Myojo

10000字ロングインタビュー

顔を上げれば、素敵な仲間とファンがいた。

10000字ロングインタビュー

『僕がJr.だったころ』

A.B.C-Z編

第2回

戸塚祥太

とつか・しょうた
1986年11月13日生まれ。東京都出身。B型。身長170cm。
1999年4月25日、ジャニーズ事務所入所。
2012年2月1日、A.B.C-ZとしてDVDデビュー。

※このインタビューは、MYOJO2013年8月号に掲載されたものに、加筆・訂正したものです。

最初から、この世界に執着はなかった。
すぐにやめてもいいと思っていたはずが、いつのまにか夢中になり、
やめるわけにはいかなくなった。背負ってきたものは軽くない。
でも、高く飛ぶための重荷にはならない。

誰かと戦って優劣を決めることが苦手なんで

──何才の記憶から残ってる?
「3才ですかね。“僕、3才!”って言えなくて、“ぼく、たんたい!”って言ってたこと、なんかおぼえてますね」
──かわいいね。ヤンチャな感じだった? それとも大人しい感じ?
「ヤンチャでした。でも、ヤンチャ加減が自分でも矛盾してるなって思うんですけど、あんまり、ガキ大将的な感じじゃなくて。ひとりでヤンチャしてるっていうか。だから、小学校のときとかは、何かあると、とりあえず、まず最初に僕が容疑者みたいな感じでした」
──そんなだったんだ。
「学校のガラスを割っちゃったこととかもあって。校庭でケンカか何かしてて割れちゃったんですけど、校長室で怒られて。でも、なぜか兄貴もいっしょに謝ってくれて」
──いいお兄ちゃんだ。小学校のとき、サッカーを始めたよね。
「兄貴が入ってたんです。兄貴と俺で、いつもいっしょに通って。うん。なんかおもしろかったすね(笑)」
──その意味深な笑いはなんなの?
「いやいや、チームのユニフォームとか靴下とかあって、みんな買うんですけど、僕と兄貴だけ穴のあいた靴下、父ちゃんのお下がり履いてたから。父ちゃんの作業着用のボロボロになった靴下とか履いてたの思い出したら、なんかおもしろくて」
──空手を始めたタイミングは?
「小4くらいですね。母の知り合いが空手をやってるから、いっしょにやらないかと。空手も兄貴といっしょにやってました」
──空手って稽古とか厳しいイメージあるけど、大変じゃなかった?
「冬、クソ寒いんですよ。裸足だし。でも、ちゃんとやってました。空手、好きだったんで」
──性格が出そうな競技だよね。
「ひとりで演舞する“型”と、戦って勝敗を決める“組手”があるんですけど、僕は型が好きでした。なんか組手みたいに、誰かと戦って優劣を決める的なことが苦手で」
──ほかに、何か小学校時代のことで、おぼえてることってある?
「ハイパーヨーヨーっていうオモチャが流行って。でも買ってもらえなかったから、友だちに“持ってるぜ”ってウソついたこと(笑)」
──見栄張ったんだ?
「うん。友だちの家に行ったときは、家に置いてきちゃったって言って、友だちが家に行くよってなったら、“お父さん寝てっから”って。めっちゃバレバレの言い訳とかしてた(笑)。その年の誕生日、もうハイパーヨーヨー欲しいじゃないですか。頼み込んで。そしたら、なんか知らないんですけど、買ってもらったヨーヨーが蛍光のイエローで。宇宙人のグレイってキャラクター、いたじゃないですか。あの宇宙人の顔がダンッてプリントしてある、500円くらいのハイパーな機能が搭載されてないヨーヨーで。ハイパーヨーヨー、欲しかったんですけどね」

この人みたいに、ちょっとなりたい

──じゃあ、ジャニーズのオーディション受けた経緯は?
「中1ですね。母の友人が、息子をJr.に入れたかったらしいんですよね。でも、そのコはまだちっちゃくて、年令制限か何かで応募できなくて。だから、“どんな感じか、先に受けてみて”って」
──偵察部隊的な感じだ。
「そうです。まあ俺はジャニーズとか何も知らなかったんで、いいよいいよって感じだったと思います」
──芸能界って、どんなイメージだった?
「まったく知らない世界かな」
──じゃあ実際、オーディションに行ったらどうだったの?
「僕、ほとんどね、参加してないんですよ。学校終わりで行ったんで、途中から参加して。だから振りつけも、もちろんおぼえられなかったですし。惨敗でしたね」
──ダメだと思った?
「うん」
──でも、連絡が来たんだ。
「連絡が来たというより、4月25日にオーディション受けたんですけど、次の週くらいにコンサートがあって。横浜アリーナで、4日間連続でジャニーズJr.のコンサートがあるから来てくれって」
──それ、どう思ったの?
「もう、“えーーー”って。でも、“んんん、はい”って感じで、なすがまま行くことになって。遅れていったオーディションでしか踊ったことがないし、その後の練習もなし。もちろん本番でも全然踊れなくて。そしたら、レッスン生の中のリーダーみたいな人に、“おまえ、そんなんじゃ殺されるよ?”ってツメられて」
──しょうがないのにね。
「俺、“絶対、死にたくねえ”って思って(笑)。子どもっぽい脅し文句を信じちゃったわけですよ。俺はもうムリだと。マネージャーさんに“すいません、明日から来れないっす”って言ってやめたんです。“やめたぜ、よし。やったー”ってスッキリして。でも、あとの3日間は、父親には、ちゃんとコンサートに行ってるっていうことにして、夜までお母さんといっしょに映画見たりして時間つぶして。渋谷で『名探偵コナン』を見たりしましたね。お母さんのやさしさです」
──お父さんに、やめたって言えなかったんだ。
「うん。ちょっと言い出せなかった」
──お父さん、怖いの?
「怖いっすよ。だって、サッカー始めたときも、僕のポジションがディフェンダーってだけで怒られたし。“なんで俺の息子なのにフォワードやんねーんだ。点取りに行け!”みたいな。もちろん、ずっと父のこと尊敬してますけどね」
──じゃあ、反抗期ってなかった?
「ないんです」
──Jr.の活動はどうなったの?
「母の友人にはいちおう、“こんな感じだよ”って言えるんで、スパイとしては、役目を果たせたかなと思ってたんですね」
──任務は遂行したと。
「これ以上は絶対やる気ないですし。だって、サッカーの試合だって土日にあるから。でも、夏休みに入ったくらいかな。また電話がかかってきたんですよ。KinKi Kidsのコンサートありますからって。それに呼ばれて。“絶対ヤダ”って、もう泣きじゃくったのをおぼえてます。でも、なんか結局、父と母に丸め込まれ、行くことになったんですね」
──今度は、どうだった?
「そのときはね、レッスンが2〜3回できたんですよ。コンサートも一度経験してるんで、意外とこれいけるじゃんって。で、外周で踊ってたら、堂本剛くんが、松本潤くんとか二宮(和也)くんとか櫻井(翔)くんっていう、今の嵐のメンバーとパッて目の前を通り過ぎてったんです。堂本剛くん、めっちゃカッコいいなって思って。この人みたいに、ちょっとなりたいなって。そこからです。Jr.をやってみようかなって思ったのは」
──もし、堂本剛くんが目の前を通り過ぎてなかったら?
「そこで、終わってたかもしれないですね」

人生振り返ると、いつも劣等生だったから

──レッスンは厳しかったよね?
「厳しかったですね。ぶっ倒れるくらいまでやってたんじゃないですか。振りつけ師さんに、“大きく踊れよ!”って、いつも言われてました。がんばってがんばって、なんか一生懸命やってましたね。うん」
──がんばれば、剛くんにたどりつくかもしれないって思った?
「そこまで思えない。目の前のことしかできないコでしたから。与えられた課題を、今日はこれを越えた、今日はこれを越えたって」
──そうだったんだ。
「初めはいちばん後ろに並んでレッスンを受けて。やってるうちに、“おまえ前、おまえ前”みたいに、少しずつ前になっていって。緊張もプレッシャーもありましたけどね。失敗したら、また後ろに下げられるって」
──下げられたこともある?
「もちろん。うん。ありますよ。何度もあります」
──レッスンで前にいる人が集められ、河合(郁人)くん、塚田(僚一)くんとで、A.B.C.が結成されたのが、2000年だよね。
「でも最初は、グループを組めたって意識も、あまりなかったですね。なんか、“自分はJr.だ”っていう意識のほうが勝ってたんでしょうね。結局、この大人数の中のひとりだって。あ、でも河合くんのことは、なんでもできる人だな。アイドルだなって思って見てました。ギラギラしてんなーっていうか」
──戸塚くんは、ギラギラしてなかったの?
「自分はホノボノでしたから。一生懸命やってはいるけど、競争っていうのが、やっぱり僕、苦手なんでしょうね」
──それ、空手のときと同じ感覚?
「そうですね。誰かと自分を比べるってことが苦手なんだと思う。あと、誰かと争うってことも。だって自分は自分ですから。相手の人、関係ないっすもん。でも、今だからそういうふうに言葉にできるけど、当時はただたんに苦手だなって思ってたっていうか。特に自分が上に行くために誰かを落とすってことは絶対やりたくなくて。そんなズルイことないって思いますから。昔からずっと、そういうことはできないコでしたね。何がなんでも自分が前に出るんだって気持ちもなくて。でも同時に、なんかやっぱり自己主張もしたかったんですよね。主張とか、反抗ってしたことないんですけど。できなかったですしね。だからけっこう子どものころは怒られると泣いてたんですよ。言葉で返せないから。“本当はこうなんだけど”っていうのが言えない」
──自己主張したいけど、できない。それ、苦しいよね?
「苦しいっすね。苦しいのかな? わかんないけど。だから、そのぶん、プライベートで着る洋服とか、ここは俺しか関係ないぞってところは100%自己主張したんですよね。私服なら、何を着ても誰にも迷惑かけないじゃないですか。俺、それ以外では自己主張できないから」
──かなり鬱々としてたんだ。
「そのころ、THE BLUE HEARTSをすごく聞いてて。本当に助けられたんですよね。レッスンの帰りとか、チャリンコに乗って家に帰るまでの間、イヤホンして大音量で聞きながら帰って。『TOO MUCH PAIN』とか、ザ・ハイロウズの『十四才』とかも、ホントよく聞いて。CD、傷つくまで聞いてましたもん」
──そうだったんだ。
「自己主張できないんで、外から見たらマジメって印象が強いのかなって思うんですけどね」
──02年には、五関(晃一)くんも加入し4人になったよね。デビューは、そろそろ意識した?
「デビューしたいとは思ってたけど、なんだろうな。すごく漠然としてる、子どものころの夢で野球選手って言うみたいな。なんて言っていいか、わからないけど、このグループでデビューはできないと思ってたから。剛くんに憧れてもいたけど、たぶん自分は、誰にもなれないっていうのを、いつか知ったと思うんです。自分は自分でしかないというか。それでも、やっぱ何でもできる人が好きなんですよね。今でも僕、剛くん大好きです」
──デビューできないかもって思ってたんだ。
「やっぱ、いつもどこか劣等感は感じてたから」
──劣等感?
「人生振り返ると、いつも劣等生だったから。うん。つねに劣等感ありましたよ。サッカークラブにいたら、サッカー用品そろえられないし。中学校行ったとき、学ランとか町で売ってるとこが2店あったんだけど、安いほうのやつだったし。なんかそういうの、うん、ありましたね」
──デビューなんて全然見えない。ちがう道を考えたりもした?
「それはなかった。だってそうなったら俺、別にファストフード店でもどこでもバイトするしっていう感覚でしたね」
──どんなバイトでも?
「するする。だから、もし、事務所にもういらないって言われてやめることになってたら、バイトしながら、映画監督になるための勉強をしたんじゃないかな。映画にもだいぶ救われてますから、僕は。うん」
──戸塚くん、映画も好きだよね。
「昔からねえ、よく日曜日に映画を見てたんです。ジブリのとかを借りてきて、家族みんなで見たりして。いっしょに劇場行ったりもしたし。家族で映画館に行ったっていうのが、けっこう印象に残ってるんですよね。思い出というか。映画が好きっていうのも、そういうところからきてる気がするんですよね」

入院してたってのを、俺は知ってますから

──05年にキスマイが結成されたときは、何か思った?
「なんかカッコいいグループだなっていうか。バックだけじゃないグループだなっていうのは思いましたね。いいなって。僕たちは、バック専門みたいなところがあったから」
──じゃあ、07年にHey! Say! JUMPがデビューしたときは?
「そうかーって感じですね。薮(宏太)とか知ってるし。子どもたちもみんな知ってる。JUMPに対して悔しい気持ちはなかったんですよ。自分に対する悔しさはありましたけど。なんで俺はバックなんだろうっていうか。やっぱ俺はバックダンサーなのかって」
──『はなまるマーケット』のレギュラーになったのって、そのころだよね?
「そうですね。勉強しなくちゃなって、そこで思ったんすよ。なんにも知らないヤツが情報番組出ちゃダメだろって。勉強だなこれって思って、なるべくニュースや新聞を見るようにしました。日常のことにちょっと敏感になったりして。本を読み始めたのも、このくらいなんじゃないかな。ロケに行くときとかは、ロケバスの中で、伊坂幸太郎さんの本をよく読んで」
──伊坂幸太郎を好きになったの、そのころなんだね。
「はい。『重力ピエロ』って本のクライマックス、ちょうど満員電車の中で読んだんですよね。もう、人に囲まれてるのに、ヒックヒックいって泣いちゃいましたもん」
──『はなまるマーケット』を、2週間くらい休んだ期間ってあったよね。あれ、なんだったの?
「肺気胸で入院したんですよ。『滝沢革命』が終わって、次の次の日くらいかな。胸のへんがパツンっていったんですよね。でも普通に過ごしてて。その次の日にDVD借りに行こうと思ってチャリに乗ってたら、“アレ!?”って。胸のへんがしびれてきて、だんだん息できなくなって。“これ、ヤベえな。俺、死ぬ”って思って、チャリで、そのまま病院に行ったんです。もう自転車バーンって倒して、病院の受付にドーンって行って。“すいません、もうダメです。死にそうです”って」
──診察したら肺気胸だったんだ。
「はい。“穴、空いてますね。肺気胸です”って言われて。あのときは、本当に死ぬって思いましたね。即入院して、病院のベッドで、ずっと伊坂さんの本読んでました」
──入院してたって、発表すればよかったのに。
「“ズル休みして、外で遊んでるの見た”とか、いっぱい書かれたりしましたけどね。でも、別にいいかなって。俺が入院してたってのを、俺は知ってますから」

本当に深刻なことは、陽気に伝える

──08年、橋本(良亮)くんが加入。A.B.C-Zが結成されたよね。
「なんか、橋本が入ってきて、やっとグループっぽくなったなって実感しましたね」
──グループっぽい?
「なんか、こう、ひと塊になったというか。“もしかしたら、この5人でデビューできるんじゃないか”って思ったり」
──橋本くん、かなり年下だけど、違和感はなかった?
「うん。なんか、ちっちゃいころから、すごく俺に寄ってきてたりしたんで。“ちゃんと学校行けよ”とか、よく言ってた(笑)」
──でも11年、キスマイが先にデビューしたよね。
「やったじゃんって感じでしたね。キスマイいったなーって」
──悔しくなかった?
「悔しいって感じはなかったですね。全体的な流れから見たら、ライバルってことになるんでしょうけど。僕は全然意識してなかったですから。キスマイはキスマイだし。俺たちは俺たち。比べる必要はない」
──その年の7月、『PLAYZONE』の舞台で河合くんが骨折してるよね。「舞台装置、止めろ!」って戸塚くんが叫んでくれたって、河合くんが言ってたよ。ヤバイって、すぐわかったの?
「わかりましたね。リハ室に塚田くんがおんぶして運んで。メンバー全員、次の曲に出るまでの5分くらいリハ室にいて。でも、出番あるから、ステージに行かなくちゃいけなくて。なんか複雑でした」
──複雑?
「本当は、そこにずっといて、“大丈夫だぞ”って励ましてたかった。でも、そうはできなかったから」
──しかたないよ。でも後日、いちばん最初にお見舞いに行ったよね?
「“この時間には行っても大丈夫だよ”って言われた時間に、たぶん行きましたね」
──持ってきてくれたフルーツの盛り合わせの中にニンジンが入ってて、「わかってるなって思った」って河合くん、笑ってたよ。河合くん、顔が馬に似てるから入れたんでしょ?
「うん。“ニンジン、入れてもらっていいっすか?”って言ったら、“えっ!? ニンジン?”って、お店の人も笑ってましたけどね(笑)。でもね、伊坂さんの本の中のセリフにあるんですよね。“本当に深刻なことは、陽気に伝えるべきなんだよ”って。それを実践したっていうか」
──シリアスなのはわかりきってるからね。そのとき交わした会話、おぼえてる?
「渡して、すぐ出て行ったんで。“とにかく元気に回復させて”ってことだけ伝えて」
──千秋楽を見に行った河合くん、がんばってるメンバーの姿見て、“俺、いいグループにいるな”って思ったんだって。
「メンバーはみんな、河合くんのぶんまでって、もちろん思ってたし。……でも、なんか、きっといっしょに立ってるだろうなって想いもあったんですよね。“ここにいるぜ”って。ステージにいっしょに立ってるよって気持ちでやってました」
──あと、特に意味があるのかわからないけど、その『PLAYZONE』の前くらいに、丸刈りにしてたよね。あれって、なんだったの?
「………。うーーん。………。坊主かあ。あれはねえ………。あれは、誰にも言ってないからなあ」
──教えてよ。
「……俺、辞めようと思ったんです」
──え?
「『PLAYZONE』の稽古中ですね。それまでクリエでやってたときも、“なんか俺、いてもいなくても変わんないんじゃないか”って思うようになってて。特別、何かができるわけじゃない。五関くんみたいに振りつけができるわけでもない。あんまりグループに対して、なんか貢献してないよなって。人前出るのも、すごく苦手だし。“みんなで幸せになりたいのに、なんかうまくいかない”って思いとかもあって。俺は、表舞台に立つのは向いてないんだって」
──そんなこと思ってたんだ。
「稽古中、鏡に映ってる自分を見たら、なんか全然ついていけてなくて。踊れてねーなー自分って。ダメだなって。もう辞めようって思って、稽古中だったけど抜け出して。パッて。荷物まとめて帰ったんです。その足で、うん、坊主にしてキレイさっぱりお別れしようと思って。でも、何店か美容院に行ったけどやってなくて。ここが開いてなかったら、もう美容院ないなと思った最後の1店が開いてたんです。そこで坊主にしてもらって。そしたら、マネージャーさんから電話がかかってきたんです。“ちゃんと話そう。1回戻ってきて”って」
──翻意する気は?
「まったくなかったです」
──じゃあなぜ、踏みとどまったの?
「あのとき、なぜ踏みとどまったか……。僕は、僕ひとり消えるのはよかったんです。ただ、僕がいなくなったら、4人もいなくなっちゃう可能性があるなって。4人も消えちゃったら……。4人の人生、棒に振るわけにはいかない。ってことがありましたね」

フライングのとき、すっげーいい顔してて

──丸刈りから約半年後、自分たちのデビューが決まったよね?
「なんか、うれしいんですけど、なんかすげー平穏でしたよ。いまいち当事者なんだけど、なんか当事者っぽいリアクションがとれないんですよね。いまだにそうです」
──デビューDVD『Za ABC 〜5stars〜』の発売前日に、デビュー記念イベントをやったよね。
「やりましたね。イベントの前にテレビの収録をしてたんです。そのとき、なんか、わけわかんなくなって。“これ、誰に向かってやってるんだろう? 誰に向かって歌ってんだろう?”って。笑ってやってましたけど、心の中では全然のってなくて」
──そうだったんだ。
「イベントの握手会になったときですよね。うれしかったのは。あのときばかりは、うれしかったですよ。こんなに来てくれる人がいるんだって。“そっか!”って気づいて。カメラの向こうには、この人たちがいたんだって。この人たちが、僕たちを見ていてくれて、支えてくれてたんだって。僕たちの想いも、歌も、パフォーマンスも、すべてこの人たちに届けてたんだって。デビューできて、本当によかったって、そのときやっと実感できて」
──なるほど。じゃあ、この5人でよかったって思った瞬間ってある?
「それは、すっごい思います。特に思ったのは、去年『SUMMARY』をやったときで。フライングしたんですよね。オープニングにみんなで。手をつないでフライングする。空中で5人が内側を向いて手をつないだんで、見えるんですよね。4人の顔が。そのとき、みんなすっげーいい顔してて。なんか、よかったなって。なんだろう……。今、僕はここにいて、みんなもここにいて。よかったなっていうか、誰も欠けてないじゃないかって。泣きそうになっちゃったんですけど、舞台の初日で泣くほどダセーことはないと思って。だから、目そらしたんですよね」

だから飛ぶんです。俺、絶対、飛びますよ

──戸塚くんのメンバー愛って、有名だもんね。
「そうですか?」
──メンバーの誕生日当日に、必ずプレゼントを渡したりさ。
「だって誕生日って、その日じゃないですか(笑)」
──ハイパーヨーヨーの思い出を聞いたから、いい話だなと思って。
「それはあると思いますね。僕、小さいころ誕生日パーティーって開いてもらったことってないんですよ。小学生のときとかって、友だちを家に集めてしたりするじゃないですか。そういうの、1回もしたことなくて。なんか意外と誕生日ってさびしいなってイメージがあって。やっぱり、メンバーが誕生日だったら、その日に祝ってあげたいし。なんかね、“今日、誕生日だろ”って言われたいっすよね(笑)?」
──メンバーへのプレゼントって、どうやって選んでるの?
「欲しいもの、直接聞くのはなんかね。感づかせちゃうのもあれなんで。なるべく、こっそり調べてます」
──プレゼントを渡したときの、メンバーの反応っておぼえてる?
「渡すとき、僕のほうがドキドキしてるんで、おぼえてないです(笑)」
──じゃあ、これからのことについても聞こうと思うんだけど。
「うーーん、このあと3年間は、いろいろもう本当になんでもやって吸収してって感じで。30才になったら、もっと新しいことにも挑戦してみたいですね。あと、やっぱり40才くらいになったら、裏方の仕事もしてみたい。何かを作ってみたいって気持ちは、今もあるから。自分が40才って想像つかないですけどね。脚本、監督、主演で映画を作ってみたいですね」
──いろんな葛藤を、ひとりで抱えてきたよね。いつか結婚したら、妻になる人には弱い部分、見せられるのかな?
「もし結婚すると考えると、相談したいですよね。家庭ではさすがに。弱さとか見せられるというか、“なんかあったの? なんでそんなことで、またそんなになってんの!”って感じの人がいいかな(笑)」
──じゃあ最後に、丸刈りにしたとき以外で、やめようと思ったことってある?
「あの日以外はないです。また伊坂さんの本の話で申し訳ないんですけど、もし空を飛べる能力がある人は、それがわずかな距離だろうと、損得抜きで飛ぶべきだって話があるんです」
──飛べる人は、飛ぶべきだよね。
「ですよね。それ、最近ね、響いてることのひとつで。僕には特別な能力はない。孤独だって思ってたときもあったし、足踏みばっかで前に進めないって悩んだり、自分の性格、めんどくせーなーって思ったりもした。でも、顔を上げれば、僕には素敵な仲間と、支えてくれるファンの方がいた。だったら、この世界で僕は飛ばなきゃダメだと思うんです」
──そうだね。
「だから飛ぶんです。俺、絶対、飛びますよ」

取材・文/水野光博