。
「意識してたわけじゃない。でも僕は、ずっと真ん中を歩いてきたんで、その変化を受け入れがたかったというか。でも同時に、山ちゃん、ずっとすっごい努力してきたのも見てる。僕が、簡単に努力してたなんて言っちゃいけないことですけどね。そういう姿も見てたから、すごく複雑で」
──なるほど。
「決定的だったのが、2枚目のシングルのPVの収録で。振りつけ師さんから突然、山ちゃんと僕の立ち位置を替われって言われて」
──事前に言われたんじゃなくて?
「収録現場でいきなりでしたね」
──理由は聞かなかった?
「聞かなかったです。あの瞬間は、やっぱり落ち込みました。精神的に荒んだっていうか。そういった心の変化にも、ファンの人は気づくんですよね。ファンレターに、“表情が変わりましたね”みたいなこと書いてあったりして。たしかに、そのころの写真を見ると、けっこうきつい顔してて」
──ずっと見てきたファンだから、ちょっとした変化にも気づくんだろうね。
「そうですね。仕事も一気に減って。ひと月で、仕事が取材1件しかないときとかもあって。ひさびさに仕事でメンバーに会ったりすると、“みんなはほかにも仕事してたのかな?”とか不安になって。僕、高校1年生のとき学校で皆勤賞を取りましたからね。素晴らしいことなんですけど、やっぱり、それまでの忙しさと比べちゃって」
──不安だよね。
「すっごい落ち込んで、自暴自棄じゃないですけど、なんか部屋でふさぎ込んでたときとかありましたね。“なんでみんな、そんな比べんだよ”って。考えてもしかたないことをずっと悩んで、負のスパイラルに陥っちゃって」
──悩んでること、誰かに相談した?
「しなかったですね。メンバーにも、家族にも。平気だよって振る舞っちゃうんですよ。なんでもないよって」
──ポジションについての悩み、どうやって解消したの?
「何か、おっきなきっかけがあったわけじゃなくて……。もう、たぶん限界までいったんです。ひがみや嫉妬が。限界までいって、ふっきれた気がします。“待てよ、俺は俺でちがう道を行けばいいんじゃないか”って。センターだからできる仕事もある。でも僕にしかできないことだって、きっとあるんじゃないかって」
──そこに、よく気づけたね。やめようと思ったこともあったんじゃない?
「でも、どんだけ落ち込んでも、やめようとは思ったことないんですよね。一度も。だって、やめたら元も子もないじゃないですか。やめちゃったら、もうがんばることすらできない。だから、どっかに望みみたいなものを持ってたんだと思うんです。心のどっかに。ドラムだったり、写真もちょっとやり始めて、自分には自分のよさが、必ずあるはずってことに、その時期にちょっと気づけたんですよね。そしたら、これもファンレターなんですけど、“いい表情に変わりましたね”的なことが書いてあって。よかったーって」
──ドラムや乗馬、カメラを始めた時期って、悩んでたころなんだね。
「やっぱり、JUMPって人数が多いじゃないですか。埋もれちゃうなって思った瞬間があったんですよ。だから、武器を身につけたいと思って。ドラムは、JUMPになってすぐかな。学校の選択授業で、器楽か合唱か選べたんです。じゃあ器楽をって」
──数ある楽器の中で、なんでドラムだったの?
「なんなんすかねえ? 偶然かなあ。ギターとかもカッコいいなと思ったけど、なぜかドラムを選んで」
──カメラを始めたきっかけは?
「カメラは高校入るか入らないかくらいからですね。ケータイで写真撮るのが好きで。それだけじゃ物足りなくなって、自分のカメラを買ったのがきっかけで」
──乗馬は?
「高校に入ってからです。いつか絶対、武器になると思って。スタッフさんから聞いたんです。“岡田(准一)くん、時代劇をやったとき、乗馬をやっといてよかったって言ってたよ”って。あ、これ今は誰も手をつけてない。これも自分の武器のひとつにしようって」

“え、なにこれ!? 俺、浮いてるの?”

──さっき、メンバーとの関係性でも悩んだって言ってたよね?
「一時期、勝手にすごく仲間はずれにされてるっていうか……。俺、メンバー内で浮いてんなって気がしてて。僕自身の問題だったんですけどね。自己中だったから。だって、あのころの自分が目の前にいたら、俺だってイヤだなって思うから(笑)」
──どうして浮いてるって思ったの?
「バレーボールのサポーターをやってたとき、山ちゃんとケンカしたことがあって。中学生のころの男子って、乳首が痛くなるじゃないですか?」
──乳首?
「成長痛で。山ちゃんが、俺の乳首をふざけてつねってきたんですよ。それが、もうめっちゃ痛くて。で、俺が思いっきり怒って。そしたら、一気に空気が悪くなったんです。俺もよく、ちょっかい出してたから、山ちゃんからしてみたら、俺がやられたときは我慢してるのに、反対のときはキレるのかよってことですよね。ホント、申し訳なかったなって思います。でも、そのときなんか、みんな山ちゃんの心配だけしたんですよね。“大丈夫?”って。それがショックで。“え、なにこれ!? 俺、浮いてんの?”って」
──メンバーの反応が気になったんだ。
「自分がちょっと嫌われている理由、少しはわかってたんですよね。くそマジメっていうか、余計な正義感が強かったっていうか。冗談で何か言われても、“そういうこと言うの、ほんっとにやめて”って怒ってましたからね。ステージでも控室でも、盛り上げようと、みんなはいじってるのに、本気でイヤがるっていう。めんどくさいでしょ(笑)」
──マジメすぎたんだね。
「最近、取材でライターさんにも言われたんですよ。“昔、バカだよねって言われただけで、そういうのよくないよって怒ってたよね”って。そんなんだったんだって。僕、ホント、変にマジメで、ジャニーさんにたてついたこともありますからね」
──社長に?
「中学のころ、弟と凧あげしてて、顔にケガしちゃったことがあって。ジャニーさんに会ったら“YOUどうしたの、ケンカなんかして”って言われて。“ちがいますよ”って答えたんですけど、“ケンカしたんでしょ”って何度も言うんですね。それで“ちがうつってんじゃん!”みたいな感じで怒鳴っちゃったんです。もう、ジャニーさんだけじゃなくて、周囲もビックリしちゃって。今ならわかるんですよ。ジャニーさん、俺がショック受けてたから、重い話にしないように気づかってくれたんだって。ほんとバカでしょ? そんなんじゃ、周囲から浮いて当然だろって。僕、とっつきづらいところがあったんですよね。でも、そんなこと気づかないから、グループで自分が浮いてるって、ひとりですっごい悩んで」
──つらかったね。
「考え込んじゃうタイプなんで、いじられたりすると、どうしてだろうって悩みすぎちゃって、胃がキリキリしちゃったりしたんです。高校1年くらいのときは、けっこう保健室ばっか行ってましたから(笑)」
──ひとりで泣いたりもした?
「泣いたりはないですけど、不安定だったんで、感動する映画とか見るとブワーーってすぐ涙が出たりして。(2009年夏のツアー)“天国コン”の福岡のライブで、メンバーに誕生日を祝ってもらったときとか、うれしすぎて、みんなが引くくらい泣いちゃったり(笑)」
──でも、そんなときも、やめようとは思わなかったんだよね?
「そこなんですよね。現場に行って、メンバーと話したら楽しくなっちゃう自分もいたんです。浮いてるかもしれないって思いながら、メンバーのこと、大好きだったんで。自分のこと、わかってもらえないって想いばっか強すぎて、周囲が見えてなかったんですよね」

大切に思ってくれてる仲間が、すぐそばにいるんだよ

──メンバーと関係が改善されたのって、どのくらい?
「いつくらいだろう。けっこう、最近なのかな(笑)。デビュー4年目くらいかも。そのへんから、なんかみんなが、“そういえば裕翔、変わった”とかって言ってくれるようになって」
──変わったきっかけって?
「なんか、いじられたとき、それをうまく笑いにするみたいなことができるようになったのかな。でも、積極的に自分から変わったわけじゃなくて」
──どういうこと?
「なんか、いじられたら受け流して、笑いにしたほうが楽だって思った瞬間があったんですよね。胃とか限界だったんで、自分の体を優先したっていうか。たぶん、そっからです。僕の反応が変わったら、みんなも変わって。気づいたんですよね。自分だけの世界で生きてたなって。いじるのだって、仲がいいからで、傷つけようとか、悪意があるわけじゃなくて。俺もみんなのことわかったし、みんなもたぶん俺のことをわかってくれて。それから、すごくいい関係になって」
──なるほど。
「もちろん、結成したときから仲はいいんですよ。でも、本当の意味で仲がいい、本当の意味でわかり合うって、こういうことなんだろうなって思えるようになって。こいつは何が好きで、こういう女のコがタイプでとかだけじゃなくて、性格や、“こういう場合、どうしたいんだろう”みたいなことまでわかり合えるようになったんですよね。僕自身、メンバーのことも、すごく考えるようになったし。今まで自分のことで精いっぱいだったんだなって」
──そんなことがあったんだね。
「はい。僕、くそマジメすぎて、知らず知らずメンバーを傷つけたりしてきたと思うんですよね。あのころの自分が目の前にいたら、言ってあげたいです。“もうちょっと、やわらかくなったほうがいいよ。もうちょっと、まわりを見なよ”って。おまえのこと、ホントに大切に思ってくれてる仲間が、すぐそばにいるんだよって」

ドラムを選んだのは、偶然じゃなかったのかな

──じゃあ、このメンバーでよかったって思った瞬間って、どんなとき?
「いっぱいありますね。ライブのときとか、いつも思うし。細かいことで言えば、全国ツアーのとき、ドラムのスティックを落としちゃったことがあったんですね。そのとき、山ちゃんが拾ってくれて。しかも、お客さんに見えないタイミングで、さり気なく渡してくれたんです。僕がカッコ悪く見えないように」
──いいエピソードだね。
「これも、スティックを落とした話になっちゃうんですけど、『ジャニーズ・ワールド』で、(岡本)圭人と俺と(八乙女)光くん、3人のシーンがあって。このときも、スティックを落としちゃって(笑)。光くんのそばに落ちたんですけど、全然取ってくれないんすよ。だから、片手でできる技を駆使してしのいで。ステージが終わって、光くんに“拾ってくれたらよかったのに”って言ったら、“でも、あそこで俺が拾ってたら、カッコ悪かったと思うよ”って言われたんです」
──お客さんにどう見えるかまで考え、あえて拾わなかったんだ。
「はい。“だって、Show must go onでしょ”って言われて。深いなって思いました。こんなメンバーとグループを組めてるって、ホントに幸せだなって」
──そんな話を聞くと、偶然かもしれないけど、ドラムを選んでよかったね。
「ドラムを選んだの、偶然じゃなかったのかなって思うことすらありますね。ステージで、ドラムはいちばん後ろなんで、メンバー全員とお客さんが見える位置にいるんです。安心するんですよ、みんなが見えると。そんな景色が見られることが、ドラムやっててよかったって思うことのひとつで。僕だけの特等席ですよね」
──ドラムのおかげで、去年は『関ジャニの仕分け∞』で、大倉(忠義)くんと対決できたしね。
「あれ、ホントうれしかったっすね。ファンの方に、すっごい感謝してて。言われたんですよ、ディレクターの人に。“裕翔も出してってリクエストがすごく多かったんだよ”って」

“狭き門より入れ”って言葉が好きです

──去年のことで言えば、ドラマ『半沢直樹』での好演も記憶に新しいけど。
「堺(雅人)さんに、泣くシーンをほめていただいて。“いやー、よかったよー”って、あの笑顔で言われたのがすげーうれしくて。僕なんかが演技について話すのは、おこがましいですけど、演技の引き出しって、どっかでやっぱり、今までどんな人生だったのか、すごく問われて。本当に経験だなって思うんです。それは、芝居のことだけじゃないなって思ってて。どんな経験も、必ず何かの役に立つんだなって思うんですよね」
──そうだね。
「座右の銘じゃないけど、“狭き門より入れ”って言葉が好きなんです。簡単な道を選ぶより、困難な道を選ぶほうが、自分のためになるって意味で。だから、ちょっと、うん、この言葉、大事にしたいなって思うんです」
──いい言葉だね。
「たしかに大変だったこともあったけど、でも自分にいろいろあったから、ほかのメンバーのちょっとしたことにも気づけるんですよね。大ちゃんが、“自分には、何もないわ”って悩んでたときがあって。そういうのも、わかるんです。大ちゃん、自分から習いごとを始めて、乗り越えようって必死で。大ちゃんなら、どんな壁も必ず乗り越えると思う。大ちゃんだけじゃなくて、メンバー全員。だから、俺ももっとがんばらなきゃって刺激になる。光くんがベースうまくなってるんで、“俺も”ってドラムの練習をがんばれる。相乗効果って感じが、すっげーいいことだなって思うんです」
──そうだね。
「グループの人数が多いって、今はメリットだなって思ってて。みんながひとつひとつ特技だったり、武器を持ってる。圭人だったら英語をしゃべれるし、薮(宏太)くんは頭いいし、いのちゃん(伊野尾慧)もインテリ系でいける。山ちゃんはもちろんしゃべれるし芝居もできる。髙木(雄也)くんも、いろんなことに挑戦してる。みんな武器があるし、もっと成長しようって一生懸命だから。この前、『VS嵐』に知念が出てたの見たんですけど、やっぱ運動すごく得意だし。みんなで武器を持ち合えば、集まったとき絶対強いですよね。自分にしかない武器って、必ず誰にでもあるから」
──中島くんも、そう信じて自分の武器を見つけてきたんだよね。
「いろんなこと、これからもがんばらなきゃいけないんですけど、カメラをやっててよかったなって思うことがあって」
──どんなこと?
「ツアー中のメンバーのオフショットを、“いい写真、撮るね”って、プロのカメラマンさんにほめてもらったことがあって。技術どうこうじゃなくて、僕にしか撮れないメンバーの表情ってあると思うんです。どんなときでも、いっしょにいることが当たり前だから、みんな自然な表情でいてくれる。メンバーのいちばんいい表情、俺は知ってるから。ファインダーをのぞきながら思うんですよね。これからも、ずっとこんな仲間と歩んで行くんだ。ドキドキするなって」

取材・文/水野光博