Myojo

10000字ロングインタビュー

本当にやりたいことに没頭したら、結果はついてくる。

10000字ロングインタビュー

『僕がJr.だったころ』

Kis-My-Ft2編

第2回

千賀健永

せんが・けんと
1991年3月23日生まれ。愛知県出身。AB型。身長171cm。
2003年4月13日、ジャニーズ事務所入所。
2011年8月10日、Kis-My-Ft2としてCDデビュー。

※このインタビューは、MYOJO2013年1月号に掲載されたものに、加筆・訂正したものです。

大好きな世界的エンターテイナーが、ダンスの楽しさを教えてくれた。
大好きな仲間たちと、いっしょに夢を追った。
好きな人たちに支えられて、好きなことをやり続ける幸せを、
今、精いっぱい噛みしめている。

“いちばんを取りなさい”6時間のダンスレッスン

──小さいころ、“女のコみたい”って言われたでしょ?
「言われましたね。だからなのか、幼稚園のときは、女のコから遊びに誘われることが多くて。ひがまれて僕、男子の友だちがほとんどいなかったんです。でも、ぶっちゃけ僕自身も女のコと遊んでるほうが楽だったっぽくて。セーラームーンごっこを毎日やって、毎回、タキシード仮面に選ばれてました」
──そのころからモテたんだ?
「そういうわけでもないですね。でも、幼稚園の先生にはモテました。“将来、先生と結婚しよう”ってよく言われて。子どもなんで、“そうか、僕はいつか先生と結婚するんだ”って信じてました(笑)」
──性格も女のコっぽかったの?
「ヤンチャだったし、いたずらもよくしてましたね。練習して、ヘリウムガスを吸ったみたいな声が出せるようになって。この声でいたずらしようと思って、母親に電話したんです。“息子を誘拐した。返してほしければ10万円払え!”って」
──そ、それ、どうなったの?
「プープーって切られたんですよ、いきなり。それで、電話したのも忘れて家で遊んでたら、外が騒がしくなってきて。“なんだろう?”ってようすを見たら、近所の人がいっぱい集まってて。“えー!?”みたいな。母親、めっちゃ心配性で、話を3倍くらい盛って近所の人に電話しまくったらしくて(笑)」
──ダンスを始めたのも、幼稚園のときだよね?
「物心ついたときにはやらされてましたね。強制だったと思います。両親が、やたら目立ったことをさせたがったんですよ。“ほかのコとちがうことやりなさい”って常に言われて。僕はみんなと同じ自転車がいいのに、すごく変わった自転車を買ってきたり。なんとかレンジャーの靴を履きたいのに、買ってくれるのは誰も履いてないダンス用の靴だったり。今思えば、すごくいい環境だったんですけど、あのころは恥ずかしかったですね。みんなといっしょがよかったんで。ダンスを習ってるのも、僕だけだったし」
──そうだったんだ。
「いくつかのダンススクールに通ってたんですけど、昇格テストがあるスクールがあって。親にはいつも“いちばんを取りなさい”、“一発で昇格しなさい”って言われてました。それが、すごいプレッシャーで」
──昇格テストのために練習した?
「家の鏡の前で、毎日6時間くらい練習してました。両親に、“そこ、ちがう!”とか言われながら」
──6時間!?
「もう泣きながら踊ってましたね」
──よくやめなかったね。
「基本、負けず嫌いだったんで」
──お父さんとお母さん、嫌いにならなかった?
「ならなかったです。ダンスがイヤだと思ったことはありますけど、ぶっちゃけ。だけど、なんとなく愛のムチなんだってわかったし、ゴールがわかるっていうか」
──ゴール?
「昇格テストで1位を取れば両親がよろこぶってわかってるから。本当につらかったけど、母親と父親によろこんでもらいたいっていうのが、すごく強かったんです、昔から」
──両親に笑ってほしかったんだ。
「うん。あと、おばあちゃんにも。両親が共働きだったんで、おばあちゃんといっしょにいることが多くて。僕、毎日家に帰ったらおばあちゃんの絵を描いてプレゼントしてたんです。おばあちゃんは、その絵を部屋に飾ってくれて。今でも、いっぱい貼ってあります。だから絵を描くのが大好きになったんです。学校の机にも絵ばっかり描いてました(笑)。それに、“ダンスコンテストで優勝したよ”って言うと、“よかったね”っておばあちゃんに言ってもらえるのが、すごくうれしくて」
──コンテストで優勝したりして、小学生のときは、やっぱりダンサーになりたかったんだよね?
「そうです。あと、介護福祉士にもなりたかったです。おばあちゃんが大好きだったから、ずっといっしょにいるにはどうすればいいんだろうって考えて、介護福祉士って仕事があることを知って。“この仕事だったらおばあちゃんとずっといっしょにいられる”って」

みんなに夢や希望を与えるアーティスト

──尊敬するマイケル・ジャクソンとの出会いは、いつだったの?
「小学3年生ですね。通ってたダンススクールのひとつに、マイケルのダンスを教えてくれる先生がいて。それがあまりにもカッコよくて、PVとかもいろいろ見て。特に『BAD』って曲のPVを見て、マイケルの魅力とダンスのおもしろさに気づいたというか。それまで、半分強制みたいにダンスをやってたけど、一瞬でダンスが好きになりましたね」
──そんな心境の変化があったんだ。
「はい。マイケルと出会うまで、ダンサーをめざしてたのが、表現者に、エンターテイナーになりたいって思うようになって。小学5年生のときに全国大会に出てマイケルを踊ったんです。年令制限のない大会だったんですけど、最年少で入賞して。その後、その大会のビデオをジャニーズに送ることになるんです」
──ぼんやりしていた夢が、少しずつ明確になっていったんだ。
「僕の中で、ひとつ大きな転機があって。小学校の卒業式で卒業証書をもらうとき、僕の学校は自分の夢をみんなのほうを向いて言うんです。リハーサルでは、“僕は将来デザイナーになりたいです”って言ったんです。父がデザイナーで、絵を描くのも好きだったんで。介護福祉士が第2候補でした。マイケルみたいなアーティストになりたいって想いもあったんですけど、現実味がないんで、それは心の奥にしまっておいたんです。で、翌日の本番の式で卒業証書をもらって、みんなのほうを向いて、“僕の夢は…”まで言ったんですけど、“デザイナー”って言葉がなぜか出てこなくて。次の瞬間、出てきた言葉が“みんなに夢や希望を与えるアーティストになりたいです!”でした。自分でも、“あれ!? 俺、言っちゃった!!”って思ったけど、すごくスッキリして。夢が明確になりました」

応援してくれる仲間がいる。絶対、デビューしよう

──ジャニーズに応募したのは、どういう経緯?
「応募する前に、5年生かな、母の友だちが嵐の櫻井(翔)くんと知り合いで、いっしょにコンサートを見に行ったんです。そのとき、すごくマイケルのコンサートに近いものを感じたんですよ。歌手というより、エンターテインメントって感じがして。“あ、これだ!”って」
──それで応募したんだ?
「応募方法がわからなかったんで、親が履歴書送ってくれて。あんまりよくおぼえてないんですけど、小学校の卒業前かな。家の電話かFAXが壊れてて、オーディションの日時を知ったのが当日だったんです。母と会場まで走って行って。遅れちゃったんですけど、母が“うちのコも呼ばれてるんです!”って。当然、“誰?”みたいな空気になったけど、“お願いします! 損はさせないんで!”って感じで説得してオーディションを受けさせてもらえることになって。俺はがむしゃらにダンスを踊りました」
──そこからJr.の活動が始まったんだ。
「何か仕事が入って呼ばれるたびに、名古屋から上京してましたね」
──夢に近づいてる感覚ってあった?
「どうすかねえ。でも、何かしらの手ごたえは感じてたんだと思います。負けずギライだったから、ほかのJr.に対して“絶対コイツらに負けねー”とか思ってたし」
──その後、東京に住むことを決めたきっかけって?
「中1の冬ですね。ジャニーさんと話してたら、“YOU、東京に出てきたらいいのに”みたいなことを言ったんです。僕は舞い上がっちゃって、“マジか! 東京行ったらデビューだ!!”って早とちりして。母親に相談したら、“行ったほうがいい”って、もう即決でしたね」
──でも、地元の友だちとの別れってきつくなかった?
「きつかったですけど、なんか、それより期待とか希望が大きかったです。夢がかなうかもしれないって。母とふたりで東京で暮らすことを決めて。友だちが見送りに来てくれました。“健永、がんばれ!”って書かれたTシャツまで作ってくれて。それを見て、“こんなに応援してくれる仲間がいる。絶対、デビューしよう”って」
──でも、実際は勘ちがいだった…。
「東京に来たはいいもののって感じでした(笑)。でも、仕事がすごく楽しくて。求められたことをがむしゃらにやって、それが評価されていくっていうか。今まで培ったダンスで勝負してたんで」
──とはいえ、大変なこともあったんじゃない?
「最初、シカトされたこととかあったんですよね。名古屋にいるときは、シカトって言葉すら知らなくて。そのうち、これがシカトっていう技なんだなって知って(笑)。すごくさびしいな、やってけるかなって思ったけど、負けたくなかったから続けてこれましたね」
──少しずつ、友だちもできた?
「引っ越した先が、宮田(俊哉)といっしょの電車を使うとこだったんです。宮田、レッスンや仕事終わりに、いつも“いっしょに帰ろうよ。まだひとりじゃ電車で帰れないでしょ”って言ってくれて。ずーっといっしょに帰ってくれました。すごくやさしくて、俺もすぐ心を開いて」
──そうだったんだ。
「逆に二階堂(高嗣)は、めちゃくちゃヤンチャだった(笑)。いきなり家に泊まりにきたりして。母親に、自分が連れてきた友だちをいい人って思ってもらいたいから、すごく立てて、“仲よくしてる友だちで、ダンスもうまくていいヤツなんだ”って紹介してるのに、自らぶち壊すんです。母が、“チャーハン、ちょうど作ったから食べて”って出してくれたら、アイツひと口食べて“まっず!”って言って。“え、東京の人って、こうなの?”って思った」
──ちがう、ちがう(笑)。
「“コイツ、もうムリ!”って思ったことも何回もあったんです。そもそも、最初にあいさつしたときだって、“千賀だよ。よろしく”って言ったら、“ふーん、百賀って言うんだ”って言われて。“何それ、初対面なのに”みたいな。そういうのが積み重なって、1回ブチギレたんですよ。俺が胸ぐらつかんで“ふざけんな!”ってなったんですけど、アイツは、“あー、メンゴ、メンゴ”とか言いながら、結局、翌日はいつも通り(笑)」
──加入したA.B.C.Jr.では、玉森(裕太)くんともいっしょだったよね。印象はどうだった?
「玉森は本当に変わらないですね。いや、今よりも人間らしくなかったかな。今は受け入れられますけど、昔はもっと極端だったんですよ。自分がそう思ったらそう。ちがうと思ったらちがう。はっきりしてるコだったんです。楽しかったら笑う。楽しくなければ笑わない。僕は、周囲をうかがう人だったんで、いちばん仲よくなりづらいタイプでした」

事務所の評価と、目の前のファンの表情

──Jr.の活動自体はどうだった?
「ダンスを評価されて、バックで踊るだけじゃなく、“ここでソロで踊って”みたいな、すごくいい見せ場をもらえることが多かったんです」
──ダンスを評価されたんだ。
「そういう使い方をしてくれるのはうれしいし、ほめられることもうれしかったんですけど、少しずつバックで踊ってたJr.が、前に出て歌うようになって。でも僕は、ソロはあるけど同じポジションのままで、歌えるわけじゃない」
──抜かれた感じがあったんだ。
「そうですね。俺も歌いたいって思ってました。事務所の人は、俺をどう見てるのか全然わからなくて。もしかしてダンス要員だと思ってるのかなって。それに、だんだんダンスだけじゃなくて、歌や見せ方も必要になってくるんだなってことも、じょじょに感じてきたんですよね。未来が急に不安になって」
──それでもがんばり続けることができたのは?
「ファンの存在が大きいです。僕、卒業式で言った“人に夢や希望を与えるアーティストになりたい”って本気で思ってて。不安になり始めたころもらったファンレターに、“千賀くんのがんばってる姿に励まされ、自分の夢に対して勇気を持てました。その夢が今日、かないました。私も千賀くんのように、人に夢や希望を与えられる人になろうと思います”って書いてあって。もちろん、俺なんて、まだまだなんだけど、それを読んだとき、1時間くらいもう涙が止まらなくて」
──気づいたら、めざした自分に近づいてたんだ。
「うん。でも、ある意味で余計に悩み始めちゃったかな」
──なんで?
「事務所が求めるダンスがあるわけです。だけど俺は、もっとカッコつけてというか、目の前のファンを意識して踊ったり、歌って自分を表現したくて。目の前のファンを意識して踊ると、すっごいうれしそうに笑ってくれるんです。だから、何を優先したらいいかわからなくなっちゃって。ファンを優先して、自分なりの表現でアピールしたら、事務所から評価してもらえなかったこともあったんですよね。今ならわかるんです。そのときは自分がメインじゃない。薮(宏太)とか(八乙女)光とか、そのときのメインを引き立たせるのが、俺の役割だったんです。だけど、それに気づかなかった。だから、“ダンス、ヘタになったな。全然よくない”って振りつけ師さんに言われたりすると、そうやって思われたほうが、ダンス要員じゃなくて、ほかのJr.みたいに歌わせてもらえる。そっちの道に進めるって思ったりもして。ずっと悩んでましたね」
──その悩みは、どのタイミングで吹っ切れたの?
「どうだろう……。ぶっちゃけ、吹っ切れたのは最近ですね」

値札、取ったほうがいいですか?

──2005年には、キスマイが結成されたよね。年上とグループを組むのはどうだった?
「最初は怖かったです。いちばん年下だし、何を話していいかわからないし。すごく気をつかってました」
──仲よくなる、きっかけってあった?
「最初にガヤ(藤ヶ谷大輔)さんの誕生日があったのかな。誕生日プレゼントを買いに行ったんです。Tシャツを2枚くらい買って。“誕生日おめでとうございます。Tシャツ買いました”って電話で言ったら、“ありがとー!!”って言ってくれて。で、俺そのとき何を思ったか、“値札、取ったほうがいいですか?”って聞いちゃって(笑)。そしたら、“取っといて”って、ちょっと吹きながら言われた。それからですね、すごく仲よくなったのは」
──値札のおかげだ(笑)。
「そうですね。そっから(北山)宏光とも仲よくなっていって。宏光の家、遠いんで、仕事に行くのに前の日、僕んちに泊まっていっしょに行ったりとかして。夜中に、“絶対、デビューしような”とか語り明かしたりしましたね。まだ、キスマイでデビューできるかなんて全然わからなかったけど。それどころか、キスマイって今だけの短期的なグループかもしれないって思ってた人も多かったかもしれないのに。なんか、ちょっとずつですけど、グループの形が見えてきたんですよね」
──少しずつ絆を深めていったんだ。
「下積み長いですから(笑)。歯を食いしばったことも、楽しかったことも、みんなで乗り越えてきたから。その姿をお互い見てる。ガヤさんが最初にドラマに出たのって、06年の『下北サンデーズ』なんですよね。今は絶対にガヤさんそんな姿見せないけど、事務所で台本渡されたらしくて、すぐに俺に電話をかけてきて、“ドラマ決まったんだけど! やべーどうしよう。とりあえず千賀の家行っていい?”ってなって。“台本のおぼえ方とかわかんねーよ”って言うから、僕がちがう役をやっていっしょに練習したりして」

キスマイにだけは残してください

──グループ結成からデビューまで、本当に長かったよね。
「ですね。僕、一瞬、キスマイ以外の活動もした時期もあって。タッキー&翼のバックとして、(中島)裕翔とか知念(侑李)とか有岡(大貴)とか髙木(雄也)とかといっしょにツアーを回ったんです。なんかわかるんですよね。“このグループに入ったらデビューできる”って匂うんです」
──当然、デビューは夢だよね。
「うん。でも、やっぱりキスマイにいたいし、キスマイでデビューしたい。“キスマイにいる”って事務所に強く言ってました」
──そんなことがあったんだ。
「新グループを作るプロジェクトが立ち上がったこともあって。僕も中心のメンバーだったんです。でもそのメンバーになったら、キスマイは抜けなきゃいけないかもしれない。すごく悩んで、社長に、“俺はキスマイでいたいです”って伝えたんです。社長も“わかった”って言ってくれたんですけど、次の日、みんなの前で“ユーは最高のチャンスを失ったよ”って言われて。でも、全然後悔はなかったな」
──そうだったんだ。
「ただ、僕を選んでくれたこと、ダンスを評価してくれたことはすごくうれしかったんで、その日、舞台だったんですけど、ソロで踊る部分、最高のパフォーマンスを見せようってはりきって。そうしたら次の日、また社長に呼ばれて、“もう1回あのグループのこと考えてみないか”って言われて。そこまで言ってもらえたんで、もう断れなくて。“キスマイにだけは残してください”ってことは伝えて、新しいグループでも、やってみますって答えました。そしてできたのが、舞闘冠ですね」
──そこまでしてキスマイを大切にした理由ってなんだったの?
「もう直感だと思います。なんか…、なんだろうな。このグループで歌ってるときの自分たちの雰囲気が、空気感が好きだったんです。ぶっちゃけ、直感ですけどね」

俺の何がダメだったの?

──逆にグループ内での自分のポジションってどう考えてた?
「デビュー前は、ガヤ、俺、宏光でフロントをずっとやってたんです」
──よくメンバーにイジられたよね。
「はい。もっとカッコつけたかったんですけどね、ぶっちゃけ、自分の中では(笑)。このままでいいのかなって思いながら、やっぱり話を振られたら、ファンに笑ってほしいから、イジられるようなこと言ったり、やったりして。でも、チームを引っ張っていくポジションのメンバーがイジられキャラだと、ファンがつきにくいんじゃないかって、ずっと悩んでて。もうちょっとクールな感じでいたほうがいいのかなって。でも当時、イジられる人間がグループにひとりもいなかったんです。宮田も、今みたいな感じじゃなかったし」
──そういうこと、メンバーの誰かに相談したりした?
「うーん、たぶんしてたんですけどね。でも、みんないっぱいいっぱいなんです、僕も含めて。結局、自分たちの力のなさですよね。テレビ番組の収録にしろ、ライブのMCにしろ、やっぱりどっかでオチをつけないと成立しない。逃げ場を探すっていうか、その場しのぎっていうか。それで、僕のところで落とす。でも僕も、気の利いたことはできない。エンターテインメント力というか、まだまだ力がなくて。どうすればいいか、わからなかったですね」
──イジられて笑いながら、内心では悩んでたんだ。
「うん。そうこうしてるうちに、センターが代わるタイミングがあって。僕と玉森の立ち位置が変わって…」
──悔しかった?
「すごく悔しかったですね。求められてきたことも変わるんです。イジられることも少なくなって。えげつないし、言わなくてもいいことだけど、“なんで、ここもここも、ここもちゃんとできてるのに、俺じゃダメなんだ”って、思ったこともありました。立ってるだけで輝くアイツがなんでセンターなんだよって。“俺の何がダメだったの? ダメだったとしたら、なんで言ってくれなかったの?”って」
──誰か、手を差し伸べてくれた?
「翔くんに、“自分と戦え”って言われました。その言葉は響きましたね。世界が狭かったんです。“コイツよりはできるからいいや”って、ドングリの背比べみたいなこと考えてて。“なんで、このレベルで満足してたんだろう。俺、何をめざしてたんだっけ?”って。だから、マイケルのビデオをすごく見返したり、たくさん、いろんなアーティストのライブを見たりして。戦う相手をまちがってたなって、そういうことに、少しずつ気づいたんです」

ぶっちゃけ、すごく今を楽しんでます

──そして昨年、ライブ中についにデビューが知らされたよね。
「時が止まりましたね。ステージに立ってるときって、何かしら気がはってるんですけど、本当にこの世界、自分ひとりしかいない状態というか、無の世界みたいになって。その感覚、うまく表現できないんですけど。もう信じられなくて、絶対ドッキリだって疑うんですけど、本当であってほしい気持ちが混ざって。あのときの気持ち、なんて言えばいいか、今でもわからないですね」
──ちがうグループでのデビューの可能性を拒否し、いろんなことを乗り越え、信じ続けたキスマイでのデビュー。うれしかったでしょ?
「はい。でも、過去のことを振り返る感覚じゃなかったです。キスマイでいたい、キスマイでデビューするって想いは、明確な理由じゃなくて、直感的な確信だったんで。キスマイにいてよかったっていうより、“いる”ってもう決めてたんです。だから、うれしい以外の感情、たとえば誰かを、ざまーみろとか思う気持ちは、一切なかったですね」
──ただ、デビュー後も、自分の存在価値について、悩み続けてたんだよね。
「それもやっと、ロスに行って吹っ切れました」
──ロサンゼルスに?
「今年の初めにオフがあったんで、ひとりでロスに行ったんです。僕、マイケルが亡くなったとき、本当に落ち込んで。俺、死ぬんじゃないかってくらい。まだマイケルのお墓に行けてなかったんで、手を合わせに行きたくて」
──ひとりで行ったんだ?
「助けてくれる人が誰もいない状態で行きたくて。最初、マイケルのお墓にお花を供えて、『スリラー』の撮影で使った家に行ったり、ジャネット・ジャクソンが経営してるダンススタジオに行ったりしました」
──それで悩みが解決した?
「ハリウッドの大通りを歩いてたら、いろんなダンサーが、ダンスバトルしてたんです。すっごい、いい顔して笑いながら踊ってて。自分を表現することが楽しいって思う人たちが、世界にはこんなにたくさんいるんだって。俺には、表現する場が、最高の環境が揃ってるのに、彼らほど楽しんでるかなって思って。“なんで、彼らみたいに楽しまないんだろう”って思ったんです。そしたら、聞こえた気がして。“ダンスは好きか?”って。僕、やっぱダンスが好きなんです。だったら、もっと楽しもうって。そこから、歌うことも踊ることもすごく楽しむようにして」
──原点に立ち返ったんだ。
「はい。ストリートのダンスバトルに飛び込みで参加して、むっちゃ踊りました。ヤバかったっす。ギャラリーも盛り上がってくれて。ダンスクラブにも行って。誰か友だち見つけようって思って英語でしゃべりかけたんです。でも全然ダメで。それで、やけくそになって、ダンスフロアでできる限りのダンスをやったんです。めっちゃ踊ってたら、フロアの方からどんどん人が入ってきて“イエー!!”ってなって、ダンスバトルみたいなのがいきなり始まって。言葉はいっさい交わしてないのに仲よくなれたんです。俺の好きなダンスって、やっぱ、こんなに素敵な表現方法なんだって」
──気づけば、心の闇が晴れていたんだ。
「そうですね。ダンスを楽しいって感じる感覚を忘れてたんですよね。事務所の評価、観客の評価、グループ内の立ち位置──。いろんなことを気にしてるうちに、大切なことが見えなくなってたなって。それから、そういうのをまったく考えずに楽しんでやってたら、どちらからも評価されるようになったというか。俺、なんで悩んでたんだろうみたいな感じです」
──悩み抜いて見つけ出した答えは、シンプルだったんだ。
「結果や評価って大事です。でも、そこを気にするんじゃなくて、まず本当にやりたいことに没頭する。そして、楽しむ。そしたら結果って、自ずとついてくるもんだなって思うんです。だから、歌もダンスも、芝居もバラエティーも、自分を表現することをもっと楽しもうって。評価してくれる人がいたらうれしいし、ちがうって思ったらちがうって言ってくれたとしても、うれしいし。だから…、ぶっちゃけ、すごく今を楽しんでます」

取材・文/水野光博